日本と世界

世界の中の日本

原敬暗殺

2022-08-16 17:53:54 | 日記
Ⅰ 青年時代の挫折 top

 1 岩手県平民・原敬

 江戸時代の終わり、時代が明治へと移り変わる時。薩摩・長州を中心とした新政府軍と戦って敗れた東北地方の諸藩は、朝廷に弓を引いた者として、賊軍の恪印を押された。
 岩手県盛岡市は、戦いに敗れ、賊軍となった南部藩の居城があった土地である。
 原敬は、この南部藩の家老の家に生まれた。
 12歳の時、藩は戦争に敗れて没落。その7年後、原は次のような届けを出した。
  「岩手県平民・原敬」
 原は自ら士族の身分を捨て、平民として生きる決意をしたのである。
――これからは身分や家柄によらず、自分のカで生きていくしかない。
 そう思ったからであった。

 学問で身を立てようと考えた原は、20歳の時、司法省法学校、のちの東大法学部を受験し、104人中、2位という抜群の成績で合格。
――たとえ賊軍の出身であっても、実力では負けないことを証明してみせる。
 そう意気込んで学生生活をはじめた原だったが、思わぬ挫折を経験することになる。
 寄宿舎の待遇改善を求める学生運動の先頭に立った原は、薩摩藩出身の校長と対立。
  「賊軍の小せがれが生意気な真似をする」
 そんなふうに原を見る校長の態度に、原は激しく反発した。
  「国民の誰が朝廷に弓を引いたというのか。勝てば官軍、負ければ賊軍というとおり、汚名を着せられただけではないか」
 やがて処分が決まった。校長の権威に逆らった原は、退学を命じられたのである。

 2 陸奥宗光(むつむねみつ)との出会い

 明治21年(1879)、23歳の時、原は郵便報知新聞に入社。
 猛勉強の甲斐あって得た語学の力を生かし、海外からのニュースの翻訳を任される。語学力を認められた原は、26歳の時、外務省の翻訳係として採用された。
――今度こそ、自分の実力を思うまま発揮できる。
 そう思った原は、期待に胸を膨らませて外務省へ出勤した。
 ところが、そこで原を待っていたのは、またしても薩摩や長州の出身者が幅をきかせる門閥の壁だった。当人の実力ではなく、門閥や縁故で出世が決まる現実の前で、閑職に甘んじる日々がつづいた。

 そんな原に転機が訪れたのは、明治25年(1892)、陸奥宗光が外務大臣となった時であった。
 陸奥は原の実力を認め、通商局長に抜擢した。
 陸奥のもとで原は異例の出世をつづけ、明治28年(1895)39歳で外務次官に就任。外務省の職員採用をこれまでのような縁故によるものではなく、試験によって行うという画期的な制度を導入する。
――コネや縁故に左右されない人事を行わなければ、組織は駄目になってしまう。
 そう考えたからであった。

 このころ、原は私生活でも人生の転機を迎えた。
 新橋の芸者・浅との出会いである。浅は、原と同じく南部藩の士族の娘ながら、明治維新のあと一家が没落。苦難の人生を歩んでいた。
 時代が大きく変わるなかで辛酸を嘗めてきたという同じ境遇を持つ二人は、やがて結婚。浅は生涯にわたって、原の政治家としての活動を支えつづける伴侶となった。
 浅と出会ったころから、原は本格的に政治の世界に関わるようになった。
――門閥や既得権益の壁に阻まれて、多くの国民が恵まれないままでいる。そんな世の中を変えるには、政治を変えるしかない。
 そう思ったからであった。

 明治33年(1900)、原は立憲政友会の旗揚げに参加。
 明治35年(1902)、故郷・盛岡から衆議院議員に立候補し、初当選を果たした。この時46歳。国政の最前線に立って活躍する日々がはじまった。
 妻・浅に原が語った言葉がある。
  「自分は61歳を限りとして、政治家生活を退くつもりである。それ以上政治に携わることがあれば、命はないものとして覚悟しなければならぬ」
 大正7年(1918)、原は60歳を超え、妻への言葉どおり引退を考えはじめていたとも思われるころ、米の値上がりと買い占めに怒った
人々が暴動を起こした。
 この富山県に端を発した、いわゆる米騒動は全国に拡大。やがて、原を首相の座に押し上げる要因となっていったのである。

 3 人生の転機

 今回のゲスト、大正時代の政治史を研究されている名古屋大学教授の川田稔さんにお話をうかがった。

――川田さんは、原敬についての論文や著書を数多くお持ちですが、原敬は青年時代、相当苦労したようですね。
川田 藩が没落し、生家も厳しい状況になり、仕送りがなくなったりもするんですね。
――また、青年時代の原敬を阻んでいた官僚主義の壁、この実態はどのようなものだったのでしょうか。
川田 明治時代になって、原は実力の時代が来ることを期待したのかもしれませんが、実際には江戸時代の身分制社会に代わって、明治維新に官軍として貢献した一部の薩摩・長州出身者が政治や行政の実権を握っていたんです。
 原が入った官僚の世界も同じで、陸奥宗光と出会うまでは、なかなか実力が発揮できず、苦労したようです。一時はいまでいう窓際族に近い状況になりましてね。外務省時代、窓際族にされた原の日記には、一日じゅう、新聞の三面記事を読んで時間をつぶす」という記述があります。
――要するに実力があっても藩閥ということで除外される。そのことが、彼の政治家への方向性になったというふうに考えてよいのでしょうか。
川田 そうですね。やはり原が政党に入ったのは、一部の既得権益を待つ人々だけでなく、国民の誰もが能力を発揮できるような世の中の仕組みをつくりたかった、というのも一つの理由でしょう。

