20年前のこと、この小説が出現したときはびっくりした。まさか浅草弾左衛門が小説になるとは思ってもいなかった。
そのため、あのときのミステリアスで、禁断の函をあけるようにどぎまぎした気分になることは少なくなったのだけれど、そんなことはむろんこちらの勝手な事情で、多くの読者の目に、日本の裏面史のひとつの象徴としての弾左衛門が知られることの意味のほうこそ、はかりしれない。それほど、本書の執筆と刊行は画期的だった。
塩見はもともとは河出書房の編集者なのである。
それで百科事典の項目書き・校正・リライト・映像シナリオなどいろいろな仕事をしながら、大串夏身や後藤文利をへて上杉聰と知りあって、いよいよ佳境に入っていったのだという。
たとえば近代日本のしょっぱなのことでいえば、最後の弾左衛門が死んだ直後の明治25年(1892)、「朝野新聞」に次のような記事が出た。
いまでは差別用語として禁じられている穢多非人を多数統轄していたのが弾左衛門だという説明だが、これだけではまだ何者かはさっぱりわからない。
しかし実際には、太田道灌が江戸氏の館を改築して江戸城にしたときすでに、矢野弾左衛門はいたらしい。
『落穂集』によると、その後の矢野弾左衛門は日本橋の尼店(あまだな)に葭の原(のちの吉原)があり、その高みのあたりに住まいをもっていた。
つまりは、江戸の町奉行は被差別民の扱いのほとんどを弾左衛門の一党に任せていたわけである。
穢多たちは弾左衛門直営の湯屋(風呂屋)に入った
こうして、お仕置御用、灯心作り、皮革精製、金融などを独占した弾左衛門の力はしだいに増大し、また富も集中していった。
すでに戦国大名と皮革職人とのあいだに、特権的ともいうべき密接な関係があったのである。鎧・兜・刀剣などの武具、鞍・鐙(あぶみ)などの馬具、これらには皮革は欠かせない。戦闘集団の準備をすることは、皮革を調達して万端を整えておくことと同義だったからである。
当時、皮革職人たちは「皮作」(かわさく・かわつくり)とか「かわた」とよばれていた。このような皮革職人を巧みに保護したのは、いちはやく戦国の雄となった駿河の今川氏と伊豆の北条氏だった。
駿河では府中の「かわた彦八」が領内の皮革をまとめる仕事を今川氏親から命ぜられ、なんと1町4反(5400坪)の敷地を与えられていた。別格扱いだ。次の今川義元の時代には、「かわた」の扱いについての許認可と掟とが定められた。
小田原でも北条氏直による皮革管理があって、太郎左衛門が「長吏」の集団を統率していた。
天正18年(1590)7月5日、秀吉は北条を滅ぼすと、その領地であった関東6カ国、伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総を新たな領土として家康に与えた。
実は、小田原の長吏太郎左衛門も北条氏直の証文を家康に示していた。ところが家康はこれを認めず、それどころか証文を弾左衛門に譲り渡した。
ここに「浅草弾左衛門」のスタートが切られるということになる。さてところが、この話にはいろいろ怪しいところがある。そもそも弾左衛門が見せたという「由緒書」は、のちの正徳5年(1715)に6代目弾左衛門が町奉行に提出した『弾左衛門由緒書』に書いてある話であって、家康の関東入りの時点とは思えない。『由緒書』がのちのでっちあげだとすれば、当時は、それに代わる何かの画策があったはずなのだ。
このとき、それまで沼田庄(東京都足立区)の長吏であった弾左衛門が長吏の役を解任されてしまったのである(つまりこの時点で、浅草弾左衛門はまだいないのだが、弾左衛門はいたわけだ)。
が、弾左衛門は抵抗して訴訟をおこそうとした。むろんそんなことが通るはずはない。北条氏は沼田の福島孫七郎に新たな長吏支配に徹するように命じ、弾左衛門が抵抗するなら国を追い出せと指令した。弾左衛門は厩橋に身を隠した。それを聞き付けた北条は「弾左衛門がなおそこいらを徘徊しているのなら、小田原の太郎左衛門に申し付けて成敗しなさい」と申し渡した。
ここに「太郎左衛門と弾左衛門」という対立構図が浮上した。家康はそこに目を付けたわけである。北条の息のかかる太郎左衛門を排して、自分のコントロールのききそうな弾左衛門を選択する。それによって関東一円の皮革事業を掌中にしようという計画だ。
