「ハリポタ」を観て、ハーマイオニーの大活躍に喜んでいる私ですが(笑)最近は女の子が元気で、ともすればヒロインの方が主人公より行動的な映画が普通になりましたが、昔はなかなかそういう話がなかったんだよなあ、としみじみ思いました。
私がファンタジーに飢えていた(?)80年代から90年代初頭には、女性が活躍するファンタジーはあまりありませんでした。どうしても男性登場人物の添え物的な女性が多かったように思います。
女性が主人公のファンタジーと言えば、宮崎アニメなんかもそうだと思うのですが、私はどうも宮崎アニメのヒロインは好きになれなくて(汗)なんかいい子すぎるというか、どうしても男性から見て素敵な女性、という域を出ていないような気がします。少なくとも私は共感できないヒロインなのです。
そんな私が唯一気に入っていたのは、あしべゆうほの「クリスタル・ドラゴン」くらいでした。やっぱり男性が描くヒロインは女から見て魅力的になり得ないのかなあ、なんて思っていたものです。
それが、気がつけば女性が強いのが当たり前の時代になり、映画の世界でもヒロインが強いのが当たり前というか、そういうヒロインでないと女性の共感を得られないかのような時代になっていたのですね。おかげでリヴ・アルウェンはあんなになってしまったんだなあ、と思うと複雑です(汗)
そんな中で、思い浮かぶのがエオウィンのことです。
初めて「指輪物語」を読んだ時、エオウィンの活躍には鳥肌が立ちました。魔王を倒してしまったエオウィンの潔さ、カッコよさにシビれたものです(笑)
しかもエオウィンは、男性から観て都合の良い素敵な女性、には見えませんでした。その誇り高さ、閉塞感と焦燥感、そしてファラミアによって癒された心、どれも女性からも共感できる人物像だと思います。少なくとも私はかなり共感しました。
トールキンは1950年代以前にこんなヒロインを描いていたという事実に、長い間理想のヒロイン像?を求めていた私は衝撃を受けました。いや、これはすごいことだと。
これは、トールキンの、英雄物語へのパロディ的な精神から来ているのかもしれないと思いました。力ある強き者ではなく、弱き者が功を遂げるという発想から。ホビットが主人公な点からしてそういう精神に満ち溢れていると思います。
エオウィンはファラミアによって心を開かれ、「私はもう盾持つ乙女にはなりませぬ」と戦士として生きることを捨てるといいますが、これが不思議なことに「いきがって戦闘に出て行った女の子が恋に目覚めて女らしくなった」という陳腐な展開にちっとも思えなかったのですよね。
これは、エオウィンのそれまでの苦悩がリアルに描かれていたこともあるでしょうし、主人公であるフロドもまた「二度と武器を持つことはない」と言っているように、優れた戦士であることが必ずしも最善のことではない、という精神が根底にあったためとも考えられると思います。
とにかく、あの時代にこんな女性を描くことができたトールキンという人にとにかく驚いてしまいます。
トールキンがこんなに魅力的な女性を描くことができたにもかかわらず、女性の登場人物がほとんど出てこないことについてずっと疑問に思っていましたが、「或る伝記」と「終わらざりし物語」の中の「アルダリオンとエレンディス」を読んで一つの仮定にたどり着けたと思いました。
トールキンは、鋭い洞察力の賜物か、女性の心情をある程度理解できたのだと思います。そうでなければ、エオウィンのような人物を描くことはできなかったと思います。
でも一方で、男性の方が女性よりも優れている・・・とまでは行かなくても、所詮女性には男性の心は理解できないのだ、とでもいうような意味での男尊女卑的思想も感じました。と言っても、一般的に言う「男尊女卑」よりも、トールキンはずっと女性に敬意を持っていたと思いますが。エディス夫人への愛情がそれを示していますし、ガラドリエルのような優れた女性の存在もまたそういった敬意の表れのようにも思います。
とにかく、エオウィンは女性から見てとても魅力的な人物で、それをあの時代に描いていたトールキンはすごいなあ、と思うのです。
PJ映画のエオウィンは、ミランダ・オットーの役に対する深い理解のおかげもあって、あれはあれでとても好きなのですが、強いヒロインが普通な今の時代に、あのエオウィンのキャラクターを鮮烈に描ききることができなかったのは失敗だったかもしれません。TTTで無理に三角関係にしようとしたのがかなり悪かったと思いますが・・・(汗)
