禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

天皇は菅首相の任命を拒否すべきではなかったか?

2020-10-04 10:26:15 | 政治・社会
 先日、菅首相は日本学術会議の新会員候補6人の任命を見送った。1983年の「日本学術会議法」改正時の政府の公式見解では、「(推薦された学者を)その通り首相が形式的な発令を行うと、この条文を解釈している。」とされていたにもかかわらずである。

≪内閣法制局によると、日本学術会議法の解釈に関する協議は、内閣府の求めで18年に行われ、今年9月2日にも口頭で解釈を再確認したという。≫(10月3日東京新聞)

しかし、その内容に関する具体的な説明はないというのだから、お話にならない。こんなご都合主義が許されるのなら、天皇が「菅義偉は総理大臣にふさわしくない。」と言って、任命を拒否したって良いという理屈になってしまうのではないか。

 菅首相は実務家だと言われるが、民主主義の理念だとか法の精神とかいう方面にはあまり関心がないのだろうか? 日本学術会議は、学者の立場から政府に対して政策提言する国の特別機関である。政府側が恣意的にメンバーを選べるのなら、政府にとって都合のいい提言ばかりの御用機関になるに決まっている。日本学術会議は権力から独立したものでなければ、その存在意義はないのである。昔の自民党の政治家が立派であったとは言わないが、少なくともみんなその程度のことはわきまえていたのである。

 ところが昨今の反知性主義といわれる政治家は、民主主義の建前を平気で乗り越えてくる。「選挙に勝ちさえすれば何でもできる」というのが彼らの民主主義解釈である。本来の民主主義というのは大衆の連帯でなければならない。選挙の勝ち負けが全てを決定するなら、必ず少数者を切り捨てるという分断が起きる、少数者の意見に耳を傾けるという態度がなければ、民主主義は達成できないのである。

 菅首相には、日本学術会議を政府から独立させておくという度量が欠けている。おそらく実務家首相は、人事権の行使によって人を権力にかしずかせるという快感を覚えてしまったのだろう。こういう総理大臣を頂く国では、人々は理想を抱きにくくなる。すでに日本の官僚機構は忖度だらけ、上の人間の意向を慮るヒラメ人間ばかりになってしまった。そういう組織の中では、「国家公務員は国民全体への奉仕者である。」という本来は当たり前の感覚を持つ人は、うつ病になって自殺するしかない。実際に森友問題では、公文書の改ざんという犯罪を命じられた人が自殺してしまった。しかし、そのことについて誰も事実を告発しようとはしない、人一人が亡くなられたというのにこの異常さは尋常ではない。菅さんは日本全体がそのようになればよいと考えているのだろうか?

 最後に、日本学術会議から除外された宇野重規氏のコメントをご紹介しておく。まことに立派な見識をお持ちの方であるということがうかがえる。
( クリック==>「日本の民主主義、信じる」 )

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