慶長9年(1604)、弾左衛門は伝馬一匹を許され、毛皮の原皮を加工するために江戸から小田原まで運ぶ。
これは、弾左衛門からすれば家康のお墨付きをもらったも同然である。欣喜雀躍したことだろう。弾左衛門の前途はあかるい。
ただし残っている問題があった。弾左衛門の出自や由緒である。これについては弾左衛門は勝手なでっちあげをした。さきにのべた「弾左衛門由緒書」がそうなのだが、そこに「自分の先祖は摂津国池田から相模国鎌倉に下り、そこで源頼朝から長吏以下の支配を命じられて、その仕事に長らくまっとうしてきた」というふうに書いたのだ。
鎌倉にいたというのである。なぜ鎌倉なのかは頼朝時代に自身のルーツをさかのぼらせることができるからだろうが、それとともに実際にも頼朝時代の鎌倉には八幡宮の神人(じにん)がいて、ここに弾左衛門の先祖が長吏以下の職人や芸能者や非人を組織していたか、統括していた“前歴”がうかがえるのである。でっちあげの偽文書ではあろうが、弾左衛門が差し出した「頼朝御証文」には、弾左衛門が次の28座を統括していたということがのべられている。
長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋師、鋳物師、辻目暗、非人、猿曳、弦差、石切、土師師、放下師、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、獅子舞、蓑作、傀儡師、傾城屋、鉢扣、鉦打。
これだけの職人や芸能者や非人を支配していたとは驚きである。そのことがどこまで歴史的事実であるかは今夜はさておき、これに近いかその原型となるようなリーダーが鎌倉にいただろうことは、すでにあきらかになっている。
ぼくも『フラジャイル』(ちくま学芸文庫)のなかで、大庭御厨(おおばみくりや)の開発領主であった鎌倉権五郎の話とともに、頼朝が非人の娘の菜摘御前に子を産ませた話を書いておいた。どうもその菜摘御前(なつみごぜん)の父親が弾左衛門らしいのだ。それが鎌倉八幡宮に属する「極楽寺長吏」で、しかも当時の記録によれば、このグループは小田原の長吏グループと対立しあっていたのである。
まあ、このあたりのことはたいへんに興味深いのだけれど、本書の時代からはずれすぎるのでこのくらいにして(いずれ別の本で迫りたい)、ともかくもこうして弾左衛門は“歴史化”されたわけである。
どういうふうに代々がいたかということをかいつまむと、おそらく2代目が関東の皮革事業の基礎をかため、元和3年(1617)に3代目が江戸の町奉行と親しく交わり、このとき「お仕置役」の役目ももらった。「内記」という内証名(ないしょうみょう)が与えられたのもこの時期らしく、以降、代々の弾左衛門は250年にわたって「内記」を内証名にした。
4代目は寛永17年(1640)から寛文9年(1669)までの浅草弾左衛門で、屋敷が鳥越から新町へ移っている。すでにのべたように、このとき刑場も鳥越から山谷に移り、小塚原仕置場として有名になるのだが、つまりは犯罪人の扱いが弾左衛門一党に任されたわけである。そのあと鈴ヶ森も仕置場となって、この管理も任された。かくして「きよめ」といえば弾左衛門の代名詞となったのだ。
5代目は宝永6年(1709)までで、次の6代目が“中興”の弾左衛門になる。わずか12歳で弾左衛門を継いだようだが、寛延1年(1748)までの40年を仕切った。「由緒書」もこの6代目が偽装した。
7代目は織右衛門、8代目は要人と言った。このころから弾左衛門の「力」に翳りが見えてくる。幕藩体制が揺動してきて、身分制度の締め付けが強化されつつあったことも手伝った。9代目浅之助のときは後見に手代の佐七が立ち、就任が寛政5年(1793)までずれこみ、そのうえ9代目は25歳で病没、ここでついに弾左衛門の直系で織り成されてきた男系の血が途絶えることになってしまった。
とりあえず10代目は甥の金太郎が継ぐのだが、文政4年(1812)に31歳で死んだ。これで弾左衛門の直系は7代目の娘一人になった。やむなく関西の皮革問屋などに相談して安芸国出身の富三郎という者が養子縁組をして11代目を継がせようとしたものの、あえなく20歳で若死。12代目の周司はまたまたよそ(信濃国)からの推薦をえることになった。
が、周次は車善七とのあいだでちょっとした事件をおこしたため、「押込」に処せられ、それがもとで引退した。次の後継者をどうするか。こうして本書の主人公である“最後の浅草弾左衛門”の人選が始まったのである。
富三郎は安芸国佐伯群の雑色頭の河野団左衛門の子であったが、そこには適当の人材はいない。そこで本家の河野平三郎の人脈をさがすことになった。けれども平三郎はすでに故人になっていたので、妻の実家にあたることにした。そこは摂津の長吏頭の家で、そこに小太郎という有望な子がいることがわかった。寺田小太郎である。
いろいろ調べてみると、父親は利左衛門、母方の祖父は京都の元銭座村の長吏頭の専左衛門である。母の妹も紀州海部郡広瀬の長吏甚之丞の嫁いでいる。弾左衛門を継ぐにはふさわしい。こうして小太郎は天保11年(1840)、13代浅草弾左衛門になった。
車善七については弾左衛門とは別な意味でたいへん謎が多い人物で、やはり何代にもわたって江戸の「非人頭」としての「役」を継承し、つねに浅草弾左衛門とのあいだで確執を繰り広げた。慶長13年(1608)に初代が車善七を名のったことが記録にのこっているので、ほぼ弾左衛門と同じように徳川社会を生き抜き、明治初頭に“最後の車善七”をおえた。
非人頭というのは、いわゆる「溜」(ため)を仕切った一党のリーダーのことをいう。「溜」はもともとは未決囚で病いにかかった連中の収容施設のことだったのだが、やがて非人・貧人(同じくヒニンと称ばれた)の多くの「溜り場」(施設)の意味をもち、さらに善七によって非人全般の扱いの役目を引き受ける役どころにまで発展した。
もっとも、江戸の非人頭は車善七以外に、品川松右衛門、深川善三郎、代々木久兵衛がいて、なかで車善七が浅草を中心に番を張ったので、これが弾左衛門とのあいだで“領分”をめぐる確執や対立を招いたわけである。もっと詳しいことを書きたいが、詳細は塩見が『江戸の非人頭・車善七』(三一新書)という、これまた貴重な本を出しているので、それを読まれたい。
ということで、小太郎弾左衛門は前任者が車善七と対立していたことを背景に、自身の13代目としての仕事にとりくむことになったわけである。
しかし小太郎弾左衛門の前途には、さらに難問がいくつも待っていた。最も大きな難問は幕府の衰弱だ。勤王佐幕、尊王攘夷の機運が複雑多岐に渦巻くなか、幕府としては弾左衛門の勢力を活用しないわけにはいかない。「身分引き上げ」が申し渡され、65人の手代とともに“平人”の扱いとなり、町奉行所システムのなかでは与力格にさせられた。
小太郎が「弾内記」という姓名になったのはこのときである。第2次長州戦争にも駆り出された。新撰組との共闘も何度か図られた。
こうなると、弾左衛門の運命は幕府とともに盛衰をまっとうするしかない。しかし、盛衰の「盛」はもはやありえない。幕府の解体は明白だった。案の定、幕府の敗北が決定的になってくると、弾左衛門が所属していた町奉行所はただちに「市政裁判所」という名に改まってしまった。弾左衛門はまったく新たな弾内記として、さらには改名して「弾直樹」として生まれ変わるしかなくなったのである。
しかし一方、新政府は「賤民制の廃止」を執行しようともしていた。もしそうなれば、これまで通り、弾左衛門が長吏支配を維持しながら皮革産業を牛耳れるとは思えない。
危機を感じた弾直樹はさっそく嘆願書を提出して、従来通りの皮革取扱いを申し出るのだが、ここに新政府側にもちょっとした対立がおこった。兵部省は造兵司を設置して、皮革の重要性を強調するためにも弾直樹の嘆願書の擁護にまわった。だが、太政官や東京府が慎重だった。
まず弾左衛門一族の身分が確定していない。これはよろしくないと言う。また廃藩置県によって東京府ができあがってくるのだが、その東京府の治世管轄圏と弾左衛門の長吏支配圏とが重ならない。弾左衛門の歴史的な支配圏は関東の廃藩置県をこえている。そこで「待った」がかかったのである。
