10月7日: 羽生選手もアニメキャラ化されてコラボし、石巻も描かれている、東北ペダルのスペシャルグラフィックのチャリティグッズ、受注販売開始
こちらが、チャリティグッズ公式販売ページです(クリックどうぞ)
8月7日追記: こちらは、震災遺構: 仙台市立荒浜小学校
同じく、津波が2階まで押し寄せ、現在は廃校となった仙台市立荒浜小学校。「震災遺構」として復活公開。
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初掲載 2019年 8月2日
今回は、羽生選手が、ソチ五輪で金メダルをとった後、
色々あったものの、再び立ち上がるきっかけとなった場所の一つでもある、
宮城県石巻市 の今を、ちょっとだけ ご紹介しつつ、 未来への希望を見ていきたいと思います!
羽生選手はソチ五輪後の2014年、石巻の中学校で生徒たちと会い、そこで、自分がやったこと(金メダル)が少しは役に立っていて、被災地域の方々の勇気や元気につながった、とわかったことで、
羽生選手自身も 「勇気と元気をもらった」という、その場所が 「石巻」です!
石巻 (いしのまき・宮城県石巻市)は、ご承知の通り、巨大津波の被害地域となった場所です。
こちらが、2014年当時に放送された、羽生選手が石巻の「石巻市立湊(みなと)中学校」を訪問した時の 番組映像。
パリの散歩道の、「ピストルポーズ」をやってください、と頼まれて、「ピストルポーズって何だ?」と答えている羽生選手が面白いですね。 学生さんは、「へ型変形ランジ」の、手の形のことを言っていたわけですけど。(笑)
この中に途中で出てくる、「がんばろう石巻」という看板のあるところ。
ここは、周辺も含めて、「今も」 この映像の2014年の頃と、ほとんど変わっていない印象です。
人が住めないから、というのはもちろんあるのですが…
まず、仙台市から、この石巻に行く「JR仙石線」には、「マンガッタンライナー」という、特別マンガ車両が走っています。
(現在は毎週日曜日に1本、「あおば通り駅」←→「石巻駅」 まで)
こちらが、石ノ森萬画館(まんがかん)の公式HPによる、車両等の詳細案内
こちらが、JR石巻駅 です。
小さめの、こじんまりした駅ですが、石ノ森章太郎さんの漫画「サイボーグ009」の絵のステンドグラスがあり、
上を 002 というキャラクターが空に向かって飛んでいて、駅の出入り口の横には、003 というキャラクターが立っています。
上の写真は、石巻駅の駅のホームです。
改札近くのホームのところに、仮面ライダー像(左)と、サイボーグ009&003&001像(右)が立っていました。
こちらは、街中に立っている、サイボーグ009像です。
この主人公である、「サイボーグ009こと『島村ジョー』」に、野村萬斎さんがとても憧れていて、その影響で狂言の道を継ぐ覚悟を決めたそうで、今の歳になってもなお、「自分は島村ジョーのつもり」 でいらっしゃるんだそうですが、(笑) そのくらい、有名ですね。
以前も書きましたが、サイボーグ009という作品は、石ノ森章太郎さんの一番の代表作ですが、お姉さんを失くした悲しみから、世界旅行をして帰ってきてから、20代の半ば頃に作り上げられた作品です。
聖書を読み、聖書を参考にして作り上げた、と石ノ森先生ご本人が語っていた作品です。(生前のご本人インタビューより)
たとえ説明を聞かなくても、知っている人が読めばすぐにそうだとわかる点がかなり沢山あり、
社会派の漫画家とも、漫画の天才とも 称された理由がよくわかります。
この漫画は、原作はなんと、戦争の描写や、原爆投下などのシーンから始まります。
石ノ森章太郎さんは、「ヒーローを作った男」として、昨年の24時間テレビで、特集されてドラマ化されていましたね。
↑ こちらは、もう一つ有名な、石ノ森章太郎さんの作品、「仮面ライダー」像。
↑ こちらは、仮面ライダーブラック像です。 他にも、たくさんの石ノ森キャラクターが、街中のあちこちに立っています。
仮面ライダーも、原作はかなり重い内容なのですが…。
下の写真は、銀行前にある、サイボーグ006というキャラクター像です。
そしてこちらが、全国から来たボランティアの皆様へのメッセージを書いてくださってあるお店のシャッター。
「全国のみなさん 本当にありがとうね 石巻人もがんばります」 と書かれています。 尾張屋さんという場所です。
こちらにも、「ボランティアのみなさん 本当にありがとうね」 と書かれています。↓
さて、ここからは、津波の跡地を見ていきます。
今までの場所ももちろん、津波被害を受けていた地域ですが、今はきれいになっている駅周辺の写真だったのですが、
ここから先は、より海に近い、今も復興していない「被害の大きかった地域」を、少しだけ見ていきます。
この建物は、ブルーシートで隠されているところより、少し上の青い看板目印のあるところまで、津波が押し寄せてすべてを流していった地域です。 津波被害後、そのままの状態で残してあります。
建物の少し先に見える、何もない地域は、津波で押し流され、そのまま何も建っていない地域です。
すぐ近くを川が流れていますが、海から津波が、川を逆流してのぼってきて、堤防を越えて周辺地域にまで津波が広がっていった とのことです。
下の写真は、上の一部の拡大写真です。 「津波浸水深ここまで」 と書かれています。
下の写真は、電柱に、3.11の時の津波浸水深が、ここの地域は3.4メートルだった、ということが記録として書かれています。 羽生選手がソチ五輪後に訪問した中学校から、比較的近い地域です。
こちらの地域は、津波が深さ2.5メートルだった地域、だと記録されています。
下の写真は、大地震&巨大津波後、多くの人が避難してきた山、日和山(ひよりやま)公園内に 残されている記録案内板です。(日和山公園)
右上の写真は、大震災当日、山に避難してきた人たちが、津波が押し寄せる様子を悲鳴をあげつつ見ていた、テレビでも何度か映った、その当時の様子の写真です。
右下の地図の、色がついている地域が、津波被害のあった地域。
赤は、特にひどかった地域です。
この案内板には、高さ6メートルを超える津波、と書かれていました。
記録では、この地域の最大津波は、6.9メートルだった、となっているようです。
私が町の方々の証言を聞いた限りでは、建物の4階の高さまで、一番ひどい地域は津波が到達した、とのことでした。
当時の津波被害の映像はこちら(閲覧注意) ※見る方は、ご自分のストレス状態にお気を付け下さい
海岸沿いは、住宅が建てることが禁止になり、
今後、とても広い地域が、震災&津波からの復興祈念公園になる予定となっています。
(石巻南浜地区 復興祈念公園)
400名もの方々が、津波と火災の延焼による被害で亡くなったという、この地域。
2011年の大震災および津波被害全体で、石巻市でおよそ3000~3500人がお亡くなりになっているか、行方不明のままです。 (石巻市公式HPより)
中央部には 献花が出来る 「祈りのスペース」を設け、
広島や長崎などと同様に、
大震災や津波への「教訓」と共に、「平和へのメッセージ」を発信する「津波復興祈念公園」にする予定だそうです。
こちらが、公益社団法人 「3.11みらいサポート」の公式HP
↑ 寄付や、震災学習受け入れ等の情報も沢山載っています
上記公式HPより
下の写真は、日和山公園から、海側を見下ろした、この区域の景色の写真。
ほとんどが工事中で、まだまだ復興とはほど遠い状態です。
ただ、大震災前と大きく違うのは、海岸沿いに、巨大な堤防がずっと出来ていること。
陸地からは「全く」海が見えない状態に、石巻全体が様変わりしたことです。
安全のために、堤防の存在自体は、とても重要でなくてはならないものだとは 思います。
堤防の大きさが、被害と、人々の痛みの大きさをも表しているようで… 胸が痛いのも事実です。
でも、実際に起きた現実をしっかりと受け止めて、前を向くためには 必要なのだと思いました。
この写真だと、巨大な堤防は、ちょっとわかりにくといは思いますが…
上の場所からの景色を、もうちょっと拡大した写真が、下のもの。
流されてほとんど何もなくなり、工事中の地域。 ↑ (上)
子供連れの家庭は引っ越した方がほとんどで、こどもたちが ほとんどいなくなってしまった、と街の方が寂しそうに仰っていました。
大震災・巨大津波後、何もなくなったこのような地域と、
海沿いにできていた巨大堤防から、大津波が押し寄せた 海の方面を眺めながら、
本当に 言葉にならない、言葉にできないほどの思いで、
精一杯 祈らせてもらってきました。
こちらは、津波が逆流した川沿いに、大きな堤防ができて、川が全く見えない、陸地の道路からの写真。
工事中です。↓ (下) (旧北上川 川沿い)
左に見える、宇宙船みたいな建物が、「石ノ森萬画館」です。
大震災・津波被害の前より、より高い位置に作り直されたとのことです。
右に見えるのが、1880年に建てられ、国内最古の木造建築の教会堂だった、
旧石巻ハリストス正教会の、教会堂。
あれだけの津波の中、奇跡的に建物はしっかりと残っていたそうですが、
津波で2階天井付近まで水に浸されたため、震災後に、市民の要望を受けて、
市が解体してから再び復元させたのだそうです。
そしてなんと、今日、8月2日から、一般公開されるんだそうです!
ハリストス、というのは、「キリスト」の意味です。
ロシアから大司教も訪れていたほどの歴史ある教会だったとのことです。
上記のHPより、説明文(抜粋)
「中州にある建物が石ノ森萬画館以外全て流された中で、この小さな木造の建物が現地に残ったのは、まさに奇跡だといえます。
この教会堂は、建築史的な面だけではなく、多くの信徒さんが訪れているとう現状が物語るように、明治から昭和にかけてこの地方の精神的支柱として重要であり、震災までは中洲のシンボル的な存在でした。」
周辺は、公園や空き地になっています。
写真の右側が、津波が逆流してきた川で、写真の奥に向かって、内陸・上流側になります。
現在、この写真の左側に映っている、白い宇宙船のような形の建物である、
「弱虫ペダル」というのは、羽生選手が見ていると答えていた、
「ロードレース」(自転車競技)のアニメで、
石ノ森萬画館における、「弱虫ペダル展」は、この夏休みから、
秋の「ツール・ド・東北」の時期(2019年は9月14,15日)の後まで、10月までずっと開催中のようです。
羽生選手は今年も、「ツール・ド・東北」の「フレンズ」として応援しており、広報の顔の一部になっていますね!
羽生選手のコメント
「2018年の平昌五輪では金メダルを獲得し、五輪2連覇を達成できました。2019年の世界選手権は優勝はなりませんでしたが、銀メダルを取りました。 多くの方々からたくさんの応援をいただいたおかげです。被災地の皆さんが笑顔になるきっかけになれたとしたら、うれしいです。 その被災地を舞台にした「ツール・ド・東北」は早くも今年で7回目ですね。僕の地元仙台を走るコースは今回も開催されるそうで楽しみです。僕は今年も「ツール・ド・東北フレンズ」として大会を応援します。 震災から8年が過ぎても復興は道半ばだと思いますが、全国から大勢のライダーが参加して被災地を走り、地元の方々と交流することが励みになるよう祈っています。みなさん、今年も力を合わせて大会を盛り上げましょう。」
(ツール・ド・東北公式HPより)
そして、「弱虫ペダル」のファンだという羽生選手を、「弱虫ペダル」の作者・渡辺航先生が、作品の中の人物のようにキャラクター化させ、「東北ペダル」という特別サイトを作り、登場人物たちと コラボ応援させるというキャンペーンが実現!!
また、新宿・渋谷・仙台を中心に、
街中にも 巨大グラフィックとして9種類、そのうちの5種類に羽生選手を登場させるという宣伝企画がスタートしました!
詳細はこちらのページをどうぞ。
上の、羽生選手の右のキャラクターは、「小野田坂道」君という、主人公。
あれ、小野田…?
石ノ森漫画館の、(故)石ノ森章太郎先生は、本名が「小野寺」だったと思います… 関係あるかな?!ないかな?!(笑)
おまけに、今年の24時間テレビでは、
羽生選手は 北海道の胆振東部地震の被災者の方々のためにアイスショーをやる予定ですが、
羽生選手のアイスショーの後にいつも放送されるドラマ 「スペシャルドラマ」 は、
昨年は、ここ石巻が生んだ天才漫画家・ 石ノ森章太郎さんのドラマ「ヒーローを作った男」 でしたけれども、
今年は、
「絆のペダル」 というタイトルの、実在のロードレースの選手を取り上げた、実話を基にした 奇跡のストーリー
なんだそうです!
ちなみに、羽生選手本人は、実は 「自転車に乗れない」 と、素直に告白していましたけど、(笑)
別に全然問題ないですよね!(笑)
しかし、実際のところ、石巻は、色々な場所へと動き、見て回るには、自転車で移動したほうが はるかに楽だろうと私も思いました。
海寄りの地域ほど、車では入れない、工事中になっている、「車両規制区域」が結構あるためです。
(復興のために 工事中などの関係で)
今年・2019年の羽生選手は、日本の9月14,15日は、カナダでオータムクラシックの試合(現地の日付 9月12~14日)となるため、ちょうどツール・ド・東北の時期と重なります。
どうか無理なく、でも着々と、希望をもって 頑張ってほしいですね…♪
この、石ノ森萬画館の横には、「絆のバラ」というものが植えてありまして、
復興支援のために、石巻の方々を励ますために、贈られた「黄色いバラ」 ということで、とても素敵ですね!
