安倍元総理が蒔いた「後来の種子」を信じたい
投稿者:editor 投稿日時:2022/08/08(月) 05:35
安倍晋三元首相が凶弾に倒れて既に半月。あってはならない悲劇にただ慄然とし、その後数日間はそれでもまだ信じられない思いが繰り返し浮かんできた。
しかし、そんな落ち込みを救ってくれる出来事もあった。
増上寺で執り行われた通夜や葬儀に何千人もの人々が詰めかけて献花し、安倍元首相を見送った。
奈良・西大寺の受難現場では翌日からお花を供え手を合わせる列が絶えなかったという。
自民党本部での献花と記帳も長蛇の列となり、普段は自民党とは縁がなさそうな若者や高校生も目立った。
地方からは、わが町には記帳所も献花台もなく、隣の市まで行ったとの声も聞こえてきた。
こんなに多くの日本人が誰に頼まれたわけでもなく、安倍元首相の死を悲しんで自らの意志で花を供え合掌して感謝と哀悼の意を表している。
これは現代日本の奇跡ではないか。
この人波が当初は及び腰だったと言われる岸田首相をして国葬に踏み切らせたと言っても過言ではあるまい。
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安倍元首相の葬儀から二日後、今月の巻頭の座談会に登場いただいた産経新聞の阿比留記者がコラムで紹介した、幕末の先駆者・吉田松陰先生の言葉に触れた昭恵夫人の葬儀の挨拶にも勇気づけられた(7月14日「極言御免」)。
「10歳には10歳の春夏秋冬があり、20歳には20歳の春夏秋冬、50歳には50歳の春夏秋冬があります。父、晋太郎さんは首相目前に倒れたが、67歳の春夏秋冬があったと思う。
主人も政治家としてやり残したことはたくさんあったと思うが、本人なりの春夏秋冬を過ごして、最後の冬を迎えた。種をいっぱいまいているので、それが芽吹くことでしょう」
この死生観は松陰先生を敬慕する安倍氏本人が父・晋太郎氏の追悼文で使った部分でもあるらしいが、安倍元首相を送るに相応しいものと言える。
松陰先生は安政六年十月二十七日に刑死されたのだが、その前夜、獄中で書き残されたのが「留魂録」と呼ばれる遺書で、その中の八項目にこんな一節がある。
「吾レ行年三十。一事成ルコトナク死シテ禾稼<かか>ノ未ダ秀デズ実ラザルニ似タレバ惜シムベキ……」(私は三十歳で生を終わる。未だ一つも事を成し遂げていないのは、植えた穀物に花が咲かず実を付けなかったことに似ているから惜しむべきかもしれないが……)に始まり、しかし人間にはそれぞれ「二十(歳)ニハ自ラ二十(歳)ノ四時あり。三十ニハ自ラ三十ノ四時あり……」と、相応しい「四時」(春夏秋冬)がある。
私(松陰)も三十だから三十の四季は備わり、花を咲かせ実をつけているはず。ただ、「ソノ秕<しいな>タルトソノ粟<ぞく>タルト吾ガ知ル所ニ非ズ」(その実が中身のない籾殻<もみがら>か熟した粟かは知らない)と続く。
処刑を明日に控えても心静かに死と向き合う実に堂々たる死生観と言えるが、その上で松陰先生は「モシ同志ノ士ソノ微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラバ、乃チ後来ノ種子未ダ絶エズ……」と志の継承を呼びかけられ、最後に「同志其是レヲ考思セヨ」とこの項目を結ばれている。
もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、受け継いでやろうという人がいるなら、後来(将来)に種子がつながっていくこととなる……」。
「同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい」と。
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「留魂録」という名前はこの遺書の冒頭に掲げられた遺詠に由来する。
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂
明治維新の大業は、肉体の死後もこの世に松陰先生が留め置いた「大和魂」によって、さらにはその「微衷ヲ憐ミ継紹」した弟子たちによって成し遂げられたと言えよう。
決して簡単ではないが、政界にも民間にも蒔かれ安倍元首相の「後来の種子」が芽を出し実を付け、首相の悲願が成就する日の来ることを信じたい。
(日本政策研究センター所長 岡田邦宏)
〈『明日への選択』令和4年8月号〉