Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

Basis of table propriety食事作法の基本

2018-10-29 | 住まい関連

立つ鳥後を濁さずという日本の諺がある。

There is a Japanese proverb that

a bird does not foul the nest when it is about to leave.

その意味は、

ある者が、自分がいた場所を立ち去る際に潔く、

キレイに後始末をすることを指す。

The representing means

when someone leaves from the place where has been,

the one prudently cleans up the place as things all in order.

 

木の枝で暫くいた鳥が、

その枝から飛び去ってからも、

その鳥がいた痕跡が何も残っていないことに例えられ、

自分が使った痕跡を何も残さない思いやりを表す。

It shows an example that

a bird stayed for a while on a branch

and when after it flew away,

there is no trace left behind

and representing one’s considerateness that

leave nothing to trace how used objects at the place.

この諺の奥には

礼儀作法に対する基本姿勢が表れていて、

人が公共の場で共有物を使った後ですべきことを指示してもいる。

The proverb deeply indicates the basic stance of manners

and pointing what people should do

when after using co-shared objects in public.

 

 

私は礼儀作法について

学びたい欲求が一際強かったが、

学校の授業では指定された礼儀に関する科目が無かった。

I pretty eagerly wished to learn

about proprieties and a good manner

but there was no curriculum at school

related with courtesy as a designated subject.

礼儀作法に従って行いを正すことは

望ましいことだと分かってはいたが、

どうやって作法を行うかについて

教えてもらえたことが無かった。

Although my understanding of rectifying behaves

followed by rule of manners was desirable,

but I have not taught how to perform etiquette.

 

だが、8年前の坐禅体験会で、

ついに、念願した食事作法と坐禅作法について

とことん教えてもらえることに至ったのであった。

But 8 years ago at a zazen practicing group,

the chance finally came to me for learning strictly

about the real table manners

and zazen practicing manners 

as my wished way to gesture righteously.

その坐禅会では、

食べる時の姿勢、

食事の際の箸の置き方と戻し方、

器の持ち方、

料理を頂く方法と断る方法、

食事前後の礼の行い方などの

厳格な指導を受けることができた。

At the zazen practicing group,

I was able to take instructions in strict ways that

the posture when eat,

how to put chopsticks and how to put back while eating,

how to hold bowls,

how to take foods and how to refuse,

how to perform courtesy before meal and after.

 

道場では音をたてないことになっていたので、

食べる時も咀嚼の音を立てずに食べたのだが、

それだけは思ったほど難儀ではなかった気がする。

At the practicing place,

we trainee should not make any sounds when we eat

so, I had to eat without making chewing sounds,

but it was the only train menu for me to excuse

and also it was not as hard as I expected.

 

私がそのように食事作法を習ったとしても

その作法をそっくり現生活でも行うことは中々難しいが、

修行僧は実際、その作法を毎日おこなっているのだから、

修行増にとっては作法が特別な行動でなく

日常の一環であるようだ。

Even though I learned such strict table manners,

it will be quite difficult for me to do manually in daily life,

if I have to do as I was taught.

However,the trainee priests are actually doing the propriety every day,

so it must be one of their routines as a practitioner

and their practicing seemed not a special action.  

その修行僧のように

作法を日常の一課として熟していけば、

作法が身に付き意識せずとも自然に行えるだろう。

If someone does propriety as a routine

and founded to be mature as the way a trainee priest does,

the one will be able to perform the propriety naturally

without conscious and it will make a good behave.

 

作法やマナーも

特別な行事での特定した態度だけに限定せず、

毎日の日常で行えば

その人の動作や仕草にも良い姿勢として

やがては現れるようになるだろう。

If someone accuses such propriety and manners in daily life

and try not to limit for special attitudes

or specified events to show,

then the manners will be accustomed eventually

as the one behaves or gestures.  

 

もう8年も前に習ったその食事作法の

箸を置く角度や箸を手で持つ寸法などは

すっかり忘れてしまったが、

『決まった決まりがきちんとある』

このことだけは基本として記憶に残っている。

I completely forgot those details that

I learned 8 years ago,

such as how to put chopsticks with righteous angle

or righteous measurement when hold the chopsticks

for table manners,

but the basic concept of

“There must be a properly determined rule”

is still in my memory.

 

また、気が緩んで楽に食事をしたい時にも

あの時に習った厳しい訓練が甦ると

姿勢を正すことにしている。

Also, when my mind loosens and just take an easy when I eat,

I make myself sure that the strict training I learned

and try to straighten my posture.  

一人リラックスしている時でも

だらしなく楽になることだけをせず、

できるだけ習ったことを実行するようにしているのも

訓練のおかげかなと思ったりする。

When I am alone even it is relaxing time for me

I try not to be untidy and just to be cozy,

I am trying to practice as possible as I can

to excuse the learning,

those efforts I try to do must be resulted from

the training I always appreciate for.

 

『立つ鳥、後を濁さず』

に現れている人がいたある場所を去る時、

まるでそこにその人がいなかったように

そこいた痕跡を残さない。

“A bird about to fly away, no turbulence left behind”

this proverb representing that

a person leaves from where oneself has been,

the one left nothing to trace as if the one never been there.

 

この諺は私が作法の細かい手順を忘れた時でも、

どう作法を行うかの基本の定めや決まりを教えでくれる。

This proverb teaches to me that

even when I forgot detailed procedure of manners,

it gives me clue to find

such as the basic regulation and rules

how to perform courteously.



Reference link:「威儀即仏法、作法是宗旨」

https://s.webry.info/sp/oryouridaisuki.at.webry.info/201604/article_28.html

 

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412 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (月のような者)
2018-11-07 07:25:41
マクドナルドの窓を通って壁を照らす夕日。81、2年頃の、部屋の壁を照らしていた夕日となにが違うのだろう。おそらく愛情が欠乏していた自分。しかし…完全な愛情を足がかりとして、人間を腐らせていく、世界のありふれた光景…!動揺している自分がいるのである。そしてその動揺を即座に分解し制圧しコーヒーをすする幸いなる仏教徒がいるのである。

夕暮れの街を歩いて思うことは、これらは江戸や明治の俳句に書いてあることとなにが違うのだろうということ。長く続いてきた日本人らしさ、そして経済大国としての繁栄なるものが、ただの成り行きの偶然以外のなんだったと言うのか?小さな日本人の膨大な克己心は、本当に日本を守るための「決定打」となり得たことがあったのだろうか?

結論は、応援歌は歌われ続けなければならないということ。人は応援歌を欲し続けるということ。完成は、しない。幸いなるかな。未来の人よ。

世界は余韻である。
「立つ鳥後を濁さず」。
そう、余韻とは苦しい人への負担なき風となり得る。
返信する
薬膳の良薬ー「ヤマブシタケ」 (Unknown)
2018-11-07 01:47:48
御存知でしょうか。

<ヤマブシタケから発見された成分は、脳に働きかけ、脳細胞の栄養分ともいえる「NGF」という物質の合成を促します。「NGF」とは耳慣れない言葉ですが、解りやすく言えば「脳の元気をサポートする物質」。

また、NGFは脳細胞だけでなく、全身の抹消神経にも関わっています。
神経疾患の中には、原因が特定できず治療法もない、難病と呼ばれるものもあります。
ですから認知症のみならず、さまざまな難病に対しても、何らかの治療の道が開かれる時が来るかもしれません。>

更年期障害の改善作用もあるようですね。

http://www.ninchisho.jp/yamabushitake/index.html

万能薬でしょうかね。
返信する
「変人であることの自由」 (Unknown)
2018-11-06 23:53:52
これは、階級にもよるのでしょうかね。

https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/fcbd20d2efc4e2b5932b51c151f4d0b6
返信する
炎上という名のコミュニティ (Unknown)
2018-11-06 23:35:44
「 地上波テレビの凋落が決定的となり、特に若者たちがネット>>>テレビになって、新聞も読まなくなって、これから顕在化してくる興味深い問題がある。

 それは、人々が全体として共有する経験とは何かということである。

 それぞれが、興味のある情報に接して、あとは顧みない。

 こうなると、「メジャー」と「マイナー」の間は曖昧となり、ロングテールはほんとうに長くなり、人々の関心はスペクトラムの色とりどりになる。

 そうなると、コミュニティとして、人々をつなぐものは何になるのか。

 それは、たとえば、時代の「気分」というか、個々の表象に帰着できないような感情の粒になるのかもしれない。

 言語化や記号化ができる具体ではなく、その向こうにある暗黙知を共有する。

 あるいは、「炎上」が、かろうじて人々をつなぐのかもしれない。

 「炎上」することで、ある程度の人たちにあるイシューが共有され、それがかろうじてコミュニティを維持する。

 つまり、これからのコミュニティは、炎上によってこそ維持されるのかもしれない。」


茂木氏のブログにて。

今は、アメリカに行かれているようですね。サンディエゴで何かの発表をされたみたいです。確かケンブリッジに留学もされているから、英語も堪能なのでしょうね。


app.m-cocolog.jp/t/typecast?__mode=individual&blog_id=57893&id=63150473&user_id=55852
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-06 22:50:29
お水さん、来ないね
返信する
Unknown (月のような者)
2018-11-06 08:49:34
実のお母様との間にそんなことがあったのですね。私はマクドナルドで親子連れなんかを見ると叫びたくなる時がありますよ。通常の家庭で育ったけど4歳ぐらいの心象風景は茫漠としていますね。その頃からはっきりと存在不安がありました。まあ幼児期に生じた母親との関係のズレに直結したことなんでしょうね。個人的にはたぶん一生尾を引くのでしょうが、どこまで影響が出るのかは人によって差があるのでしょうね。ウォルト・ディズニーはお父さんに虐待を受けていたけど、自分の子供は虐待しなかったんじゃないかな?そういう例もちゃんとあるはずなんです。

他人が自分をどう思っているかに関しては、よほど悪質なことをやっていなければ一人の人間の評価とは結局は賛否両論になるだけなのではないでしょうか。犯罪や詐欺やモラルに反することをやっているわけではない誰かを誰かが批判しているところを見ても、「そうかなぁ…」と思う人がほとんどで、他人事である大多数の人がその批判に本気で同調するという事態は現実には少ないのですから、あまり気にしなくてもいいと思いますね。

「スリランカの偉人の話は私には合いません」、とはスマナサーラ長老のことかと思いますが、そのように断定されるよりも態度保留とされた方がよろしいかと思います。私はスマナサーラ長老とお会いしたことはありませんが、明らかにすごい人であることは文章や動画や法話の音声だけでも伝わってきます。テーラワーダ仏教国にもあれ以上の方はあまりいないのが実際なのではないでしょうか。
南和尚の著書を英訳されるならば、比較対象としてスマナサーラ長老が説く仏教の内容を把握してみるのは意義のあることと思います。非常に正直な方だと思います。正統派の仏教とは「本当のこと」を南和尚以上に正直に言ってしまうものです。しかもレベルが上がるごとに悲壮感もなくなっていくものではないでしょうか。
「この世に存在することがたまらなく悲しい」と私が言っても、ブッダは「考え事ができるぐらいの体力があるからだ。恵まれているんだ」と答えるでしょう。
返信する
質問への応答 (桂蓮)
2018-11-06 08:22:14
>①そこに至るまでの過程に、矛盾が生じるような発言をしていませんでしたか。
②当事者間の問題として、何か約束事のようなものなどは、ありませんでしたか。
③師匠と仰ぐ反面、善意は無視し、弄ぶような真似をしていませんでしたか。<

上記の質問に答えるべくいくつか書いてみます。
①その矛盾は結構あったと思います。
その矛盾を指摘され、その都度考えるなり、反省へとつなげるようにしてきました。

②実は、師匠というのも
私が勝手に決めたある種の決まりで
本人は繰り返し師匠になることを拒んでました。
私はここのアメリカで生き抜く手本として
師匠としての枠においたのでしたが
本人はそれについても遠慮していたので
師匠ということばは私の勝手で
彼への義理の表しです。
約束ことは別にありませんでした。
私の完全な勝手です。

③は②につられので、私の無茶ぶりを指摘するくらいでしたから、善意は常に受け容れるようにしました。弄ぶようなことまでする暇無かったし、機会もなかったので、その件は私には無かったと言えます。

私が師匠とのことを明かした理由は
いつかの時点で
師匠が私に対し言い過ぎがあって
私の性格傾向を変えようとする意図がエスカレーターするようになり、
それ以上、関係を保つのが
私には無理になりました。

結果的には私が裏切る形になった
有一なコミュニケーション手段である
コメント欄を閉じたことになったわけです。

この明かしも簡単にいえば
私の裏切りです。
ですが、私とのプライベート会話内容を
コメントで明かしたのも
私への裏切りでした。(削除したので証拠はありません)

なので、Tとして最後にコメントで関わっていた時は、
Tは私をめった切りにして
分析して、超えてはならない線まで超えて
何かが爆発してましたね。

Tとのことを明かしたことは
その傾向がまた見えたからでした。
韓国人の特性を
日本の規範に当てはめようとすることには
絶えられなかったことでしたかね。

当時は歴史上の日韓関係まで思い出させるような
結構、厳しい過程でしたね。
個人のレベルで交わされる歴史の繰り返しまで。

そこまで私が意識するようになったのも
私の性格を国民性への批判みたいに
受けとられるようにことが悪化してましたし。

明かしたメインの理由は
私の過去のコメントを全部悪い方に
持ち出され、
本性を認めろみたいな強制を感じたからでした。

このコメント騒ぎについては
私は私の裏切りでもって
悪循環を断ち切る決心ができたからです。

結局は誰が悪者になるかの選択しか残っていなかったので、
私が自分を選びました。



返信する
とある記事にて (Unknown)
2018-11-05 20:21:49
「ひっちゃかだけどふと思った

自分だけの、ものさしで人様の生活、人生、測るな

それが間違いだとしても
その人の人生には必要なことだった
通らなきゃいけなかった道だった

真っ直ぐ行ける人もいれば
蛇行運転しながらい
くつものトンネルを通って
目的地に行く人もいる

人それぞれのナビがある

家族、友達、恋愛、仕事。
他人がとやかく言う権利なんかないから。
助言はしても否定する必要ない。

あなたの言う通りしてれば幸せになれる?何も困らない?
周りと同じように生きていけば幸せになれる?
そうとは限らない。

例えどんなに血の繋がりあったとしても
昔から気の知れた相手だとしても
その人の幸か不幸かは、その人が決めること。

心配させてることも、されてること重々承知。
だけど好き勝手させて。させておきなよ。

後々、困っても苦しんでも自己責任で背負うから。
だから、する人も見守る人も覚悟いるよね。」


人のモノサシというのものが、如何に当てにならないかを、仏教が示すところでもあるのでしょうね。

仏教を指針にし、道しるべにし、頼りにしているか、モノの基準に対して見方を変える、違う視点から見ることを教えてくれているのでしょうね。
返信する
人格問題 (Unknown)
2018-11-05 19:07:30
 
