人は一般に、現実は理論に従うものと思いがちだが、実はそうではない。まず現実があって、理論はそこから導き出されるのである。理論はいつでも現実を説明するためにのみある。あまり理屈とらわれているとそこのところを忘れがちになる。
禅の公案に「鐘が鳴るのか撞木(しゅもく)が鳴るのか。」というのがある。一見、これは鐘が鳴る機序を問うているようだが、実はそうではなく、「ゴーン」となるその音そのものを了解せよと要請しているのである。学校で物理学などを学ぶと、「この鉄の塊は固くて稠密に見えるけれど、これを構成する原子は中心部に小さな原子核があって、その周りをもっと小さな電子がまわっていて、ほとんどスカスカの空間がほとんどなんだよ。」などと言い出す。
しかし、このスカスカの原子モデルというのは、鉄が固くて稠密であることを説明するために考えられたものであることを忘れてはならない。科学はこの世界の驚異的な構造を解き明かす。それはそれで偉大なことであるのは間違いない。しかし、その驚異的な構造というのは、われわれの目の前の日常を説明するためのものであることを忘れてはならないと思うのである。禅語の「柳は緑、花は紅。」というのは、真理は現前する日常の中にあるという警句である。理論に惑わされて、世界をゆがめてはならない。
哲学者は時にグロテスクな世界観を抱きがちだが、つねに日常に立ち返らなくてはならない。