この綱引きはしかし、兵部省が軍需としての皮革の重要性を押し切って、弾直樹に「造兵司革製法」を命ずることになって落着した。これでいよいよ弾直樹は皮革製造所を開設できることになったわけである。明治4年(1871)、アメリカ人のチャールス・ヘニンガーをお雇い外国人とすると、滝野川反射炉の跡地が選ばれ、そこに皮革製造伝習所と軍靴伝習所とが開かれることになる。もはや弾左衛門は近代産業の先兵としての弾直樹になりそうだった。
それまでの日本では、牛馬が死ぬとその死骸は無償で長吏に渡されていた。だからこそ、皮も骨も、ばあいによっては肉も、すべて長吏のものとなってきた。それが長きにわたった日本社会というものだ。「負のシステム」である。弾左衛門はその社会を支配したわけである。長吏支配とはこのことだ。
それが幕末あたりから、牛馬の持ち主が有償で売る者があらわれ、勝手に牛馬の“資産”を取引するようになってきた。新政府はこれを「斃牛馬勝手処置令」として全面的に認めてしまったのである。築地には築地牛馬会社もつくられた。
これは弾直樹にとっては由々しい大事件だった。すぐに嘆願書を提出し、兵部省はここでも支援しようとするのだが、やはり太政官と東京府とのあいだに衝突がおこった。しかも今度ばかりは兵部省の言い分にも限界があった。軍需としての皮革の需要は広がっていったほうかいいからだ。
この布告は中世このから差別社会の底辺に貶められてきた一族を想う弾直樹にとっては、もとより喜ばしいことだった。しかし他方、いよいよ弾左衛門13代にわたった権益に終末がやってくることを暗示もしていた。
穢多がなくなるなら、穢多頭もいらなくなる。「囲内」は不要で、「かわた」と皮革の結び付きも成り立ちにくい。弾直樹が準備しつつあった皮革製造会社も、いくつものライバルと競争させられることになった。「近代」とはそういうものだったのだったのだ。富国強兵・殖産興業は13代目弾左衛門を“弾左衛門制度”から解放し、そして同時に“その他多勢の平民”とともに競争社会に投げこんだのである。
塩見鮮一郎は『弾左衛門とその時代』などで、この政策には大久保利通などが計画した「土地の商品化」が大きくかかわっていたとも推理している。従来の見方では、穢多非人の解放は部落解放でなければならず、それは同時に特定地域の解放でもあったのだが、それが新政府のトップによって明治4年というかなり早い段階の決断になったことについては、当然そこに近代国家の確立にとっての「土地の商品化」という有効性があったからだろうというわけだ。
それでも弾直樹はともかくも、延命のために製靴会社をつくった。だからとりあえずは近代経営者の仲間入りをはたしたわけである。けれども滝野川の工場のほうは経営が苦しくなってきた。そこで工場を橋場町に移転して、手代の石垣元七にその運営管理を任せた。いまではそこは東京都人権プラザ(産業労働会館)となって、近代の昔日の面影を曳行している。ごくごく粗末に皮革展示室があって、なんともやりきれない気分になる。
ライバルとして頭角をあらわしてきたのは西村勝三で、フランスの職工レ・マルシャンを雇って靴の生産に乗り出した。弾直樹はしだいに力を失い、橋場町の工場を三越の手代だった北岡文兵衛に渡し、名称こそ「弾北岡組」として残ったが、その実権を失った(その後は東京製品皮株式会社になった)。やがて西南戦争の噂が高まると軍靴の需要が高まり、徴兵制の波及とともに西村勝三の打つ手がびしびしと当たっていく。
そして明治22年(1889)、弾直樹は67歳で病没してしまうのである。“最後の浅草弾左衛門”の最後であった。塩見の小説のエピローグは、この一人の男の死をもって、日本のフラジャイル・ヒストリーを大きく揺動させるものに満ちている。ということは、日本近代の本質を考えるにあたって、このラストシーンは『夜明け前』(196夜)や『大菩薩峠』(688夜)に匹敵するものがあったということだ。ぼくが『フラジャイル』(1995)に弾左衛門をとりあげたときは、ロラン・バルト(714夜)を引いて、こう結んだものだ。「人間の演ずる行為は、容認された差異の関係のシステムを前提にしているものである」。