林彪、規約から消された「幻の後継者」
権威と権力の一極化を進める中国の習近平・国家主席はこれまでの慣行を崩し、後継者となる次世代リーダーを確定させずに政権2期目をスタートさせた。
今後は2022年の共産党大会における自身の3選をにらみながら「ポスト習」を巡る駆け引きが続きそうだ。
現代中国の歴史では、1970年代前半に起きた「林彪事件」以降の数年間にも後継者不在の状況が続いたという。
林彪・党副主席(1907~71)は毛沢東、鄧小平、今回の習主席の3人と同じように、かつては党規約に自分自身の名前が明記された別格扱いの指導者だった。
しかし、事件後に除名処分を受け「幻の後継者」となった。
林彪の足跡をたどることで、中国指導者の5年後を占うヒントが得られるかもしれない。
「林彪事件」は1971年9月、毛沢東暗殺のクーデター計画に失敗した林彪が空路ソ連(当時)への逃亡を図り、モンゴル領内で墜落死したとされる事件だ。
69年の第9回共産党大会で、毛沢東の後継者と規約に盛り込まれたばかりだった。
後継者の氏名を規約中に記すのは異例中の異例で、中国共産党でも前後このケースしかない。
東洋学園大学の朱建栄教授は「林彪事件は46年経過した今日でも全容が解明されてはいない」と指摘する。残されたナゾが多い政治事件としては、同じ20世紀後半の「ケネディ米大統領暗殺」(63年)と並ぶかも知れない。
「ケネディ暗殺」は米ダラス市で起きたことは間違いないものの、「オズワルド単独犯説」には今も異論が少なくない。
林彪もモンゴル草原に墜落した専用機に搭乗していたことは確実だという。しかし林彪は個人崇拝で神格化された毛沢東の「親密な戦友」と称賛され、こちらも絶対無二の地位を独占していた。
企業に例えれば次期社長が確実な、代表権を持った唯一の副社長だ。
当時77歳の毛沢東からの禅譲を待てずにクーデターを謀ったとする、従来の公式見解を疑問視する声は後を断たない。
毛沢東が重用、常勝で新国家成立を早める?
習近平国家主席(中央)は後継者の選定を決めずに2期目をスタートさせた
「林彪は政治的なリーダーというより最初から最後まで生粋の軍人だった」と朱建栄教授は分析する。
軍事的な才能は抜群で、中隊長としても軍司令官としても非凡な戦略を編み出したという。
林彪の戦術に「三三制」と呼ぶ戦闘態勢がある。白兵戦などを3人1組で当たらせる効率的な方法で、軍事教練をあまり受けていない農民兵などにも理解しやすかった。組織人としては上司にも恵まれていた。
黄埔軍官学校での教官は周恩来で、南昌蜂起に参加した際の指揮官は後に人民解放軍総司令となった朱徳だ。
しかし林彪の才能を最も愛したのは毛沢東だった。
「毛沢東は第1軍団長、第1師団長など最も重要なポジションには必ず林彪を任命した」と朱教授は解説する。
「長征」途上で林彪は公然と毛沢東の方針に逆らったことがある。
しかし「子供に何が分かる」と意に介さず最年少の軍事指導者として重用し続けた。
逆に対日戦争で林彪が負傷したときは異例の心配りを見せたという。
毛沢東は人民戦争理論、遊撃戦論、持久戦論など独特の軍事理論を持つ。
「林彪自身も現場指揮官として毛沢東を信頼しきっていた」と朱教授。
林彪は抗日戦争最初の勝利とされる「平型関戦役」を指揮し、国共内戦でも「遼瀋戦役」「平津戦役」といった重要な戦いに完勝して「新中国の樹立を毛沢東の当初目標より3、4年早めた」(朱建栄教授)という。
林彪の第四野戦軍は東北部から広州広西などまで中国大陸を縦断した。「建国後も国防計画の立案をリードしていったのは林彪だ」(朱教授)
ただ林彪の人脈は軍内中心で、政治的な影響力は限られていた。
毛沢東、周恩来らの革命第1世代に続く、第2世代の「ポスト毛」候補としての評価は
(1)鄧小平(総書記)
(2)彭真(北京市長)
に続く3位だったと朱建栄教授は分析する。
林彪自身、戦争で受けた傷がもとでの病弱な身をかばわざるを得ず、公的活動から遠ざかっていた時期もある。
文革で政治の表舞台に、毛沢東には警戒心もその林彪が政治の表舞台で活躍するのは文化大革命の時だ。
毛沢東が劉少奇・国家主席から政治権力を奪い返せたのは国防相の林彪の協力が大きい。
ただ「林彪が文革を利用した大野心家という評価は間違いだ」と朱教授は力説する。
通称「文革派」と「実権派」の全面対決となった66年8月の「第8期11中全大会」でも、毛沢東の度重なる説得にもかかわらず、林彪は療養先の大連を動こうとしなかった。
失脚した劉少奇に代わっての後継者に擬せられた時に「気分が重い。
もっと適した同志にいつでも引き継ぐ用意はある」
