禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

仏教とはなにか? (その2)

2016-11-18 17:23:02 | 仏教

前々回記事「仏教とはなにか?」のなかで、私は『超越概念を排除した素朴な仏教は、現代人が抵抗なく受け入れることのできる唯一の宗教である、と私は思う。』と述べたのですが、それに対して「外れ者」さんという方から次のような質問の形でコメントをいただきました。

  1、超越概念は何なのか。
  2、どうやって排除できるのか。
  3、素朴と視点はどこに基準するのか。
  4、抵抗が無いというのは認知過程の方法論なのか。
  5、唯一の宗教になりえる根拠は何なのか。

超越概念というのはいわゆる神さまとか地獄・極楽のように、この世界以外のどこかにあると考えられているものと受け止めて下さい。釈尊の唱えた仏教にはもともとそのようなものはなかったはずだと私は考えているのです。その根拠は、原始仏典の中で釈尊は形而上学的な問題には答えなかったとされていることです。いわゆる「無記」ということですね。

形而上学的な問題について言及しないという釈尊の態度と、現実に日本に敷衍されている仏教との落差は非常に大きいと言わざるを得ません。「死後の世界」だの「永遠の魂」などということについては仏教はノータッチのはずが、現状は「死後の世界」にまつわる仕事であると、多くの人々に見られているのではないでしょうか。

宗教を広めるためには、分かりやすさと物語性というものが必要なのでしょう。長い年月と多くの人々の手を経てきた間に、仏教はその核心部分より付属部分の方が大きくなったのだと思います。

このような考え方に至ったのは、私が最初に仏教に触れるきっかけとなったのが禅宗であったからでしょう。禅宗では仏典による教理を学ぶより、ひたすら坐禅による己事究明に努めます。崇める偶像も無く、ただ世界を綿密に見つめなおし、その真底に到達することを目指します。しかし、決して「これこれこうです」と言うような解答に至ることは決してありません。もともと世界は無根拠であるからです。無根拠であるから無常であり空であるというのが仏教の真理観です。この世界がこのようであるということがそのまま真理であり、絶妙であることから仏教の倫理性が生まれてくるのです。私は仏教というものを、このように微妙かつシンプルなものと見ています。迷信や神秘的言説とは無縁の仏教、「素朴な仏教」と表現したのはそういう意味です。

もっとも禅宗以外の方々には、上記のような主張は受け入れがたいものだと思います。例えば、浄土系では阿弥陀仏の本願こそが最も重要な要素でしょうし、六道輪廻や地獄・極楽というものを信じておられる方もいるでしょう。むしろ、そのような神秘的な教理こそが本来の仏教だと信じている方も多いのではないでしょうか。

鎌倉時代のような昔には、人々は本気で阿弥陀仏や地獄・極楽を信じていたと思います。仏典に書かれていることや、えらいお坊さんのように権威ある人の言うことは、すべて本当のことだと思っていたからです。しかし、情報にあふれる現代はすっかり事情が変わりました。仏典やお坊さんの権威は実証的な科学の方に移ってしまったのです。浄土真宗は今でも大きな勢力を誇っていますが、阿弥陀様が本当にいると信じている人はきわめて少ないと思います。ひょっとしたら僧の中にも信じていない人がいるような気がします。浄土真宗の門徒でありながら、正月には神社へ初詣、結婚式は教会でという人は非常に多い。本願寺の建物は巨大で壮麗ですが、宗教としての生命は尽きかけているのが実態であると思います。

現代は、神や阿弥陀仏というような超越的概念を信じるのは難しい時代だと思います。信じたつもりでも実は信じきれない人も多いはず。その点、神秘的な概念を一切必要としない禅宗のように「素朴な」仏教は、現代人にとって入りやすい宗教ではないかと思うのです。

京都 錦市場通りにて
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「公案解答集」 - ウルトラ 禅問答 ひろさちや訳

2016-11-17 13:57:40 | いちゃもん

元々の原本は「現代相似禅評論」という本で、臨済宗で修業された飯田黨隠という方が公案禅の弊害と堕落を痛感され、破有法王の名で著されたものであるらしい。それが"The Sound of the One Hand" (隻手の音声)として英訳された。そして今度はさらにひろさちやさんが、その英語版を日本語に翻訳したのが、「公案解答集 - ウルトラ 禅問答 ひろさちや訳」というわけです。

ひろさちやさんは仏教に関する広範な知識をもとに、巧みな比喩を駆使して仏教をやさしく解説することのできる、仏教評論家です。しかし、この「解答集」をよむかぎり、他のことについては知りませんが、こと禅に関してはひろさんは公の場では発言しない方が良いような気がします。

飯田黨隠という方はまじめでなおかつ高い境地に達せられた方だったと聞いているので、「現代相似禅評論」もそれなりの意図をもって著されたのだと思います。しかし、ひろさんの翻訳による「公案答集」を読んだ限りでは、率直に言って「お粗末」という印象を受けました。内容は単に「分かったふりをして押し通せ」ということでしかないように見受けられます。そして、さらに良くないのはひろさんの付け加えた序文です。

