内容を紹介する前に世間で流布していた情報を書いておく。いったい田中清玄とは何者かということだ。本書が刊行されるまでは、こんなふうに憶測されていた。
ともかく政界の黒幕で、歴代の首相や要人とつねに太いパイプをもっていたようだ。石油利権屋でフィクサーで、怪物とか右翼の大物などと呼ばれてきた。山口組の田岡一雄が一目おいていて、児玉誉士夫には恨まれて狙撃された。そういう人物らしいのに、80年代になっても鄧小平と会っている。いや、天皇の訪中は田中清玄が言い出した‥‥等々云々。こんな謎のような情報に包まれていた。
真偽はともかく、もしこのうちのいくつかが本当だとしてもとんでもない人物だということになるが、本書を読むかぎり、ほとんどすべてが事実であるようだ。いや右翼の大物は当たっていないかもしれない。だいたいはやくから政治家たちの靖国参拝は大反対していたし、児玉誉士夫や赤尾敏をイカサマと断じ、自殺した野村秋介は小者だと吐き捨てていた。
しかし、これだけでは何者かはわかるまい。ぼくも本書を読むまではその活動の大半を知らなかった。意外きわまりない昭和史も見えてくるだろうから、いささか長くなるかもしれないが、こういう男がいた、こういう歴史もあったということを知っておいてほしいので、以下は本書の内容のコンデンセーションのための労をとることにする。
田中土佐は松平容保が藩主として京都に赴いたときに従って、京都警備のための市中見廻り組をつくった。これが新選組の母体となった。そこへ長州と公家による蛤御門(禁門)の変がおこり、会津と長州の対立が始まったのだが、藩主はそのとき孝明天皇から宸筆と御歌をもらった。会津の者にはこのことが長らく名誉となった。
孝明天皇のあとの16歳の明治天皇をとりまいたのは、薩摩と長州と公家ばかりである。生まれたての新政権は江戸を攻めようとしたが、会津藩の田中土佐や西郷頼母は挑発に乗らずに控えていたにもかかわらず、戊辰戦争の追撃は結局は会津にまで及んで、官軍の前に次々に自決していった。むろん残った者もいた。函館五稜郭の戦いののちに北海道開拓使長官となった黒田清隆が、そうした合図の残党を不憫におもって函館に取り立てた。〔私がいま自分の一生を振り返って思うのは、自分が会津藩の筆頭家老の家柄に生まれたという自覚があったことで、いいかげんな連中と妥協をしなくてすんだということなんです〕。
明治39年(1906)に田中清玄がそこで生まれた。先祖同様に清玄は「きよはる」と読むのが正しいらしいが、周囲のすべてが「セーゲン」と呼んだ。〔かつて文芸春秋の池島信平君がロンドンで司馬遼太郎を紹介してくれたとき、司馬君は「田中さん、私はあなたの先祖の田中土佐よりも、田中清玄その人に興味をもつ」と、こう言うんだよな。私に言わせれば彼は薩長代表のようなもんだからね〕。
田中清玄は会津の血をひいていることをつねに誇りとして生きてきたようだ。清玄は小さいときから剣道や合気道をやっていて、体は大きくはないが武道派だった。家は裕福なほうだったようである。
ついで弘前高校に進んだ。スキーや野球や三段跳びに夢中になっていたが、スキーで怪我をして北大病院に送りこまれた。この病院で『共産党宣言』を読んだ。高校の下級生に作家の石上玄一郎、太宰治、のちに毎日新聞の社長になった平岡敏男がいた。〔太宰は東京の作家だけがもてはやすだけで、作家としては石上の方がはるかに上だ。太宰はセンチメンタリズムだけで性格破綻者みたいなものじゃないか〕。
大正14年に小樽高商軍教事件がおこった。小樽高商の軍事教練を廃止するかしないかという騒動で、田中は弘前でも廃止せよというビラをまいた。これが最初の左翼っぽい活動だった。このあと東北学連ができて、仙台の東北帝大の島木健作・玉城肇・鈴木安蔵を中心に、そこに水戸高の宇都宮徳馬・水田三喜男、二高から島野武・高野信、山形高から亀井勝一郎・小林多喜二らが駆けつけた。
田中清玄は島野と仲良くなり、無党派ながら活動に励みはじめた。そのころの縁で、宇都宮徳馬にはいろいろ世話になっている。宇都宮はのちにミノファーゲン製薬をおこして衆議院議員10期、参議院議員2期をつとめた。〔宇都宮は事業的にも思想的にも天才で、ずいぶん厄介になったねえ。親父は宇都宮太郎という陸軍大将で、親父の副官がしょっちゅう来ているから情報が入るんだ。日中友好協会なんかは彼のお陰ですよ〕。