Ⅱ 政党内閣誕生 top

 1 米騒動

 大正6年(1917)、ロシアで起こった社会主義革命。その知らせは世界じゅうを驚愕させた。
 時の首相は長州出身で、もと陸軍大将の寺内正毅(てらうちまさたけ)だった。
 寺内内閣は、革命によるロシアの混乱に際し、大陸での日本勢力圏拡張を目的としてシベリアに軍隊を派遣する。
 野党・政友会の総裁として政治の重鎮となっていた原は、出兵に反対した。
 「国民に徹底的了解を得るまでは、シベリア出兵を延期すべきである」
 無理を承知で強行したシベリア出兵は、やがて国内に深刻な影響をもたらすことになった。

 大正7年(1918)8月、米騒動の勃発である。軍隊への兵糧米(ひょうろうまい)の需要が高まることを見込んだ商社が米を買い占め、米の価格が急騰したのだ。暴動は全国に拡大し、70万人が参加する大騒動になった。
 寺内内閣は、商社から強制的に買い戻した米を放出し、価格を操作して、市場を規制するという手段で騒動を収めようとする。しかし効果は上がらなかった。
 このころ、盛岡に帰省していた原を、政友会の幹部が訪ねた。寺内内閣の崩壊は近いと見た幹部は、政権奪取を訴えた。
  「総裁たるあなたが即座に上京し、政局打開に当たるべし」
 しかし原は動こうとしなかった。
  『原敬日記』にはこう記されている。
  「官僚系の寺内内閣を一掃して政局の一新を来す事を得べしと思う。
去りながらかくのごとき手段は必ずしも国家に利益の事のみにあらずと思うに付、なるべくはその荒療治なくして政局を一新する事を希望す」

――いま政権奪取に動けば、日本の政治に混乱を招くだけだ。
 それが原の考えだった。
 米騒動の収拾に手を焼いた政府は、ついに軍隊を投入して鎮圧をはかった。これに対して、国民に軍隊を向けるとは何事かという非難が集中し、寺内内閣は総辞職に追い込まれることになったのである。

 2 平民宰相・原敬

――後継の首相は、はたして誰が務めるのか。
 衆目は原敬に集まった。
 政治の実権を握っていた薩摩・長州出身の実力者たちも、ことここに至っては、国民の人気が高い原に政権を委ねるしかないと判断する。
 大正7年9月29日。原敬、第19代内閣総理大臣に就任。
 それまで官僚や特権階級の出身者で占められていた日本の首相の座を、はじめて平民出身の政治家が占めることになったのである。
  「平民宰相」
 国民は、原をそう呼んで、親しみを表した。
 国民の期待に応えるべく、原内閣は矢継ぎ早に政策を実行する。
 まず取り組んだのは、米騒動の収拾だった。
 就任から一か月後、原は、既得権を持つ地主たちの反対を押し切り、米の輸入自由化を実施。規制を撤廃して安い外国米を流通させ、市場原理に任せる政策をとったのである。
 やがて米の価格は下落をはじめ、米騒動は収束した。
 原の政策はつづいた。

 12月、原内閣は、シベリアから軍隊を撤退させることを決定。財政再建のため、大幅な軍縮に乗り出す。
――日本が発展するためには、軍事カではなく、経済力を充実させなければならない。
 原はそう考えていたのだった。
 原は、演説のなかでこう訴えた。
 「経済上の競争、即ち経済戦においても、敢えて負けないような計画を、今日より致しておかなければならぬ。

 軍備は、直接国民の負担を重からしむるものなることは、論を待たざるところなれば、出来る限りは、その負担を軽減せんと努むべきは、当然のことである」
(「原敬の演説」より)
 軍縮につづいて、原は教育改革にも着手。
  「有為の人をつくるには、教育」
 大学令を公布し、早稲田や慶應など私立の教育機関にも大学の地位を与える。官僚や学者ばかりでなく、実学を修める人材を育てることも、これからの日本には必要だと考えたからである。
 さらに原は、大規模な鉄道敷設計画を発表。
  「交通機関を十分に発達させるべし」
 日本のどの地域にも交通と商業の発展を促すことを目的としたこの政策によって、不景気に喘いでいた地方経済は活気を取り戻した。
 首相就任2年後の総選挙で、原が総裁を務める政友会は、278人の当選者を出し、単独過半数を達成。
 平民宰相ふ原敬の人気に支えられた地滑り的大勝利だった。

