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弾左衛門は江戸時代13代つづいた?

2022-08-14 18:38:25 | 日記
弾左衛門は江戸時代13代つづいた?
       
 実は現在では、系譜上初代弾左衛門とされる集房(「シュウボウ」。

「ちかふさ」と読んだと推測されます)が後から創作された架空の存在であることが分かっています。

なぜ架空の初代弾左衛門が創作されたのか?

 弾左衛門研究者である松岡満雄(まつおかまんゆう)さんの研究によればつぎのような理由が考えられます。

5代目の集久(「シュウキュウ」「ちかひさ」?)と6代目の集村(「シュウソン」「ちかむら」?)との間に、吉次郎(きちじろう)という人物がいた。

集久の子で集村の父だが、彼が町奉行に「お目見え」する前に亡くなってしまった。

歴代弾左衛門は相続にあたって、町奉行所におもむきそこで幕府から承認されて長吏頭となる儀式、「お目見え」を必ずおこなっていたのである。

吉次郎はそれをする前になくなってしまった。

したがって幕府からは正式な弾左衛門とは認められない。

しかし、弾左衛門家やその支配下の長吏たちの間では、彼は既に「御頭」と認識されていた。

こうして、吉次郎を歴代に数えるかどうかで幕府側と長吏側とで差が生じた。弾左衛門の代数が、幕府側の認識の方が長吏側の認識より一つ少なくなってしまうのである。
この齟齬を調整するため、実際の初代弾左衛門である集開(「シュウカイ」法名、実名は集房「シュウボウ」「ちかふさ?」)の人格を二つにわけ、生没年不詳の初代集房を創作してわざわざ代数あわせをした。

現に、長吏側の記録では初代は集開と記録されている。(参考文献―松岡満雄「浅草弾左衛門の系譜」『解放研究』10号所収)

 さて、ということになると正確には12代、あるいは若くして亡くなった吉次郎を代数に数え、初代を集開(集房)としたうえで、13代とするのが正確ということになるかもしれません。

優秀な若者を養子にし、弾左衛門をつがせた

 それから、13代とは言うものの、実際に血縁の上で集開(集房)とつながりがあるのは10代集和(「シュウワ」「ちかまさ」?)までです。

彼の代で元々の弾左衛門家の「血脈」は絶えます。

しかし、幕府にとっても東日本の長吏たちにとっても、弾左衛門は欠くことのできない存在でした。

 そこで弾左衛門家の手代(家老です)や有力な長吏小頭たちは、全国各地から弾左衛門家と関係のある若者を捜し出し、先代の養子として跡を継がせていったのです。

こうして選ばれた若者たちは、必ずしも弾左衛門支配地域の出身ではありませんでした。

また、弾左衛門家と遠縁の関係にあたる者がほとんどですが、それでも選定にあたって必ず「個人として優れた人物」という条件がつけられました。

 弾左衛門は、東日本全域の被差別民衆の専制的支配者であるとともに、時には自分たちの利害を代表して幕府と駆け引きをする必要もあった被差別民衆の代表者でした。

優れた政治力を発揮できる人物でなくては、とても務まりませんでした。
 

江戸の被差別民衆と弾左衛門

2022-08-14 18:21:08 | 日記
江戸の被差別民衆と弾左衛門

      
 現在、被差別部落民(「部落民」)と呼ばれている私たちの先祖は、少なくとも中世にさかのぼるさまざまな被差別民衆だったと考えられています。
 江戸時代、浅草に幕府の下にあって東日本全域の被差別民衆を支配した「弾左衛門」(だんざえもん)という人がいました。江戸の被差別民衆は、この弾左衛門の直接・間接の支配下にあって、被差別民衆の仕事とされるさまざまな仕事に従事し生活していました。この江戸の被差別民衆が、私たち東京の部落民の祖先です。
        

 2-1 弾左衛門とは? 

         
 弾左衛門(だんざえもん)は、江戸時代13代続いた全関東の被差別民衆の支配者です。幕府側の正式呼称は「穢多頭弾左衛門」、自らは「長吏(頭)弾左衛門」と称しました。世襲制で身分は長吏(穢多身分)に属し、江戸町奉行の支配をうけていました。
 弾左衛門の支配下にあった被差別民は、長吏(ちょうり)、非人(ひにん)、猿飼(さるかい)、乞胸(ごうむね)などです。また歌舞伎を江戸中期まで興行面で支配しました。皮革・灯心・筬(おさ)等各種の専売権や全関東の被差別民衆への支配権を背景に、歴代弾左衛門は、旗本なみの屋敷に住み、上級旗本の格式で生活し、その財力は大名をしのいだと言われています。
 弾左衛門とその配下にある長吏たちは、江戸市中の警備・警察、刑場と刑の執行管理をつとめていました。こうした役は中世以来長吏たちの仕事だったのです。また弾左衛門は、巨大な財力を背景に金融業を営み、市中に手広く貸し付けていました。町民たちはこの金を「穢多金」などど呼んで蔑視していましたが、しかし借りに来る町民は後を絶ちませんでした。
 巨大な権力と財力にもかかわらず、弾左衛門の身分は賤民であり、武士はもちろん江戸の町人からも差別される対象でした。歌舞伎や古典落語、あるいは各種の記録には弾左衛門とその配下に対する江戸庶民の強い差別感情が記されています。一方、歴代の弾左衛門は、被差別民の専制的支配者であると同時に代表者としても行動しています。被差別民の利益確保のために幕府に対して様々な訴えをおこないました。特に最後の弾左衛門となった13代集保(ちかやす?)は、幕末・明治維新の動乱期に、自分と配下の被差別民の身分引き上げをもとめて強力な活動を展開しています。
 弾左衛門家の家伝によれば、弾左衛門の歴史は次のようになっています。
 ― 平安後期から鎌倉初期に摂津国から鎌倉に移り住み、鎌倉幕府を起こした源頼朝によって被差別民の支配権を与えられた。その後江戸に移り住み、江戸近在の被差別民を支配するようになる。やがて戦国末期、徳川氏康が江戸に入府したとき(1590年)これを出迎え、鎌倉以来の家の由緒を述べた。そして徳川氏から全関東の被差別民支配の特権を与えられた。実はこのとき、後北条氏のもとでそれまで関東の被差別民の筆頭の地位にあった小田原の太郎左衛門が「後北条氏発行の証文」を差し出して支配権の正当性を訴えたが、徳川氏はこれを許さなかった。そして太郎左衛門の「証文」を取り上げて弾左衛門に与えてしまった ―
 この家伝のうち、徳川家康の江戸入府以降の話は事実、それ以前の話は、弾左衛門の被差別民支配権を正当化するための作為と考えられています。おそらくこうした作為は幕府にとっても都合がよかったので、積極的に「許容」されたということでしょう。
 徳川氏の江戸入府以前の弾左衛門の地位ですが、江戸近辺に定住する中世以来の地域の被差別民の頭、後の長吏小頭(ちょうりこがしら)的存在であったと考えられます。また、まだその頃には「弾左衛門」と名乗っていなかった可能性も強いと言われています。
 いずれにせよ弾左衛門の支配体制は、あるとき突然確立したものではりません。それは江戸幕府と強く結びつくことによって、近世中期(享保期)になってようやく確立したものでした。(詳しくはコラムを参照してください)