一昨日(4/2)の東京新聞に俳優の美馬アンナさんの手記が掲載されていた。とても感銘を受けたのでご紹介したい。ちなみに美馬アンナさんは千葉ロッテマリーンズの美馬学投手の奥さんである。 美馬さん夫婦の三歳になる息子さんは四肢欠損症で右手首から先がなかった。出産直後にそのことを知ったアンナさんは非常に驚き嘆き悲しんだ。その時のことを彼女は「何をやっても涙が出る。世界が真っ暗になるというか、闇に包まれるというか。そんな思いでした。」と述懐している。
彼女の悲嘆は察するに余りあるが、そんな時に夫である美馬投手は「お腹にいる時に分かっていたら産まなかったの?」と訊ねたのだそうだ。彼女が即答できないでいると、美馬投手は次のように言ったのだそうだ。
「右手のことが分かってても俺は産んで欲しいと言っていた。この子が良かった。俺たち二人の親のもとに生まれて良かったと、この子を幸せにしてあげる自信がある。」
この言葉を聞いてアンナさんは「それで、はっと世界が明るくなりました。」と述べている。
私はこの記事を読んで、美馬投手の「この子が良かった」という言葉がとても心に響くのを感じた。店先に並んでいる商品なら、手に取って選ぶことが出来る。しかし子供は品物ではない。あらゆる因縁の網の目をくぐり抜けて夫婦のもとに授かった唯一無二の存在である。「比較して選ぶことなどできない」ということが「この子が良かった」という言葉の意味である。
「五体満足」という言葉がある。その言葉には普通の人間とか完全な人間というニュアンスがある。しかし、現実にはそんなものは存在しない、と説くのが仏教の空観である。無常の世界ではいかなる固定的なものも存在しない。「普通の」とか「完全な」ものは存在しないのである。無常のなかではすべては過程的で変化の途中だからである。五体満足とか不具というのも恣意的な比較によって生まれる概念に過ぎない。よくよく考えてみれば完全なものと不完全なものの境界など存在しないのである。その辺のことについてはこのブログで繰り返し取り上げてきた。(参照=>「色即是空 空即是色」) そのような視点から見れば、「『障害』というものは存在しない、それは『個性』というものである」という言葉の意義も理解できるのである。
仏教における空観とは、比較による分別を廃し現実をありのまま受け入れるということに他ならない。アンナさんの「それで、はっと世界が明るくなりました。」という言葉は、ありのままの世界を受け入れるという悟りの言葉でもある。