禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

久響龍潭

2023-01-17 12:29:17 | 公案
(この記事は2014年の過去記事の再掲です。)

 無門関第二十八則「久響龍潭」は、唐代の大禅匠である徳山宣鑑が悟りを開いた時の話である。前段と後段の二つのエピソードから成り立っていて、前半は龍潭和尚のもとで見性するくだりで、後半は時間的には逆転するが、その龍潭和尚を訪ねるようになったいきさつについての話になっている。
まず、その後半のほうのくだりから紹介することにしよう。

<< 徳山は金剛経の学者で、南の方に金剛経の教えを広めようとしてやってきた。そこに茶店があったので、団子(原文では点心)でも食べようと思って立ち寄った。以下はその店のお婆さんと徳山のやり取りである。

婆   「あんたの荷物は一体なんじゃ?」
徳山 「金剛経とわしの書いた注釈書じゃ。」
婆  「では聞くがのう、金剛経には『過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得』と書かれているがあんたはどの心で団子を味わうのかのう?」
 

これには徳山も黙ってしまった。 >>

公案に出てくる婆さんは油断がならない、おおかた禅の達人と相場が決まっている。過去はもう過ぎ去っている。現在は間もなく過去になってしまう。未来はまだやってこない。それぞれの心などとらえようもない。どの心で団子(原文は「点心」)を味わうのかと問われても、徳山には答えようがなかった。
 
 徳山は龍潭を訪ねて、さっそく参禅をする。そしてその日は暮れて、すっかり暗くなってしまった。龍潭は「もう今日は遅いから帰りなさい」と言う。それではと、徳山は部屋を出たがあたりは真っ暗で足元が全然見えない。龍潭はろうそくに火をつけて、「これを持っていきなさい。」と言う。徳山は「ありかとうございます」と言って、手を差し出した。と、その瞬間、龍潭はろうそくを吹き消した。 徳山は虚を突かれた。そして悟ったのである。なにか知識を得たわけではない。あえて言うなら、「火が消えればあたりは闇になる」という当たり前のことを「発見」したのである。哲学的に言うなら、「実存」と言うことであろうか、自分のいるリアルな世界を強く意識したのだ。この「強く意識」するということが玄妙である。この世界はいわば当たり前の世界だが、当たり前であるがゆえに我々は見過ごしている。徳山は虚を突かれて「ハッ」とした。その「ハッ」と言う驚きとともに、この世界を「再発見」したのである。「当たり前の世界」は驚きとともに再発見されねばならない。だから師家は弟子の虚をつくのである。ろうそくを吹き消したのは、徳山に現前する世界を改めて意識させるための、龍潭の工夫であり老婆親切である。
 
「西洋哲学は必然の王国である。」と誰かが言っていたが、実に言いえて妙だと思う。いわゆる科学的発想と言うのは、今ある状態には必ずその理由があるという前提に基づいている。だから、現前している現象の背後にあるものが真理であると考えがちである。ところが、禅的視点はそれと全く逆で、現前しているものが即真理であると考える。科学などは現前しているものから推論された一種の虚構に過ぎないと見るのである。(これは「真理観について述べているのであって、決して科学を否定しているわけではない。)
 
「過去・現在・未来」という区分は、この現実を科学的に分析するために設けられた。あくまで私たちのいる世界を説明するための言葉(概念)である。しかし、そのような区分によって、徳山は団子ひとつ食えない事態に陥った。これは奇妙な話である。現実を説明するための言葉が逆に現実を説明できなくしている。おそらくそこには何か錯誤があるはずである。
 
(ここのところはひとつ実際に、団子なり大福なりを実際に食べながら読んでいただきたい。)
 
 そもそも、団子を「過去・現在・未来」のうちのどの心で食らうのか、という設問が適切であろうか? もし、その問いに答え得たならば、我々の知識が充実されたと言って良いのだろうか。そんなことを考えるのはばかげたことである。団子を食べたなら、それがどのようにうまいかあるいは固いかやわらかいかということは、食べた本人がつぶさに味わったことである。真理という観点からなら、そこには何らの疑問があるはずはない。全部わかっているのである。あらためて別の言葉で表現しなおす必要はない。どのように味わったかということは、本人が全部知っているのである。
 
 龍潭のもとで悟った徳山は、今なら堂々と婆さんの前で団子を食べることができるはずだ。「どの心で団子を味わうのか?」などという問いにはかまわず食べればいいのだ。そして、「ああ、うまかった。ごちそうさん。」と一言言えばよい。団子は食べればうまい。その当たり前のことをリアルに受け止めることが肝要である。そこには隠された真実、もはやそれ以上説明されるべき真実などというものはない。

(参考 ==> 「公案インデックス」)


コメント (2)
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