その後、津軽の車力村という農村で車力農民組合を淡谷悠蔵や大沢久明らと一緒につくった。淡谷は淡谷のり子の叔父さんだった。
翌年、ソ連のコミンテルンから27年テーゼが発表されて、これが共産党の再建方針になった。福本イズムをどう洗い流していくかということである。この前後に田中は亀井勝一郎とともに東大の美学に入った。同時に東大新人会に入った。新人会は吉野作造の指導のもとに麻生久・宮崎龍介らがつくった思想運動体で、そこに大宅壮一がいた。大宅は桁外れにスケールの大きな男だった。平凡社の下中弥三郎から前金をもらって『アラビアン・ナイト』の翻訳を引き受けていた。清玄は大宅にも世話になったので、のちに大宅文庫設立のときに拠出金を出した。
東大に入ってまもなく田中清玄は共産党に入党していた。昭和2年である。コードネーム、すなわちパルタイナーメ(党員名)は山岡鉄夫。山岡鉄舟に肖(あやか)った。一方では空手部に入って、突きと蹴りで武闘を鍛えた。実力はわからないが、その後、名誉8段をもらっている。
そこへ3・15事件、4・16事件が連打されて党員やシンパが大量検挙された。党は壊滅的になり、佐野博と田中清玄が再建ビューローをつくり、これを全国規模にするための画策に乗り出した。
昭和5年、和歌山の二里ケ浜で日本共産党再建大会がひらかれた。これをきかけに、コミンテルンの国際連絡機関のオムスのルートをつかって、人員・資金・情報収集を始めた。オムスはそのころの共産党の秘密活動の謎をとくにはキーになっていたルートである。田中自身も上海に入り、コミンテルン極東部長のカール・ヤンソンの協力を仰いだりした。野坂参三をモスクワに送り、事態を改善させようともした。が、野坂はウラジオストックで検挙されてしまった。
ところがこのとき野坂は自分の保身のために、野坂の嫌疑を晴らすべくモスクワからウラジオストックに飛んできた山本懸蔵をスターリン一派に売ったようだった。〔問題はそれなんだよ。野坂はそういう人間だ。共産党ってそんなもんだ。共産主義者になったから人格が向上するなんて、そんなことはありえない。もっと悪くなりやがる〕。
すでに母親は「おまえが家門を傷つけたら、おまえを改心させるために私は腹を切る」とちゃんと申しわたしてあったらしい。
まさかとタカをくくっていたのだが、母親は本気で腹を切って死んだ。偉丈夫な母だった。遺書に「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して自分はは責任がある。また早く死んだおまえの父親に対しても責任がある。自分は死をもって諌める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」。わが子のための諌死であった。
いったい自分は何をしてきたかと煩悶した。何かが割り切れないのに、ここまで突っ走ったのだ。その割り切れなさをとことん追求していくと、モスクワから指令されてくる共産主義が体に受けつけられないのだと気がついた。とくにスターリンの方針が肯んぜられない。煩悶が続くなか、昭和7年、コミンテルンから32年テーゼが追い打ちをかけてきた。
スターリンは日本の極左冒険主義を批判し、むしろ天皇制を廃止させることで日本権力の力を弱める方針を出してきた。
ここにおいて田中清玄はついに転向を決意する。獄中転向であり、しかも天皇主義者への転向という劇的な改心だった。〔私自身が考えたのは、結局のところ、マルクス主義が西洋合理主義の申し子であり、その西洋合理主義は一神論のキリスト教とギリシア文明を母体にした混合造形であるということでした〕。
こういうふうに言っている。〔幕末に朱子学と水戸学派によって著しくねじ曲げられた天皇だけが神であるというような狭隘な神道もまた、満足できるものでなかったことは言うまでもありません。いわんやナチズムなどは論外でした。ずっと後になってからのことですが、毛沢東を絶対視した中国の文化大革命などは、私にとってはまったく気違いのたわごとにすぎませんでした。八百万の神といいますね、この世に存在するあらゆるものが神だという信仰ですが、この信仰が自分の血肉の中にまで入りこんでいて、引きはがすことができないと。そうしてその祭主が皇室であり、わが民族の社会形成と国家形成の根底をなしているということに、私は獄中において思い至ったのです。考えて考えて、考え抜いたあげくの結論でした〕。
