禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

不完全だからと言って、欠陥があるわけではない。

2023-10-21 12:19:30 | 哲学
 前回記事において、正しさの源泉が論理であるみたいなことを述べたのだが、ある方から不完全性定理が私たちの信念体系に脅威を与えているかのような意見を頂いた。不完全性定理については「すべての理論は不完全である。したがって、あらゆることの根拠が疑わしい。」式の誤った理解が一般に流布されているような気がするので、そのことに注意を喚起しておきたいと思います。
 
 不完全性定理というのは、第一と第二があって、かいつまんで言うと次のようなものです。
 
〇第一不完全性定理 : 無矛盾な自然数論を含む形式体系(普通の数学理論のこと)には証明も反証も出来ない命題が存在する。
 
〇第二不完全性定理 : 無矛盾な自然数論を含む形式体系について、その無矛盾性をその体系内において証明することはできない。
 
 第一不完全性定理の「証明も反証も出来ない命題」を仮に命題Gとすると、その内容は次のようなものです。
 
   ・命題G「命題Gは証明も反証も出来ない。」
 
いわゆる自己言及命題というやつです。確かにこういう命題が証明されたりするとその数学理論は矛盾していることになります。しかし、それが一体何だというのでしょうか? 何か困ることが生じるでしょうか? 公理やその他の定理とは全く無関係な孤立した命題なので、何の問題も生じないはずです。自己言及に関するパラドックスは日常言語においてもあり得ます。ある紙に「この紙に書かれていることは嘘である。」と書かれていたとします。では、その紙に書かれていることは本当のことでしょうか、それとも嘘でしょうか? その内容が真偽不明だからと言って、「日本語は不完全だ。」などといって騒ぐ人はおりません。そのように考えていくと、「すべての正しい命題は証明され、偽命題は反証される」という数学における「完全性」の定義が少し厳しすぎるものであると分かっていただけたると思います。
 
 第二の方の「そのシステム内でそのシステムの無矛盾性を証明することはできない。」というのはわりと直感的には納得しやすいことなのではないでしょうか? 自分の間違いを自分で知るためには、自分自身の行動や考えを俯瞰できる視点に立たねばなりません。自然数論の無矛盾性を自然数論内で証明することはできませんが、自然数論を超越する数学理論の枠組みの中で自然数論の無矛盾性を証明することはできますし、実際それは証明されています。ただ、その上位のシステムの無矛盾性を証明するには、さらにその上位のシステムで証明しなければならないという循環は無限に続くので、究極的な無矛盾性の証明は不可能なのは確かだけれど、だからと言って自然数論の無矛盾性を疑っている数学者はまずいないと思います。
 
 「不完全性定理によってあらゆる理論が疑わしいものとなった」というような言い方はおかしいと言いたいのです。

京都大徳寺高桐院
コメント
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