 3 次の時代に備えた教育改革

――首相となった原は、矢継ぎ早に改革を実行しますが、その主眼は、日本を軍事国家ではなく、産業国家にして経済発展をはかることにあったようですね。
川田 当時は世界的にも、軍事力によって植民地を拡大していくという外交が曲がり角にきていました。第一次世界大戦が終わり、本格的な国際経済競争の時代になり、また国際協調の流れが有力になっていたのです。原は、そういう世界の動きに敏感に対応して、これからの日本が進むべき道を軍事力の強化という方向ではなくて、国際協調を重視して経済発展に力を傾けるべきだと考えたのですね。
――米の輸入自由化をはかるなど経済を安定させて、今度は軍縮を提案するわけですが、さらに教育改革という大変大きな改革に着手します。
川田 教育改革についてはあまり注目されていませんが、かなり重要な問題なのです。
 当時は大学といえば帝大であり、私立は一段低いものと思われていました。原はそうした官僚的な体質を改めて、私学の地位を引き上げ、高等教育の充実をはかろうとしたわけです。来るべき経済の時代に備え、実業人を育てようとしたところに特徴があったのです。
――原敬といいますと、いろいろな調整をしたり、会談をしたりということが得意な政治家というイメージがあるのですが。
川田 原はよく「力の政治家」と呼ばれて、駆け引きのうまさや組織のまとめ役としての側面ばかりが強調されてきましたが、実際は来るべき時代の構想を持ち、国際協調と産業立国というはっきりとした理念を持っていたようです。
 それまでの日本は、一部の特権的な人々が政治を動かしているうえ、かなり軍事力を重視していました。しかし原は、議会政治というものを重視し、この議会政治のもとで、経済力でも十分欧米の国々と対等な立場になれる国をめざすことを理想にしていたようですね。

Ⅲ 暗殺者の影 top

 1 脅迫状

 首相就任に際して、原家の人々を写した記念写真がある。この時、原敬62歳。妻・浅47歳。息子・貢16歳。これが遺族の手に残された、唯一の家族の肖像である。
 原の自宅には、首相に就任して記念写真を撮った直後から、不気味な脅迫状が届くようになっていた。

 今回の取材で、暗殺当時の状況を明らかにする資料が、京都・嵐山の原家で新たに発見された。
  『原家日誌』。原家に勤めた執事の記録である。このなかから、原に宛てられた脅迫状の写しが二通見つかった。
  「君の天下は明智光秀、三日天下の第一日目」
 原を明智光秀になぞらえて、その最後が近いことをにおわせる文面である。暗殺の標的を意味する丸印が大きく描かれた脅迫状もあった。

 原の改革に対する最大の障害、それは軍部であった。
 当時、日本の陸海軍は、天皇に直属するものとされ、内閣から独立した存在だった。
 原内閣は、軍部の最高責任者に軍人ではなく政治家を据(す)え、軍隊を内閣の影響下に置くことをめざし、あくまで軍部を内閣から独立した存在にしておこうとする参謀本部と激しく対立した。
 そのころの原の日記にはこう記されている。
  「参謀本部は所謂軍国主義を脱せず。衝突すれば、之を改革するに躊躇すところあるべきや」
 軍部を敵に回しても、あくまで改革を断行しようとする原。
 しかし、その改革の足元を揺るがすスキャンダルが、突然巻き起こった。

 大正10年(1921)1月に発覚した満鉄疑獄事件である。
 政府傘下にある企業が、政友会の代議士の関連会社から、鉱山や船舶を時価よりかなり高い金額で買い取っていたことが明らかになった。
 莫大な利益が、原が総裁を務める政友会の政治資金として使われたと報じられた。
 そのわずか2週間後、追い討ちをかけるようにもう一つ別のスキャンダル、阿片(アヘン)事件が発覚。
 押収した阿片を横流しして利益を得ていたとして、政友会の関係者が3人逮捕され、世論の批判に曝されたのである。
 自分の母体である政党にまつわるスキャンダルの連続に、原は頭を抱えた。
 政友会の腐敗は、原総裁の責任であるとして、反対派は一気に攻勢に出る。
 大正10年2月19日には、原内閣に対する不信任案が提出された。

 2 政治腐敗の構造的要因

――国民の圧倒的人気を得て船出した原内閣ですが、次々とスキャンダルにまみれます。
 この問題にある構造的要因を解説していただけますか。
川田 大きく二つの原因があると思います。
 一つは政治資金の問題。おもに選挙費用ですね。当時、選挙権が拡大しまして、選挙民の数がかなり増えたため、立会演説会の開催やパンフレットの発行など選挙費用が膨大に膨れ上がってきました。したがって政治家は、その費用を工面することにかなり苦労するようになっていたのですね。
 もう一つは、政治と利権の問題です。これは原自身が言っているのですが、政党が政権につくようになると、どうしても利権と接触する機会が多くなってくるのですね。そこから政治腐敗が起こってくるということなのです。これは世界共通の問題だといえると思いますが。
  世界共通だし、時代を問いませんね。
川田 そうですね。ただ、原は公私の区別にも金銭にもかなり潔癖だったようです。たとえば、ある夜、実業家から立派な植木鉢が贈られてきたんですね。帰ってきた原が、実業家から贈られてきたと聞いて、その日のうちに戻させたとか、隣家に実業家が引っ越してきた時も、癒着を疑われてはいけないからと、息子にまで、隣家の子どもと付き合わせなかったくらいです。
 そういうふうに、自分自身や家族にも常々注意していたようですが、彼が率いた政友会から次々と汚職事件が起こるというのは、やはり任命責任や監督責任を問われるところでしょう。

