前回記事において実存的視点と客観的視点について述べたが、その違いは比較するかしないかということにあると思う。実存的視点というのはただ素朴に世界を見つめる視点である。それに対して客観的視点というのは、架空の視点から自分自身をも含めてあらゆるものを客観的世界の中に位置づけようとする視点であり、それは比較という操作がなければできないことである。例えば「平等」という言葉について言うと、一般的な平等というのは人と人を比較しての平等であるが、仏教でいう平等は比較しない平等ということになる。客観的な位置づけというものをしないのである。だから当然のことだが「親ガチャ」などという概念も、実存的視点からは生まれようがないのである。
禅寺で雲水たちの生活を見ていると、掃除でも食事でもとにかく早く一心不乱にやっていることに気がつく。雑念を廃止して只今即今の世界に没入しようとしているのである。僧堂の修業とは実存的視点に徹することと言っても言い過ぎではない。
「天上天下唯我独尊」という言葉もそういう観点から論じなければならない。日常的な言葉の意味からすれば、「自分一人だけが他の人より偉い」というような意味にとられかねないが、この場合の「唯我独尊」は比較を絶して尊いという意味である。決して他人と比較して尊いと言っているのではない。他者と比較しない我は、実は「我」とか「私」という言葉で言い表すべきではなく、実存あるいは生きていることそのものと言った方が良い。天上天下唯我独尊とは実存あるいは生きていることそのものが尊いという意味である。
「撞木が鳴るのか鐘が鳴るのか」という公案がある。撞木で鐘をつけばゴーンという音がするが、これは撞木が鳴っているのかはたまた鐘が鳴っているのかという問いである。しかし、実存的視点においては比較分析というものはないのである。唯々素朴にその「ゴーン」という音を聴く、いわば自分自身をその「ゴーン」に同化させよと要求しているのである。そういう極々素朴な視点を要求しているのである。
美しい山下通の銀杏並木(横浜市中区)