また、こうも言っている。〔私の転向は母の死によってもたらされた心中の疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義、共産主義という抽象的観念を追い出したということです〕。
出所は昭和16年4月だった。身元引受け人は富田健治。内務省警保局長で、のちに長野県知事から内閣書記官長となり、戦後は公職追放後に、兵庫で衆議院議員になった。田中は明治神宮と皇居を拝したのち、5月1日に山本玄峰老師を訪ねた。
山本玄峰は昭和6年に5・15事件の法廷で井上日召の特別弁護人を引き受けたことでも知られる破格の禅僧である。刑務所で法話をしたことがあって、それが清玄の心にのこっていたようだ。田中が出所後、真っ先に訪れていたのがこの老師だったのである。紹介者は血盟団事件に連座した四元義隆。のちに右翼の大物となった。
6月、田中清玄は決心のうえ三島の龍沢寺に赴き、玄峰老師に修行させていただきたいと頼みこんだ。〔自分の本当のルーツを発見して、マルクス主義や惟神(かんながら)の道などという狭隘で一神教的な道ではない、自分の本当に進むべき道を発見したいと頼んだんです〕。
典座(飯炊き)からの修行がこうして始まった。老師から学んだことはそうとうにあったようだが、清玄はしだいに活殺自在を覚悟するようになっている。
龍沢寺には玄峰老師を慕って多くの人士が出入りした。鈴木貫太郎、米内光政、吉田茂、安倍能成、伊沢多喜男、岡田啓介、迫水久常、岩波茂雄たちで、その多くが軍部の強引に反対の立場をとっていた。老師は「わしの部屋は乗り合い舟じゃ。村の婆さんも乞食も大臣も共産党もやってくる」と言っていた。
老師は谷中の全生庵でも座禅を組んだり法話をしていた。全生庵は山岡鉄舟の寓居跡である。そこにも政治家や軍人や企業家がやってきていた。三井の池田成彬や侍従の入江相政らはそこを訪れていた。迫水久常は東条英機が老師に会いたがっていると言ってきたが、老師はその必要はないと断った。
田中清玄はしだいに老師の秘書役のようなことを仰せつかることになり、要人との接触のお供を務めていく。用心棒を兼ねていた。代理を頼まれるときもある。妙心寺の玄瑞鳳洲管長への用事を頼まれたときは、「ときに田中さん、いま一番肝心なことは、われわれ一統あげて自分の心の中にある米英を撃つことですよ」と管長が言ったので、あ、このくそ坊主と思った。用事を告げずに退散した。〔こっちは心の中に日本があったり米英があったりするような、そんな理屈禅があってたまるかという気持ちでしたね〕。
昭和20年1月15日、老師は臘八接心で「今日の公案は日本をどうするかじゃ」と意表をついた。清玄が「はい、戦争をとめるしかありません」と言うと、だめだ、練り直してこい。三日たっても公案に答えられないで絶体絶命の気分になっていると、最後に「無条件で戦争に負けることじゃ」と怒鳴られた。本土決戦や聖戦完遂が我執にとらわれていることだというのである。
これで清玄は国を救うために粉骨砕身する決意がかたまった。神中組という結社をつくった。
数日後、迫水久常、鈴木貫太郎が老師に会いたいと言っていると伝えてきた。3月25日、赤阪で老師は鈴木貫太郎と会った。老師は鈴木に事態を収拾できるのはあなただと言った。やがて鈴木に終戦内閣の大命が下り、日本はポツダム宣言を受諾することになった。
昭和20年10月、田中清玄は朝日新聞の高野信に頼んで、「週刊朝日」に天皇制護持についての一文を書いた。「諸民族の複合体である日本が大和民族を形成できたのは天皇制があったからだ」という主旨だった。この一文を、元静岡県知事で当時は禁衛府長官になっていた菊池盛登が陛下に見せた。菊池は田中清玄を天皇に会わせたいと思った。『入江日記』によれば、12月21日に田中清玄は生物学御研究所の接見室に招かれ、石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、入江侍従らとともに天皇に会っている。小一時間、清玄は退位なさるべきではないことを懸命に申し上げたという。
このことを聞いた安岡正篤が田中清玄に会いたいと言ってきたらしいが、田中はこれを断っている。田中は安岡や近衛文麿が大嫌いだったのである。