Ⅳ 原敬暗殺 top

 1 しのびよる影

 不信任案が提出された二日後、二人の男が原の自宅を訪ねてきた。
 座敷に上がった男たちは、口々に原内閣の政策を非難した。
 二人は常々、シベリアからの撤退を決めた原の外交方針を弱腰であると痛烈に批判していたのである。
――このままでは家族にも危害がおよぶかもしれない。
 そう案じる原に、妻の浅は毅然として言い放ったという。
  「家のなかのことは一切私がお預かりしています。
  なにも心配はございません。あなたは政治のことだけ、お考えください」
 大正10年2月19日。原内閣への不信任案は否決され、原は当面の危機を脱した。
 しかし原は、スキャンダルによって地に落ちた国民の政治への信頼を取り戻さなければならないと考えていた。
 8月、原は延べ4ヵ月におよぶ全国遊説の旅に出発する。国民に直接語りかけ、信頼を取り戻そうとしたのである。

 2 列車内の危機

 10月9日。政友会甲府大会での遊説を終えた原は、わずかな側近とともに列車で東京へ向かっていた。
 しかしその車中には、車掌に扮した暗殺者が潜んでいたのである。
 犯人は、あらかじめ新聞で遊説の日程を知り、原がこの列車に乗っていることを知っていた。
 車掌の姿を隠れ蓑にした暗殺者は、原の姿を求めて車内を徘徊する。
 その懐には、短剣が忍ばせてあった。原を見つければ、有無を言わさず刺し殺すつもりだったのである。
 ところがこの日、東京行きの列車には客車が増結され、車両の配置がいつもとは異なっていた。
 事前の準備も空しく、男は原を見つけることができず、この日の暗殺を断念した。

 男の名は中岡艮一(こんいち)。当時18歳。彼はシベリアからの撤退を決めた原の外交方針を弱腰と断ずる世論に同調し、相次ぐ汚職の発覚に怒りを燃やしていた。
――原を殺せば民衆は救われる。
 そう信じる中岡は、原の暗殺をあきらめてはいなかったのである。
 そんなある日、中岡は、原がふたたび遊説の旅に出かけることを知った。
――今度こそ原を暗殺する。狙う場所は確実に原を捕捉できる駅がいい。
 中岡はそう考えた。

 3 運命の日

 大正10年11月4日。
 この日、原は官邸で中国人記者と会談。弱腰外交と呼ばれた対外協調路線についての質問を受け、原は次のように応えた。
  「20世紀の今日、領土的征服などはまことに時代遅れのお粗末な政策です。
  我々が求めるべきものは通商です。通商こそ、なににもまして重要なものです。
  自分がいまこの瞬間に職を去ろうとも、この政策は変わらないでしょう」
 これが内閣総理大臣としての原にとって、最後の公式発言となったのである。

 夕方、原は旅行の支度を整えるため、官邸から自宅へ戻った。
 いざ出発という時、妻の浅は原に厚手の外套を着せ掛けようとする。
 ところが原は、それを断った。人に会うたび、脱いだり着たりするのが面倒だというのである。
 結局、原は背広だけで出発。
 この時、外套を着なかったことが、のちになって原に悲劇をもたらすこととなった。

 午後6時、東京駅。改札口に中岡艮一が姿を現した。
 今度は書生姿で雑踏のなかに身を隠して原の到着を待つ。
 午後7時20分、原は東京駅に到着。側近とともに駅長室へ入った。
 その5分後、午後7時25分。駅長室のドアが開き、駅長に先導された原が中岡の前に姿を現した。
 この時、護衛の注意は駅構内の雑踏に向けられていて、暗殺者の存在に気づいてはいなかった。
 一瞬の出来事だった。
 物陰から走り出た暗殺者の短刀は、原の胸を直撃。短刀は薄手のシャツを貰き、肺から心臓にまで達した。
――あの時、厚手の外套を着て出かけていれば、致命傷にはならなかったかもしれない。
 関係者は、のちのちまでもそれを悔やんだという。
 大正10年11月4日午後7時35分。第19代内閣総理大臣・原敬、絶命。享年66。

