禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

一人の人の人生を根こそぎ奪い取るということの重大さを畏れよ

2024-10-09 13:28:50 | 政治・社会
 袴田事件にやっと決着がもたらされそうだ。検察が控訴を断念して約半世紀にわたる裁判が終了する。膨大な人員とコストが間違った方向に注がれ、その結果一人の人の人生を丸ごと奪ってしまった。

 あらためて事件を見直すと、なぜ袴田さんが犯人と目星をつけられたのか? その理由が全く分からないのである。たった一つ理由として考えられるのが彼がボクサーだったということだろう。「ボクサーは腕っぷしが強い」=>「粗野な荒くれ者」=>「犯罪を犯してもおかしくない」という単純な思い込みによって、捜査の全精力を彼に集中させてしまい、他の可能性への捜査をすべて放棄してしまったのだろう。

 それが単なる思い込みでしかなかったことの反映が、45本という膨大な供述調書の件数に表れている。45件のうち証拠採用されたのは1件のみでしかない。要するに袴田さんは捜査側の誘導によって供述したのであろうが、その供述に反する証拠が見つかるたびに犯罪シナリオが書き換えられ、そのたびにそれに沿って供述させられたと考えるのが自然である。要するに犯人でない人を犯人に仕立て上げたから、無理筋のシナリオをでっちあげ続けたのだろう。

 唯一証拠採用されたいわば決定稿とも言うべき犯罪シナリオについても、それを支える決定的な証拠がないので、切羽詰まって味噌樽の中に血染めの衣類を仕込んだのだろう。その唯一の物証が裁判所に「ねつ造」と判断された。もはや袴田さんを事件の犯人と疑わせる材料は何もないのである。

 検察側はもはや勝ち目はないと控訴を断念したが、「物証のねつ造は空想的」と述べ強い不満も漏らしている。彼らは本当に捜査側による「ねつ造は空想的」と信じているのだろうか? 一年以上もたった現場から新証拠が発見され、しかもサイズが小さすぎるというような不自然さだけから見ても、捜査側による証拠のねつ造の蓋然性は極めて高いと言わざるを得ない。その上、科学的見地からもそれらの衣類は発見直前に味噌樽に入れられたものと断定されたからには、ねつ造を空想的であるとする考えの方が空想的と言われても仕方ないだろう。
 
 検察側の無罪判決に対する「強い不満」は単なるポーズに過ぎないとみる。公に判決を認めてしまえば、無辜の人を犯罪人に仕立て上げるために膨大な労力と費用をつぎ込んできたことを認めざるを得ないからである。証拠をでっちあげて人を犯罪人に仕立て上げること、それ自体は単なる窃盗などとは比べものにならないくらい重大な犯罪である。その重大な犯罪に加担するために、彼らの先輩方も彼らも膨大なエネルギーをつぎ込んできたことになる。言うまでもなく、彼らは税金で養われている人々である。袴田さんを有罪に追い込んで手柄を立てた捜査員は出世して、少なからぬ退職金をもらって退職しているだろう。すでに悠々自適の人生を全うした人も少なくないだろう。それに引き換え、袴田さんはやっと無罪を勝ち得たが、本人は長い拘禁生活のおかげで自分の身の上に起きている事態を認識できないような状態であるらしい。

 検察はもっと早く控訴断念すべきだったと思う。 2014年の静岡地裁による再審決定の際には次のような意見が付け加えられていた。
《5点の衣類という最も重要な証拠が捜査機関によって捏造(ねつぞう)された疑いが相当程度ある。国家機関が無実の個人を陥れ、身体を拘束し続けたことになる‥‥拘置をこれ以上継続することは、耐えがたいほど正義に反する。一刻も早く身柄を解放すべきである》
2011年9月に最高検察庁が策定し公表した『検察の理念』なる文書がある。その中の下記の一文を肝に銘じてもらいたい。
≪あたかも常に有罪そのものを目的とし、より重い処罰の実現を成果と見なすかのごとき姿勢となってはならない。≫

 裁判所側にも問題はある。もっと早く再審を開始すべきだったし、44本もの調書を不採用にしておきながらどうしてこの事件の不自然さに注目しなかったのか、現に袴田さんが無罪であるという心証を早くから持っていた判事も現にいたのである。
 
 警察、検察、裁判所はともに現実を直視しないで、惰性で仕事をしていたような感がある。一人の人の人生を丸ごと奪うという罪に加担している現実を直視するのはしんどいが、一人の人間を見殺しにしても大勢に逆らわず淡々と仕事しておれば優雅な老後が待っている。考えてみれば公務員というのは怖ろしい仕事である。
 
 袴田さんへの賠償金は2億円だのどうだのと話題になっているが、いまさら金であがなわれるような性質のものではない。彼への仕打ちが公の場で決定されていたからには、直接的ではないにせよ我々にもなんらかの責任はあるように思う。身の回りの不条理にはできる限り目をふさがないよう努める必要があると思う。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« この世界は信じることによっ... | トップ | 「大谷翔平と力道山」考 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

政治・社会」カテゴリの最新記事