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禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

素朴にものを見るということ、比較しないということ

2022-11-09 06:31:55 | 哲学
   前回記事において実存的視点と客観的視点について述べたが、その違いは比較するかしないかということにあると思う。実存的視点というのはただ素朴に世界を見つめる視点である。それに対して客観的視点というのは、架空の視点から自分自身をも含めてあらゆるものを客観的世界の中に位置づけようとする視点であり、それは比較という操作がなければできないことである。例えば「平等」という言葉について言うと、一般的な平等というのは人と人を比較しての平等であるが、仏教でいう平等は比較しない平等ということになる。客観的な位置づけというものをしないのである。だから当然のことだが「親ガチャ」などという概念も、実存的視点からは生まれようがないのである。

 禅寺で雲水たちの生活を見ていると、掃除でも食事でもとにかく早く一心不乱にやっていることに気がつく。雑念を廃止して只今即今の世界に没入しようとしているのである。僧堂の修業とは実存的視点に徹することと言っても言い過ぎではない。

 「天上天下唯我独尊」という言葉もそういう観点から論じなければならない。日常的な言葉の意味からすれば、「自分一人だけが他の人より偉い」というような意味にとられかねないが、この場合の「唯我独尊」は比較を絶して尊いという意味である。決して他人と比較して尊いと言っているのではない。他者と比較しない我は、実は「我」とか「私」という言葉で言い表すべきではなく、実存あるいは生きていることそのものと言った方が良い。天上天下唯我独尊とは実存あるいは生きていることそのものが尊いという意味である。
 
 「撞木が鳴るのか鐘が鳴るのか」という公案がある。撞木で鐘をつけばゴーンという音がするが、これは撞木が鳴っているのかはたまた鐘が鳴っているのかという問いである。しかし、実存的視点においては比較分析というものはないのである。唯々素朴にその「ゴーン」という音を聴く、いわば自分自身をその「ゴーン」に同化させよと要求しているのである。そういう極々素朴な視点を要求しているのである。


美しい山下通の銀杏並木(横浜市中区)
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今、ここ、私、そして実存

2022-11-05 18:33:13 | 哲学
 「私は今ここにいる」という言葉は、誰がいつどこで言っても正しい言葉すなわちトートロジーである。トートロジーは情報としてはなんの意味をも含んでいない。試しに、そばに居る誰かに向かって「私は今ここにいる」と言ってみよう。多分相手はけげんな顔をして「そんなこと分かっている」と返してくるだろう。

 その言葉は無意味だが「私が今ここにいる」ということは、ある意味なによりも重大な意義があることでもある。それは私が今ここに現実に生きているということだからである。哲学用語ではそれを「現実存在」略して「実存」と呼ぶ。それで、「私が今ここから」ものごとを見る視点を実存的視点と言う。それに対し、客観的視点というのはこの世界の全体を正確に見渡せるような高みにある架空の視点のことを言う。
 
 客観的視点というのはわたしたちが生きていくうえで必須のものである。遠くにある目的地に行くには(客観的視点から描かれている)地図がなくてはならない。ロケットを宇宙に飛ばすには、ここと今を特別視しない客観的な時空間座標の中でものを考えなくてはならない。客観的視点があってはじめて科学的な思考が可能になる。大抵のことは「客観的な世界が私とは独立に存在している」と考えた方がスムースにことが運ぶのである。それで、私とは独立に存在する世界のことを「客観的世界」と呼ぶ。大抵の人は「客観的世界というのは私がいてもいなくても存在する」と考えているのではなかろうか。

 しかし、あくまで客観的視点というのは架空のものである。私自身を素朴に反省すれば私は私の実存的視点からしかものを見ない。客観的世界というのも推論によって実存的視野の中に構成されたものに過ぎないのである。もう少しわかりやすく説明してみよう。例えば目の前のテーブルにリンゴが一つあるとする。客観的世界観によれば、私とは無関係に先ずリンゴがそこにあるということになる。そして、リンゴから反射された光が私の目に入り視神経を刺激して、その結果私にはそのリンゴが有ることを認識する。それが客観的世界観のメカニズムである。なにを言いたいかと言うと、実際のところは話が逆だと言いたいのである。実存的視点に立つならば、先ず、丸くて赤いものが見えている、それが原事実である。その原事実をもとに「そこにリンゴが有る」と想定しているのである。つまり、「そこにリンゴが有るから、赤くて丸いものが見えている」のではなくて、「赤くて丸いものが見えているので、そこにリンゴが有る」と想定している、というのが真相であると言いたいのである。

