禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

経験あって個人ある (2)

2019-10-20 11:24:22 | 哲学
 西田自身の述懐によると、「善の研究」における第1編と第2編は書かれた順序は逆であるという。その第2編では、「意識現象が唯一の実在である。」ということがテーマとなっている。この第2編第2章の冒頭の部分を引用してみよう。

「少しの仮定も置かない直接の知識に基づいてみれば、実在とはただ我々の意識現象即ち直接経験の事実あるのみである。この外に実在というのは思惟の要求より出でたる仮定に過ぎない。」

 「意識現象」というのは「物体現象」に対する言葉である。我々は通常、「世界は物体で出来ている」と考えているが、西田はそうではないと主張しているのである。我々に直接触れているのはあくまで意識現象であって、物体というのはその意識現象を通してその存在が推論されているのだ、と言っている。哲学の素養のある人であれば、ここで言っている「意識現象」が前回記事における「経験」に相当するものであることがお分かりになったと思う。

 「意識現象」という言葉は、物体を中心とする客観的世界の中で意味をもつ言葉である。意識現象が唯一の実在、この世界のすべては意識現象であるならば、その言葉は適切であるとは言えない道理である。そこで西田はそれを「純粋経験」と言い換えたのである。経験は他に還元することのできない「原事実」である、という意味で純粋である、それで純粋経験というのである、と言うのは私の解釈である。「善の研究」における純粋経験の定義は少々あいまいで、まるで、経験の内に純粋経験と純粋でない経験があるかのように受け取れるような書き方をしている。しかし、あくまで「意識現象が唯一の実在」と言い切るならば、経験そのものはすべて純粋経験でなくてはならない。(このことについては、いつかまた項をあらためて述べたいと思う。)

 西田の「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。」という言葉の次には、「個人的区別よりも経験が根本的であるという考えから独我論を脱することが出来た。」という言葉が続く。私が思うに、独我論を「脱した」 のではなく、神経症的な独我論から、前々回記事「私は私の世界である」で紹介したウィトゲンシュタインの独我論に変質したということではないかと考える。

 なるほど、主客未分の状態では、その経験は誰のものであるかということは問題にならない。しかし主客分化の状態では、もともと私以外の他者の意識現象など初めからないのである。他者に対する共感も実は私の意識の中にある。そういうことから鑑みれば、私の意識も他の人の意識も同じというようなニュアンスの表現はまずい。むしろ、「意識現象が唯一の実在」と言い切ったときから独我論に徹したのだと考えるとつじつまが合う。ここでまた「論理哲学論考」を参照してみよう。

(「論理哲学論考」 5.64より)
 「ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論に一致することが見てとれる。独我論の自我は広がりを欠いた点に収縮し、自我に対応していた実在だけが残される。 」

 この表現は極めて禅的であると思う。自我が没して、それに対応していた実在だけが残される。目の前に山があるとする。この山は私が見ているのではない。ただ山として立ち現れている純粋経験である。いかなる知識・先入観も排除されて、そこに山が純粋な実在として現れている。「柳は緑、花は紅」というのは、究極的に素朴な世界観を表現している。つまり「純粋な実在論」である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする