仏教では、この世界には固定的で不変のものはないと説く、なぜかと言うと現にそうだからである。無から有は生ぜず、また有が無となることもない。質料は互いに関係しあいながら動きとどまることはない。智者である釈尊が「エネルギー保存則」と現在言われているものを洞察したのである。「不生不滅。不増不減。」とはそのことである。
現にそうであることはそうであると受け止める、それが仏教の原理である。しかし、なぜ世界がこのようであるかということを知ることはできない。我々人間の経験能力を超えることについては言及しない、そのことを「無記」という。それも仏教の原理の一つである。
この世界をこのようにあらしめているものの名を「神」であると定義すれば、「神がこの世界を創った。」と言えるのではないか? それはその通りである。それだけのことであれば仏教的世界観と何も変わることはない。単に「神」という言葉を使うか使わないかと言うだけのことである。しかし、神というものを措定すると、どうしても人間的な価値観をその上に投影したくなるのが人間である。やがては旧約聖書のような物語が神に付随するようになる。だから、仏教では神という超越的な概念は取り入れない。
超越的な意思を認めない宇宙論は有神論に比べるとニヒルな印象は免れないが、とにかく仏教では恣意的なものの見方は徹底的に排除する。そして、ただ世界を虚心坦懐に見つめる姿勢を保ち続ける。無常と無記という発想はそこから生まれてくるのである。