あるSNSで「言語は思考の最小単位ですか?」というようなことを誰かが言い出した。私たちが普段ものを考える時には言葉で考えているように思えるから、このような問いが生じてくることは理解できる。私たちは考えていることを必ず言葉によって表現するのである。つまり、言語以上の思考が表ざたになることは決してないので、「思考は言葉でできている」つまり「言葉=思考の最小単位」と考えたくなるのも当然のことかもしれない。
しかし、もし言葉が思考の最小単位なら、【 言葉の連なり=思考 】ということになってしまう。すると、どんな難解な書物であってもそれを丸暗記しさえすればその書物を完全理解したことになってしまうのではないだろうか。もし、人間が言語以上のことを考えることができないのであれば、言語は永久に固定されたままで、新しい概念など生まれようがないはずである。
デリダという哲学者は『エクリチュールと差異』という論文の中で次のように述べている。
≪ 能記(シニフィアン)は、私より先に全くひとりでに私の言おうと思う以上のことを言い、私が言おうとすることは、能記に対して働きかける代りに働きを受け、それによって誤りとされ、いわば負債として組み入れられる。≫
(能記(シニフィアン)については「知恵蔵『シニフィアン』の解説」を参照して欲しい。それが面倒な人は単純に『言葉』と読み替えて下さい。)一般的に哲学者は難しいことを言うものだが、その中でもデリダの表現はとりわけ難しいが、実に当たり前のことを言っているのである。私たちが考えていることを言葉にした途端、思考は言葉に支配され誘導されてしまう、それが「全くひとりでに私の言おうと思う以上のことを言」うということだろう。自分は考えそして言葉に働きかけているつもりでも、実は逆に言葉から働きかけられており、何時まで経っても本当に言いたいことにはたどり着けないのである。それはデリダ自身もその事からは逃れられないので、彼の言葉は常に否定の運動を伴った表現になる。必然的に彼は新しい表現方法を創造し続けなければならず、その述べるところは極端に難解にならざるを得ないのである。
言葉に依ってはこの光景の一片も切りとることは出来ない。(小田原城の花菖蒲)