産業の重点がセメント・肥料・農薬の“三白産業”が集中していた時期である。それに目をつけたのは日本興業銀行で課長をしていた中山素平のアドバイスだったという。三幸建設はかなり儲かった。赤阪氷川の勝海舟の屋敷跡を借りた。朝日新聞の編集局長だった進藤次郎の屋敷をつかって、日銀の法王といわれていた一万田尚登、民主党幹事長の苫米地義三、大蔵大臣の泉山三六などを招いた。
そんなとき、三井の池田成彬からタイやインドネシアの戦後復興を手伝ってほしいと言われ、引き受けた。そのころは海外に出るにはGHQの許可が必要だったのだが、田中はこれをやすやすと取った。キャノン機関のキャノン、G2のウィロビー、GSのホイットニーやケージスはみんな田中を知っていた。そのため、のちに田中はCIAの手先だとも噂された。〔いろいろ取材が来ましたよ、俺がCIA程度の手先であってたまるかいと言って、みんな追い返してやった〕。
逆に田中によれば、GHQのアーモンド参謀長に朝鮮戦争を予言したときは、かれらは信じなかったというくらいだったという。田中は朝鮮戦争も、三鷹事件・松川事件も、ソ連の策謀だったという推理なのである。
時代は昭和35年(1960)になっていた。60年安保闘争が盛り上がってきた。岸信介は事態が拡大すれば自衛隊を導入しようと考えていた。あるとき小島弘が田中のところへやってきた。全学連指導部で、のちに中曽根康弘の平和研究所の所員になった男で、全学連委員長の島成郎に会ってほしいという。田中は島から反スターリン主義の運動思想のこと、自衛隊導入時の対策、次期委員長に函館出身の唐牛健太郎を推したいということなどを聞いていて、この連中を応援しようと思った。反代々木・反モスクワ・反アメリカが気にいった。田中の秘書だった藤本勇が日大空手部のキャプテンだったので、武闘闘争のイロハも伝授したらしい。いったいどれくらい資金提供したのかはわからない。〔機会あるたび、財布をはたいてやっていましたよ。まあいいじゃないですか、それはそれで〕。
こうした田中の動きが気にいらなかったのが、自民党の福田篤泰や右翼の児玉誉士夫だった。児玉は岸政権を強化するためにあらゆる手を打っていた。河野一郎もそのお先棒を担いでいた。児玉は東亜同友会を組織して、山口組の田岡一雄や林房雄をつかって田中懐柔の手を打ってきたが、田中はこれに応じない。昭和38年(1963)、田中が高谷覚蔵の出版記念パーティのため東京会館に赴いたとき、田中は玄関で撃たれた。東声会の木下陸男がピストルを発射したのだが、マスコミは山口組の東京進出を阻止する暴力団抗争だと書いた。が、あきらかに児玉の指金だった。
銃弾は3発が田中を瀕死にしていた。救急車で運ばれて、聖路加病院の牧野永城が10時間にわたる手術で助けた。牧野はのちの院長で、ウィスコンシン大学病院で6年間にピストルで撃たれた患者を数百人手術していた。
戦後の京浜地区は鶴見の埋立てをめぐって抗争が激しく、陸を仕切っていた土建業松尾組の松尾嘉右衛門と、海を仕切っていた藤木が対抗していた。日本の海運業はこのあと藤木によって、海運業者の集団を日本海運協会に、従業員の集団を日本海運共同組合にしたことが基礎になる。藤木はこの海運協会の会長に田岡をもってこようとするのだが、田岡は固辞した。このとき田岡は政治的なことは田中清玄さんのような人に任せ、自分はヤクザのほうを取り仕切ると決めたらしい。
ここで二人のコンビが成立したようだ。このとき児玉誉士夫が東亜同友会によって全国の右翼と博打打ちを大糾合する計画が動いていて、二人はこれに立ち向かうことになる。すでに右翼の一部とヤクザは麻薬を財源にしていたので、二人はこれを標的に「麻薬追放・国土浄化連盟」をつくり、菅原通済・山岡荘八・福田恆存・市川房枝を立ててキャンペーンに入った。
マスコミは「山口組全国制覇のための巧妙なカムフラージュ」と書き立てた。が、田中は反論している。〔これだけ麻薬がはびこったのは、警察とジャーナリズムと、そして政治家の責任だと言いたい。世の中に悪いことをやっているのはごまんとおります。暴力団にも警察官にもおる。しかし一番許せないのは政治家だ。竹下、金丸、小沢と、こういう連中に牛耳られた自民党の国会議員は、いったいどうなんだ〕。
最も田中に近かったのは四元義隆で、三幸建設を譲っている。四元に譲ったほうがいいと言ったのは松永安左エ門だったようで、そこに間組がからんで三幸建設のバランスシートをクリアさせた。
