韓国の梨泰院(イテウォン )で154人もの若者が圧死してしまうという恐ろしい事故が起きてしまった。現代の若者は他人とのかかわりを持ちたがらないようにも見受けられるが、一方で人の集まる所へ引き寄せられる。おそらく彼らは祭りのエロスを求めているのだろう。どこの民族どこの地域にも祭りというものがある。日本の祭りではたいていみこしを担いだり、笛や太鼓に合わせて踊ったりする。半裸の男たちが重厚なみこしを担ぎあげ汗をほとばしらせる。荒々しい男たちの中でみこしを担ぐ、その経験を通して一人前の男であることを自覚する、それが若い男の通過儀礼である。また、その喧騒の中で思いを寄せる男を見つけて若い女は胸をときめかせる。それが正しい祭りのあり方だと思う。
祭りに喧嘩や事故はつきものだということはある程度言える。しかし、154人もの人が死ぬなどということはあってはならないことである。それも死因の大半が圧死であるという味もそっけもない話である。どうしてそのような殺伐としたことが起こり得るのだろう。やはりそこには人口の集中しすぎた大都会という問題がある。本来の「地元」の祭りでは何日も前から笛や太鼓や踊りの稽古、それに山車の準備を行う。だんだん盛り上がった気分が最高潮となった時点で祭りが行われるのであるが、それはあくまで地縁血縁者の集団の中である、無礼講の中にも無意識の秩序はあるのである。
東京にも三社祭のように伝統的な祭りはあるが、あくまでそれは地元の人の祭りである。そこに集まる観衆のほとんどは他人の祭りを見物しているだけの観光客に過ぎない。観光客は祭りに対してそれ程の感情移入することは出来ない。「地元」を持たない若者には、むしろハロウィンという異国の祭りの方が没入しやすいのだろう、伝統のない行事には参加資格というものは要求されないからである。それは地縁血縁などというものとは無関係の、ただ寄り集まりそして騒ぐための口実でしかない。祭りのあり方としては正しくないと思う。
どんなに人が多く集まっても、「他人の体に接触してさえも移動しようとしない」という最低限の遠慮・節度さえあればこのような惨事は起こり得ようはずがない。密集の周辺部の人が人込みを避けるという常識を働かせればこのような惨事をまぬかれたはず、というのは年寄りの繰り言かもしれない。若者は人との接触を求めているのだろうから‥‥。都会では神事に代わる新しい「祭り」の形を創る必要がある。スポーツや文化という視点から新しい試みができないだろうか。
私の故郷における「御坊祭」 (和歌山県御坊市)