禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

再考 「美しい花がある。『花』の美しさといふ様なものはない。」

2019-11-14 11:47:12 | 哲学
 先日の「美しい花がある。『花』の美しさといふ様なものはない。」という記事について、ある方からいろいろご指摘を頂いたので改めて考えてみた。

 どのような現象にもその背後には何らかの「力」が働いていると私たちは考える。不可避的にそう考えるのは、私たちが常に一般化への欲求を持っているからだろう。ニュートン以前は、リンゴが木から落ちるのは「物は下へ行きたがる」からであると考えられていた。日常的なレベルではこれだけで十分である。あえて万有引力というものを持ちだす必要もない。しかし、人間の活動範囲が広がっていくとそれでは説明のつかないことがたくさん出てくる。ニュートンの万有引力の法則は単純なものであるが、広大な領域で起こってたいる現象を説明することができる。万有引力という一つの概念を導入することで、いろんなことの説明ができるようになったのである。
 「一つの概念によっていろんなことが説明できる」ということがどの学問的領域においても重要で、ひいてはそれぞれの領域において「存在論的価値がある」ということになる。電子という粒子は、誰もじかに見た事はないけれど、その存在を仮定すれば様々な物理現象を合理的かつ統一的に説明することができる。そういう意味で、電子は物理学において存在論的価値がある。

 私たちが、富士山やヘプバーンに惹かれる要因として「美」というものを措定することは、明らかにわれわれの「一般化」への要求に基づくものと考えられる。富士山、ヘプバーン、バラの花‥それぞれにわれわれは惹かれるが、その要因として共通の「美」というものを措定しているわけである。

 ここで、「美」と「万有引力」というものを対比させてみよう。我々の狭い範囲の日常的な経験だけについて言うならば、「ものが下へ行きたがる」ということと「万有引力がある」ということは全く同じである。「リンゴが木から落ちた。」という現象の説明として、「万有引力があるから」というのと「リンゴが下へ行きたかったから」ということの差はない。万有引力に存在論的価値があるのは、地上の出来事だけではなく天体の運行を始めいろんなことを説明できるからである。では、「美」についてはどうだろうか?

「○○には美が備わっている」というのは「○○は美しい(視覚的に好ましい)」を言い換えただけに過ぎないような気がする。「美」に存在論的価値があると言えるためには、もっと別のことを統一的かつ整合的に説明できるのではなくてはならない、と私は考える。

  美しい花がある。「花」の美しさといふ様なものはない。

あらためて、小林秀雄の言葉は含蓄に満ちたものだと思う。美しいものは端的に美しい、ということではないのだろうか。
美しいものはただ美しい。
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天上天下唯我独尊 私は比類なき私である

2019-11-12 10:37:11 | 哲学
( 前回記事「現代版『倩女離魂』」 の続きです。)

 ライプニッツが言うように、「あらゆる属性が同一であればそれはもう同一物である」ならば、送信カプセルに入った私と受信カプセルから出てきた私は同一人物となる。現に受信カプセルから出てきた私は、記憶が連続しているわけだから、自分が送信カプセルに入った私であると確信しているでしょう。
 
 しかし、私は絶対に受信カプセルに入りたいと思わない。送信カプセルから出てきた私が私であるあらゆる要素を備えていたとしても、私に酷似した他人であるかも知れないからです。私と他者を区別する一番重要な点は、「この世界が私の視点から開かれている」というその事実です。永井均という哲学者はそのことを「世界の開闢」と表現します。

 世界が私から開けているということこそ、私が私であるということ、それは「世界があること」と言い換えてもいいかも知れない。それでいてそのことはなんの属性も帯びていない。属性を帯びていないから形容のしようがなく、禅仏教では「無」と言い、ユダヤ教では「イリヤ(ある)」と言う。私はそう解釈しています。
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現代版「倩女離魂」

2019-11-10 17:41:07 | 公案
 無門関第35則「倩女離魂」を現代的な視点から論じてみたいと思います。 ( 公案の内容についてはこちらを参照=>「倩女離魂」 )

