禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

事実と実感

2020-02-19 11:43:54 | 哲学
 私はこのブログを通じて、禅的哲学というものを標榜しているのだけれど、「禅的哲学とはなにか?」と問われるとなかなか適当な言葉が見つからない。あえていえば、「事実と実感を重視する考え方」と言えばいいのかもしれない。例えば、「強いものが勝つのではない、勝ったものが強いのである」というようなものの見方である。我々が事実として知ることができるのは勝ったか負けたかという結果しかない。「強さ」というのは勝負の結果を通して、我々が推論して構成したものである。決して「強さ」という概念を否定するわけではないが、それは我々の思考が生み出した一種の架空の概念であると言いたいのである。
 「強さ」に似た概念に「力」がある。これもまた我らの目には見えない。ニュートンが万有引力の法則を発表するまでは、誰も地球と自分が引き合っているとは考えなかった。ただ単に物は下へ行きたがるとしか考えなかったのである。科学は現象の背後に働いている力というものを探り当てるのが使命である。しかし、その「力」というのは推論によって構成したものである、ということを忘れるな、というのが禅的哲学である。 「リンゴが下に落ちる。」ということと「万有引力がある。」ということは、同じことを違う言葉で表現したに過ぎないと見るのである。

 哲学では自由意志ということがよく問題になる。ニュートン力学によってあらゆる現象が物理現象に還元されるというアイデアが生まれたからである。我々の精神も脳内の電気的な発火によるものだとされるようになった。しかしそれが一体どうだというのだろう。座りたいときに座る、立ちたいときに立つ、もともとそれを我々は自由と言っていたはずだ。それ以上の理屈がどうして必要だというのだろう。脳に関する生理学が進歩すれば、私が座ろうとするとき脳内でどのような発火現象が起こっているというようなことが明らかになってくることも考えられる。しかし、それは私に言わせれば、「リンゴが下に落ちる。」という事実を「万有引力がある。」と言い換えたのと同じに過ぎない。あくまで現実にあるのは「座りたいから座る」という事実であって、「脳内の発火現象によって座る」という推論ではない。

 禅僧に関わる逸話には、いきなり「喝!」と怒鳴ったり、相手を殴りつけたりと結構暴力的な行為が多い。それは原事実としての現実を強く意識・実感させるための行為であると私は解釈している。
コメント
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