田中がオットー公と接することになったのは、クーデンホーフ・カレルギー(第632夜参照)と鹿島守之助に、池田成彬が引き合わせたのがきっかけになったようだが、本書では詳細はわからない。ハイエクにはオットー公から紹介された。田中はオットー公に勧められて「モンペルラン・ソサエティ」のメンバーになっていた。自由主義運動の思想母体のためのソサエティで、その基本思想にハイエクの『隷属への道』などがつかわれていた。
ハイエクは社会主義とケインズ経済学の両方に呵責のない批判を加えていて、そこが田中を共感させたようである。とくに人為的な信用によって一時的に景気を上昇させても、それによっておこる相対的な価格体系の混乱はやがて景気を反転させるという思想に共感していた。
ハイエクがノーベル賞を受賞したとき、メインテーブルに招かれたのは日本人は田中清玄だけだった。田中は来日したハイエクを伊豆の自宅に招き、奈良に付き添って刀工の月山貞一のところを訪れている。
そのハイエクと今西錦司が出会ったときも、田中は同席していた。今西の棲み分け理論は、田中がこれは政治や社会に適用できるのではないかと考えていた理論だったようだ。
70年代、日本はオイルショックと石油に含まれるサルファ(硫黄)による大気汚染で困りはてていた。オイルショックは経済問題だったが、資源としてのサルファの少ない石油をどのように確保するかが大問題だった。インドネシア産の石油が「しろもの」といってサルファが少ないことがわかった。それなら生焚きもできる。しかし日本に油田をもたせないというのが石油メジャーの方針である。
インドネシアとは、すでに岸信介・河野一郎らがスカルノと組んで利権を得ようとしていた。田中は反スカルノ派のスハルト将軍と組もうと考えた。そこでナンバー2のアラムシャ中将やその義弟のヘルミのルートをつかって、ブルタミナ(インドネシア国営石油会社)の石油を日本に売ってくれと頼んだ。受け入れ母体として何かつくらなければならない。土光敏夫や中山素平に相談したら、トヨタ自販の神谷正太郎がいいというので、「ジャパン・インドネシア・オイル」という会社を設立した。通産大臣の田中角栄は最初は渋ったが、あんたを支えているのは両角良彦事務次官(官民強調派でオイルショックを切り抜けた通産官僚)と小長啓一秘書官(のちの『日本列島改造論』の実質執筆者の一人)くらいで、まわりはこのままだと岸一派にやられると言ったところ、よっしゃ、わかったと言ってくれた。
シェイクザイドはアブダビだけでなく同一種族のドバイ、アジマーン、シャルジャ、ウムアルカイワン、フジャイラ、ラスアルハイマ、オマーンなどの湾岸一族を共同体として考えていて、そこが田中の血をたぎらせた(これらがオマーンをのぞいてアラブ首長国連邦となった)。このあと、日本はアブダビの海上油田開発に参加する。
日本が北海油田に参加して開発して採取した石油をアメリカに渡す代わりに、アラスカのノースポール油田とBP(ブリティッシュ・ペトロリアム)とエクソンが掘っている油田に日本を参加させろというスワップ方式の提案だった。BPのアースキン卿も賛同した。これは失敗した。事前に情報が漏れたためだった。
田中はその漏洩が日本精工社長をやっていた今里広記だと睨んでいるようである。〔彼はもともと株をやっていたですからね。この話を利用して一儲けを企んだんですよ。株をやる奴は当時も今も考えることは同じですよ〕。田中はこうも言っている、〔日本には政治家はだめだけれど、財界人はいいという考えがあるけれど、これは間違いです。政治家と同じです。甘さ、のぼせ上がり、目先だけの権力欲。それを脱していない〕。
田中が認めた財界人は、池田成彬、松永安左エ門、経済同友会の代表幹事をつとめて新自由主義を唱えた木川田一隆、大原総一郎、土光敏夫くらいなものだったようだ。
本書も必ずしもすべてが時間順になっていないのでわかりにくいのだが、田中清玄が鄧小平と会い1時間半にわたって話しあい、さらにアジア連盟の構想をぶちあげたことは、いまではよく知られている。田中はそれ以前にスハルト大統領にも日本・中国・インドネシアによるアジア連盟の必要性を訴えていた。