 科学が進歩して、どんなものでもそのまま遠隔地に移動させることができる瞬間移動装置というものが出来たと仮定します。その機械は発信カプセルと受信カプセルとからなっており、発信カプセルの中のある時点での状態を素粒子単位まで分析し、その情報を受信カプセルに送信して、受信カプセルではその情報に従って、当該時点の送信カプセルの中の状態を素粒子レベルで復元するわけです。
で、例えば送信カプセルに私が入ってその機械を作動させると、送信カプセルの中の私は解析処理で分解されてガスになってしまうが、受信カプセルの中でそっくりそのまま復元されるので、私の姿形はもちろん記憶も性格もなにもかもそのままで移動したことになるというわけです。
 この事態を、私という人間そのものが発信カプセルから受信カプセルに移動したとみなしてよいでしょうか? 受信カプセルから出てきた私はもちろんそのように信じているに違いありません。記憶がそのように連続しているからです。私の妻も友人も皆、受信カプセルから出てきた私を私であると認めるに違いありません。姿形も声も考え方も送信カプセルに貼った私と寸分違わないからです。

 さて、これからが本題ですが、この受信カプセルが二つあったとしたらどうなるでしょうか? 同時に二人の私が再生されてしまいます。どちらの私が本当の私でしょうか? どちらの私も、自分こそが本当の私であると確信しているはずです。

 送信カプセルに入った私が分解されてガスになってしまう、ということは私の死を意味します。そして、受信カプセルの中で複製される私は新たに誕生しているわけです。新生児と違うのは大人の体のまま生まれるということと私の記憶を伴っているということだけです。このように考えてみると送信カプセルの中で生滅した私の世界が、受信カプセルで生まれる世界として引き継がれる保証などないということに行き当るはずです。ある意味、これは魂の問題としてもよいかもしれない。そして霊魂が不滅であるとすれば、私の魂は受信カプセルのどちらかに引き継がれるのかもしれないけれども、全く関係のない新生児に引き継がれるのかもしれない。しかし、それは検証できる問題ではないし、霊魂が不滅であるかどうかも分からない。 言えることは、その時私であるものが私であるということだけです。
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美しい花がある。「花」の美しさといふ様なものはない。

2019-11-09 10:16:08 | 哲学
 本日のタイトルは、小林秀雄の「当麻」の中の有名な一節であります。ここで言う「花」は世阿弥の言う芸の花であります。小林は世阿弥の「花」について論ずる美学者たちを皮肉って、美は解釈を拒絶すると言うているのであります。が、この「花」を植物の花と解釈してみても、哲学的に意義のある言葉であると思います。

 ① 「ローマの休日」におけるへプバーンは息をのむほど美しい。
 ② 夕日を背にした富士山さんは荘厳なまでに美しい。

 当然ですが、ヘプバーンと富士山は全然似ていません。まったく別のものでありながら、私たちはおなじく「美しい」と表現するのです。よくよく反省してみれば、「美しい」ものは実に多様であります。青い空に浮かんだ白い雲も美しいし、透き通った水も美しい。目に見えるものだけではありません。ショパンの調べはとても美しい。親子の情愛も美しいと言えます。美しさは実に多様であります。いや、バリエーションがありすぎると言えるかもしれません。我々にとって好ましいものは何でも「美しい」と言えそうな気がします。美味しいものを食べた時、私たちは「うまい」と言います。「美しい」とは言いませんが、しかしもともとの日本語の「うまし」は美しいという意味でした。美味い=美しいと考えてもそう不都合ではなさそうです。アメリカ人なら美味しいものを食べた時、「びゅーてぃほー」と言いそうな気がします。このように考えてみると、「美」という概念が極めて多義的なものであることがわかります。

 あらためて、一本の美しいバラの花について、その美しさについて考えてみましょう。「バラの花が赤い。」という時、一般に「赤色」がそのバラの属性として宿っていると考えられます。同様に、「バラの花が美しい。」という時、「美しさ」がそのバラの属性であると私たちは思うわけです。しかし、よくよく考えてみれば、バラの「赤さ」と「美しさ」には決定的な違いがあります。

 私たちは「赤いバラ」から「赤」を抽出することができますが、「美しさ」は抽出することができないからです。赤いバラの花の「赤さ」以外の属性はすべてそのままにして、例えば全く同じ形状・質感でありながら白いバラを想像することはできます。しかし、他の属性をそのままにしたままで「美しくない」バラを想像することができるでしょうか? この花と切り離された「美しさ」を私たちはイメージすることができないのです。 「ローマの休日」のオードリー・ヘプバーンの姿形をそのままにして、美しくないヘプバーンを想像することはできません。

 もともと、美しさなどという属性はないと考えるべきでしょう。「バラの花は美しい」、「オードリー・ヘプバーンは美しい」、ただそれだけのことであります。
それが、「美しい花がある。花の美しさといふ様なものはない。」ということではないかと思います。

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