先日上野の国立東京博物館に見学に行こうとして果たせなかったことを記事にした(参照=>「久し振りの東京見物」)が、それは「流れ圜悟」というものを見てみたいと思ったからである。 それは一体何かと言うと、宋の禅僧である圜悟克勤(えんごこくごん)が弟子の虎丘紹隆(くきゅうじょうりゅう)に与えた印可状 であるという。印可というのは師家が弟子に与える禅における免許皆伝のようなもので、師が自分と同等以上の悟境に到達したと認めた場合に初めて与えられる。禅僧はこの印可状を与えられてはじめて師家として後進を指導することができ、年齢にかかわらず「老師」と呼ばれるようになるのである。
圜悟克勤という人は日本臨済宗にとってはとても重要な人物である。まず、禅をかじったことのある人なら誰でもその名を知っている「碧巌録」の編纂者であることと、中国から日本に伝えられた臨済宗のほとんどが圜悟克勤-虎丘紹隆の法統であるということである。例外は建仁寺を開いた栄西と由良興国寺を開いた心地覚心のみである。栄西と心地覚心の法統は既に絶えてしまっているので、現在における日本臨済宗の僧侶はすべて法統的には圜悟克勤の児孫である。(参照==>「臨済宗法統図」)
その印可状が「流れ圜悟」と呼ばれる所以については、「 桐の筒に入って薩摩(鹿児島県)の坊ノ津海岸に漂着した 」というおよそあり得ない話が言い伝えられている。そしてこれが禅僧の墨蹟としては最古のものだという。それが最古の墨蹟であるなら筆跡を比べる資料もないはずで、どうしてそれが圜悟の手によるものだと分かるのだろうという疑問がわくが、国宝に指定されているからにはきっと何らかの根拠のあるものなのだろう。
ちょっと引っかかるのが、これが完全な印可状ではなくて半分だけだというのである。どういういきさつがあったかはよく分からないが、この印可状が大徳寺から堺の豪商の手に渡った。このころ墨蹟は茶の湯の道具として重要な位置を占めるようになっていたらしい。それで伊達政宗がそれを是非にと所望したので、古田織部の手でそれを2つに裁断して、後半部分を伊達政宗に譲ったらしい。現存しているのは前半部分で、伊達家に渡った後半部分はいまのところ所在不明となっている。一枚の証明書を2つに分けて茶室に飾るというのは無粋な感じがする。一流の芸術家でもある古田織部ならそんなことをしたくなかったはずだ。伊達の強引な要求に抗しきれなかったのだろうか。その後、前半部分は松江藩主の松平不昧公の手に渡り、不昧公の子孫から国立博物館に寄贈され現在に至っている。
松平不昧公はこの墨蹟を手に入れるために、当時の所有者である堺の祥雲寺に対し金子千両を与え、その上毎年扶持米三十俵を送ることを約束した。簡素を旨とする茶の湯の贅沢さに目がくらみそうな話だ。
The River Oriental 2006 (記事内容とは関係ありません。)