哲学を理解することは一般的に容易ではないが、現代フランス哲学というものは際立って難解であるように私には思える。その中でもとりわけジャック・デリダという人の言っていることがとりわけ難しい。というのは、今までになかった概念を作り出して、それ説明する仕方が従来の言葉の意味を逸脱させながら、とても回りくどい表現をするからである。例えば、彼の造語による「差延(différance)」という言葉があるが、それに対するコトバンクの解説を参照してみよう。とても読みにくい文章だが、少し我慢して読んでいただきたい。
≪フランスの哲学者 J.デリダが作り出し,使用する différanceの訳語。これまでの用語である差異 différenceに代えて,遅らせる,延期するという意味を新たに加味している。その意味は,存在者が自己自身に現前するときには,必ず自己自身との違いや遅れが生じているということ。すなわち,自己は,起源においても自己同一的な自己自身ではなく,すでに自己と隔たり,遅延があるという認識を表している。西欧哲学の伝統の中心となる前提に,自己同一的な自己現前があると考え,この造語によって徹底した批判を加えたのである。≫
上の文章を一読して理解できたとしたら。あなたは天才というよりちょっとおかしいと私は思う。およそまともな日本語とは言えない。デリダを説明する文章は大体このような意味不明な文章になってしまうのである。少しわかりやすく解説すると、「存在者」というのは人物を指すのではなく、哲学用語で存在しうるものなら何でも存在者である、対象として扱えるもの全般を存在者と言う。つまり、「存在者が自己自身に現前する」とは日常語としてはありえない表現だが、そのものがそのものとして現れるということ意味している。つまり、デリダは「そのものがそのもの自身として現れることはない」と主張しているのである。われわれは言葉によってそのものを的確に捉え何度でもその概念を反復することが可能であると思いがちであるが、それが幻想であるとデリダは主張しているのである。
一見、理不尽なことを述べているように思えるが、大乗仏教的な見地からするとこれは至極当然のことであるとも言える。デリダはナーガルジュナ(龍樹)と同じことを述べているのである。われわれの思考の元となっている形式論理は、“a=a“という同一律と“a≠非a“という無矛盾律の上に成り立っている。思考は「同じ」ということと「違う」ということを組み立てていくことによって成立するのである。しかし、常に流動する無常の中では、“a=a“というものはありえないのである。そのものをそのものとして同定するタイミングは存在しない、そういうことをデリダは言っているのである。われわれの言語は「反復(同じ)」と「差異(違う)」ということから成り立っているが、厳密な反復というものはなく差異化の運動だけがある。したがって、われわれの言語は現前するものに的中するということはありえない、必ずそのものからずれてしまうということを言っているのである。
それで、デリダは西洋哲学の「ロゴス中心主義を批判している」と言われている。ロゴスとは論理とか言葉という意味である。ここで言うロゴス中心主義というのは、すべては論理によって割り切れるし、言語によって記述できるという考え方のことである。デリダはどんな思想も論理と言葉に依っているかぎり、真と偽。善と悪というような二項対立に陥ってしまう危険があると警告し、そのような枠組みから逃れる試みを常に続けなければならないとして、脱構築という概念を提唱したのである。
言葉に依る論理というものは必ず抽象化を伴っている。ところが、われわれの直面する現実というものは、往々にして重層的であり複合的でかつ長い歴史的過程を経てきたものである。単純な論理で革命を起こそうとすると、より大きな不条理が表面化してしまうということがままある。やはり中庸ということが大切なのだと思う。中庸とは左右の真ん中というような単純な概念ではない。この世界は言葉では簡単に割り切れないという慎重さのことである。デリダの脱構築に通じる概念であると思う。
(横浜 象の鼻パークにて、本文とは関係ありません。)