日本と世界

世界の中の日本

浜口雄幸首相のした金解禁はなぜ失敗したのですか? またなぜ浜口首相は金解禁を断行しようとしたのでしょうか?

2022-08-05 17:05:52 | 日記
mez********さん

2011/10/12 17:32

2回答

浜口雄幸首相のした金解禁はなぜ失敗したのですか? またなぜ浜口首相は金解禁を断行しようとしたのでしょうか?

浜口雄幸首相のした金解禁はなぜ失敗したのですか? またなぜ浜口首相は金解禁を断行しようとしたのでしょうか?


ベストアンサー
tkm********

2011/10/12 17:54

まず、ごく簡単にいえば、次のとおりです。 


第一次世界大戦の勃発とともに、それまで金本位制をとっていた主要国も、金の流出を恐れて、その輸出を禁止するようになりました。


 その後、大戦終結とともに、諸国は次々と金の輸出を解禁して、金本位制に復帰していきましたが、日本のみが諸般の事情から対応が遅れ、内外からの圧力は高まるばかりでした。


そして、浜口雄幸内閣において、懸案の「金解禁」を断行したわけですが、おりしも世界恐慌の時期であり、結果的に最悪のタイミングでの解禁となってしまったようです。


参考まで。ご存じかもしれませんが、「金の輸出入の自由」が金本位制であることの条件のひとつだということです。


したがって、金解禁をしないと、金本位制へは復帰できないということになります。


 よく知られているように、金本位制のもとでは、中央銀行は、発行した紙幣(これを兌換紙幣といいます)と同額の金を保有していることが必要で、求められれば紙幣と金を交換(兌換)しなければなりませんでした。


要するに、紙幣の発行には金の保有という裏付けが必要だということです。


そして、兌換した金は、自由に国境を越えて出入りすることも(=外国に持ち出すことも)認めてやらなければ、世界では通用しないということです。


日本国内でしか金に交換できない、あるいは交換できてもその金を持ち出せないのであれば、日本の「円」は外国では金の裏付けがないのと同様で、これでは金本位制だといっても、「円」は決済手段としては不適当です。


ちなみに、このような金本位制でない(金の裏付けのない)通貨の仕組みを管理通貨制度といいます。


また、金本位制のもとでは、通貨供給量(マネーサプライ)が金の保有量にリンクすることになりますので(今のような管理通貨制度なら、そのような制約はなく、比較的自由な通貨政策が可能となります)、不況下で現金を保有したいと考える人が増えると、通貨が金の保有量に縛られているため、金利が上昇してしまいます(本来なら金融緩和しなければならないところ)。


そして、金が海外へ流出すると、金の保有量の減少に対応して通貨供給量も減らさざるをえず(=金融引き締め)、不況をさらに悪化させてしまいます。


 現に、浜口内閣の井上準之助蔵相は金解禁を断行しましたが、当時の言葉でいうところの「嵐の中で窓を開ける」ような結果になってしまい、犬養内閣の高橋是清蔵相は、金輸出の再禁止(=金本位制からの再離脱)をせざるをえませんでした。


 以上は、他の質問者様への私自身の回答を一部使用して作成したものです。ご参考になれば幸いです。


金解禁

2022-08-05 16:35:41 | 日記
金の輸出を自由にし、金本位制に復帰すること。

日本では1930年(昭和5)1月11日実施。

第一次世界大戦中各国が金本位制を停止するなかで、日本も1917年(大正6)9月12日、金の輸出を許可制とする大蔵省令公布により、事実上金本位制を停止し、為替(かわせ)は時の相場によりフロートする体制となった。

第一次世界大戦後、金本位制再建の国際世論が高まり、1922年主要国政府代表の参加したジェノバ会議はこれを支持した。

日本は大戦後の不況に続いて、関東大震災、金融恐慌が起こり、金解禁の機会を逸していたが、1928年(昭和3)フランスの金本位復帰により、主要32か国中で復帰を果たしていない国は、日本を含め6か国を残すのみとなった。