 4 気丈(きじょう)に振る舞った妻・浅

 急を聞いて現場に駆けつけてきた原の妻・浅を迎えたのは、報道陣のフラッシュだった。
 大勢の群衆に取り囲まれたなかで、浅は気丈に振る舞った。
 浅は涙一つ見せず、夫の乱れた衣服を整えたという。
 原の側近たちが、遺体を官邸に運ぼうとした時、浅は静かに目を開いた。
  「生きていてこその総理大臣。亡くなれば、もはや官邸には用のない人ですから、宅(私邸) へ送り届けたいと思います」
 その夜、自宅に戻り原の亡骸とふたりきりになった浅は、はじめて遺体に取りすがり、泣き伏した。
 61歳を過ぎてなお政治の場に身を置けば、命はないものと思ってくれと言ったその言葉どおり、原は非業の死を遂げてのち、やっと友・浅のもとに戻ったのである。

――平民宰相、暗殺さる。
 その知らせは国民に大きな衝撃を与えた。
 原という強力な指導者を失った政友会はやがて分裂。以後、他の政党との離合集散を繰り返し、力を失っていった。
 原の死から10年後の昭和6年(1931)、満州事変が勃発。
 さらにその2年後、日本は国際連盟脱退を通告。
 日本は原がめざした国際協調路線と逆の方向へ突き進んでいくことになる。
 軍事大国よりも経済発展による産業立国をめざした原の構想は、その暗殺とともに夢と消えたのである。

 5 我々の時代の課題

――この大正10年11月4日、今回の「その時」である原敬暗殺の瞬間をどうご覧になりますか。
川田 原は、一部の特権的な人々による政治から、議会を基盤とした政治への変革をめざそうとしたわけですね。
 それから軍事力に頼らず、国際協調路線のもとで新しい経済立国・産業立国の進を追求しようということで、軍縮を推進しました。しかし、そうした原の改革は、既得権を侵された反対勢力の人たちにとっては、非常な脅威に映ったため、強く反発したわけです。

 結局原は殺されてしまうのですが、原の暗殺は、大正デモクラシーという時代の日本がめざした民主政治、それから国際的な平和協調や経済を充実する産業立国などの夢すべてに大きな打撃を与えた出来事であったと言えますね。
――どのように歴史を動かしたかということについてはいかがでしょう。
川田 原は政党政治を追求して、軍部を政治家や国民のコントロールの下に置こうと努力しました。
 国際的な平和協調のもとに日本を進んでいかせようとしましたし、またそれを成し遂げるだけの強力なりーダーシップも持っていました。
 もし、原が暗殺されなければ、その後の日本の歩みも変わっていた可能性はかなり大きいと思います。
 その後敗戦を経て、原の考えた政党内閣や、平和を基礎にした産業立国というものが戦後日本で実現されるわけです。
 そういう意味では、私たちは、原の追求した路線の上を歩んでいるといえるかもしれません。
 ですが、いくつか重要な問題は残りました。
 たとえば、原の時代にも噴出した汚職や政治腐敗という、一面で政党政治の問題、いわば民主政治の弱点ともいえるこれらの問題が、いまだ克服されていないのですね。
 それから国際社会の安定化の問題。これらは我々の時代の我々自身の課題、つまり我々の手に解決策が委ねられているといえるのではないでしょうか。

 6 原の政治理念

 暗殺から一週間後の11月11日、原敬の葬儀は、遺言に従って故郷・盛岡で行われた。
 かつては賊軍の汚名を着せられた南部の地。そこから出発して一国の首相となり、国政の舵を担った原敬。
 いまは物言わぬ身となって故郷に戻ったその亡骸を、盛岡の人々は雨のなかで出迎えた。
 暗殺ののちに原の遺書が公開された。その冒頭には、次のような言葉が記されている。
  「死去の際、位階勲等(いかいくんとう)の陛叙(しょうじょ)は余の絶対好まざるところなれば、死去せば即刻発表すべし」
  (爵位や勲章は自分の好むものではないから、たとえ死んでも叙勲(じょくん)など行わないで、すぐ荼毘(だび)に付してほしい)
――最後まで、平民・原敬として人生を全うする。
 それが原の望みだった。

 原の愛した言葉がある。
  「宝積(ほうじゃく)」
 人に尽くして報酬を求めないという意味である。
 原が残した遺産は、借地に建てられた小さな家とわずかな貯金だけであった。
 原の故郷、岩手県盛岡市。その市内に、原家の菩提寺・大慈寺がある。
原の墓に記されたのは、ただ「原敬」の二文字のみ。

 あくまで平民宰相として飾らぬ立場を貫いた原は、首相就任の時、次のような言葉を残している。
  「いずれの国においても、国民多数の世論によって政治の動いているということは明らかなり。
  国民一致の力でなければ、到底国家の進運ははかることはできぬ。
  政党内閣、祝すべしといえども、国民の意思を基礎として、国政を料理するにあらざれば不可なり」
 政治にあって、なによりも大切なのは、国民の意思を尊重することである。
 大正デモクラシーの旗手として改革に身を捧げた原敬。
 その原が肝に銘じていた政治理念である。