>ある人格になることを要求される、この事実が表していることは
人の生きざまを安易に
規範の型にはめて、損得勘定で見ていることの表れかもしれません。


「違います。過去・今はどうでもいいのです。でも南師の精神をアメリカの方々に広く知らしめる、道元禅の真髄をアメリカの方々に広く知らしめる、

仏僧の南さんの御本を英訳して
広くアメリカ人に真の仏教とは何なのかを知らしめるという重い責務と、
自らアメリカで道元禅の禅堂を開いて堂主になるという願を立てていらっしゃるから、

でもそんなケイレンさんにも春が来る。春にはあでやかな真我の花が咲く。全てこれ、自らの発心しだい。

それ相当の品格を備えた一流の人格者で在って欲しいと願うからです。」


まず、一翻訳者に、一流の人格者になる必要性があるのか、ないのか?

どうなのでしょうね。


個人的には、著書の内容さえズレていなければ、問題ないようにも思うのですがね。

一般的にも、翻訳者の素性まで調べたり、気にする人は、そんなに居ないでしょうし。


ただ、損得勘定というのは、桂蓮さんがそのように捉えただけのことで、指摘者の損得には関わらないことですよね。つまり、相手への気遣いであり利他行でしょうね。

また、桂蓮さんが目標を示され、指摘者に願があるからといって、人格形成まで強いるのは、少し行き過ぎなところがあるかもしれませんね。


指摘者の言われることは、途上中には受け入れ難く、個性を重視すれば困難なこともあり、らしくなれないという南師を観ても、何が相当の品格で一流なのかを判断するには、難しいことでもありますかね。

突き詰めると、皇室クラスになるのか、なんてことにもなりかねませんかね。


いずれにしても、人格問題は、桂蓮さんの生き方の問題で、本人の改革次第になりますかね。
返信する
印象など (通りすがりの者)
2018-11-05 17:18:40
こちらをはじめ、いくつかのブログをポツポツ読ませていただいている者です。

こちらは英語の対訳が珍しいので、それも楽しみにして読んでいます。

流れでコメントも拝読致しますが、難しくてついてゆけません。

ただ、こちらのブロガーの方がおっしゃっているのは、活発な議論と人格の攻撃は違う、ということではないか、と。

博識でインテリな方々なのに、小学生男子が好きな女の子をいじめるように攻撃するのは、おっしゃっている内容の高尚さとちぐはぐな印象を持ちます。

あくまでも通りすがりの、関わるべきでない人間のいい加減なコメントでしょう。

大変お邪魔を致しました。

しかし、通りすがりの者としては違和感を持ちましたので、コメント致しました。

今後も記事を楽しみにしています。
コメント欄は、素人と言いますか、仏教に暗い者は読むべきではないのかもしれませんね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 17:14:14
Tさんとの関わりでコメント欄を閉じた経緯を私は見てました。

今回、似たような流れになってきたなと思ってましたが、そのTさんが、名無しさんとしてコメントしているとは思いませんでした。

どうなんでしょうね、実際のところは。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 17:08:23
>きっぱりと訣別し桂蓮さんの日常に還りましょう。くだらない奴等とは、オサラバです!!


これも自分の物差しに過ぎない、つまり自利のコメントだと知るべき、と思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 17:03:49
>ここは本当に仏教の教えを
自ら実践できた人だけ
コメントする場にしたいです。


本当に仏教の教えを自ら実践するとは、どういうことか。

その解釈に、いろいろある、ということでしょうね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 16:59:46
コメントしたいから、コメントしている。

自利です。
返信する
矛盾点 (Unknown)
2018-11-05 16:43:18
>また、コメントの受け入れから生じる誰かの影響力下に置かれることに私を位置つけられたくないし、


その師匠とは何ぞや?という疑問。

また、誰からも何の影響も不要なら、コメント欄も不要でしょうね。


コメントとは何ですかね。

意義とは。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-05 16:22:34
>コメントで反応するも、スルーも、新記事で応答するも、自由にされればいいと思います。
ここは、桂蓮さんのブログですから。

この裏側には、

>私は、ご厚意により自由にコメントさせてもらってる立場ですので。

御自分が、自由にコメントができるか否かが何より大事、という側面があるようですね。
返信する
Unknown (ピンチ)
2018-11-05 16:10:18
>ここは本当に仏教の教えを
自ら実践できた人だけ
コメントする場にしたいです。


これは、桂蓮さんも含む、ということでしょうか。

その師匠という方と、過去に何があったかは知りませんが、御自分も、プライバシーに関わることを、率先して発信されてはいませんかね。

僭越ながら、これだけ揉める事柄になる背景には、様々な要因があったように推察します。

冷静に考える基準として、少しばかり提起してみますね。


①そこに至るまでの過程に、矛盾が生じるような発言をしていませんでしたか。

②当事者間の問題として、何か約束事のようなものなどは、ありませんでしたか。

③師匠と仰ぐ反面、善意は無視し、弄ぶような真似をしていませんでしたか。

エトセトラ・・etc


桂蓮さんの御気持ちも、ある程度は伝わるのですが、ネット上で師匠と持て囃す反面、感情に任せて言いたい放題ではなかったでしょうか。

その流れを観て、師匠という方も手を、それを桂蓮さんに示す為に、自ら手を汚し、苦肉の策をとられたように伺えますがね。

自ら、業を積まれたのでしょう。

「仏教の教えを自ら実践できた人だけ」と、言われるからには、まず御自分の業を、どうお考えでしょうかね。

これこそブッダが示された教えでもあり、実践でもあるのではないでしょうか。

因みにブッダは、自分は業論者であり、精神論者であり、行為論者である、と言われていたようです。


皆さんは、あなたの退屈に付き合う話をしている訳ではない、ということでもあるのでしょう。
返信する
Unknown (Z)
2018-11-05 16:04:31
その瞬間瞬間、私ができる最善は尽くせました。
それだけは分かってください。>>>
充分読み取れましたし、コメンテーターへのご配慮も伺えました。院代のブログで、と言うか
信仰者と非信仰者の違い、絶対者を崇める者と思索する者、引用文とURL紹介の者と少なくとも自分の言葉でコメントする努力をする者、同情を集め偽る者、もう充分に読み取られたはずです。宗教オタクのコメントなど院代は見抜き嫌悪されているのだと。嘘、上っ面のだけで、解ったような、教えるような、諭すような、自惚れコメントを自慰的に垂れ流すのです。
きっぱりと訣別し桂蓮さんの日常に還りましょう。くだらない奴等とは、オサラバです!!
対応する意味など無いコメントに、さようならです。 凛とした朝を迎えて下さい。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-05 13:53:06
例えば、苦を無くすことが仏教の目的であるならば、仏教は一つのシステムとして見做していいわけです。
苦の消滅という目的概念を合理的な手段で解決していく為には、システムの外としての環境を
限定しておく必要があるわけです。
システムが関わることが可能な環境を区別することは、仏教というシステム側が環境という世界を見いだすことですから、その世界は個々の人が勝手に見いだす世界とは別である、ということだけは、はっきりさせておく必要があるわけです。
桂蓮さんのブログも一つのシステムならば、
目的があってすることでしょうから、当然、
関わることのできる環境を予め限定しておかねばならないわけです。
コメント蘭はシステムの全体性に必要な要素であると同時に、関わることの可能な世界を区別する機能もあるわけです。
返信する
みなさまに (桂蓮)
2018-11-05 13:43:43
私はこのブログを私のためだけだとは思っていません。

