禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

禅的一元論

2020-01-02 09:36:12 | 哲学
 SNSで議論している中である人から次のような言葉が出てきた。

  『私は唯物論者なので、見える通りに世界はあると考えてます。』

 しかし、唯物論者は「見える通りに世界はある」と考えることはできないはずである。なぜなら、世界には物質しかなく、現象はすべて物質の相互作用に還元されてしまうものと考えてしまうからである。だとすると、今見えているのも物体そのものではなく、物体から反射された可視光が私の視神経を刺激しているからだと考えなくてはならない。つまり、見えているのは物体そのものではなくセンスデータであるということになる。それでは唯物論者にとって物の実在は推論上のものとなってしまう。カントの「超越論的実在論者は経験的観念論者である」という言葉はこの辺の事情について述べているのだと思う。
 「見える通りに世界はある」と考えるのは禅者である。禅者は一切の知識を取り払ったうえでこの世界を受け止める。可視光線だの視神経などというものについて考慮しない。見たまま感じたままの直接経験こそ原事実としての実在であると見る。お寺の鐘が「ゴーン」となる。その時私はその「ゴーン」である。それを西田幾多郎は純粋経験と名付けた。世界は純粋経験で出来ているのである。 実在は純粋経験でだけであり、「認識する私」というものは二次的に構成されたものである、とする世界観は「禅的一元論」と呼んでも差し支えないように思う。
コメント (5)
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