この間、為替相場は旧平価100円につき48ドル84.5セントに対し、震災後一時38ドル台に低下したが、昭和年代には年平均46~47ドルに回復したものの、投機による相場の乱調な上下は正常な国際取引を阻害したから、国内の世論もまた、金本位制への復帰を待望した。

1929年7月、金解禁即時断行を党是とする民政党の浜口雄幸(おさち)内閣が成立すると、蔵相に井上準之助を据え、ただちに解禁の準備に着手、予算を削減して緊縮財政によるデフレ政策を推進し、国内物価の国際物価へのさや寄せを図るとともに、金準備の充実のため、米英銀行団からのクレジット1億円を設定、11月に、翌1930年1月に金を解禁すると予告した。

浜口首相、井上蔵相の意図は、為替安定下に産業を合理化し、日本経済の国際競争力を高め、また、金本位制の景気調節機能によって、経済を正常化することにあった。

しかし旧平価による解禁は、日本経済の実勢に対しやや円高で厳しいものであったうえに、1929年10月ニューヨーク・ウォール街の株式暴落に始まった世界恐慌は、内外識者の予測を裏切って深刻化し、デフレ政策に伴う日本の物価低落を上回る海外物価の低下により、輸出は振るわず、日本経済は未曽有(みぞう)の不況に陥った。

井上は金本位制維持の方針を堅持して、緊縮財政政策を続けた。

しかし1931年9月、満州事変が勃発(ぼっぱつ)し、ついでイギリスが金本位制を停止すると、日本の金再禁止間近しとの観測から、円売りドル買いが盛んに行われた。

井上は円を買い支えて防戦に努めたが、金の流出が続き、金本位制維持は困難となった。

同年12月13日、犬養毅(いぬかいつよし)内閣が成立し高橋是清(これきよ)が蔵相に就任すると、ただちに金輸出再禁止が実施され、日本の金本位制は終焉(しゅうえん)した。

[大森とく子]

『中村政則著『昭和の歴史2 昭和の恐慌』(1982・小学館)』▽『長幸男著『昭和恐慌』(岩波新書)』▽『中村隆英著『昭和恐慌と経済政策』(日経新書)』
[参照項目] | 金 | 金本位制度 | 浜口雄幸内閣
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「金解禁」の解説
金解禁
きんかいきん
lifting of gold embargo
金輸出禁止を解除し再び金の自由かつ無制限な輸出を認め,金本位制度に復帰すること。

金輸出解禁ともいう。

金解禁はそれを実施するときの金平価によって旧平価解禁と新平価解禁とに分けられ,前者は金輸出禁止前の金平価で,後者は金輸出禁止後の実勢為替相場を基準にして,それぞれ金解禁する場合のことをいう。

 1920年代に各国が金解禁を実施したものの,30年代に金輸出再禁止を行わざるをえなくなったのは,1929年の大恐慌に加え多くの国が金輸出禁止期間の物価上昇と為替相場の下落を無視し,旧平価で金解禁を実施して国内経済に極度のデフレーションをもたらしたためである。

 30年に日本の浜口内閣が行なった金解禁政策はその典型とされる。

同年浜口雄幸が凶弾に倒れると,翌年末,犬養内閣は金輸出を再禁止した。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
百科事典マイペディア「金解禁」の解説

金解禁【きんかいきん】
いったん禁止した金の輸出を再び自由にすることで,金本位制度への復帰を意味する。

第1次大戦中,各国とも金輸出禁止の措置をとった。戦後,米国(1919年)をはじめとして金本位復帰の動きが広まったが,日本では不況などで容易に実現せず,1930年1月浜口雄幸内閣が金解禁を断行した。