公で発表している以上、人と共有するようになるので、私の権限というのは
コメント欄を開ける、閉める、承認制にするなどの
3つを選べることしか持っていません。

以前にコメント欄を閉じたのは
私が師匠と尊敬していたTとのコメントが原因でした。
当時はTと私だけでコメントをしていて
その他は数えられるほどの刻僅かの何人かが
半年に一回くらいとか、
読者登録ありがとうとか、
私がコメント残したから挨拶のお返しみたいなコメント類しか無かったでした。
T以外は全て通りすがりの一回きりの人達だけでした。

そんなわけで、Tは次第に
私に言いたい放題になって
ある時期を境に
毒舌が高ぶるようになり、私をトランプに似ているとか言い出し
私への人間性が韓国人特有の己惚れで
自己中心的な思考だとかの内容を
書くようになりました。

しかも、酷いことは私とプライベートチャットルームで話した内容
(院代に関わることとか私の考え方など)を
コメント欄で書いてきたのです。

院代に関わっている内容は削除しましたが、
どうもトランプに似ていることはあまりにも
(私がトランプを嫌いと分かっているのに)
絶えられなかったので、
最後のコメントを残してから
一日を置いてコメント欄を閉じたのです。

以後、私はなぜコメント欄を閉じたかについて
誰にも言わなかったし、
Tが私に酷いコメントをしても
尊敬していたし、師匠であることは
今でも変わらないと思ってはいます。

何故なら、私はTが米国で歯医者として成功し
日本人としてのプライドを保ちつつも
自らの人生を全うしようとしていることを
尊敬しているからです。
今もこの事実は変わりません。

ですが、再開してから
名無しさんとしてコメントしている内容からみて
どうもプライベートで話した内容が言及され、
Tにしか言っていないことが公でコメントされているので、
この人はTかもと疑いはありましたが、
証拠が無かったです。

しかし、今日私のコメントに対して
昔の私のコメントを持ち出され
そのコメント内容でもって
私を裁いているその名無しさんは
Tにしか言っていないこと、他の人には言っていないことなどからTに間違いがないと確信できました。

私がTを信じて言っていたことを
私を裁き、傷を与えながら、
仏教の教えを習ってあなたの間違いを正せ、みたいな意味を含んだことを書いているので
これは、私がいくら間違ったとしても
指摘する方法が間違っていると、
間違っていないなら無礼であると
思うようになりました。

私は公のコメントで言ったことに対し、
責任を取り真っ正面で受けてきました。
なので嫌いな事実も人の道理で甘んじてきたのです。

皆様がたかはしさんに属され、
つれられてきたことは十分分かっているし、
私のブログや私の意見などを聞くために
ここでコメントしていると一度も思ったことが無かったです。

また、コメントの受け入れから生じる
誰かの影響力下に置かれることに私を位置つけられたくないし、
コメントをもらうため媚びりたくもないです。

なので、これからは
私はTを師匠だと尊敬しているのも変わりがないですが、
もしTが名無しでここにコメントするなら
私は遠慮したいです。

また、たかはしさんも義理や同情でコメントするなら
それも断りたいですし、
たかはしさんがいるからコメントする仲間からの
条件付きコメントも断りたいです。

私の実力は皆さんの学識レベルに叶わないことは
百の承知なので
ここのブログでコメントしたくなくなっても
もう結構です。

誰もコメントできないとしても
それも覚悟してますし
特にたかはしさんがリンクしてくるスリランカの偉人の教えは私に合っていません。

ここは本当に仏教の教えを
自ら実践できた人だけ
コメントする場にしたいです。

知識を披露する自慢大会にしたくないです。

私はコメントを削除する方法で
自分を防衛したくはないので
もしコメントしたとしても
読みたい人のコメントしか読まないと決心しました。

コメントしてあげているような
助けみたいなことは
このコメントで断りたいです。

この何週間で多くのコメントを頂いたのでしたが
その中で本当に私が必要とした、
または私が学べたコメントは刻僅かでした。

今までコメントを通して皆様と関わってきた結果が
このような断りになり
非常に残念ではありますが、
私は少なくとも自分に嘘をつきたくないし
人に嘘を言いたくもないです。

ですが、その瞬間瞬間、私ができる最善は尽くせました。
それだけは分かってください。



返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 11:59:31
コメントで反応するも、スルーも、新記事で応答するも、自由にされればいいと思います。

ここは、桂蓮さんのブログですから。

私は、ご厚意により自由にコメントさせてもらってる立場ですので。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-05 10:00:22
>たかはしさんを中核に於いて
たかはしさんに引きずられて来たコメ者たちが
このブログ上で、釈迦を真剣に学びたいという趣旨で繋がって来たものです。
ケイレンさんが「本当にウンザリだ」というのなら、この際、たかはしさんや高橋さんのフォロアーをこの際排除されたら宜しいのでは無いでしょうか?<

確か、私がうんざりだと書いた時点では
私はたかはしさんに
コピペ、リンク先無しで独自の解釈を聞いていたのに
たかはしさんはまたリンク先を貼ってきて
その流れで
独自の解釈無しでのリンクばかりにはうんざりだとの意味を込めて書いたと思います。

それは前回の600以上のコメントがあった時の
流れの一つですが、
それについては
私は説明していたし
私のコメントでリンクばかりのコメントも減ってきたと思っています。

流れの中で言っていたことを
今の私の性格上の問題を指摘するために
また、利用されてますね。

私へのコメントを見る限り、
私が以前に書いたコメントを
(水商売でバイトした、勝つために戦うなど)
今になって、人格の欠如の例として
禅師の本を訳す人として人格的に
相応しくない例としても再利用されていると思われます。

コメントの流れから
その時の状況から
例にとってあげていたことを
今、全部出されて
あなたが否定しても
過去のあなたが言っていたことがあなたの本性よと
何回も言っていますね。

