先日の朝刊に「性を大事にしたい」というタイトルのコラムがあった。身体障碍者でありコラムニストでもある伊是名夏子さんの記事です。その冒頭の部分を引用します。
≪ 先日、一人で映画館を訪れたときのこと。長い階段があり、車椅子の私は劇場に入れません。入口の男性スタッフに「私を抱っこして、階段を移動していただけませんか?」とお願いすると、彼は「私でもいいでしょうか? 女性にしましょうか?」と聞いてくれました。
その一言に、とても嬉しくなった私。だって障害のある私を女性扱いする人は、ほとんどいないからです。そんな心遣いのできる男性になら安心して身を預けられます。!…… ≫
ある人々が肩身の狭い思いで生きている。そのことに気づかないとしたら、それは恥ずべきことではないだろうか。
一般的に言って、身体障碍者の人々は謙虚である。「けなげでひたむき」というのが望ましい身障者像なのだろう。それに沿っているかぎり、人々は「えらいわねぇ。」と称賛してくれたりもするのだが、実はその裏に、「一丁前面をするな」という本音が隠されている。
昨年、「五体不満足」で有名になった乙武洋匡さんの不倫問題が世間に公表された。それ以来インターネット上ではバッシングの嵐である。試しに「乙武」で検索してみれば、人々のこの問題に対する関心がいかに高いか分かる。おそらく彼が健常者であればこれほど騒がれることはなかっただろう。同時期に不倫問題が持ち上がった落語家は、「船で東京湾を出たところ、そのこころは『航海(後悔)の真っ最中』でございます。」ダジャレの一言でけむにまいて済ませてしまった。ところが乙武さんの方は一年以上もたった今でもたたかれ続けている。
そもそも不倫問題は当事者だけの問題である。もちろん褒められたことではない。時には非常に深刻な問題にもなりうる。しかし、第三者にはなかなか実情の計り知れない問題でもあるのだ。この問題一つをとって乙武さんの人格を全否定するのは間違っている。「五体不満足」が世に出た時、今までのけなげでひたむきな身障者像に納まり切れない彼を見て、このような破格の人物を生み出した日本は先進国になりつつあるのでは、という感慨を私は持ったものである。身障者の枠を超えて前向きに生きる彼を社会はもっと大切にすべきだと思う。彼を正当に評価できるようになった時、日本は初めて成熟した文化国家であると言えるようになると私は思うのである。
週刊誌が不倫問題を取り上げるのは、それだけ人々の性への関心が高いからだろう。なぜか人は他人の性に関心を持つ。それは性が嫉妬というものを常にはらんでいるからに違いない。だから自分の利害得失に何ら関係のないことに口を出す。しかし、その正義面の裏には「障碍者が一丁前にセックスなんぞするんじゃない。」という邪悪な偏見が潜んでいることに気がついていない。
言っておくが、障害を持って生まれたことについても、性欲があること自体についても、本人には全く責任のないことである。偽善面したパリサイ人には、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言っておこう。