しかし,深刻な不況が続き,1931年12月犬養毅内閣時に高橋是清大蔵大臣によって再び金輸出禁止に追い込まれた。

→関連項目井上準之助|産業合理化|昭和恐慌|民政党
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
精選版 日本国語大辞典「金解禁」の解説
きん‐かいきん【金解禁】
〘名〙 「きんゆしゅつかいきん(金輸出解禁)」の略。
※新種族ノラ(1930)〈吉行エイスケ〉断髪女を連れて航空港をご出発「鐘紡は金解禁(キンカイキン)による不況を理由にして〈略〉従業員の賃銀値下げを断行した」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉「金解禁」の解説
きん‐かいきん【金解禁】
金貨幣または金地金の輸出禁止を解除すること。特に日本では、昭和5年(1930)浜口内閣が金の自由輸出禁止を解除し、金本位制度に復帰させた政策をいう。金輸出解禁。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
世界大百科事典 第2版「金解禁」の解説
きんかいきん【金解禁】
金貨・金地金の輸出を自由化して金本位制度を復活させる措置。1917年9月12日以来,金貨・金地金の輸出が許可制(実質的禁止)となり,日本の金本位制は機能を停止していた。17年の金輸出禁止は,第1次大戦に参戦したアメリカの金輸出禁止に対処した措置であったが,大戦終結後,19年にアメリカが金本位制に復帰したのちも,日本は金輸出禁止をつづけた。高橋是清蔵相(1918年9月~22年6月)は,対中国政策の観点から金保有を重視し,金解禁をおこなわなかった。
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報

【書評】『浜口雄幸と永田鉄山』

2022-08-05 16:07:08 | 日記
【書評】『浜口雄幸と永田鉄山』 川田稔著
August 19, 2009
  • 歴史
  • 政党
  • 憲法
  • 資源
  • 日中関係
  • 東アジア
  • 外交
  • 政治
  • 政治外交検証:書評
評者:大前信也(同志社女子大学嘱託講師)

柳田国男、原敬、浜口雄幸の政治思想史的研究を重ねてきた著者が、永田鉄山と浜口を対比させて論じているのが本書である。

著者はある文章で本書の狙いを次のように述べている。

浜口内閣の対米英協調と中国内政不干渉という外交政策によって米英中とは協調可能だったことから、満洲事変やそれ以後の大陸膨張政策の展開を理解するには、昭和陸軍の政策構想の検討が必要である。

また、当時の政党政治の体制は強固で安定していて、安全保障や中国への対応などは明確な構想に裏づけられていたので、陸軍の独自の政策構想とその実現への準備を分析してこそ政党政治崩壊の理由がわかるとのことである。

そこから陸軍と日本の将来について明確な構想を持って陸軍を主導する推進力となった永田鉄山の政策構想の分析が重要であるとしている(川田稔「政党政治と昭和陸軍」『本』平成21年5月号、講談社)。

こうした視点から永田を浜口と対比させたのが本書である。

以下にまず、梗概を示したあと、評者の考えるところを記したい。

「プロローグ 張作霖爆殺事件」では、満蒙問題に関して田中内閣の満蒙特殊地域論、関東軍首脳の満蒙分離論に対し、永田ら陸軍中堅幕僚は満蒙領有論、民政党総裁浜口は経済関係強化のため内戦不介入、国民政府による統一容認の立場であったことを述べ、張学良の国民政府合流で浜口の議論が主流となり、永田らの考えが対抗したとする。

浜口と永田の構想と活動の展開を時代背景とともに描くという本書の意義がそこから導かれる。

「第1章 田中義一政友会内閣と民政党総裁浜口雄幸」によると、民政党総裁浜口は山東出兵など田中内閣の満蒙政策を批判し内政不干渉を主張して、国民政府による統一を支持する。

