日本と世界

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安達 二十三は日本の陸軍軍人 拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると弁護団に礼を述べた後ラバウル収容所で自決した

2023-02-18 17:13:23 | 日記
安達 二十三(あだち はたぞう、1890年6月17日 - 1947年9月10日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将[1]。

経歴[編集]
1890年(明治23年)、安達松太郎陸軍教授の四男として石川県で生まれ、23年にちなんで二十三と名づけられる。兄に安達十六陸軍少将、安達十九陸軍中将が、義理の叔父に陸軍大臣石本新六陸軍中将男爵がいる。石本寅三陸軍中将・石本五雄陸軍少将は従兄弟。

陸軍士官学校第22期卒業。陸軍大学校第34期卒業。歩兵第12連隊長、第37師団長を経て北支那方面軍参謀長となり、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年(昭和17年)11月9日、第18軍司令官に転補される。困難にあたっては率先して苦労を分かち合う態度が部下に強い信頼感を呼び起こした。
第18軍司令官着任時、既にニューギニア方面の制空権制海権は連合国軍に奪われ補給はほぼ途絶し、隷下の3個師団および1個旅団は分断されていた。食糧難による全軍餓死を迎えるくらいであればと行った、無謀とも言えるアイタペの戦いが失敗した1944年(昭和19年)8月以降兵力温存の方針を固め、持久体勢を指令。

ウェワクにおいて孤立しながらも、先住民との人間関係を重視して友好的態度を保ち、サゴヤシの幹からの澱粉採取、病人運搬法、永住農園開拓などの方式により、第18軍は終戦まで持久することになる。

降伏調印式にてホレス・ロバートソン少将に降伏の証として軍刀を手渡す安達中将

降伏調印式にて安達中将から軍刀を受け取るロバートソン少将

1944年(昭和19年)12月から続いた連合軍の包囲の輪は徐々に狭まり、1945年(昭和20年)7月ついに「9月には全滅」という判断を下し玉砕を覚悟した。

しかし9月13日、終戦の詔勅に基き第18軍はオーストラリア陸軍第6師団に降伏した。その際、安達は麾下の将兵に対し「軍は大命に基き豪州第六師団に降伏せんとす」と命令した。

降伏後には戦犯として扱われ、大部分の将兵が復員した1946年(昭和21年)1月以降もムシュ島において服役を続けた。その後終身刑を宣告されながら部下の判決が全て下るのを待ち、拘留中の部下8名の釈放が言い渡されると弁護団に礼を述べた後ラバウル収容所で自決した。

戦犯収容所にて同室であった第8方面軍司令官今村均大将宛の遺書には、

「…小官は、皇国興廃の関頭に立ちて、(中略)人として堪へ得る限度を遥かに超越せる克難敢闘を要求致し候。之に対し、黙々之を遂行し力竭きて花吹雪の如く散り行く若き将兵を眺むるとき、君国の為とは申しながら、其断腸の思いは、唯神のみぞ知ると存候。当時、小官の心中、堅く誓いし処は、必ず之等若き将兵と運命を共にし、南海の土となるべく、縦令、凱陣の場合と雖も渝らじとのことに有之候…」
とあった[2]。

作家・山田風太郎は著書『人間臨終図巻』(徳間書店/1986年-1987年)において上記遺書を引用し、次のような言葉を記した。
『終戦直後の昂奮時ならともかく、二年を経て、おのれの責任を全うしたと見きわめてから自決をしたのはみごとというべきである。太平洋戦争敗戦にあたって、かかるみごとな進退を見せた日本軍の将官はきわめて稀であった。』

生還率6%…めちゃくちゃな作戦 死因の8割は飢えと熱帯病

2023-02-18 16:53:29 | 日記
進さんを捜して

生還率6%…めちゃくちゃな作戦 死因の8割は飢えと熱帯病

國枝すみれ 

毎日新聞 2022/12/8 05:00(最終更新 12/10 10:38) 

ニューギニア島に上陸した日本軍=1942年4月

 私の祖母の弟、新井進さんの遺骨を捜すDNA照合を申請すると同時に、進さんの足跡をたどる作業を始めた。

唯一の手がかりは戸籍に残る「昭和19年1月20日時刻不明、東ニューギニア方面(現・パプアニューギニア)に於(お)いて戦死」との一文だ。

【國枝すみれ】

 
第1回 DNA鑑定をしてみる
第3回 ウルワ河ってどこ?
第4回 戦地で起きた本当のこと
靖国神社に残っていた記録

 進さんは1916(大正5)年、5人兄弟姉妹の末っ子として生まれた。三女だった私の祖母は六つ離れた進さんと仲が良かったらしい。

 「飛ぶ鳥跡を濁さず」が口癖だった祖母は、家族の写真や手紙をほとんど焼いて死んでいった。

終戦後、一度だけ戦友が九州にいた祖母を訪ねてきたことを伯母が覚えていたが、何を話したかについては知らなかった。

 どの部隊に属していたかも分からないのでは話にならない。

困っていると、母が思い出した。

「そういえば、おばあちゃんと姉たちが靖国神社で進さんの50年祭をやった。神社に『50年祭までする家族は珍しい』と言われた、と聞いた」

 靖国神社に電話をかけると、すぐに調べてくれた。進さんは、陸軍第18軍第20師団輜重(しちょう)兵第20連隊に所属しており、44(昭和19)年1月20日にパプアニューギニアのウルワ河で戦死していた。

 輜重兵の役割は、馬や車で食料や武器を運ぶ後方支援。

日本軍は戦闘員ではない輜重兵をバカにした。

「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々(ちょうちょう)トンボも鳥のうち」とからかった。

一方、米軍や豪軍は兵站(へいたん)を重視した。

食料や武器が届かない地域に戦闘を広げることはなかった。

軍公式記録はわずか2枚

 厚生労働省社会・援護局に、得られた情報や戸籍のコピー、住民票などを送り、進さんに関する資料を探してもらう。

しばらくして、留守名簿、戦時イロハ留守担当者名簿、輜重兵第20連隊の行動年表が送られてきた。

 防衛研究所戦史研究センターの柴田武彦さん(66)が資料読みを手伝ってくれた。

 大阪商大を卒業した進さんは39年12月、23歳で陸軍に入隊している。

連隊は中国北部に派兵されていたが、翌年1月に編成し直された。

進さんは駐屯していた朝鮮で新兵訓練を受けてから伍長になり、そのまま南方戦線に派兵されたらしい。