これを叩くことと
叩かれることに例えている方もいますが、
人格の良し悪しを判断してダメ出しするのが
コメンテーターの役名だとは思ってないです。

私に仏教の教えを叩きこむなら
私の人格の善悪を判断し裁判するよりは
私がわかるように
親切に教えることから始めるのが
教える側の役命だとおもいますが。

私の人格を異常者のように解釈して
性格をダメ出しにして
それでも学べという教えは
この世で通じるのでしょうか。


人は教える人が博識で
リンクしてくるサイトが賢いからといって
尊敬して学ぶのでなく
その人の行った言動から学ぶと思います。

私は皆様がいずれは去ると思っていますし、
これも潮時のように
わっときて一気に消える波のようにも捉えています。
名無しさんが言っているように
>たかはしさんを中核に於いて
たかはしさんに引きずられて来たコメ者達<は
たかはしさんが去ると
連れていかれるとも思っています。

言いたいのは今このブログでコメントが寄せられるのは
たかはしさんのおかげで
決してあなたのブログ記事でないんだよと
それを私にしつこく言っているのも
百の承知です。

それについて
私は何の執着も無ければ
未練も無いです。

誰かによって持ってこられた結果は
その人がまた持っていかれるのが摂理でもありますし。

なんだか、この名無しさんは私を全面的に非難し
かつ、徹底的に否定されているし
私に思い上がるなと警告もしていますよね。

仏教の教えの名の下で
人格を裁くことは許されていいのでしょうか。


たかはしさんへ
今はたかはしさんが添付してくれた記事、コメント他
私の誤解などについて
応答する気力や状態ではないので、またの機会にそれを言えるタイミングが持てたらその時にします。
私個人のことばかり書いて申し訳ないですが、
見過ごすこともできないので
それも了解お願いします。






返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 07:26:20
よく見たら、本のプロローグでしたね。桂蓮さんは、読んでますね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 06:49:43
他人からどう言われようと、自分が出来るようにしか出来ない、という強い信念、気質というものを、私は感じましたね。

みんな多かれ少なかれ、そういうことだと思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 06:46:35
この記事を読まれたでしょうか。

http://kangaeruhito.jp/articles/-/2364

桂蓮さんにとって、とても励みになるものだと思えましたよ。
返信する
皆様へ (桂蓮)
2018-11-05 06:23:26
コメンテーターの皆様へ

私個人の人格が裁判にかけられた感じの流れになったので、
どうも無視できなく、
沈黙するには無責任のように思えてきたので
いくつか書いてみます。

①コメンテーターの中で私の性格特性が
南師の本を訳すのに相応しくないと判断した方がいる。
②私の人格は南師の本を訳すのに品格が無い、その証拠が私も過去のコメントにある。
③私は直情径行な傾向があって、感情任せで行動する。
④傲慢な自慢話で勝気だ。
⑤自己中心的な見方でコメントに応じている。
⑥子供の時の不幸が原因でサイコパスだ。

主に6つだけ挙げてみました。
ここのコメンテーターの中で上記の6つを
言葉変えながらずーと言っている方がいます。
集団いじめみたいに
たかはしさんに向けていたのが
昨日から私に向けられ
扇動している一人がいます。
たかはしさんは集団いじめに負けず
立ち向かっていたので
その扇動している人は
もう面白くなくなったような感じで
昨日から私に向けられましたね。

集団いじめは黙認するのも
いじめの一環です。

私がいじめに値するようなことをしたのは
生意気なコメントをしただけのことなのに
(その生意気は後で謝罪した)
私の尊厳性が踏みいじられたことになりました。

こんな現状に添付してくる偉人の教えが
現状を改善させるでしょうか?

いじめ側に加担といじめられ側反省を
求めているいる人は
その扇動している者ですが、
その人を満足させるために
同調して、あるいは黙認して
それでも仏陀の教えを学べというのは
人道に逆らうことだと思われます。

学ぶ人に自由に学べない圧力をかけて
それを非難の理由にしていく人を
ただ黙認することは
仏陀の教えをコメントする者同士として
矛盾があるのではと思います。

人の関係を割くことを目的とするコメントをする、それに対して
更なる根拠を加える、これも人の道理でやってはいけないことだと思います。

確か、私は人に正直になりすぎて
害も多くあり、結果的に人が私から去りましたが
それは数えるほど少ないです。
大部分の私の知人は
何十年も変わらない友情関係を維持しています。
(それを書いたらまた自慢話になるから書いてはいない)

人を不愉快にさせておいて
気がたっていると、そこで偉人の言葉を添付するその扇動者は
人に対してどのように思っているでしょう。

長々と私個人の思いを書いてしまったのですが、
仏教の教えを詳しく知らない私でさえ
この状況は正しくないと思ったので
皆様に正しい判断をお願いすべく
想いを書いてみました。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-05 05:38:52
人を持って遊ぶ無邪気な方へ
>もしかしたら、わたしのこの返事にたいして(わたしのコメに応答して)、あなたは気が立っている可能性があります。(でも謙虚に学んでください)<

気は立っていませんが、人に学ぶことを強制しているあなたに悲しみを覚えます。

コメントは川の流れのように
人と人の関りの中で
流れ変化します。
私が過去に生意気で傲慢なコメントを
残したことはありますが、
その後、反省し過ちを認めてきました。

それでも昔の私のコメントを喚起して
それがあなたの本性だと言っているようですが、


削除で実際あったことを削除できないです。
人間の記憶は消しゴムで消せないと思いますし。

削除が解決策だとも思っていません。
私を不愉快にさせて
みんなに避難されるべき項目リストをあげている名無しさんの言動痕跡も
私が過去に残した傲慢なコメントのように
残っています。

悪意と敵意しか感じてないのに
その悪意と敵意から自由に学べとのことは
人間が人間に言える事柄でしょうか。
返信する
削除ご自由 (Unknown)
2018-11-05 05:19:04
すべて想定内です。何処にでもよく起きる問題です。

「炎の燃焼・心の燃焼」10-25, 21:07:07
ちょっとリンク、ブッダラボ、リンク#⑦

スマナサーラ長老:
もしかしたら、わたしのこの返事にたいして(わたしのコメに応答して)、あなたは気が立っている可能性があります。(でも謙虚に学んでください)
返信する
分析屋の名無しさんへ (桂蓮)
2018-11-05 05:18:45
私が何の悪いことをしたでしょうか。
私に意見を求められた時
正直に言っただけのことですが、
今までの私の人格の在り方への攻撃をみてみると
私をサイコパスに分類させるために必死になっているようですね。

ただ、自分の意見を言わず
偉人のことばをコピペしたのなら
中身が無いと非難されるでしょうね。

あんなに言われても
無視できる人がいるなら
その人はもう人でないかも知れません。

そのような非難でなくても
嫌味でなくても
私の言動を改めさせるアドバイスは
きっとあるはずです。

わざわざ、コメントの公を借りて
私を悪者にさせる名無しさんの意図は
私と他の人との関係を壊すことにあるかなと思えるのもあって、
要は、私の成すこと言うことが気に入らないことかなと。

