殺人罪の話の続き
言葉が凶器の傷害、殺人
脅迫、恫喝、いやがらせ、無視・・・
人は社会的存在であるが故の性質があるはずで、悩んだり苦しんだり、精神病の原因や最悪自殺まで、可能性を予測できる、場合があるはずです。
それが分かっていやがらせをしている場合は殺人と言いたくなるかもしれない。
これは前回の文脈で引用しました。
(※自殺教唆罪
自殺の決意を抱かせる事によって人を自殺させた場合に自殺教唆罪となる。
この自殺の決意は自殺者の自由な意思決定に基づくものでなければならず、行為者が脅迫などの心理的・物理的強制を与えた事によって、自殺する以外に道がないと思わせたような場合には、その決意は自由な意思決定とは言えず、自殺教唆ではなく殺人となる。)
であれば、様々な状況で多くの人が自覚していないだろう殺人罪があるかもしれない。
学校でのいじめと自殺の事件がそうです。
学校も教育委員会も、マスコミも、加害者も加害者の親も被害者の親も
これは「いじめが原因である自殺」とは言うが、
加害者が脅迫などの心理的・物理的強制を与えた事によって、自殺する以外に道がないと思わせたのであって、自殺の決意は本人の自由な意思決定とは言えず、自殺教唆ではなく殺人である。
とは言わない。
言葉の殺人は、同じ状況で自殺する場合としない場合があるから、因果関係があることを証明できないというが、これは詭弁ないしは詐術にちかいもので、人は言葉によって自殺することがある存在であることを前提にすれば、因果関係がないことを証明しなければならなくなる。
いじめ、脅迫など、相手を威圧することが目的である行為は自殺を誘発する凶器である
というような共通認識が社会教育されれば、どうなるんだろう?
競争や闘争意識が弱くなるような社会現象が生まれて、社会の進歩・発展のような何かが停滞したりするのだろうか・・・そうならないような手段を講じられるであろうとは思うが、
どうも、相手より上位でありたいという生存本能から、相手を攻撃するのであろうという理解があるならば、本能を法で制限することでもある、かもしれない。
売買春のように本能に係るものを制限しようとすることは効果が薄いかもしれない。
むしろ、ある得る本能と認識したうえで手段を講じるべきかもしれない。
何で、こんなことをつぶやいているかと言いますとね
学校などで自殺事件があるとテレビで記者と学校関係者が質疑応答している場面があります。
二人とも目隠しして象を触って、それぞれが象とは何ぞと話しているように思えるのです。
自殺といじめの因果関係を、学校長でなくても判定できるわけがないのに
結論として「学校は認めなかった」という文末が既に印字されることを承知で
因果関係があったかなかったかと質問する。
そういうの・・・両方が哀れに思えて
いじめや暴力事件が発生
何をするべきか
・加害者とその保護者
・被害者とその保護者
・担当教員および関係者
・教育委員会
・被害者加害者以外の生徒とPTA
これが、一律のルールがないように思えるのですが、
事件が起きても誰が何をすればよいのか全くわからない
損害賠償制度や裁判も相談できる公的機関を作るべきかもしれない
弁護士に依頼できるものとできない者があることは社会的差別かもしれないからです。
現状を全取り替えするような根源的な議論を文科省がはじめた・・・夢を見た
言葉が凶器の傷害、殺人
脅迫、恫喝、いやがらせ、無視・・・
人は社会的存在であるが故の性質があるはずで、悩んだり苦しんだり、精神病の原因や最悪自殺まで、可能性を予測できる、場合があるはずです。
それが分かっていやがらせをしている場合は殺人と言いたくなるかもしれない。
これは前回の文脈で引用しました。
(※自殺教唆罪
自殺の決意を抱かせる事によって人を自殺させた場合に自殺教唆罪となる。
この自殺の決意は自殺者の自由な意思決定に基づくものでなければならず、行為者が脅迫などの心理的・物理的強制を与えた事によって、自殺する以外に道がないと思わせたような場合には、その決意は自由な意思決定とは言えず、自殺教唆ではなく殺人となる。)
であれば、様々な状況で多くの人が自覚していないだろう殺人罪があるかもしれない。
学校でのいじめと自殺の事件がそうです。
学校も教育委員会も、マスコミも、加害者も加害者の親も被害者の親も
これは「いじめが原因である自殺」とは言うが、
加害者が脅迫などの心理的・物理的強制を与えた事によって、自殺する以外に道がないと思わせたのであって、自殺の決意は本人の自由な意思決定とは言えず、自殺教唆ではなく殺人である。
とは言わない。
言葉の殺人は、同じ状況で自殺する場合としない場合があるから、因果関係があることを証明できないというが、これは詭弁ないしは詐術にちかいもので、人は言葉によって自殺することがある存在であることを前提にすれば、因果関係がないことを証明しなければならなくなる。
いじめ、脅迫など、相手を威圧することが目的である行為は自殺を誘発する凶器である
というような共通認識が社会教育されれば、どうなるんだろう?
競争や闘争意識が弱くなるような社会現象が生まれて、社会の進歩・発展のような何かが停滞したりするのだろうか・・・そうならないような手段を講じられるであろうとは思うが、
どうも、相手より上位でありたいという生存本能から、相手を攻撃するのであろうという理解があるならば、本能を法で制限することでもある、かもしれない。
売買春のように本能に係るものを制限しようとすることは効果が薄いかもしれない。
むしろ、ある得る本能と認識したうえで手段を講じるべきかもしれない。
何で、こんなことをつぶやいているかと言いますとね
学校などで自殺事件があるとテレビで記者と学校関係者が質疑応答している場面があります。
二人とも目隠しして象を触って、それぞれが象とは何ぞと話しているように思えるのです。
自殺といじめの因果関係を、学校長でなくても判定できるわけがないのに
結論として「学校は認めなかった」という文末が既に印字されることを承知で
因果関係があったかなかったかと質問する。
そういうの・・・両方が哀れに思えて
いじめや暴力事件が発生
何をするべきか
・加害者とその保護者
・被害者とその保護者
・担当教員および関係者
・教育委員会
・被害者加害者以外の生徒とPTA
これが、一律のルールがないように思えるのですが、
事件が起きても誰が何をすればよいのか全くわからない
損害賠償制度や裁判も相談できる公的機関を作るべきかもしれない
弁護士に依頼できるものとできない者があることは社会的差別かもしれないからです。
現状を全取り替えするような根源的な議論を文科省がはじめた・・・夢を見た