独我論というものの見方がある。コトバンクによる解説を見てみよう。
≪ 真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他すべてのものはただ自己の意識内容にすぎないとする立場。 ≫
私は他人の意識の中には入れない。ひょっとしたら、私が他人と見ている人たちは意識を持たないゾンビかまたはロボットのようなものかもしれない。この世界には私一人、つまり「独我」というわけである。よくよく考えてみれば、すべては私の感覚器官を通して認識されるのである。ということは、この世界は私の感覚、眼耳鼻舌身意による感覚データ以外には何もない。すべて私の感覚によって満たされているのである。理詰めで考えていくと結局そういうことになる。
理詰めで考えていくとと言ったが、実はこの「理詰め」はあやしい。すべては「私の感覚」と言っているが、全てが「私の感覚」であれば、「私の」とことわるのもおかしいし「感覚」というのもおかしい。「私」は他人あっての「私」である。他人と比較することによってはじめて「私」が生まれるのである。「感覚」も同様で感覚以外のものがないのであれば「感覚」というものもあり得ない。ヴィトゲンシュタインという哲学者は「論理哲学論考」という本の中で次のように語っている。
5.64 ここにおいて、独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見て
とられる。独我論の自我は広がりを欠いた点にまで縮退し、自我に対応
する実在が残される。
ここで、「‥に対応する実在」は
英文版では、"the reality co-ordinated with ‥"となっている。辞書で co-ordinate を引いてみると、「(重要性、位、身分など)同等の、同格の‥‥」となっている。このことから私は、「自我に対応する実在」を禅僧が「山を見ている時、私が山になる」という時の、その山のことであると解釈した。私が山になれば、もうそこには私はいない、ただ山だけが残されている。もっとも素朴な意味でそこに「山がある」という意味である。私が見るのでもなく、また眼で見るのでもさえない、ただ素朴に山があるという原事実、それが「純粋な実在論」の意味である。
デカルトは「私は考える、だから私は在る」と言った。しかしカントはそれに対し「考える『私』を直観することは出来ない」と述べたのである。「私は考える」の主語である「私」を対象として認識することは出来ない、カントはそう考えたのである。あえて対象化するなら、それは空虚なものであり無というしかない。一般に、「無我」や「無」は神秘的に語られがちであるが、実は普遍的なものである。普遍的なものでなければ、そのことを追求する意義もないと思う。
伸びをするこの猫には「自我」などというものはおそらくないだろう。