ある人がある人の人格の在り方が間違ったと言っていると言うことは、
人間を思うように持って遊ぶ考え方があるからだと思いますね。

リンクしてくれる偉人の教えが
いくら正しくても
学ぶ人が消化できないレベルでも
全部受け容れろとの強制になりかねません。

私を裁判する暇がありましたら、
その暇をもっと有益なことに使ったらと思ってきますね。
人間関係を仲割って分裂させることを目的にする、これが本当の悪かも。


返信する
分析屋の名無しさんへ (桂蓮)
2018-11-05 04:51:47
>他人だからこそ分かる (Unknown)
2018-11-05 03:53:59
思い出してみると、
ケイレンさんって、あっちこっちにぶつかって行って(自ら飛び込んで行って)、
相手を組み伏せて、隷属化に成功して、相手を自分の支配下に置くか、
それに失敗して、
相手からやり返されて自らが負けると
「他人が私と言う個人をどう見ているか、その極めて冷たい視線を身に余るほど知る事が出来て、
皮肉にも感謝の念が湧きますね」・・・
とか言って、自分を飾って見せる。
みごとな心の自衛隊の技術に長けていますよね。
同じ言い回しを何度か聞いていますね。
ご本人は、それでスッキリ終了、
別に後にはしこりが残らない。
ほんと得な性格ですよね。
どうぞお幸せにね!!<

上記に名無しさんのコメントを引用した理由は
そのようなコメントができる人は
明らかに
今までの私のコメント傾向を熟知し、尚且つ
私の性格傾向が非難に値すると思っているから言えると思うし、
この名無しさんの意図を客観的に考えてみる必要があると思ったので
引用してみました。

私の性格特性が非難されるに値する、それをコメントで書き、
読む人に私の間違った性格の悪さを公的に知らしめることを狙っていますよね。

なら、名無しさんがいっているように
私が非難されるに値するなら
他の人もそのように思っているでしょうね。
もし、他の人も名無しさんのように思うなら
どうぞ、私を非難してください。

みんな、たかはしさんに属していると
たかはしさんに連れられてきたから
私なんかは言われたことをして
ただリンク先を読めとのことみたいですね。

自分を明かさず、
自分は安全に隠しながら
私に向けて剣を投げて
傷つけようとするあなたは
私を傷つけて幸せになれるでしょうか。


追伸
私個人への非難があるようでしたら
ブログ右側内にある、メッセージを送るところを
クリックすると自動的にメールに繋がります。
個人攻撃は個人あてのメールにしてください。




返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-05 04:27:15
>Unknown (Unknown)
2018-11-05 03:25:56
幼児の時に両親(実母、継母、父親)から
極めて冷たい視線を身に余る程受けて来て、

他者に復讐する為に
他者の身に余るほどに、極めて冷たい視線を投げかけて・・・

それを感じ取った他者が極めて冷たい視線を投げかえす・・・

だとしたら「冷たい視線」の無限地獄になりますね。

どこかで其の悪循環を断ち切った処に、
ケイレンさんが目指す桃源郷があるのでしょうね。

仏教帰依がそれである事を祈っております。<

>他人だからこそ分かる (Unknown)
2018-11-05 03:53:59<

上記の二つ以外にも
私に失礼極まる分析をしてきた名無しさんへ

私に底知れない敵意があるようだし、
本当に私をサイコパスだと思っているのですね。
その起源となった私の応答コメントを遡ると
ブログ始めてから
私が師匠とおいていたTとのコメント内容を
全部覚えていないと言えない事柄ですが、
師匠Tなら私に敵意を持てるはずが無いし、
私が不愉快になることを
わざわざ喚起させないはずだから
Tではないと思うのですが、

なら、この私の過去のコメントを全部分析して
サイコパスのように処理しているこの名無しさんは誰かと疑問に思ってきますね。

私がコメントに沿って態度が変わったことを認めず、
書かれた言葉だけを取って
私をあざ笑いしていますが、
私を不愉快にさせることが目的でしたら
それは叶えています。

何の権限で実の私を目で見てもいないのに
私の生い立ちを分析して
私の尊厳性を踏み潰すか、
ブログ書く人なら当然に報うべきだと言いたいのでしょうか。

実際、私に会ってもいないのに
私が自慢げの話をしたからといって
それで私の尊厳性を踏みいじっていいのでしょうか。

どのような権限で
私の生きざまの正誤を裁判するのでしょうか。




返信する
他人だからこそ分かる (Unknown)
2018-11-05 03:53:59
思い出してみると、
ケイレンさんって、あっちこっちにぶつかって行って(自ら飛び込んで行って)、

相手を組み伏せて、隷属化に成功して、相手を自分の支配下に置くか、

それに失敗して、
相手からやり返されて自らが負けると
「他人が私と言う個人をどう見ているか、その極めて冷たい視線を身に余るほど知る事が出来て、
皮肉にも感謝の念が湧きますね」・・・
とか言って、自分を飾って見せる。
みごとな心の自衛隊の技術に長けていますよね。

同じ言い回しを何度か聞いていますね。

ご本人は、それでスッキリ終了、
別に後にはしこりが残らない。
ほんと得な性格ですよね。
どうぞお幸せにね!!
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 03:52:53
>今では、ずいぶん御具合がよく成られたものだと安心いたしました。ご様子を聞けて大変うれしいです。有難うございました。
どうぞご自愛下さいます様お祈りいたしております。


ありがとうございます。

津波でパソコンが駄目になって、日常生活でも眼鏡を掛けるのを止める生活をしていたら、1年ぐらいで体調が改善の傾向になってきたんですよ。

そして7年。今でも完全に復調はしてませんが、断続的にならコメント書いたりできるようになっています。

ただ、もっと歳を取って回復力が落ちてきたらどうなるか。

その時は、ネットから完全に手を引いて、まさに瞑想三昧の日々にならざるを得ないのだろうなあと思っています。

その前に死んでる可能性が高そうだとも思いますけど。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 03:36:12
>南さまは、「悟り」とは「経験の錯覚」に過ぎないとおっしゃっております。およろしいのでしょうか?


悟っていない自分には、錯覚してるとしか思えない、ということだと思います。

でも、悟ったと宣言した釈迦本人にとっては、死ぬまで、悟りの境地が後戻りして、つまり苦しみが新たに生まれて、苦しみを滅尽したと実感したあれは錯覚だったのか、と思うことが無かったとしたら、それで問題ないですよね。

実際は、どうだったのか。

それは、誰にも分からない。

悟りを信じられる人は信じる、信じられない人は信じない。

そういうことですよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-05 03:25:56
幼児の時に両親(実母、継母、父親)から
極めて冷たい視線を身に余る程受けて来て、

他者に復讐する為に
他者の身に余るほどに、極めて冷たい視線を投げかけて・・・

それを感じ取った他者が極めて冷たい視線を投げかえす・・・

だとしたら「冷たい視線」の無限地獄になりますね。

どこかで其の悪循環を断ち切った処に、
ケイレンさんが目指す桃源郷があるのでしょうね。

仏教帰依がそれである事を祈っております。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 03:18:18
>たかはしさんに対する、けいれんさんの理解は
単にケイレンさんの慈悲考的錯覚?