なるほど、希望の色、街を照らすような明るい色として、黄色いバラが贈られたのですね!
また、明日8月3日から、9月29日まで、石巻リボーンアート・フェスティバル、というものが始まります。
(水曜日はお休みのようです。)
さて、最後に、石巻でぜひご紹介しておきたいのが、
宮城県慶長使節船ミュージアム (サン・ファン・バウティスタ (サン・ファン館))
と呼ばれる場所。
これは何かというと、キリシタン保護に積極的で、幕府とは正反対の行動をとっていた当時の伊達政宗が、
今からちょうど400年前に、
家臣の支倉常長を 宣教師ルイス・ソテロ と共に、
当時のイスパニア(現スペイン)の国王と、ローマ教皇のもとに派遣した、
当時としては画期的な外交使節だった、「慶長遣欧使節」 に関する、資料や記念の建物なのです。
これが今から、ちょうど400年前なのですが、この慶長遣欧使節が派遣される少し前に、
当時もまた、「大地震」が起きており、 これが、1611年の慶長三陸沖地震 と呼ばれるもの。
1611年ですから、2011年の、東日本大震災の、ちょうどぴったり400年前なのです!!
そして、今から400年前にも、東日本大震災とほぼ同規模の「大津波」が起きていた記録があるそうで、
それが、「慶長の大津波」。(1611年)
伊達政宗が 「慶長遣欧使節」 を派遣したのは、
その影響が大きかったのでは、という研究が、2011年の大震災後、一気に進んでいるそうです。
サン・ファン館のHPに、説明文がありますので、以下に一部転載しておきます。
「2011年の東日本大震災からちょうど400年前の1611年12月、
東日本大震災による大津波と同規模の「慶長大津波」が仙台藩を襲った記録が残されており、震災以後、これまでほとんど注目されなかった慶長大地震と慶長使節の関係が着目されるようになりました。
政宗が徳川家康にしたという報告『駿府記』では、この震災により仙台領だけでも5,000人を超える死者を出したと言われ、仙台藩の正史とされる『貞山公治家記録』では、1,783人の死者を出したと伝えられています。
また、使節派遣に重要な役割を担うセバスチャン・ビスカイノは、仙台領三陸沿岸を探索中でしたが、海上で大津波に遭遇した記録を残しています。
使節派遣の意図と仙台藩の復興
この慶長大津波からわずか2週間後、政宗は造船と慶長使節派遣の構想を明らかにし、その2年後、サン・ファン・バウティスタは月浦からヨーロッパへ向かって出帆しました。
このような事実を踏まえ、改めて慶長使節派遣の意義を問い直してみたとき、この計画には大きな災害から立ち直るための強い意志が託されていたのではないか、という新しい解釈が生まれます。
政宗と常長が目指した海外との貿易は、物資の流通のみで終わるのではなく、文化や技術・情報・人の交流ももたらしてくれます。そしてそれは復興の基盤になりえます。
私たちが経践した東日本大震災のちょうど400年前、まさに復興の最中に、慶長遣欧使節は大航海時代に打って出たのです。
使節を派遣した伊達政宗は、震災によって大きく傷ついた仙台藩を、より良い国に発展させようとしたのではないでしょうか。」
以上、HPの記述より。
さて、このサン・ファン館は、2011年の大震災・大津波でかなりの被害を受けましたが、
なんと、当初は 「カナダの人たち」の助けにより、復興が進んだとのこと。
こちらが、子供向けのイベント案内& サン・ファン歴史講座などのご案内ページです。
こちらは、施設案内ページ。
興味を持たれた方は、夏休みに行ってみるのも、おススメです!
また、8月3日から31日まで、東北復興応援ツーリング、というのが
そのキックオフイベントが、サン・ファン・バウチスタパークであるようです!
何やら色々と つながっていますね!
深い痛みと悲しみの記憶が、強い希望へと
必ず、変えられていきますように…!!
心より、主イエス=キリストの御名でお祈りいたします。アーメン。
最後に、石巻市の 「ふるさと納税」に関する ご案内ページはこちらからどうぞ
被災地・石巻の方々と、
羽生選手が、大きな希望を持って毎日を過ごせますよう、主イエス=キリストの御名で、
心よりお祈りしています…♪