韓国企業の57%「韓日関係改善・経済協力必要」

2022-08-16 17:39:23 | 日記

韓国企業の57%「韓日関係改善・経済協力必要」


【ソウル聯合ニュース】

韓国企業の半数以上が韓日関係の改善と経済協力の模索を望んでいることが16日、経営者団体の韓国経営者総協会が発表したアンケート結果で分かった。

© 聯合ニュース

 提供韓国経営者総協会が従業員30人以上の企業207社を対象に実施したアンケートで、57%が韓日の対立を解消し、経済協力を模索する必要があると答えた(韓国経営者総協会提供)=(聯合ニュース)≪転載・転用禁止≫

アンケートは「韓日関係、経済協力の展望と課題」をテーマに、先月27日から今月2日まで全国の従業員30人以上の企業207社を対象に実施された。

韓日の対立を解消し、経済協力を模索する必要があるかとの質問に対し「そう思う」との回答が57.0%で最も多かった。

「そう思わない」は6.8%、「普通だ(どちらでもない)」は36.2%だった。

両国間の経済協力が必要な分野(複数回答)として、東アジア地域包括的経済連携(RCEP)やインド太平洋経済枠組み(IPEF)など大規模な多国間貿易協定を挙げた企業が53.4%で最も多かった。次いで「新産業および先端技術交流」が35.8%、「グローバル供給網(サプライチェーン)問題への対応」が23.3%、「国外の経済危機への備え」が22.3%などだった。

また、37.7%は「両国関係が改善されれば、企業の投資と雇用の拡大に役立つ可能性がある」と答えた。

両国関係の悪化による企業にとってのネック(複数回答)は、

「売り上げ減少」(14.5%)、

「素材・部品・装備(装置や設備)需給の支障」(13.5%)、

「人の往来の難しさ」(11.6%)、「

輸出入通関の遅延など物流の支障」(9.2%)、

「ブランドおよび企業イメージの悪化」(4.8%)、

「経営および投資環境の予測可能性の低下」(4.3%)などが挙がった。

両国関係の改善に向けた政策課題(複数回答)としては

「日本の対韓輸出規制の早期解除など貿易紛争の解決」(35.9%)、

「多国間貿易協定参加を通じた貿易活性化」(32.5%)、

「政府間対話と意思疎通の強化」(31.1%)などの順だった。

同協会の関係者は「韓日関係の悪化で売り上げ減少や通関遅延など企業活動にさまざまな困難があったが、5月の尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の就任式に日本代表団が出席し、両国関係改善に対する企業の期待が大きい」との見方を示した。

hjc@yna.co.kr






Record Chinaとは

2022-08-16 17:32:24 | 日記

Record China


レコードチャイナ

説明


Record Chinaは、中国関連の時事を日本語で、日本国内向けに報道するニュース・アグリゲーター。通称「レコチャ」。 

ウィキペディア

設立: 2005年8月5日
代表者: 任 書剣
本社所在地: 日本; 〒105-0004; 東京都港区新橋二丁目20番15号新橋駅前ビル1号館
資本金: 8000万円 (2020年3月現在)



韓国景気は予想外の底堅さも、先行きには悪材料が山積

2022-08-16 17:20:14 | 日記
韓国景気は予想外の底堅さも、先行きには悪材料が山積

~家計消費の拡大は一時的、物価高と金利高の共存は家計、企業のマインドの足かせとなる懸念~

西濵 徹

  • 世界経済は拡大が続く一方、ウクライナ問題を受けた供給懸念は商品高を招くなか、主要国中銀のタカ派傾斜も重なり国際金融市場を取り巻く状況は変化している。
  • 経済のファンダメンタルズの脆弱な新興国は資金流出に晒されやすく、韓国は経済、政治を巡る不透明感を受けて資金流出に直面する。中銀は断続的な利上げを実施しており、足下では物価高と金利高の共存が景気に冷や水を浴びせる懸念が高まっている。
  • 年明け直後の韓国では感染再拡大が景気の重石となったが、3月半ばを境に感染動向は一巡するなどペントアップ・ディマンドが発現した結果、4-6月の実質GDP成長率は前期比年率+2.94%と底打ちしている。ただし、外需の低迷や金利高は企業部門の設備投資の足かせとなっているほか、在庫の積み上がりが成長率の押し上げ要因となる動きもみられる。足下では家計、企業ともにマインドが悪化しており、物価高と金利高の共存を嫌気する動きもみられ、景気は一旦底打ちするも先行きについては不透明感がくすぶっている。
  • 当面の景気は中国景気の底打ち期待が外需の追い風となり得る一方、物価と為替の安定に向けた金融引き締めの影響は避けられない。他方、為替安定に向けた介入により外貨準備高は減少するなど体力は低下しており、不動産市況や家計債務の動向を含めて金融市場の行方にこれまで以上に注意が必要と言える。
足下の世界経済を巡っては、中国当局による『ゼロ・コロナ』戦略への拘泥が中国経済への依存度が高い国々の足かせとなる動きが続く一方、欧米など主要国を中心にコロナ禍からの回復が続くなかで全体的には緩やかな拡大の動きを維持している。

他方、ウクライナ問題を受けた欧米などの対ロ制裁強化による供給不安も重なり、足下では原油をはじめとするエネルギー資源のみならず、穀物など幅広く商品市況は上振れしており、世界的にインフレ圧力が強まる動きがみられる。