みんな自分の物差しでしか他人を測れませんので、それが他人の事実と完全に一致ということは、あり得ないでしょうね。

でも、自分が気付けないでいたことを他人だからこそ分かる、ということもありますね。
返信する
だれでもそんなに甘くない (Unknown)
2018-11-05 03:09:48
そうだったんですね、たかはしさん。

たかはしさんに対する、けいれんさんの理解は
単にケイレンさんの慈悲考的錯覚?
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 03:09:12
>それらは私が自由意志で
時間をかけて身につけていく習慣だと思いますし、
要求されて応じる事柄でないと解釈してもいます。

>他人が私と言う個人をどう見ているか、
その極めて冷たい視線を身に余るほど知ることができたので、皮肉にも
感謝の念が湧きますね。


指摘されたことが自分の問題点だと理解したとしても、その改善は、自分に出来る範囲で無理なく、でいいと思いますね。

何かしらの改善を図ろうとして仏教に関心を持って学ぶと、まさにそこには一つの理想形が示されてますが、それを完全に実践しようなんて、そもそも無理だと思います。全て捨てて出家なんて出来ないですから。

自分の救いにする為に仏教を学ぶのでしょうから、自分が逆に苦しむようなことになっては意味がないですよね。
返信する
だれでもそんなに甘くない (Unknown)
2018-11-05 03:08:53
そうだったんですね、たかはしさん。

たかはしさんに対する、けいれんさんの理解は
単にケイレンさんの慈悲考的錯覚?
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-05 02:49:09
>たかはしさんは親から大事に育てられたでしょうね。
その恩返しに
ご自身の幸せになる結婚も遠慮して
親の面倒を看ることを選んだのでしょうね、きっと。


健康上の理由で、家庭を持つことを躊躇していたんですよ。でも、デスクワークなら出来そうだと思って就職して、親から離れて一人暮らしです。

そして身体を壊して、仕事を辞めて実家に帰ったのです。

仕事が続けられていたなら、定年まで家には戻らなかったでしょう。

親を優先に考えたわけではないのですよ。

そして、安静な療養生活をして過ごそうと思ったら、田舎は田舎で、いろいろある、ということですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-05 02:03:44
たかはし効果とは、実は、
ケイレンさんが南本を手掛けるのにふさわしい、
将来道元禅塾塾長になるのにふさわしい、
然るべき人徳の人に成って頂きたいが為に、

たかはしさんを中核に於いて
たかはしさんに引きずられて来たコメ者たちが
このブログ上で、釈迦を真剣に学びたいという趣旨で繋がって来たものです。

ケイレンさんが「本当にウンザリだ」というのなら、この際、たかはしさんや高橋さんのフォロアーをこの際排除されたら宜しいのでは無いでしょうか?
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-05 01:55:45
別に母親に対して愛情を持て、などと言っているわけではありません。
桂蓮さん自身が勝手にそう思っているだけのことです。
私自身、母親がいない、ということが分からないわけですから、桂蓮さんの母親に対する思いが無意味である事など実感しようがないわけです。
母親がいないという事を根拠にじゃじゃ馬だと発言したつもりは一切ありません。
どこぞの阿保が勝手にそう思っただけのことです

私が桂蓮さんのブログに最初に投稿した時に、
母親という関わりが無い、ということは既に確認済みです。
継母や、父親や、お姉さんから言われた事が
桂蓮さんにとって母親の根拠であるならば、
それはそれで仕方のないことでしょうが、
無意味であると結論づける為の理由としては、
不十分であると言わざるを得ないわけです。
直接会って話しをしていないわけですから。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-05 01:44:14
私にとってはたかはしさんその他の方々のして下さる引用文をジックリ考察し、その方々の引用したリンクをじっくり読み込んで、さらに役に立つ関連新情報を見いだして、
自分の新境地を開きたいと願っています。

ケイレンさんのコメを拝見する限り、
ケイレンさんはどちらかと言うと、
そう言う他者の善意を冷笑している様に受け取れます。
即ち自分の枠に閉じこもって、聞く耳もたぬ、
と無視を決め込んでいる。
あたしが興味あるのは、単に、コメ者間に流れる感情のうねりだけだ、みたいに。

心理分析家ならそれでいいでしょう。
他者の心の脆さを暴き出し、
他者の心の闇をえぐり出す・・・

でもこれではいつになっても
自分の心を変える事は出来ないですよね。
それならこのブログへのたかはし効果がゼロになってしまいますね。哀しい事です。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-05 01:23:52
真なる発心があれば人は変われる。
自分が変われないのは、真の発心が無いからだ。

AがBにもCにもなれる、という事です。
変われる心と言うのは「自分の心だけ」
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-05 01:14:23
>過去も今も規範になる事を要求している・・・

違います。過去・今はどうでもいいのです。
でも南師の精神をアメリカの方々に広く知らしめる、
道元禅の真髄をアメリカの方々に広く知らしめる、

という重大な責務を自らの目標としているケイレンさんには、
過去の失敗を充分生かして、

未来には、そのようなご自身の夢にふさわしい
近未来の規範を、自らの内に、
打ち立てて頂きたいからに他ありません。

名刀は叩かれて叩かれて、政宗に仕上がって行くモノです。叩かれるのも修行と思ってください。
返信する
皮肉ですが (桂蓮)
2018-11-05 00:53:51
人が人へ人格上の規範になることを要求することなどについて

私への仏教の教えに対する実践への要求が
コメント数が増えるにつき
具体的に、なおかつ時系列で持ち出されていますね。

何々(肩書)として相応しい人格は
望んだとして、
果たして手に入れられるものでしょうか?

ある人が特定な人に
特定な段階になることを期待しているということは
AがBになることを望むことに類似していますが、
そのAが遺伝子による特性だとすると
それを望ましいBに変えることへ要求していることになりますね。

果たして、それが可能なのでしょうか?
DNAを望ましい形に変える、
或いは、私のある特性をあるべき特性へ変えることも要求されているようですが、

それらは私が自由意志で
時間をかけて身につけていく習慣だと思いますし、
要求されて応じる事柄でないと解釈してもいます。

ある人格になることを要求される、この事実が表していることは
人の生きざまを安易に
規範の型にはめて、損得勘定で見ていることの表れかもしれません。

ですが、
他人が私と言う個人をどう見ているか、
その極めて冷たい視線を身に余るほど知ることができたので、皮肉にも
感謝の念が湧きますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-05 00:36:41
過ってZIPさんがケイレンさんを評して
「制御不能なじゃじゃ馬で、老人の空威張りにみえる」と言った。

高橋さんがケイレンさんの事を「直情径行の人」だと言った。

どなたか無名さんが「ケイレンさんはサイコパスみたいな人だ」と言った。

ケイレンさんもご自身で
「私がホンネを吐けば、人が私から離れていく。
誰も私の周りからいなくなる…
悲しいかな 我が本音 冬ばかり」、と言っておられる。

でもそんなケイレンさんにも春が来る。
春にはあでやかな真我の花が咲く。
全てこれ、自らの発心しだい。

注、
私自身で言えば「じみとくどせんどた」でまことに恐縮ではありますが。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-05 00:24:09
何度も身の上話ですみませんが、

私にとって生みの親の意味は
彼女が私を身ごもり産んだまでの1年余りの期間の関りでして
その後は本籍に残っている名、
父から、私の利己的な傾向が実母に似ているとか
肌黒いのも似ているとかの遺伝子的な意味しかなかったです。

この世で会いたくない人がいるとしたら
私の生みの親でしょうね。
彼女から遺伝子を受け継がれた以上、
彼女から死なない限り、縁を断ち切ることはできないでしょうけれど、
仮に彼女が私や姉への愛情があるとしても
私には余計なことでしかなりませんね。

