小林秀雄の有名な言葉に「美しい花がある、花の美しさというものはない。」というのがあるが、哲学の世界では「美しさ」そのものが実在するのかかどうかという議論が長い間続けられてきて、今なお決着を見ないでいる。これを普遍論争という。
「三角形は3本の直線で囲まれた図形である。」というふうに矛盾なく定義できる。この言葉だけで定義されたものを「三角形のイデア」と呼ぶことにする。つまり、それは如何なる具体的な三角形でもない、ただ三角形であるだけの普遍的な三角形という意味である。
「三角形のイデア」があるとする立場が実念論、ないとする立場が唯名論と呼ばれている。どちら側にも言い分があって、突き詰めるとこれは「言葉」の問題になってしまうような気がするのだが、一応私は唯名論的なスタンスでものを考えている。冒頭に挙げた小林の言葉も唯名論の立場ということができる。
「すべての三角形を代表するような普遍的な三角形を思い浮かべよ」と言われたら、貴方はどのようなものを思い浮かべるだろうか? おそらくあなたは何らかの具体的な三角形を思い浮かべたのではないだろうか。どうしても私たちの頭脳は、無限にある三角形のうちの一つの具体的な三角形を思い浮かべてしまうのではないだろうか。
実念論者によれば、オードリー・ヘプバーンが美しいのは、彼女に美のイデアが宿っているからということになる。では、彼女の姿かたちをそのままにして、「美しさ」を抜き取れば美しくなるのだろうか? そうではあるまい、ヘプバーンも富士山もバラの花も美しいが、それらは個別に美しいだけであって、共通の「美しさ」というものを持っているわけではない。「美しさ」という言葉があることによって、ヘプバーンと富士山の間に共通の要素があるように錯覚してしまう。唯名論者はそう主張するのである。
もう一つあげてみよう、もし「人間のイデア」が存在するならば、人間と他の動物には明確な境界が存在することになる。しかし、そのような考えはダーウィンの進化論と著しく対立する。もし最初の人間が存在したとするなら、明らかに彼または彼女は人間以外の動物から生まれたのである。固定化された人間の「範型」というものを考えることは困難である。それは今も変化の途上であり浮遊している。
次回は、この普遍論争が約1800年前のインドの仏教界にもあったということをご紹介したい。
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