満蒙の権益は決意があれば守れる、満蒙分離は日本にとって損失であるとするのであった。

日本の経済発展のためには中国統一を支持し対米英協調を維持しようとした。

一方、内政では田中内閣の積極財政を批判し産業合理化や金解禁、緊縮財政を主張する。

浜口はこうした構想に従って幣原喜重郎や井上準之助を起用したとされている。

「第2章 浜口内閣期の外交と内政」では、上記の構想の実現を目指す浜口が描かれている。

彼は大戦防止と国際社会安定のために国際連盟を重視し、東アジアの安定と平和の維持には不可欠と見なした。

そして国際協調と財政負担軽減のため軍縮を試み、満蒙問題棚上げで日中関係を改善し通商・投資の拡大を目指そうとした。

それは国民政府の好意的姿勢と日貨排斥の収束をもたらし日中関係は安定化したとする。

また内政では、緊縮財政と金解禁で物価低落、為替安定を招来し、産業貿易の発展、国民生活の安定を目指した。

そして産業合理化でもって国際平和協調路線と国際経済競争力強化をつなごうとした。

要するに協調外交で軍縮をもたらし財政負担を減じて民力休養を目指すという路線であった。

「第3章 構想の相克」に至って浜口と永田の構想が対比されることになる。

永田の構想は浜口への対抗構想といえ、満洲事変以後の陸軍を主導する。

永田によれば国家総力戦では国家総動員が必要であり、長期持久戦下での自給自足のため大陸の国防資源を確保すべきとなるが、浜口の構想は総力戦、総動員には十分及んでいず、通商拡大で産業興隆というのが眼目であった。

浜口は東アジアの平和の下での経済発展と国民生活の安定をもたらすため国際連盟を重視し、多層的条約網で戦争の抑止は可能と見た。

また米英との協調下に市場としての統一中国との通商関係の発展を目指したのに対し、永田は戦争は不可避として、実行手段を欠く連盟の有効性に疑問を呈して軍備充実を必要とし、満蒙華北華中の資源の確保が必要と考えていた。

こうした両者の構想の相克は国内政治体制についての見解の相違をもたらし、政党政治の徹底と軍部の政治介入という対比がなされている。

「第4章 満州事変と永田鉄山」は経緯の描写に止まる傾向が多分にある。

満洲事変発生後の陸軍中央における永田軍事課長の発言力は大きく、一夕会系の中堅幕僚が陸軍上層部を動かし、関東軍と連携していたという指摘が目にとまる。

「第5章 統制派と皇道派―陸軍派閥抗争」は永田ら統制派の傾向を、浜口ではなく陸軍内の皇道派と対比させている。

統制派は対ソ早期開戦に反対で、総力戦・総動員に備えて華北華中の国防資源確保のため中国本土への介入を考えたのに対し、皇道派は対ソ早期開戦論の一方で中国本土では列強と協調して通商・投資につとめるべきとして、中国本土介入に慎重であった。

そして統制派の所産である「国防の本義と其強化の提唱」は、連盟の無力化・ブロック対立下の経済戦では、平時の国家統制を必要とし、陸軍の政治介入体制の確立と軍備充実のための予算獲得を求めていた。

