タイトルの文言は「言葉の魂の哲学」(古田徹也)の中に、ウィトゲンシュタインの言葉として紹介されていたのだけれど、とても腑に落ちる言葉だと感じた。
私はあるとき新聞のコラムで「ウィトゲンシュタイン」という名を知った。その時は20世紀を代表する哲学者であるとだけ知っただけで、その他のことは何も知らなかった。もちろんあったこともなければ顔さえ知らない。その後「論理哲学論考」を読み、何となく異彩を放つ哲学者であると感じ、オーストリアの大富豪の息子でありながら相続放棄をしただとか、兄弟が3人も自殺しているだとか、情報はどんどん蓄積されていった。人物像はどんどん変化していく。当然、最初に名前だけを知っていた時と現在ではまったく違う人物像になっているはずなのに、「ウィトゲンシュタイン」という名で指示される人物は一貫してウィトゲンシュタインその人であったという「感じ」がする。
注意深く反省すると、私達は最初に名前を覚えた時点で、その名前の指示対象を実体視していることがわかる。その人について何も知らなくとも、名前によりその人物枠というものが確保される。後からくる情報はその枠にどんどん充填されるだけなのだ。もちろんそこに実体的なものなどあろうはずがない、名前を知っているだけなのだから。だが、とにかく我々はそのように感じてしまう。いわゆる言霊というものであろう。言葉は単に記号であるに過ぎないが、われわれはそれに対してなんらかの相貌(アスペクト)を読み取ってしまうのである。おそらくそのことは、われわれが言語を使用できるための必須の要請なのだろう。
上記のような話をしたら、ある方が新聞の歌壇に次のような歌が掲載されていることを教えてくれた。
しばらくが たてばその名で最初から
生まれたように馴染むみどりご
「ウィトゲンシュタイン」という名前はウィトゲンシュタインに完全にぴったりと合う。
海王丸