( これは2018年2月の過去記事を訂正したものです。 )
ある人のブログで永田洋子の「十六の墓標」の書評を読んでいたら、「関係の絶対性」という言葉が浮かんできた。もし彼女が今の時代に学生時代を送っていたらどんな人生を送っただろうか、平凡な良妻賢母になっていたのではなかろうか、というような想像は誰しもがすることではないだろうか。
私の学生時代の頃、吉本隆明はとてももてはやされていた。私の周りには代々木系も反代々木系の学生もいて、特に反代々木系の人たちは吉本隆明をバイブルのごとく扱っていたように記憶している。が、その頃の私は政治には全く疎く、彼らの言っていることの内容は余りに難しすぎて全く理解できなかった。それでも何となく「関係性の絶対」という言葉は妙に耳にこびりついて残っていた。おそらく何度も繰り返し聞かされたからだろう。
大学を卒業して三十年ほど経ってから、「関係性の絶対」という言葉が吉本の「マチウ書試論」という著作の中の言葉だと知り、それを読んでみた。私にはかなり難しかった。キリスト教について書かれているらしいが、私はキリスト教については何の知識もなかったからだ。でも最後の「関係の絶対性」の言葉が出てくる部分だけは強く訴えてくるものがあった。
【 人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信じることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。】(マチウ書試論からの引用)
さすがに吉本は詩人である。当時の学生たちが吉本に惹かれたのも無理はない。吉本の真意をくんで、彼ら孤独がどの程度自問したかは疑問だが‥‥。
この「関係の絶対性」という言葉は後にいろんな方面から批判されて、後年に吉本自身が「『絶対性』は言い過ぎかもしれない。『重要性』ということだな。」というふうに日和っていた。理屈を言ったらそれはその通りなのだけれど、「関係の重要性」では当たり前すぎて、この文章は生きてこないだろう。
人は誰も思想の絶対性に取り込まれやすい。戦前戦中を通じて熱狂的な軍国少年であった吉本も皇国思想の絶対性を信じていたはずだ。が、国ぐるみの「転向」を通じて、思想の絶対性のもろさを骨の髄から思い知らされるのである。結局人間の状況を決定するのは思想なんぞではなく、その関係性だったのである。言われてみれば、それは当然のことのように思えるが、実はとても気づきにくい。
私が大学に入ったとき、当時の全共闘の議長は小池さんの二代前の東京都知事をしていた猪瀬さんであった。舌鋒鋭く反体制を唱えていた彼がいつの間にか体制側に回っていた。口先の達者さは全然変わらないが言っていることがまるきり違う。たぶん彼にとって矛盾を断ち切る必要などなくて、ただ関係性に身を任せていただけで、「孤独が自問」することもなかったのだろうか。
最近の若者は右がかっているとよく言われる。わたしには、日本会議の言うことを鵜呑みにして威勢のいいことを言っている連中とかつての過激派運動家は二重写しのようにダブって見える。ここはひとつ是非「じぶんの発想の底をえぐり出す」というような孤独な作業をしてもらいたいと思う。
『私は唯物論者なので、見える通りに世界はあると考えてます。』
しかし、唯物論者は「見える通りに世界はある」と考えることはできないはずである。なぜなら、世界には物質しかなく、現象はすべて物質の相互作用に還元されてしまうものと考えてしまうからである。だとすると、今見えているのも物体そのものではなく、物体から反射された可視光が私の視神経を刺激しているからだと考えなくてはならない。つまり、見えているのは物体そのものではなくセンスデータであるということになる。それでは唯物論者にとって物の実在は推論上のものとなってしまう。カントの「超越論的実在論者は経験的観念論者である」という言葉はこの辺の事情について述べているのだと思う。
「見える通りに世界はある」と考えるのは禅者である。禅者は一切の知識を取り払ったうえでこの世界を受け止める。可視光線だの視神経などというものについて考慮しない。見たまま感じたままの直接経験こそ原事実としての実在であると見る。お寺の鐘が「ゴーン」となる。その時私はその「ゴーン」である。それを西田幾多郎は純粋経験と名付けた。世界は純粋経験で出来ているのである。 実在は純粋経験でだけであり、「認識する私」というものは二次的に構成されたものである、とする世界観は「禅的一元論」と呼んでも差し支えないように思う。