と発言したのは党内へのリップサーブスばかりではなかったようだ。
朱教授は「軍人としての野心以上のものは希薄だった」と推定している。
それ以上に「林彪は私淑する一方、毛沢東を恐れて用心していた」と朱教授は話す。
自らは目立つこと無く「毛沢東に寄り添う」ことに徹するのが林彪の処世術だったという。しかし林彪の部下たちに十分に通じていたかは疑問だ。
69年の第9回党大会は軍人が大量に政治進出した大会として知られている。
要の政治局員には林彪の妻・葉群や4人の直系将軍が抜てきされるなど林彪派で過半数を占めたという。
毛沢東の政治秘書で著作代筆も手掛けたという陳伯達・政治局常務委員はナンバー4に昇格し、林彪に急接近した。
「これらが毛沢東の警戒心をあおった。林彪の権勢が頂点に達した第9回大会から毛沢東の掣肘(せいちゅう)が始まった」(朱教授)。
人事の思惑違いが原因だったわけだ。
毛沢東のマネジメント術における基本のひとつは「分割統治」だという。
部下たちを競わせ、2派のバランスに立つことでトップの座を不動のものにしてきた。
朝鮮戦争に派遣した司令官は彭徳懐だったが、指揮した部下の多くは林彪の第四野戦軍系だった。
ナンバー2を巡っては劉少奇と東北行政委員会主席の高崗と競わせた。
彭真の北京市長解任には劉少奇・鄧小平の賛成も獲得した。
文革では林彪を利用して北京中心に政治、経済、党人事を握る劉少奇派を一掃した。
しかし今度は林彪が強大になりすぎたわけだ。
林彪に対して毛沢東は江青夫人の側近である張春橋らを当たらせた。
劉少奇に対したときのように直接林彪をたたくことはせず、周囲の腹心らをひとりひとり失脚させることで力を削いでいったという。
「歴戦の雄」毛沢東、後継者育成には失敗
現役の空軍将校だった林彪の子息が立案したといわれている「毛沢東暗殺計画」は、内容が杜撰(ずさん)すぎて実現はとうてい不可能だ。
林彪系の将軍たちも寝耳に水だったようで、朱教授も「プロ中のプロ軍人である林彪が関与してしてとは考えられない」と断言する。
ソ連への国外逃亡では一直戦にイルクーツクへ向かうのではなく、中国、モンゴル上空で不可解な進路方向の転換を繰り返していたことが判明している。
機中で実際には何が起きていたのか。こうしたナゾが明らかになるのにはまだまだ時間がかかりそうだ。
毛沢東にとっても林彪の墜落死は想像外だったようだ。
その後急速に老化が進んだという。
林彪の勢力を削(そ)ぐことに集中しても、劉少奇のように失脚・追放することまでは考えていなかったという見方も根強い。
林彪が毛沢東の子飼いの軍人であることは国内外で知られていた。
失脚させれば人事権者としての毛沢東自身の見識も疑われてしまう。
実際、林彪事件を境に無謬(むびゅう)の指導者という毛沢東像は崩れ、威信は急速に低下していく。
朱教授は林彪事件を「高齢化した毛沢東の権力への執着と疑心が原因」と結論付けている。
毛沢東自身が想定していた後継者像は、やはり自分と同じように現場に精通したタイプだったようだ。
最初の後継者である劉少奇に対しては、1940年代後半から土地改革の進め方などに不安を感じていたという。
農村の現場を知らず理論に走りすぎているとの評価だった。
長年都市部の労働運動などを担当してきた劉少奇と、農村中心で勢力を拡大してきた毛沢東では肌合いが違いすぎた。
林彪事件以後の後継者選びは迷走した。
71年には上海の模範的な労働者だった39歳の王洪文を副主席に抜てきするが、短期間に経験不足、能力不足を露呈してしまった。
窮余の策として73年に鄧小平を復活させたが、江青夫人ら文革派との衝突が治まらなかった。
最後は死去直前の76年、華国鋒の首相への抜てきだ。
毛沢東が華国鋒のトップとしての資質をどこまで知っていたかは分からない。
華国鋒に「あなたがやれば私は安心だ」との"お墨付き"を与えたと伝わっているが、心からの本心とは思えない。
長年の内戦と数多くの党内闘争を全て勝ち抜いてきた毛沢東も、後継者育成では完全に失敗した。
現在チャイナウオッチャーたちの目は早くも5年後に向いている。
朱教授は習近平の3選問題は習思想が唱える「習近平新時代の中国の特色ある社会主義」の達成度次第だと予想する。
「強大な中国の建設」が順調に進めば2022年に後進に譲るだろうとの見立てだ。
党内に習思想が浸透していなければ3選に踏み切る公算が強くなる。
現段階で権力集中を強める習近平政権に、国内での死角は見当たらなさそうだ。
しかし人事のちょっとした思惑の違いで中国の政局は大きく揺れ動く可能性があることを46年前の林彪事件は教えている。
(松本治人)