曰く、児玉誉士夫を最初につかったのは外務省の河相達夫だろうが、それに鳩山一郎・三木武吉・広川弘禅・大野伴睦がくっついたのはどうしようもない。曰く、岸信介がだめになったのは矢次一夫(国策研究会の中心人物で、岸の密使として李承晩と会談した)のような特務機関屋をつかったことだ。
曰く、中曽根康弘とは首相になってから会ったが、中国の胡耀邦と親交を結ばなかったのが落ち度だ。安倍晋三、竹下登、宮沢喜一なんかを総理大臣にしようとしたところも、瀬島龍三や越後正一(伊藤忠会長)を登用したのも、日本をだめにするだけだった。宮沢にはやってやるぞという気迫がない。
曰く、伊東正義には首相の腕を見せてほしかった。後藤田正晴にはとくに魅力を感じないが、応援演説ではアジアに関心があるかぎりは応援すると言った。曰く、テレビ多用の選挙で大衆的人気さえあれば、だれでもいいなんて時代では日本はよくならない。曰く、日本はあと50年アメリカと組んでいくなどと言っている小沢一郎のような考え方と正面から対決していくべきだ。曰く、靖国神社に政治家が大挙して参拝するのはとんでもないことだ。まして天皇陛下の参拝を要請するなんてのは愚の骨頂だ。〔俺は断固反対だ。この問題ははっきりしている。こういうことは遠慮会釈なく叩かねばいけません〕。
また、こう、続けた。〔政治家なら国になりきる、油屋なら油田になりきる、医者ならバクテリアになりきる。それが神の境地であり、仏の境地だ〕と。
このとき田中清玄は88歳だった。「今は何に関心がありますか」と問われて、田中は即座に言っている、〔いま最も知りたいことはビッグバンがこの世に本当に存在したのかどうかということです。もうひとつは遺伝子工学に関することです〕と。
最後にサル学者の河合雅雄の話を出して、どうも人間だけが生物界と異なることをしているのが気になってしょうがないと考えこんだ。
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昨年初め、100万人を上回った就業者の増加幅は、6月以降下がり続けている。年間基準の就業者数の増加幅は、昨年は81万6000人で22年ぶりの最高だったが、雇用エンジンは急速に冷めている。11月に減少に転じた若者の就業者数は、先月は2万5000人も減少した。今年増える就業者数は、昨年の8分の1の水準である10万人前後に止まるものと政府は見込んでいる。
さらに、週36時間未満の短期就業者数は昨年20%増えたものの、36時間以上の就業者は2.5%減少し、働き口の質は悪くなった。安定的な正規職就業者は減り、代わりにコンビニ・飲食店での時間制労働者、宅配、配達などのパートタイム就業者が雇用増加を主導したという意味だ。新しい働き口の55%が60歳以上に回されたことも、生計問題がかかった高年齢層失業者が、相対的に条件が劣悪な働き口を先に埋めたためだ。
今年も、若者たちが好む「良質の雇用」の豊作は期待し難い。半導体やバッテリーなど先端分野の一部の大企業だけが雇用を増やしており、多くの企業は、「視界ゼロ」の経営環境のために採用に二の足を踏んでいる。公企業は、非正規職の正規職転換の後遺症で雇用拡大が足止めされている。昨年初め、高年俸を約束して開発者やプログラマーの確保競争を繰り広げていたベンチャー企業は、人件費の負担が大きくなると採用を中止した。
働き口がないわけではない。常用労働者5人以上の韓国国内企業に直ちに必要な人材は15万人に達すると、雇用労働部は試算している。企業は人手不足、若者は就職難を訴える深刻な雇用ミスマッチ現象は、「韓国病」になりつつある。大企業と中小企業の賃金・処遇の格差を縮めるための労働市場の二重構造の改革、非対面医療などの良質の働き口を作るサービス分野の革新などに、政府は拍車をかけなければならない。
アラブの王族から山口組組長まで張り巡らされた人脈。田中清玄とは何者か
かつて昭和の時代、田中清玄という国際的フィクサーがいた。
戦前、非合法の日本共産党の中央委員長となり、武装闘争を指揮、治安維持法違反で逮捕された。11年を獄中で過ごすが、その間、息子を改悛させようと母親が自殺、これを機に共産主義を捨てる。
終戦直後、密かに昭和天皇に単独拝謁し、命を懸けて皇室を守ることを誓った。皇居に押しかけた共産党のデモに、ヤクザや復員兵を送って殴り倒させた。
