(自分でも七面倒くさい話を始めたなと思い半分後悔しています。話が面白くないと感じた方は遠慮なく読み飛ばして下さい。本題はまだまだ先の方です。)
日本語の日常会話において、論理と理論はほとんど区別がなされていないというのが実情だろう。「君の話は全然論理的ではない。」という言葉の「論理的」を「理論的」に置き換えても意味は同じである。話のすじみちとして納得できるば、それは論理的であり理論的であるということになるのだろう。しかし、「論理」も「理論」もどちらも本来の日本語にはなかった言葉で、江戸末期または明治の初めに西洋の思想を思想を取り入れる必要にせまられてつくった翻訳語でであることを忘れてはならない。論理は logic、理論は theory であり、これらはれっきとした別概念である。
理論(theory)というのは自然科学で言えば、例えば万有引力の法則や特殊相対性理論のように観測や実験から得られた経験をもとに、それらを矛盾なく説明したひとまとまりの体系のことである。その矛盾なく説明する(演繹という)手順が論理である。ちなみに数学の場合は公理を正しいものと前提として、そこから論理によって演繹された定理群からなる体系が数学理論である。自然科学と数学の違いは具体的な自然現象から出発するか、抽象的な公理から出発するかによるのである。
理論の中に少しでも矛盾があってはならない、理論を演繹する論理は論理規則に沿って記述されなければならない。その論理規則の代表的なものを次に例示してみよう。
・同一律 :「命題AはAである(A=A)」
なんであれそのものはそのもの自体と等しいという大原則である。
・無矛盾律:「命題Aとその否定命題¬Aは同時に成立することはない。」
矛盾は決して生じないという原則。
・推論規則:前提がすべて真である場合に結論が必ず真であるならば、その推論は妥当であるという原則。
例えば、「全ての人が必ず死ぬ」という前提が正しければ、「人であるソクラテスは必ず死ぬ」という推論は正しい。
上記の例を見て頂ければ分かると思うが、論理規則というのは実に当たり前のことでしかない。「はるおは男である」という命題と「はるおは男である」という命題はどう考えても同じ内容のことを意味しているとしか考えられない(同一律)。人はすべて死ぬということが正しいと信じているなら、人であるソクラテスは必然的に死ぬはずだと推論してしまう。私たちが論理に反することを考えることも想像することもできないというのはそういう意味である。あなたが高校の数学で証明問題を解いたとき、正解に至った時は必ずその証明の過程は論理規則に従って記述されているはずである。あなたが論理規則を論理規則として学ばなくとも、あなたがきちんと考えているかぎり、あなたは必ず論理法則に従って考えているのである。論理がア・プリオリであるというのはそういうことだろう。
ときどき、現実に無矛盾律に反することは起こりうると主張する人はいる。例えば、ある女性が「私は彼のことを好きだけれど嫌いだ」という時、彼女の感情は矛盾しているのではないかというのである。確かにこういう場合も「矛盾している」というが、決してそれは論理矛盾しているわけではなく、単に文学的表現上の矛盾に過ぎない。論理的には「好き」の否定は「好きではない」であって「嫌い」ではないのである。「好きだけれど嫌い」は「好き and 嫌い」ということで、結局「好き」なのである。
また、「『晴れている』とその否定である『晴れていない』が同時には成り立たないと言うが、天気雨の場合はどちらとも言えるのではないか?」という人もいる。この場合の問題は「晴れている」の言葉の意味がその人にとって明確になっていないというだけのことである。天気雨を「晴れている」と見なすのであれば、天気雨が降っている時でも「晴れていない」とはならないのである。
このように考えてみると、論理(法則)の正しさは絶対的であるように思えてくる。一体その正しさの源泉はどこにあるのだろう? 論理の正しさは決して説明できない。私たちに論理を疑うことはできない。なぜなら論理こそが正しさの源泉だから、論理を運用することと考えることは同じことである。たとえ論理規則が間違っていたとしても、私たちはそのことを認識できないに違いない。例えば、無矛盾律が間違っていたとして、私たちがそのことを納得するには、無矛盾律が矛盾をしていることを示さなければならない。つまり無矛盾律が間違っているとしたら、そのことを我々が納得するには無矛盾律によって判断するしかないのである。
ペルシャの哲学者イブン・スィーナー は次のように述べている。
「無矛盾律を否定する者は、打たれることが打たれないことと同じでないと認めるまで打たれ、焼かれることが焼かれないことと同じではないと認めるまで焼かれるべきだ」
横浜 大桟橋