 決して客観的世界観が悪いと言っているわけではない。前にも述べたが、それがなければ私たちは円滑な生活を送れない。しかし、同時に私たちは現実存在であることを忘れてはならないと思うのである。生身の人間として生きていることを実感するということが大事だと思う。決して実存的視点を見失ってはならないと思うのである。「私は今ここにいる」という言葉は情報としては意味をもたないと前に述べた。それはそうだろう。まず実存があって客観的世界が構成されるのであって、その逆ではない。だから、実存を客観的世界の中で位置づけようとしてもそれはできない、「私は今ここにいる」としか言いようがなくなってしまうのだ。

 その言葉に意味はない、しかし、その意味のなさを通じてその意義を感じて欲しいのである。その意味のなさという点で、それは赤ん坊の「おぎゃぁ」という叫びと同じニュアンスがある。不安や恐れそれに驚きといったあらゆる感情がないまぜになっている。たった一人でこの世界の中にいるそういう感覚の表現としてである。

先日、南足柄市の矢倉岳に登ったときトリカブトの花を見つけた。
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祭りの喪失

2022-11-01 11:26:16 | 雑感
 韓国の梨泰院(イテウォン )で154人もの若者が圧死してしまうという恐ろしい事故が起きてしまった。現代の若者は他人とのかかわりを持ちたがらないようにも見受けられるが、一方で人の集まる所へ引き寄せられる。おそらく彼らは祭りのエロスを求めているのだろう。どこの民族どこの地域にも祭りというものがある。日本の祭りではたいていみこしを担いだり、笛や太鼓に合わせて踊ったりする。半裸の男たちが重厚なみこしを担ぎあげ汗をほとばしらせる。荒々しい男たちの中でみこしを担ぐ、その経験を通して一人前の男であることを自覚する、それが若い男の通過儀礼である。また、その喧騒の中で思いを寄せる男を見つけて若い女は胸をときめかせる。それが正しい祭りのあり方だと思う。

 祭りに喧嘩や事故はつきものだということはある程度言える。しかし、154人もの人が死ぬなどということはあってはならないことである。それも死因の大半が圧死であるという味もそっけもない話である。どうしてそのような殺伐としたことが起こり得るのだろう。やはりそこには人口の集中しすぎた大都会という問題がある。本来の「地元」の祭りでは何日も前から笛や太鼓や踊りの稽古、それに山車の準備を行う。だんだん盛り上がった気分が最高潮となった時点で祭りが行われるのであるが、それはあくまで地縁血縁者の集団の中である、無礼講の中にも無意識の秩序はあるのである。

 東京にも三社祭のように伝統的な祭りはあるが、あくまでそれは地元の人の祭りである。そこに集まる観衆のほとんどは他人の祭りを見物しているだけの観光客に過ぎない。観光客は祭りに対してそれ程の感情移入することは出来ない。「地元」を持たない若者には、むしろハロウィンという異国の祭りの方が没入しやすいのだろう、伝統のない行事には参加資格というものは要求されないからである。それは地縁血縁などというものとは無関係の、ただ寄り集まりそして騒ぐための口実でしかない。祭りのあり方としては正しくないと思う。

 どんなに人が多く集まっても、「他人の体に接触してさえも移動しようとしない」という最低限の遠慮・節度さえあればこのような惨事は起こり得ようはずがない。密集の周辺部の人が人込みを避けるという常識を働かせればこのような惨事をまぬかれたはず、というのは年寄りの繰り言かもしれない。若者は人との接触を求めているのだろうから‥‥。都会では神事に代わる新しい「祭り」の形を創る必要がある。スポーツや文化という視点から新しい試みができないだろうか。
 
 
私の故郷における「御坊祭」 (和歌山県御坊市)
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