こうした事態を受けて、米FRB(連邦準備制度理事会)など主要国中銀はタカ派傾斜を強めており、国際金融市場においてはコロナ禍対応を目的とする全世界的な金融緩和を追い風とする『カネ余り』の手仕舞いが進んでいる。

こうした金融市場を取り巻く環境の変化は世界的なマネーフローに影響を与えるとともに、経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の脆弱な新興国を中心に資金流出を招く傾向がある。

韓国については、1990年代末に発生したアジア通貨危機の影響が直撃したものの、その後はIMF(国際通貨基金)が主導した経済改革を追い風にここ数年の経常収支は黒字基調で推移するなど、当時とは状況が大きく異なる。

他方、足下では最大の輸出相手である中国経済の減速懸念が外需の足かせになるとともに、北朝鮮を巡る地政学リスクもくすぶる上、5月に発足した尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は早くも支持率が急落するなど、経済、政治の両面で不透明要因が山積している。

そして、一昨年来のコロナ禍対応を理由に同国政府は財政出動による景気下支えに動くなど財政状況も悪化するなか、商品高による貿易収支の悪化を受けて経常収支の黒字幅は縮小している。

また、足下のインフレ率は23年半ぶりの水準に加速するなど大きく上振れしており、経済のファンダメンタルズは悪化している。

こうした悪材料の重なりも影響して国際金融市場においては資金流出圧力が強まっており、足下の通貨ウォン相場は調整の動きを強めて世界金融危機直後以来となる水準に低下するなど、輸入物価を通じてさらなるインフレの昂進を招くことが懸念される。

なお、中銀はコロナ禍対応を目的とする金融緩和によるカネ余りの背後で首都ソウルを中心とする不動産市況の高騰とともに、家計部門の債務膨張を招くなど金融セクターを巡るリスクが高まっていることに対応して、昨年8月に2年9ヶ月ぶりの利上げに動くとともに、その後も断続的に利上げを決定するなど金融引き締めの動きを強めてきた。

さらに、上述のようにインフレが一段と昂進していることを受けて、中銀は今月の定例会合において利上げ幅を50bpに拡大させるなど引き締め度合いを強めているものの(注1)、

国際金融市場においては米FRBのタカ派傾斜を理由に米ドル高圧力が強まるなかで『タカ派度合い』の差がウォン相場の重石となる展開が続いている。

中銀はコロナ禍以降だけで計6回、累計175bpもの利上げを実施しているものの、足下の同国は物価高に見舞われるなかで為替動向も不安定な状況が続いており、物価高と金利高の共存が景気に冷や水を浴びせる懸念が高まっている。

なお、年明け直後の韓国においては、感染力の強いオミクロン株による新型コロナウイルスの感染再拡大の動きが広がるとともに、過去の波を大きく上回るペースで感染が急拡大したことから人の移動に下押し圧力が掛かるなど家計消費が鈍化する動きがみられた。

さらに、中国景気の失速懸念が外需の足かせとなるなか、昨年後半以降の中銀による断続的な利上げ実施による金利負担の増大も重なり企業部門の設備投資意欲も後退するなど、内・外需双方に景気の足を引っ張る材料が山積する事態に直面した。

しかし、韓国国内における新規陽性者数は3月中旬を境に頭打ちに転じるとともに、下振れした人の移動も4月以降は底入れの動きを強めるなど家計部門を取り巻く状況は改善している。

さらに、中国当局はゼロ・コロナ戦略に拘泥する姿勢を変えていないものの、先月以降は最大都市の上海を対象とする都市封鎖(ロックダウン)は解除されるなど経済活動の正常化が進められるなど、外需を取り巻く状況も当面の最悪期を過ぎている。

こうした動きを反映して、4-6月の実質GDP成長率は前期比年率+2.94%と前期(同+2.56%)から伸びが加速するなど、頭打ちの様相を強めてきた景気に底打ちしている様子がうかがえる。

内訳をみると、感染拡大の一服を受けた人の移動の底入れの動きを反映したペントアップ・ディマンド(繰り越し需要)の発現により家計消費が押し上げられる一方、

企業部門の設備投資意欲は弱含む推移が続いているほか、金利上昇の動きを反映して家計部門を中心とする住宅需要も下振れするなど、固定資本投資は鈍化している

他方、中国経済の減速やサプライチェーンの混乱を反映して輸出は大きく下振れしている一方、家計消費の堅調な動きにも拘らず、企業部門の設備投資意欲の弱さや住宅投資の低迷は輸入の足かせとなる動きもみられる。また、在庫投資の成長率寄与度はプラス幅が拡大するなど、在庫の積み上がりが成長率の押し上げ要因となる動きも確認されており、先行きについては在庫調整圧力が生産活動の足かせとなることが懸念される。足下では製造業を中心とする企業マインドに下押し圧力が掛かる動きがみられる上、家計部門のマインドも急速に下振れしており、月次レベルでは景気を取り巻く状況が悪化しつつある様子がうかがえる。


