さっぷいさっぷい外語学院(生徒:ゴタ、張るカイロさん)

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1922番:仏教学習日記(3)如風於空中一切無障礙(3)

2023-02-15 03:33:05 | 日記

如風於空中一切無障礙(3)

 

まずは1回目の復習から

.————————— ≪1≫ —————————————————————

法事のときにお坊様が来て、むにゃむにゃとお唱えしてくださるお経文、

『法華経』の中の偈頌のひとつです.

如風於空中一切無障碍(ニョフウオクウチュウイッサイムショウゲ)

これを読み下しますと、風の空中にあるがごとく一切に障礙無き(とならん)

(とならん)は勝手に付け足したのですが、この下りを読んでみますと、

どうやら、この経(法華経)にしたがって生活をしますと、このようになる

と書かれているようです.実は私もよくわからなくて、あちこちのブログ

を渡り歩いてみましたが、十人十色のご意見に触れました.

 

そこで、私も自分なりの解釈をしてみました.

空中に浮かんでみますと、地上の煩悩から解放されるようです.

地上に降りてきたときから、また膠のような切っても切っても

なおくっつく煩悩に付きまとわれます.

 

だいたいこの世は、いいこと半分、悪いこと半分で構成されていると

思いますので、お酒でも夢でも、それに酔いしれたあとに、つまり、

いい思いをした反作用の力がどこかで充填されていて、それが、

いつか縁に従って、悪夢が発生するのではないかと思うのであります.

 

ですから、あとでいやな思いをするのなら、「始めからいらない」

と思うようになったのであります.

 

『ブッダのことば』(岩波文庫)第642番に

<快楽>と<不快>とを捨てて、清らかに涼しく、とらわれることなく、

全世界にうち勝った健き人ー彼をわたくしはバラモンと呼ぶ.

 

ブッダは、バラモン教の国と時代に生まれましたので、成道後も

バラモン教と共存していました.

 

さて問題は、<快楽>と<不快>とを捨てて、というところです.

やっぱり、<快楽>は捨てるのがブッダの道であるようです.

 

そのためには、意識を「空中」で生活している辺りに保っておくこと

なのでしょうか.

 

 

.————————— ≪ここから今回分≫ ———————————————————————

 

ここで注目すべきことは、ブッダが成道後も仏教を開宗したわけではなく

既存のバラモン教に合わせて生きていた、ということです.

仏教というものがある日ある時誕生したのではなく、「よりよい生き方」

に気づいて、その道に邁進して「より素晴らしい幸福を得た」という

理解でいいと思います.

ブッダは、その道を作ったのではない、「発見した」と言っています.

「これは古道である」古来、数々の正覚者が通った道だと言っています.

だからブッダの説いた教えというのは「真理」を「あたりまえの道理」

として説いた、ということだろうと推測するのであります.

 

では仏教はいつ生まれたのか? おそらくブッダの入滅後、各地に

ブッダのお墓(ストゥーパと呼ばれる盛り土、この中に分骨された仏舎利

が収められた)が出来て、参拝する巡礼者も多く現れた.ブッダを偲ぶ
信者たちの間で、こういう考えが生まれた.

「たった6年間の修行でどうして如来一切の甚深の事を覚れるはずが

ない.きっと前世、前々世においても修行を続けていたからこそ

悟れたのに違いない」という歴劫修行の思想が産まれ、仏教は

ついにこの世では覚れないモノになってしまった.

「誰でも覚れるはずの真理」は百千万那由他阿僧祇劫を経て後に覚る、

つまり覚れないモノにすり替えられてしまった.

 

ところで、ブッダが菩提樹下で覚った内容は、どのようなもの

だったのか? 一般に十二因縁だとか言われていますが、ノート

もエンピツもない時代に、12個の事象を頭の中でまとめるのは

不可能かと思われます.おそらくもっと単純な因果律だっただと

思います.ブッダは「覚ってから過去世を見た」と言われていますが

これはおそらく逆でしょう.深い瞑想により過去世の記憶まで

たどれたことで、過去から現在に至る因と果を知った、ということ

じゃないでしょうか? 因果律は過去から現在、そして未来へと

連綿と続いている.そういうことを覚ったのじゃないでしょうか?

 

覚ってブッダはサールナートへ赴き、昔の修行仲間と合流し

初めて教えを説いた(初転法輪)わけですが、そのとき

こういったと言われています.

「友よ、不死を得たのだ.そのことを説こう」

「死なない真実」を説いたことになっているのですが

でもクシナーラーでお亡くなりになりました.

じゃ、うそを教えたの?

そうじゃありません.

過去世を知った、ということは「生まれ変わり」をするということ

でありますから、すでにこの時点で「不死を得た」と説くことは

OKだと思います.

 

でもそれだけなら、万人共通ですから覚りとは言えません.

「あの世もこの世も捨てる」と教えられております.

 

死んであの世に行くのが凡人ですが、「才能あり」

のブッダはあの世にもこの世にも行きません.この世では

空中生活、あの世は、まだ私は知らないのですが、そこでも

おそらく空中生活なのでしょう.生死の長夜を照らす月の

ように浮かんでいることなのでしょうか?

 

きょうは2月15日、日本では、この日ブッダが入滅あそばれた日

とされております.高僧たちも、逝くならば春、如月に行きたいと

言っておられますが、私は寒いのが苦手なのでもっと暖かい日が

いいです.

 

 

 

 

コメント
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