≪いま、『隻手音声』の例で言えば、『答 師に向かって姿勢を正して座り、何も言わずに片手を前につきだす』とあります。これが模範解答なんですね。≫

このあと、模範解答はこれだが、海軍士官学校の口頭試問の例をひいて、その手の出し方や態度が問題である、という注釈が続きます。

≪禅の公案だって(海軍士官の例と)同じです。『片手を出す』のが正解ですが、その片手の出し方で、弟子の能力が見てとれます。禅の師家はそれを見ているのです。≫

ひろさんはこの模範解答を「定石」であると述べています。そしてこうも言っているのです。

≪プロは定石を大事にします。定石というのは、思考の節約になります。‥‥けれども、定石にとらわれてはいけません。特に禅においては、--とらわれのない智慧--が求められているのです。≫

おそらくひろさんは禅定についての理解がないのだと思います。だから、「定石」とか「思考の節約」というような見当違いの言葉がここで出てくるのでしょう。結局、これがどうして模範解答なのか、「手の出し方や態度」についても、どういうのが良いのかということは全く分かりません。もし、この回答集を読んで公案を通過する人が出てきたとしたら、その師家の力量が問われることになるだろうと思います。

ちなみに半世紀ほど前になりますが、私もこの「隻手音声」の公案に参じたことがあります。一応私も見性を認められたのですが、片手を前に突きだすというようなことは致しませんでした。要は、「手の出し方」ではなく、本当に了解したかどうかにあるのです。師家はそれを査定するために、師家独自の工夫でいろいろな角度から確かめようとします。模範解答などというものは存在しません。

現在NHK Eテレの100分de名著という番組で「正法眼蔵」が取り上げられています。ひろさんは解説者として、道元の言う「身心脱落」を次のように説明しています。

≪角砂糖を湯の中に入れると、角砂糖は溶けてしまいます。しかし、角砂糖がなくなったのではありません。ただ溶けてしまったのです。――わたしたちは自分・自己に執着しています。その執着した自我意識の状態が角砂糖なんです。そして、この角砂糖が溶けてしまった状態が「身心脱落」であり、それを道元は別の言葉で“忘れる”と表現しました。≫

ほう、なるほどわかりやすい。分かりやすいけど、いったい何を分かったのでしょう?

※参考=> 公案に関する哲学的見解

 

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仏教とはなにか?

2016-11-11 15:11:23 | 哲学

先日ある方から私のブログについて、「これは仏教なのかなと疑問に感じました」という指摘をいただきました。そのような感想を持たれるのはある意味当然ではないかと思います。ちょっといい訳をしておきますと、ブログのサブタイトルで「禅的哲学は哲学であって禅ではない。」と断ってありますから、たとえ「これは仏教ではない」と断じられたところで、私にとってはどうということはないのですが、自分としては仏教について論じているつもりでもあるので、その辺を少し説明しておきたいと思います。

あえて哲学的な視点から、仏教とは何かと聞かれたら、迷わず「空観である」と答えます。その他のことは枝葉末節であると思います。空観によってこの世界を見つめなおし、その奇蹟性を認識すれば、あらためてこの世界を畏敬し慈しむ感性が湧いてくる。それが仏教の倫理性の源泉となります。(あくまで私個人の理解です。)

以上のことは言葉にすれば非常に単純ですが、実際は分かりにくい。「色即是空」などと言われても、それなりの訓練のない人には通じないわけで、そのような抽象的な言い回しをしなくとも、目的の境地に導くためにいろいろな方便が積み重ねてこられました。その結果、四万八千の法門と言われるように膨大な教説が生まれてしまったわけです。

キリスト教のような一神教ですと、教理を一貫した体系とするために、先鋭な信念対立が起こり、時には宗教戦争にまでなることがあります。しかし、仏教の原理はもともと「一切皆空」ですから、断定的なイデオロギーは成立しません。ことの是非も善悪もすべて相対的なものであるからには、自分の正義を一方的に言い募ることはできないのです。「法論はどちらが負けても釈迦の恥」という言葉がありますが、このような事情が背景にあるのだと考えれば納得がいきます。ですから、明らかに矛盾しあう教理であっても仏教内部では深刻な対立にはなりにくく、まったく別様な宗派が併存するというような現状になっているのでしょう。ですから、おそらく仏教経典どうしを突き合せれば、その中には理論的な矛盾が沢山あるはずだと思います。

なので、自分が仏教とどのような接点を持ったかで、仏教がなんであるかということも人によって大きく違って当然であると思います。

ここからは私の個人的な見解ですが、日本に伝わった仏教はあまりに多くの人々の手を経ているため、明らかに本来の仏教とは無縁の言説が含まれているように思えます。例えば、地獄・極楽とか六道輪廻などという、明らかに作り話であると思えるような概念が数多くあります。それらは手っ取り早く倫理観を植え付けるためというより、人々を恐怖によって宗教に縛り付けようとする方便では無かったでしょうか。釈尊は超越的な概念や、形而上の議論を好まなかった人であります。教育の行きわたった現代人が受け入れがたい迷信の類はもはや排除するべきではないかと思うのです。

超越概念を排除した素朴な仏教は、現代人が抵抗なく受け入れることのできる唯一の宗教である、と私は思うのですが、どうでしょうか。

大徳寺高桐院 (京都)

コメント (8)
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