当面の景気については、中国景気の回復期待が外需を押し上げることが期待される一方、企業マインドの悪化を反映して若年層を中心に雇用を取り巻く状況は厳しさを増しているなか、物価高と金利高の共存が家計消費の足かせとなることは避けられない。さらに、国際金融市場においては米FRBのタカ派傾斜を理由とする米ドル高がウォン相場の重石となる展開が続くと見込まれるなか、中銀は金融引き締めに加えて為替介入を通じてウォン相場の安定化を図る動きをみせている模様であり、その背後で昨年後半以降の外貨準備高は減少している。足下における外貨準備高の水準はIMFによる国際金融市場の動揺に対する耐性を示す適正水準評価(ARA)を巡って、適正水準をクリアするも下限近傍に低下するなど体力は着実に低下している。今後は中銀によるタカ派傾斜を受けて主要国がリセッション(景気後退)に陥ることが懸念されるなど、世界経済の下振れが意識されやすくなるなか、同国が危機的状況に陥るリスクは依然低いとみられるものの、一段と体力が低下すればそうした影響に晒されやすくなる可能性は高まる。不動産市況やその背後にある家計部門の過剰債務など、金融市場の動揺が強まることによる影響を注視する必要性はこれまで以上に高まっている。


韓国経済、中国の台頭により先進国脱落の危機?=韓国ネット「脱中国を急ぐべき」

2022-08-16 17:10:20 | 日記
韓国経済、中国の台頭により先進国脱落の危機?=韓国ネット「脱中国を急ぐべき」

8月3日(水)16時0分 Record China


2日、韓国・ソウル経済は「中国という『巨人』の背中に乗ることで先進国の入り口に立つことのできた韓国経済が、中国の台頭により脱落する懸念が拡大している」と伝えた。

2022年8月2日、韓国・ソウル経済は「中国という『巨人』の背中に乗ることで先進国の入り口に立つことのできた韓国経済が、中国の台頭により脱落する懸念が拡大している」と伝えた。

韓国の産業通商資源部によると、先月の貿易収支は46億6900万ドル(約6238億円)の赤字を記録した。

4カ月連続の貿易赤字で、08年の世界金融危機以来、14年ぶりだという。今年の累積貿易赤字は150億ドルに迫る。

貿易赤字拡大の一番の原因は石油などエネルギー源価格の急騰だが、中国の都市封鎖(ロックダウン)などの影響による輸出減で対中貿易赤字が続いていることも一因になったと、記事は指摘している。

韓国は今年5月、約28年ぶりに対中貿易収支で赤字を記録。

その後、32年ぶりの3カ月連続貿易赤字も記録した。この3カ月間の対中累積貿易赤字は28億7000万ドルに達するという。

先月の輸出は21カ月連続の増加勢で善戦したと評価されているが、記事によると「至る所で赤信号が感知されている」という。

韓国の輸出を支える半導体は、輸出増加率(2.1%)が20年6月(マイナス0.03%)以来の低水準を記録した。

対中輸出増加率も2カ月連続でマイナスを記録した。

記事は「エネルギー源価格が安定しなければ、08年以来、約14年ぶりとなる年間ベースの貿易赤字は避けられない状況だ」としている。

政府が1日に発表した7月の輸出入動向も芳しくない内容が多く、このうち専門家が最も懸念する指標は「対中貿易赤字」だという。

貿易赤字拡大の要因であるエネルギー源価格の急騰はグローバル需給不安が解消できればある程度の解決が見込まれるが、対中貿易赤字は、10年以上続く「中国技術崛起(くっき)」政策の結果に近いためだとしている。

先月の対中貿易で、輸出減少幅が最も大きかったのはディスプレーだった。

市場調査のオムディアなどによると、中国は昨年、世界のディスプレー市場で(売上高ベース)シェア41.5%を記録し、初めて韓国(33.2%)を抜いて首位に立っている。

記事は「数年後には韓国の対中主力輸出品目からディスプレーが消えるかもしれない」と危機感を示している。

対中石油化学輸出もまた前年同期より大きく減少しているという。

半導体輸出額は前年同期比10.9%増加を記録したが、「安心はできない状況だ」としている。中国は半導体を自国内で調達できるようになっており、メモリ半導体輸入額が年々減っているという。

さらに、中国の成長率下落で、対中輸出規模がますます減るのではとの見方も出ているという。

この記事に、韓国のネットユーザーからは

「中国のおかげで先進国になっただと?国民の努力を無視するのか」

「中国は韓国の技術を盗んでここまで成長したんだ」

「朝鮮戦争の時に韓国を侵攻した中国のおかげだと?」

「韓国技術の奪取が中国の経済成長に大きく作用したんだよ。脱中国を急ぐべきだ。長期的にも中国の経済成長は韓国の発展に悪材料でしかない」

「中国は韓国を利用してここまで来た」

「技術を海外に流出させる産業スパイ、中国の犯罪者は入国禁止にして、中国人は韓国内の不動産を購入できないようにしてほしい。法を強化しよう」

など、反発の声が殺到している。(翻訳・編集/麻江)