禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教とキリスト教についておもいつくまま

2016-04-28 18:16:29 | 日記

浄土真宗とキリスト教はよく似ているとよく言われるがどうだろう。阿弥陀如来を神とみなせば一神教であり、外形的には似ていると言える。しかし、ユダヤ教を母体とするキリスト教においては、神と人とは契約関係にある。

契約というからには、救済の見返りとしての義務があるわけで、人は神の意志に沿うよう善き行為を行わねばならない。この辺は自力行為では救われないとする浄土真宗とは教理的には全くかけ離れているように見受けられる。

阿弥陀如来は一切見返りは要求しない。広大無辺な慈悲の心ですべての人を掬い取ろうとする。「わが名をとなえよ、われを呼べ。しからばたがいなく、わが許に迎えとるぞ」 名前を呼びさえすれば必ず助けてくれる、ちょっと都合がよすぎるくらいの有難さである。

おおざっぱに言えば、キリスト教は父性原理、浄土真宗は母性原理といえるかもしれない。

半世紀近く前、私は臨済宗の寺で修行の真似事をしていたことがある。そこでの坐禅と作務の間に老師は時々お茶に誘ってくれることがあった。ものを知らない田舎者だった私は天下の師家に対して今なら絶対聞けないようなことを遠慮なしにずけずけと尋ねたものである。

私  : 「『南無阿弥陀仏』というだけで救われるちゅうんはホンマですか?」
老師 : 「本当じゃ」
私  : 「ほんなら坐禅なんかせんでもええのんとちやう?」
老師 : 「ただし本気で唱えんとあかんのじゃ。これが難しい。
'    坐禅の方がよっぽど簡単じゃ」
私  : 「ふーん。ほならキリスト教と禅宗はどっちが簡単なん?」
老師 : 「まあ、宗教というものは極めればみな同じ所へ行く。しかしキリスト教だと、
'      人は永遠に神の奴隷にならんといかん。禅宗は自由でええぞ。」    

最後は老師の我田引水のような結果になったけれど、結構本質をついているような気もする。たまに聖書を読んだりすると、一神教の神様というのは性格的にちょっと怖いというか底意地の悪い冷酷さのようなものを感じる。このことはキリスト教徒も無意識のうちに感じているのではないだろうか。南米はカソリックの盛んなところで、人々もとても信心深い。ことあるごとに「ノッサ・セニョーラ」という言葉を発するのだけど、この場合のセニョーラは聖母マリアのことだ。キリストや神よりもまずマリア様が前面に出て、信仰の対象がすっかりマリア様になってしまっているような印象なのだ。やはりキリスト教徒も母性原理の神様を欲しているということなのだろうか。

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