前回記事では、「私達は既成概念によって構成された世界観にものごとを当て嵌めて解釈しようとする傾向がある」ということを述べた。「 構成された世界観」とは私たちが今までに蓄積した経験知のこと、科学知識や一般常識などが整合的に織り込まれたものである。私たちはある事象に出会った時はほぼ無意識の内にその経験知に照らして、それらのことどもを解釈しまたそれに対応しているのである。フッサールはそのような私たちの傾向性を「自然的態度」と呼んだ。私たちが自然的態度で物事に臨むことは円滑に生活するためには必要なことでもある。しかし既成概念によって構成された世界は真正の世界ではありえない。そこでフッサールはものごとを根本から考えるには自然的態度を棚上げ(エポケー)して、直観による直接経験に立ち還る必要があると考えたのだ。以上は前回記事のおさらいである。
今回は面白いエピソードをとりあげよう。もう半世紀よりもっと昔の話になるが、日本法相宗の本山・薬師寺の管長であった橋本凝胤師と弁士上がりのマルチタレント徳川夢声の間で「天動説と地動説のどちらが正しいか?」という大論争が起こり、その内容が週刊誌で取り上げられたのである。橋本凝胤が天動説派、徳川夢声が地動説派で次のようなやり取りが行われたらしい。
夢声 : ‥‥ それで天の方がぐるぐる回ってるんですか?
凝胤 : まわっとるんです。
夢声 : その方が便利かもしれないが‥‥。
凝胤 : いや便利もなにも、その通りなんですよ。あんたら勝手に‥
夢声 : 「あんたら」とおっしゃるが、その方が大多数です。
凝胤 : 日本人ちゅうもんは、そればっかりやで。
そう教えられたからそれに違いないと思うて‥‥。
凝胤 : まわっとるんです。
夢声 : その方が便利かもしれないが‥‥。
凝胤 : いや便利もなにも、その通りなんですよ。あんたら勝手に‥
夢声 : 「あんたら」とおっしゃるが、その方が大多数です。
凝胤 : 日本人ちゅうもんは、そればっかりやで。
そう教えられたからそれに違いないと思うて‥‥。
そう、たいていの人はそう教えられたから地動説を信じているだけのことである。実は、橋本凝胤さんは東大の印度哲学科出身のインテリである。一応地動説についてもそれが整合性のある説明であることは理解していると考えるべきだろう。その上で、「こっちがじっとしているのに、朝になっておてんとうさまが出てくる。向こうが勝手に動いてるのやよってにな。」という実感(事実)を忘れてはいけないということを言っているのだと思う。
「天が回っているのではない、また地が回っているのでもない。あなた方の心が回っているのだ。」と。
天(太陽)と地(地球)のうちのいずれが回ると言っても、現象を天体の運行という科学モデルに当て嵌めようとしていることに変わりないのである。つまり、天動説と地動説のどちらも、自分自身が持っている概念の枠組みによって説明しようとする自然的態度を棚上げしきれてないのである。
(つづく)==> 「禅的現象学 その3」」
三島 源兵衛川 (記事内容とは関係ありません)