私がファンタジーに飢えていた(?)80年代から90年代初頭には、女性が活躍するファンタジーはあまりありませんでした。どうしても男性登場人物の添え物的な女性が多かったように思います。
女性が主人公のファンタジーと言えば、宮崎アニメなんかもそうだと思うのですが、私はどうも宮崎アニメのヒロインは好きになれなくて(汗)なんかいい子すぎるというか、どうしても男性から見て素敵な女性、という域を出ていないような気がします。少なくとも私は共感できないヒロインなのです。
そんな私が唯一気に入っていたのは、あしべゆうほの「クリスタル・ドラゴン」くらいでした。やっぱり男性が描くヒロインは女から見て魅力的になり得ないのかなあ、なんて思っていたものです。
それが、気がつけば女性が強いのが当たり前の時代になり、映画の世界でもヒロインが強いのが当たり前というか、そういうヒロインでないと女性の共感を得られないかのような時代になっていたのですね。おかげでリヴ・アルウェンはあんなになってしまったんだなあ、と思うと複雑です(汗)
そんな中で、思い浮かぶのがエオウィンのことです。
初めて「指輪物語」を読んだ時、エオウィンの活躍には鳥肌が立ちました。魔王を倒してしまったエオウィンの潔さ、カッコよさにシビれたものです(笑)
しかもエオウィンは、男性から観て都合の良い素敵な女性、には見えませんでした。その誇り高さ、閉塞感と焦燥感、そしてファラミアによって癒された心、どれも女性からも共感できる人物像だと思います。少なくとも私はかなり共感しました。
トールキンは1950年代以前にこんなヒロインを描いていたという事実に、長い間理想のヒロイン像?を求めていた私は衝撃を受けました。いや、これはすごいことだと。
これは、トールキンの、英雄物語へのパロディ的な精神から来ているのかもしれないと思いました。力ある強き者ではなく、弱き者が功を遂げるという発想から。ホビットが主人公な点からしてそういう精神に満ち溢れていると思います。
エオウィンはファラミアによって心を開かれ、「私はもう盾持つ乙女にはなりませぬ」と戦士として生きることを捨てるといいますが、これが不思議なことに「いきがって戦闘に出て行った女の子が恋に目覚めて女らしくなった」という陳腐な展開にちっとも思えなかったのですよね。
これは、エオウィンのそれまでの苦悩がリアルに描かれていたこともあるでしょうし、主人公であるフロドもまた「二度と武器を持つことはない」と言っているように、優れた戦士であることが必ずしも最善のことではない、という精神が根底にあったためとも考えられると思います。
とにかく、あの時代にこんな女性を描くことができたトールキンという人にとにかく驚いてしまいます。
トールキンがこんなに魅力的な女性を描くことができたにもかかわらず、女性の登場人物がほとんど出てこないことについてずっと疑問に思っていましたが、「或る伝記」と「終わらざりし物語」の中の「アルダリオンとエレンディス」を読んで一つの仮定にたどり着けたと思いました。
トールキンは、鋭い洞察力の賜物か、女性の心情をある程度理解できたのだと思います。そうでなければ、エオウィンのような人物を描くことはできなかったと思います。
でも一方で、男性の方が女性よりも優れている・・・とまでは行かなくても、所詮女性には男性の心は理解できないのだ、とでもいうような意味での男尊女卑的思想も感じました。と言っても、一般的に言う「男尊女卑」よりも、トールキンはずっと女性に敬意を持っていたと思いますが。エディス夫人への愛情がそれを示していますし、ガラドリエルのような優れた女性の存在もまたそういった敬意の表れのようにも思います。
とにかく、エオウィンは女性から見てとても魅力的な人物で、それをあの時代に描いていたトールキンはすごいなあ、と思うのです。
PJ映画のエオウィンは、ミランダ・オットーの役に対する深い理解のおかげもあって、あれはあれでとても好きなのですが、強いヒロインが普通な今の時代に、あのエオウィンのキャラクターを鮮烈に描ききることができなかったのは失敗だったかもしれません。TTTで無理に三角関係にしようとしたのがかなり悪かったと思いますが・・・(汗)
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