その後は中東に乗り込み、アラブの王族や欧米の石油メジャーを相手に、石油獲得交渉を行う。資源の乏しい日本にいくつも油田権益をもたらし、巨額の手数料を手にした。山口組3代目の田岡一雄組長の親友で、対立するヤクザに狙撃され、危うく一命をとりとめた。
こうした揺れ幅の大きさから、生前は毀誉褒貶も激しかった。ある者は「愛国者」「英雄」と呼び、ある者は「利権屋」「裏切り者」と罵る。
これまで筆者は、現代史の真相を調べる中で、多くの米英政府の機密解除文書を読んできた。そこでしばしば、Seigen Tanakaという名前を目にした。これらの記録や関係者の証言を基に書いたのが、「 田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児 」(文藝春秋)だ。
そして、彼を単なる右翼の黒幕とするのは間違いであること、その波乱万丈の生涯が、じつは今の世界、21世紀を生きる指針にもなるのに気づいたのだった。
過去、わが国ではフィクサー、黒幕とされる者が何人かいた。そこで田中を異色たらしめたのが、その絢爛たる海外人脈である。
なぜ田中は名門ハプスブルク家当主と親しく付き合えたのか
石油権益で連携したアラブ首長国連邦の初代大統領ザーイドを初め、中国の鄧小平副首相、インドネシアのスハルト大統領らと個人的関係を築いた。そして30年以上に亘って親交を結んだのが、神聖ローマ皇帝の流れを汲む欧州きっての名門ハプスブルク家、その当主のオットー・フォン・ハプスブルク大公だった。
13世紀、ルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に就いて以来、1918年に崩壊するまで、ハプスブルク家は多様な民族を束ねる王朝として君臨した。その領地はオーストリアからハンガリー、ルーマニア、また旧ユーゴスラビア、ウクライナ西部に広がり、首都ウィーンは欧州の主要都市として栄えた。
その最後の皇太子オットーが生まれたのは1912年。帝国の崩壊で、幼くして両親と亡命を余儀なくされた。欧州各地を転々とし、第2次大戦では、亡命オーストリア人部隊を組織してヒトラーに抵抗した。
戦後は欧州議会の議員になり、ソ連に支配された東欧諸国を支援した。また汎ヨーロッパ運動を通じて欧州統合に尽力し、まさに20世紀の歴史を体現した人物だった。
田中とは、欧州で開かれた自由主義者の団体モンペルラン協会の会合で知り合い、家族ぐるみの付き合いを続ける。田中の長男の俊太郎も、欧州に行く際、父の書簡を届けたことがあったという。
「一度、大公に、どうしてうちの父と親しく付き合うようになったのか訊いてみたんです。そうしたら、『非常に珍しい人だと思った』と。『まず、共産主義を本当によく知っている。そして中国でも、ベトナムでも、インドネシアでも、田中さんが共産党の話をすると、ほとんどその通りになっていった。東洋の島国で、政治家でも外交官でもないのに、どうしてそんなことが分かるのか、非常に不思議だった』って言うんですね」
よく考えれば、これは不思議でも何でもない。
入江侍従長に「これは大事なので、陛下のお耳に入れて欲しい」
かつて武装共産党を率いた田中は、ストライキや破壊工作を行い、共産党の手の内に通じていた。彼らが何を目指し、どういう戦術を取るか、手に取るように分かった。餅は餅屋というが、反共活動には元党員が適任なのだ。
一方のハプスブルク家は、ポーランドやハンガリー、ルーマニア、ウクライナに大勢のシンパを持ち、それは情報収集のアンテナとなった。ソ連指導部の動向、欧州の政治家の誰がモスクワの手先か、どんな政治工作が行われているか、確度の高いインテリジェンスが手に入る。
田中は、年に数回、西ドイツやスペインにある大公の自宅や別荘を訪れ、国際情勢で意見を交した。その一部は、帰国後、旧知の入江相政侍従長を通じ、「これは大事なので、陛下のお耳に入れてほしい」と昭和天皇に届けられた。
武装共産党の元委員長が、天皇家とハプスブルク家のパイプ役を担ったのだった。
1962年3月、オットー大公は、田中の招きで、レギーナ夫人を伴って初めて来日した。この時、「国際政治研究家」として天皇に拝謁したが、滞在中のあるエピソードを田中が明かしている。
1960年代にはベルリンの壁崩壊、冷戦終結、ソ連の崩壊が見えていた
大公夫妻を囲んで、友人で後の新日本製鐵副社長の藤井丙午、文藝春秋社長になる池島信平らと会合を持ったという。