エピローグ 永田死後―太平洋戦争への道」は短いが、永田よりも浜口を高く評価する著者の立場が示されている。

永田暗殺後も国内の政治体制については軍部主導の政治運営という彼の構想が実現する。

すなわち陸軍の政治的影響力の拡大であり、対米開戦過程では国防資源獲得を念頭に華北への駐兵が追求された。

陸軍内で新たな構想は提示されず、結局武藤章や東條英機は永田の構想に呪縛されたという。

一方、浜口は国際連盟と条約網で戦争抑止可能とし、東アジアの安定平和の下で統一中国への通商・投資を考え、国内政治ついては政党政治の徹底を目指していた。

現在、日本では議会政治は定着し、世界では国連中心の平和維持システムが整備されているが国際社会では権力政治の要素は残存している。

そこでの日本の針路について、浜口と永田のスタンスの対立が現存するが、永田の方向はアジアに惨禍をもたらし、浜口の構想は戦後憲法体制に受け継がれた。

権力政治を超える新しい国際秩序を追求した浜口の構想とそれに対抗した永田の構想との相克の歴史的帰結は示唆的であるというのが著者の結論である。

さて、いくつかの疑問、注文を呈して批評としたい。

政治家の評価の基準を何処に置くかということを考えたとき、政治家はその構想如何よりも、まずは何を行ったかで評価されるべきではないだろうか。

思想家の構想を評価する政治思想史と政治家の実行を評価すべき政治史の混交が生じているのが本書の特徴であろう。

しかし、見方を変えれば、政治思想史家としての著者が思想史と政治史の交錯という従来にない手法の叙述を展開しているともいえる。

浜口の新たな側面に光があてられたということだろう。

そもそも現実の浜口と永田に交流はない。

14の年齢差があり、浜口が総裁、総理をつとめたとき、永田は大佐で連隊長や課長であった。

第4章、第5章で描かれた永田の活躍は浜口没後の話である。

その二人を対比させたのは、彼らの構想の相克を論じるためであり、そこに思想史的意味を見出そうとしたのであろう。

しかし、浜口と永田の構想を戦後と関連させる著者の結論にはいくつかの留保を示したい。

国際協調で通商拡大という路線を軽軍備の通商国家に、不戦条約や戦争違法化を著者のいうところの「昭和憲法」体制につなげようとしているが、専守防衛の通商国家も、米国の覇権の下、日米同盟体制の中で可能だったことを忘れてはなるまい。

極東における有効な軍事同盟など困難であった当時の状況を戦後と類比させるのに慎重であるべきだろう。

米英ソの角逐する当時の東アジアで、満蒙権益維持が対中不干渉政策や中国ナショナリズムの台頭と両立可能だったか。

そもそも浜口のいう「決意」だけで満蒙権益を守れたのか。

5ヶ年計画を重ねて重工業化を進め軍備を増強するソ連の脅威に対して、国家総動員以外の現実的な対処法があったか。

恐慌に見舞われ保護貿易に向う列国の中で通商拡大が可能だったか。

産業合理化は民政党を支える財閥・大企業を利するだけではないか。

このように外交も経済も国防も従来と様相を異にしていく中で、国内の相反する諸利益を調整、統合していく力量が当時の政党にあったか。

本書を読んでいると、浜口の構想の現実性如何を問う疑問が相次いで想起する。

そして、1930年代後半の世界とわが国の歴史は、永田の構想の方が現実的で妥当性があったと示しているのではないだろうか。

また、浜口の構想とその実現への道程を論じた部分では、浜口主導を強調する余りに、外交における幣原外相の、財政における井上蔵相の主体性を没却しているように思う。

幣原外交に関する豊富な先行研究のみならず、井上財政や、それをいわば反面教師として登場する高橋財政について蓄積された研究を参照すれば、著者の浜口構想評価もより多面的なものになったかもしれない。

永田関係部分については、陸軍における永田の構想を石原莞爾のそれと対比させて異同を明らかにしてほしかった。

一体どちらがこの時期の陸軍を牽引したのかという疑問が残る。

従来の研究は石原の構想を強調しているので、永田を評価するなら両者の構想の相克が論じられていいはずである。

現実の永田は浜口よりもむしろ石原と交錯している。

但し、従来余り注目されていなかった永田の文章や講演筆記を活用して、彼の構想を示している点は評価されるべきであろう。

おそらく著者は本書に続く著作の構想をすでに有し、その実現に着手しているはずである。

ここに示した疑問や注文などは、そこで鮮やかに解決されるであろう。

そのとき本書の意義も改めて認識されるはずである。

    • 同志社女子大学嘱託講師
    • 大前 信也
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韓国 大幅利上げに財界が懸念 家計・企業の負担増

2022-08-05 15:43:26 | 日記
大幅利上げに財界が懸念 家計・企業の負担増

Write: 2022-07-14 08:57:21/


韓国銀行が13日、政策金利を一挙に0.5ポイント引き上げたことについて、韓国の財界からは、「物価上昇を抑えるのに効果的だろうが、家計や企業の返済負担が増す」と懸念する声が出ています。

大韓商工会議所は、政策金利の引き上げについて、「インフレや急激なウォン安を落ち着かせるには、0.5ポイントという大幅な利上げが避けられなかっただろうが、家計や企業の不健全化、景気の冷え込みなどの副作用が懸念される」と指摘しました。

