ぐらのにっき

主に趣味のことを好き勝手に書き綴っています。「指輪物語」とトールキンの著作に関してはネタバレの配慮を一切していません。

ドイツ寒いんじゃ・・・

2005年08月02日 | 旅行
今更ながらに思いたって、ハンブルクの天気と気温を調べてみました。
晴れの日で最高気温25度、最低11度、曇ったりすると最高は20度切ったりしてました。・・・寒いじゃん(汗)
どうも夏は暑いところに行く傾向があって、今回もサンダル履きで行くつもりだったんですが、寒いかなあサンダルじゃ・・・でも旅行に履いてける靴、今ないよ(汗)
一昨年イギリスに行った時は、猛暑で、それでも大分収まってはいたらしいのですが、そんなに涼しくもなかったんですよね。
それでも、オックスフォードではサンダルでは寒かったような。忘れてました。うーん、学習能力ないなあ・・・(汗)
服も長袖増やさないといけないなあ。
やっぱりこんなだから、早めに荷造りしないといけないんだよなあ・・・
出発前日に荷造りして、しかも忘れ物しない人を尊敬してしまうのでした・・・
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「ブッデンブローク家の人々」と「トニオ・クレーゲル」

2005年08月02日 | 読書
ドイツ行きを前に、久々にリューベックが舞台になった「ブッデンブローク家の人々」を読み返しています。
いやー、久々に読みますが、やっぱり面白いですね。もう半分くらい来てます。
最初の何章にも渡る夕食会の話がややたるいのですが(でも後から読むとここは重要なんですけど)、トーニが前面に出てくるあたりか面白くなりますね。
同時に、裕福な一族がこれといった大きな原因のためでなく、次第に没落していく様が実に見事に自然に描かれているよなあ、と感心してしまいます。
久々に読んで、最初の方の、愛していたわけではなかった老妻の死をきっかけにボケてしまうヨハン老人の描写とかすごいなあと思ったりして。
望月市恵氏のあとがきで、この作品が広く受け入れられたのは、市民時代の終焉を描いているからだ、と書いてありますが、なるほどなあと思います。「市民時代」というのがどういうものか理解しているわけではありませんが、確かにこの一族の没落を描いた作品は、一族を描くのと同時に、一つの時代の終焉を見事に描いてもいるよなあ、と。そのあたりがひきつけられる点なのかもしれません。
これ、25歳で書いてるんですよね、トーマス・マンは。才能に年齢は関係ないんだなあと思い知らされますね(笑)
「優れた文学であると同時に大衆的でもある」というのは、私が好きなもう一人のノーベル賞作家ガルシア=マルケスを評して言われていた言葉ですが、この言葉はトーマス・マンにも当てはまると思います。
一つの時代の終焉を見事に描きつつ、一方で物語として魅力的で面白いものを書いているんですから。特に、トーニの魅力的なキャラクターが素晴らしいです。いくつになって読んでも、トーニのことはかわいいと思えると思います。
もうひとつ、あとがきでなるほどなあと思うのが、「トーマス・マンは叙事作家だ」という言葉でした。
作者が神の視点から作中の人物たちを見下ろすように、やや突き放して客観的に描いている、それがトーマス・マンの作風の特徴のひとつだと思います。
おそらく、私が初めてトーマス・マンを読んで「これだ!」と思った感じ、それが彼の叙事的な、客観的な視点で書く作風だったんだと思います。
その後好きになったガルシア=マルケスもトールキンも、そういう作風は共通しているかな、と思います。
ただ、トーマス・マンの視点は、ガルシア=マルケスに比べるとずっと優しくて、ある時は感情的になります。その暖かさがまた好きだったりするのですが。
例えば、トーニの最初の結婚生活の破綻を語る前に、「そしてトーニは? かわいそうなトーニ!」なんて地の文で次の章に繋がったりして。

