前々回の記事(=>「『アイデンティティ』がわからない」)では、「本質的自己規定」のことを「アイデンティティ」と呼ぶのは不適切なのではなかろうかということを述べたが、もう少しこのことについて論じてみたい。
識別することをなぜか英語では同一視(identify)という。西洋人の考え方の根本に「等しい」ということが抜きがたくあるのだと思う。例えば、店で560円の品物を買う時に1000円札で支払いをしたと仮定しよう。日本人の売り子なら、1000円から560円を差し引いて、440円のおつりを直接渡すはずだ。しかし、アメリカ人の売り子なら、一方に受け取った1000円札を置いて、もう一方に560円の品物と440円のおつりを並べて、双方がおなじ1000円であることを確認してから、自分は1000冊を取り客には560円の品物と440円のおつりを渡す。
つまりアメリカ人はその思考過程の中で次のような方程式をたてているわけである。
1000 = 560 + X
日本人も結局は同じことをしているのであるが、関係代名詞的な X(エックス)に日常的にはなじんでいないので、上記の方程式は意識の上に上がってこない。日本人の売り子には品物の対価としての560円を受け取ったという意識しかないはずである。西洋の論理というものはイコールかイコールでないかということがそのほとんどの部分を占めている。日本人は論理的にあいまいであると言われたり、その思考方法が西洋人に比べて直感的であるような印象を受けるのは、「同一視」の意識が比較的薄いからではなかろうか。
以上に述べてきたことは前置きで、『本質的自己規定』のことをアイデンティティと呼ぶのが適切かどうかということについて論じてみたい。
最近の会社では社員の一人一人にIDカードをもたせていることが一般的である。そしてセキュリティ管理の必要のある場所に立ち入る場合はその提示を要求される。IDカードを確認することによって、それを提示した人がカードを配布された人と同一人物であると見なされるのである。あなたは毎朝学校で友人の鈴木君に顔を合わせると、「おっす」と挨拶する。それはあなたの記憶にある鈴木君のイメージと向こうから歩いてくる生徒の姿を「同一視」しているわけである。
ここで一つ思考実験というものをしてみよう。ジョニー・デップ主演の映画「トランセンデンス」をご存じだろうか。
<< コンピューター科学者のウィル・キャスターとその妻エヴリンは世界初の人工頭脳を研究していた。しかし、ウィルは反テクノロジーを唱える過激派テロ組織によって暗殺されてしまう。エヴリンは夫を救うべく、ウィルの意識を人工頭脳にアップロードする。 >>
ここで言う人工頭脳は完全に人間の感情や思考をシミュレートできるほどの性能を持つものだとする。そうすると、エブリンはウィルが人工頭脳の中によみがえったと感じるのではないだろうか。もし外見がウィルそっくりの形のアンドロイドを作って、その人工頭脳を組み込めば、誰が見てもそれはウィルであると認めるだろう。そして、そのアンドロイド自身も、記憶がウィルそのものであるから、自分をウィルだと信じているはずである。
こうなると、そのアンドロイドをウィルその人であるとしても何の不都合もなくなってしまう。つまり、妻のエブリンも友人たちもそのアンドロイドをかつてのウィルと同一視してしまうであろうと考えられる。他人から見れば、ウィルの記憶が連続していれば、それはウィルであるとみなすのである。
ここでもう少し突っ込んで考えてみよう。映画ではウィルは暗殺されたことになっているが、もしウィルが生き残っていたとしたら少し様子が違ってくる。生き残ったウィルから見れば、アンドロイドは自分に瓜二つの偽物である。しかし、それはアンドロイド側から見ても同じ事情だ。もちろん二人を解剖してみれば、片方はアンドロイドであることが分かるのだが、それでアンドロイドの方を偽物であると決めつけてよいのだろうか? だとすると、その人がその人である条件は肉体という物質的なものに還元されることになってしまう。それはそれで問題がある。人間を構成するたんぱく質等の物質は常に入れ替わっていて、一定の時間が経過すれば、物体としてはもとのものとまったく別物になるからだ。物質の中に我々の本質を見出すことはできないのである。現に、ウィルの記憶を人工頭脳にアップローとしたときに、エブリンはウィルがよみがえったことを実感したのではなかったか?
よくよく考えてみれば、ウィル当人以外の人には、どちらが本物のウィルでもよかったのではないだろうか。他人は過去のウィルと連続した記憶をもった者を、容易にウィルその人と同一視しえるのである。
しかし、今回問題にしているのは、自分自身による自己認識である。〈私〉から見ればいくら似ていても、コピーされた「私」を私であるとは認めがたい。外見的にも内面的にも同じであってもそれは同じではない。対象化されたものをいくら比較してみたところで、そしてそれがいくら同一であったとしても、コピーされたものを〈私〉とはみなすことはできない。
もともと、〈私〉は同一化の対象ではないからである。〈私〉には比較すべき対象となるべき如何なるものもない。仏教的には「無」である。ウィトゲンシュタイン的な表現をするならば、「比類なき〈私〉」ということになる。それ故、「自己認識」を「アイデンティティ」と称すべきではないと私は考える。