先日の「美しい花がある。『花』の美しさといふ様なものはない。」という記事について、ある方からいろいろご指摘を頂いたので改めて考えてみた。
どのような現象にもその背後には何らかの「力」が働いていると私たちは考える。不可避的にそう考えるのは、私たちが常に一般化への欲求を持っているからだろう。ニュートン以前は、リンゴが木から落ちるのは「物は下へ行きたがる」からであると考えられていた。日常的なレベルではこれだけで十分である。あえて万有引力というものを持ちだす必要もない。しかし、人間の活動範囲が広がっていくとそれでは説明のつかないことがたくさん出てくる。ニュートンの万有引力の法則は単純なものであるが、広大な領域で起こってたいる現象を説明することができる。万有引力という一つの概念を導入することで、いろんなことの説明ができるようになったのである。
「一つの概念によっていろんなことが説明できる」ということがどの学問的領域においても重要で、ひいてはそれぞれの領域において「存在論的価値がある」ということになる。電子という粒子は、誰もじかに見た事はないけれど、その存在を仮定すれば様々な物理現象を合理的かつ統一的に説明することができる。そういう意味で、電子は物理学において存在論的価値がある。
私たちが、富士山やヘプバーンに惹かれる要因として「美」というものを措定することは、明らかにわれわれの「一般化」への要求に基づくものと考えられる。富士山、ヘプバーン、バラの花‥それぞれにわれわれは惹かれるが、その要因として共通の「美」というものを措定しているわけである。
ここで、「美」と「万有引力」というものを対比させてみよう。我々の狭い範囲の日常的な経験だけについて言うならば、「ものが下へ行きたがる」ということと「万有引力がある」ということは全く同じである。「リンゴが木から落ちた。」という現象の説明として、「万有引力があるから」というのと「リンゴが下へ行きたかったから」ということの差はない。万有引力に存在論的価値があるのは、地上の出来事だけではなく天体の運行を始めいろんなことを説明できるからである。では、「美」についてはどうだろうか?
「○○には美が備わっている」というのは「○○は美しい(視覚的に好ましい)」を言い換えただけに過ぎないような気がする。「美」に存在論的価値があると言えるためには、もっと別のことを統一的かつ整合的に説明できるのではなくてはならない、と私は考える。
美しい花がある。「花」の美しさといふ様なものはない。
あらためて、小林秀雄の言葉は含蓄に満ちたものだと思う。美しいものは端的に美しい、ということではないのだろうか。
どのような現象にもその背後には何らかの「力」が働いていると私たちは考える。不可避的にそう考えるのは、私たちが常に一般化への欲求を持っているからだろう。ニュートン以前は、リンゴが木から落ちるのは「物は下へ行きたがる」からであると考えられていた。日常的なレベルではこれだけで十分である。あえて万有引力というものを持ちだす必要もない。しかし、人間の活動範囲が広がっていくとそれでは説明のつかないことがたくさん出てくる。ニュートンの万有引力の法則は単純なものであるが、広大な領域で起こってたいる現象を説明することができる。万有引力という一つの概念を導入することで、いろんなことの説明ができるようになったのである。
「一つの概念によっていろんなことが説明できる」ということがどの学問的領域においても重要で、ひいてはそれぞれの領域において「存在論的価値がある」ということになる。電子という粒子は、誰もじかに見た事はないけれど、その存在を仮定すれば様々な物理現象を合理的かつ統一的に説明することができる。そういう意味で、電子は物理学において存在論的価値がある。
私たちが、富士山やヘプバーンに惹かれる要因として「美」というものを措定することは、明らかにわれわれの「一般化」への要求に基づくものと考えられる。富士山、ヘプバーン、バラの花‥それぞれにわれわれは惹かれるが、その要因として共通の「美」というものを措定しているわけである。
ここで、「美」と「万有引力」というものを対比させてみよう。我々の狭い範囲の日常的な経験だけについて言うならば、「ものが下へ行きたがる」ということと「万有引力がある」ということは全く同じである。「リンゴが木から落ちた。」という現象の説明として、「万有引力があるから」というのと「リンゴが下へ行きたかったから」ということの差はない。万有引力に存在論的価値があるのは、地上の出来事だけではなく天体の運行を始めいろんなことを説明できるからである。では、「美」についてはどうだろうか?
「○○には美が備わっている」というのは「○○は美しい(視覚的に好ましい)」を言い換えただけに過ぎないような気がする。「美」に存在論的価値があると言えるためには、もっと別のことを統一的かつ整合的に説明できるのではなくてはならない、と私は考える。
美しい花がある。「花」の美しさといふ様なものはない。
あらためて、小林秀雄の言葉は含蓄に満ちたものだと思う。美しいものは端的に美しい、ということではないのだろうか。
美しいものはただ美しい。