また全国経済人連合会は「消費者物価の高騰やアメリカの利上げ基調を踏まえたものだが、家計や企業のリスク対応力が低く、実体経済も振るわない状況だけに、今後は利上げのスピードの調整が必要だ」とコメントしました。

さらに韓国経営者総協会は「物価上昇やアメリカの利上げなどに対応するためやむを得なかった面があるが、急激な利上げで企業の返済負担が増し、投資が冷え込む恐れがあるほか、民間消費にもマイナスの影響を与える恐れがある」と懸念を示しました。

そして「中小企業の経営がさらに厳しくなるとみられるだけに、政府は市場の衝撃を最小化するよう、多方面の対策を講じなければならない」と強調しました。


中国経済は長期停滞局面に突入か 

2022-08-05 14:20:34 | 日記
中国経済は長期停滞局面に突入か 財政金融はドル依存、不動産市場も構造不況に 政府も産業界も脱出本格化を

7/25(月) 17:00配信


【お金は知っている】 

安倍晋三元首相死去の影で目立たなかった重大ニュースがある。

15日北京発、中国の4~6月期の実質国内総生産(GDP)が前年同期比で0・4%増に減速との発表だ。

習近平政権による新型コロナウイルス感染ゼロ政策が引き起こした一時的失速との見方が一般的だが、中国経済が長期停滞局面に突入したとみる。

 グラフは、中国人民銀行の外貨資産および人民元資金発行高と、実質GDPの各前年同期比増減率である。

中央銀行は経済成長に必要なカネを供給する。

20008年9月のリーマン・ショックを受けて、人民銀行は数年間、猛烈な勢いで資金発行量を増やし、2桁台の実質経済成長を実現した。

ところが、16年以降は資金発行の伸びが止まった。

19年は16年に続いて資金発行はマイナスで、新型コロナ・パンデミック(世界的大流行)が起きた20年も前年を下回った。

21、22年前半も伸び率は極めて低い。

 日米欧では中央銀行資金は新型コロナ不況対策に欠かせない。

政府は家計や中小企業を支援するために国債を増発し、財政支出を大幅に拡大させてきた。

国債の急速な増発は金融市場を混乱させかねないので、中央銀行がカネを刷って市場で買い上げる。

すなわち、コロナ関連の経済対策とは、財政と一体となった金融の量的拡大のことである。

ところが、中国は無縁である。

なぜか。 グラフ中の人民銀行外貨資産の増減率に注目しよう。

人民元発行増減率は多くの年で外貨資産とほぼ連動している。

人民銀行は中国に流入する外貨を原則として全額買い上げる特有の制度としている。

つまり、外貨がネットで流入しないことには、人民元を増発できないのだ。

 歴史的には、中国共産党は通貨を乱発した国民党が国民大衆から見放された結果、内戦に勝利した体験がある。

本来、紙切れに過ぎない人民元は、共産党幹部を含め、中国人の大半が信用しない。

外貨すなわちちドルの裏付けを共産党政権は必要としているわけだ。

 外貨次第となると不況対策としての財政出動も大きな制約を受ける。

新型コロナ感染という非常時には先進国のような通貨増発ができない。 

とはいえ、21年はGDP成長率が資金発行からかけ離れて大きく反転している。

それは20年に逼塞(ひっそく)していた不動産開発投資が一時的に回復したからである。

中国経済は不動産開発を中心とする固定資産投資がGDPの4割以上を占める。

だから、習政権は景気を維持するために不動産向け融資拡大策をとるが、不動産相場は21年初めをピークに下落し続けている。

住宅供給が過剰で、不動産開発投資は減る一方なのだ。

 財政金融はドル依存のために機動性に欠ける上に、成長を牽引(けんいん)する不動産市場は構造不況とあっては、ゼロ・コロナ政策の成否とは無関係に、中国経済は長期停滞するとしか考えようがないのだ。

 政府も産業界も、中国市場幻想から醒(さ)め、脱中国を本格化させるべきなのだ。 

(産経新聞特別記者・田村秀男)