で、「ブッデンブローク-」を読んでいて、「そう言えば『トニオ・クレーゲル』もリューベックが舞台なはずだよなあ」と思い出し、ばらばらとめくってみました。
今まであまり考えてみなかったのですが、読んでみると通りの名前や広場の名前など、紛れもなくリューベックでした。
不思議なことに、「トニオ・クレーゲル」に出てくる街が、「ブッデンブローク家-」と同じ街だとは今まであまり思わなかったんですが。なんだかかなり違うイメージを思い描いていたようです。
今回読んで気がついたのは、大人になったトニオが訪れるかつての家が、トーマス・マンが住んでいたベッカー街の邸宅(「ブッデンブローク家-」ではフィッシャー街となっていますが)ではなく、「ブッデンブローク-」でもお馴染みのメング通りの家らしい、ということでした。
私はこの作品、特に好きではなかったんですが、今回読んでいて、その理由がわかったような気がしました。
客観的で叙事的な作風が多いトーマス・マンの作品の中で、この半自伝的な作品は、どうも私小説的な個人的な色合いが強くて、そこがあまり好きじゃないのかなと。
考えてみると「ヴェニスに死す」もややそういう感じがありますね。物語として面白いので「トニオ-」よりは好きですが、なんとなく違和感を感じていたのは多分そのせいなんでしょう。

「ブッデンブローク-」はもともとはトーマス・マンと同世代のハンノが主人公として企画されていたそうで、商人の一族が瓦解して芸術家が生まれる過程を描こうとしていたらしいです。
それが、一族の物語に重点が置かれるようになり、ハンノも、芸術家にはならず、その萌芽を見せつつも夭折し、一族の滅亡が描かれます。
「トニオ・クレーゲル」は、そんな「ブッデンブローク-」で描かれなかったもう一つの結末なのかな、と今回初めて思いました。
「トニオ-」とはまた違う作風の「ブッデンブローク-」で、ハンノが成長して芸術家になっていたとしたら、どんな風になっていたのかな、なんてことをちょっと考えたりしました。
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BBCラジオドラマ24

2005年08月02日 | 指輪物語&トールキン
ラジオドラマ、ホビット庄の掃蕩が終わりました。
ホビット庄に帰る前にブリー村がありましたね~(汗)
ここでも、ホビットたちを見て喜ぶノブとか、オリジナルな場面が色々ありました。
しかしバタバーさん早口すぎて何言ってるんだかさっぱりです・・・(汗)
小馬のビルが帰ってきてるよ、という話もちゃんとあって嬉しい限り!
そしてブリー村を出たところでガンダルフとお別れ。原作どおり「あんたがたのことは何一つ心配しておらん」と言うガンダルフ。しかし、トム・ボンパディルがいないので、どこに行くのかが今ひとつ謎。最後は飛蔭のテーマと共に走り去って行きます。
そしてホビット庄に帰るのですが、もうすぐに水辺村近辺に来てるようですね。
あっという間に戦うことに。このあたりの展開、お別れの場面などをゆっくりやっていたのと打って変わってはしょりますね~。
メリーがローハンの角笛を朗々と吹き鳴らします。いつのまに練習したのやら、音程も完璧です(笑)
そしてちょっとびっくりしたのですが、メリーもピピンも「フロド・バギンズが帰ってきたぞ!」とかなんとか言って、しきりにフロドの名前を出すんですね。
フロドも戦わないものの、おやじさんと落ち着いた物腰で話したりして、旦那の風格たっぶり。
なんだか、フロド黄門とメリピピ助さん格さん、なんて思い浮かべてしまいました。そしたらサムは八兵衛か?(汗)弥七ではないもんなあ(汗)
うーん、映画TTTでガンダルフ一行を水戸黄門みたい、と思ってはいましたが、ホビッツで水戸黄門とは考えてみたこともありませんでした。目からウロコです(笑)
いやしかし。ここって、メリーやピピンやサムが勇敢に戦う中、戦うこと、殺すことを拒むフロドが、次第にホビットたちの間で影が薄くなって行く場面だったと思うんですが・・・
シャーキーと対面しても、堂々としたフロドはとてもカッコ良く、まさに主人公という感じ。いいのかなあ、これで・・・
なんだか、ホビット庄の掃蕩の意味合いが随分変わってしまったような気がしました。単なるホビットたちの凱旋のエピソードのような。
このところ、ホビットたちには戦わないフロドの影が薄くなっていても、かつて偉大だったサルマンだけはフロドの成長を理解した、なんて思うようになっていたので、ちょっとこのシーンは気になりましたね。
うーん、PJ映画でホビット庄の掃蕩がなくて残念と思っていましたが、やっていても原作とは大分違うものになっていたのかもなあ、ということに初めて思い至りましたよ。
でも、カッコイイメリピピはちょっと見たかったですけどね(笑)
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