「その時、藤井丙午や池島信平らが大公に『汎ヨーロッパ運動というが、どこからどこまでをさすのか』と質問した。『ウラルから大西洋までだ』と大公が答えられると、『しかし、その間には共産圏が含まれていますが』との重ねての質問だ。それに対して大公はこう言われた。
『それらは一時的な現象にすぎない。いずれこれらは雲散霧消するだろう。欧州には求心力と遠心力の二つの力が働いている。ある時は求心力が強く、ある時は遠心力が強い。いまは求心力に移りつつある』
どうです。それから30年たって、共産圏は本当に雲散霧消したではありませんか。この息の長さと、透徹した泂察力を日本人は持てますか」(「田中清玄自伝」)
当時は東西冷戦の真っ只中、いずれソ連はなくなると言っても一笑に付されただろう。だが、その後、「ベルリンの壁」崩壊、冷戦終結、ソ連解体と大公が予見した通りになったのは、歴史が示す。
これについて、俊太郎も、あるエピソードを覚えていた。父の書簡を携え、西ドイツのオットー大公の自宅を訪ねた時だ。れっきとした貴族の家系なのに、近所のレストランで誕生会をやるなど庶民的な暮らしぶりだったという。
「大公本人は、非常に気さくな方で、子供たちも、何か特別な教育をしているわけでもないんです。ただ、私が国際情勢を質問した時に、『とにかく、毎日、世界地図を見なさい』と。『今は異なる国でも、少し遡ると、歴史的に同じ国に属していた。同じ領土だったのに、紛争があり、無理やり分かれているところもある。そういうのが、見えてくる』と」
第2次大戦後、ソ連の支配下に取り込まれた東欧では、しばしば離脱の動きも起きた。1956年のハンガリー動乱、68年のチェコスロバキアの「プラハの春」で、いずれもソ連軍の戦車によって弾圧された。
プーチンを警戒し始めたオットー大公と田中
この永遠に続くかもしれない欧州の分断、その間もハプスブルク家の末裔は、かつての欧州の地図を見つめ、過去から未来に思いを馳せていた。
長年の交遊を通じて、田中も、そうした思考を体得したようだ。国際情勢の大きな変化でいくつも予言を行い、適中させている。その一つが、1980年の「1990年、ソ連は破滅する」という談話だ。
その前年、ソ連はアフガニスタンに軍事侵攻し、親ソ派の傀儡政権を樹立、国際的な非難を浴びた。その結果、アフガニスタンを含め、全世界のイスラム教徒を敵に回すだろうという。
「そして、1990年にはソ連もまた、東欧諸国の解放運動の激化と、中近東諸国と国境を接する6つの自治共和国の民族的なイスラム独立運動の展開に直面して、破滅の道を歩むことになろう」(「週刊文春」1980年1月17日号)
東欧や中央アジアで民主化、自治拡大の要求が高まり、ついにソ連が崩壊したのは1991年だった。
そして、その直後からオットー大公と田中は、揃ってロシアのある人物の危険性を警告し始める。その残虐で冷酷な性格は、一旦権力を握ればとてつもない害を生むかもしれない。以来、その人となりや言動を追い始めた。
冷戦末期、東ドイツのドレスデン駐在のKGB(ソ連国家保安委員会)将校で、後に連邦保安庁長官となり、2000年にロシア大統領に就く、ウラジーミル・プーチンである。
「ヒトラーと明らかに重なっている」…30年前、田中清玄とハプスブルク家当主が危惧していたプーチンの“帝政ロシアへの強い郷愁” へ続く
(徳本 栄一郎)
準ひきこもり | ||
普段は家にいるが、自分の趣味に関する用事のときだけ外出する | 1.06 | 36.5 |
狭義のひきこもり | ||
普段は家にいるが、近所のコンビニなどには出かける | 0.35 | 12.1 |
自室からは出るが家からは出ない、または自室からほとんど出ない | 0.16 | 5.5 |
広義のひきこもり | ||
計 | 1.57 | 54.1 |
準ひきこもり | ||
普段は家にいるが、自分の趣味に関する用事のときだけ外出する | 0.58 | 24.8 |
狭義のひきこもり | ||
普段は家にいるが、近所のコンビニなどには出かける | 0.65 | 27.4 |
自室からは出るが、家からは出ない | 0.15 | 6.5 |
自室からほとんど出ない | 0.06 | 2.6 |
広義のひきこもり | ||
計 | 1.45 | 61.3 |
愛知教育大学の川北稔准教授
バナー写真:(タカス/PIXTA)