姉と私はこの余計なことを幾度なく話してきたのですが、
私の姉は特に彼女を憎んでいて
絶対、何があっても会いたくないと言ってましたね。

何で皆様は
母というのは子を絶対的に愛していると固定観念的に言っているようにとられますが、
この世には私のように
母の生みの恩とか、愛情を乞うとかを全く無意味にとる人もいるということを分かってほしいかなと思いますね。

しかし、話題にしてくださったお陰で
母の意味とかを再考する機会になれました。

子供の時に
姉や私を見て、人々が
”母の無い子達なのに、割ときれいに身嗜みができているね”など
必ず、母無しの子が前提についてきたのでしたが、
そのことを言われる度に
母ってなに?と思ったことがあります。

兎に角、身の上話で申し訳ない感じがするので
ここ等へんで
『私にとって母は無意味』という結論でお終いにさせてください。
時間の無駄で、コメント数の無駄かもです。

私の生きざまを理解してもらえたとして(仮に)
それが私の残りの人生に大きな影響を与えるほどの
威力は無いと思ったりしますし。

残りの人生がもう少なくなっているので、
名無しさんが言った過去に私がコメントした、
『自ら垂れ流した言葉・文章が本性を映し出す』ことさえ出直す時間も短くなりましたね。

名無しさんは私に過去も今も規範になることを
要求しているようですが、
この世、そんなに完璧な人いますかね。


私の過去のコメントが規範からはみだしていることを私に知らしめたい名無しさんの意思につきましては謙虚に受取ります。

過去に行った言動は今のあなたそのものだと
私に警告したいでしょうから
それも謙虚に受取ります。

私に過去も現在も未来も
人格上の規範になることを要求していることは
身に染みて分かりました。

ラベルを張られた感じですが、
それが、公にブログを書く人への
他人の見る目でしょうね。
返信する
ケイレンさんの場合は普通人と違うのでは・・ (Unknown)
2018-11-05 00:14:06
高邁(こうまい)な精神性を持っている仏僧の南さんの御本を英訳して
広くアメリカ人に真の仏教とは何なのかを知らしめるという重い責務と、
自らアメリカで道元禅の禅堂を開いて堂主になるという願を立てていらっしゃるから、

それ相当の品格を備えた一流の人格者で在って欲しいと願うからです。

ケイレンさんが自ら宣言しておられるのだから、
ハタの者がケイレンさんに大きな期待をして、
あらたむべきは改めて頂きたいと思うからです。

ケイレンさんの場合は私のような凡人と異なる道を歩もうとしている事を自覚して頂きたいからです。

返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 23:44:05
 
>私に私の生き方への反省を求める人がいる、これを私はどう扱えばいいのでしょうか?

まず、桂連さんにも、その方にも、御自分に置き換えて頂く必要がありそうですね。

無理して扱う必要はなく、認める部分や認められない部分を、冷静に観ることでしょう。

坐禅の方法にも、反応しない、相手にしない、価値判断しないなどがありますが、その完全受け身な体勢から、見えてくるものもあるのではないでしょうかね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-04 23:31:47
>仏教者の矜持 (Unknown)
2018-11-04 23:16:15
この際、自分が宇宙のゴミに過ぎない事をあっさり認めて、
謙虚で謙遜で、つつましやかにおだやかに、
おごらず高ぶらず、自分が自分がを止めて、
ただただゴミの矜持に生き切る。
プロフの前書き文を書き換える。

いくら生身の自分はそうじゃないと言い張っても
自ら垂れ流した言葉・文章が本性を映し出す・・・・ものですね(それが他者の鏡です)。<

上記のことを書いて下さった方に
私の生き方がそんなに間違っている、ことを言いたいのでしょうね。
私の本性がゴミみたいと言いたいでしょうかね?

私に相当な恨みと嫌味があるようですね。
確か、コメントの中で(いつかは忘れましたが)
それらが韓国人の特性みたいなこと(トランプに似ているなど)だと言われた覚えがありますが、
私が改めるべきことは一体全体何でしょうか?
この際に明確に示してください。

返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 23:23:40
想像ですが、そのような継母の言うことは、当てにならないのではありませんかね。子供から、実母への愛情を引き裂こうとしている狙いもあるでしょうし。実母には実母の理由があっての家出でしょう。父親との関係性でも、何か不具合があったのかもしれませんね。事実は本人からしか聞くことができないにしても、御互い年数も経っているという自覚も、必要となるでしょうね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-04 23:20:53
自分の身の上話を何度も言って申し訳ございませんが、
>ケイレンさん (Unknown)
2018-11-04 22:54:41
ケイレンさんは
ご自分が母親からゴミとして捨てられた、と思うから、
ご自分をゴミとして自己洗脳してしまった。

そんな世の中の理不尽さに逆襲する為に、
世間の全てが敵で、
肉を切らせて骨を砕く血みどろの争闘に明け暮れて来た。
世欲的成功こそが自分の正しさを証明する唯一の手段だった。

でも今は、
そのはかなさ・無意味さに気が付いて、
真にホトケによりすがりたいという御自分に目覚めるるようになった。<

上記の名無しさんの分析は
ありがたいのもあれば、そうでもない厄介な何かを
感じさせますね。

時代の背景、当時の社会現象など
多くの外部条件があってからの因果関係だったので
彼女を恨むとか
自らの立場を正当化させるとか
それをばねに成功したとか
それらが微塵も無かったのに、
他人にはそう受け取られたのでしょうね。

まあ、私を理解してもらえたとして
それで、宜しいことにはなりませんが、
他人の私への見方の一例で参考になります。

人の生きざまをそう安易に片付けてしまうのも
ご自身への過剰な自信かもと思ったりします。


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仏教者の矜持 (Unknown)
2018-11-04 23:16:15
この際、自分が宇宙のゴミに過ぎない事をあっさり認めて、
謙虚で謙遜で、つつましやかにおだやかに、
おごらず高ぶらず、自分が自分がを止めて、
ただただゴミの矜持に生き切る。
プロフの前書き文を書き換える。

いくら生身の自分はそうじゃないと言い張っても
自ら垂れ流した言葉・文章が本性を映し出す・・・・ものですね(それが他者の鏡です)。
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Unknown (ZIP)
2018-11-04 23:15:39
継母がそう言った事でしかないわけです。
本人に直接会って話したわけではないのでしょう
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業の理解から (Unknown)
2018-11-04 23:07:31
https://search.yahoo.co.jp/amp/s/www.lifehacker.jp/amp/2016/04/160412book_to_read.html%3Fusqp%3Dmq331AQGCAEoAVgB

>特に仏教には関心がないという人でも、素直に受け入れることのできる内容だといえます。
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Unknown (桂蓮)
2018-11-04 23:02:28
>母親である本人が「捨てた」かどうかは判断できない<
言葉の尻をとりたくはないのですが、
念のため、

あの生みの親は籍を私の父に残したまま
行方不明として扱われてましたが
彼女は再婚して(不法)子が4人いるとのことを
継母が裁判をかけるため探したようです。
法廷で、私の実の母が
私と姉を知らないと言ったようです。(継母が私にそう言ったので)
なので、彼女と父との合法的な離婚手続きは
私が18才の時でした。

継母から、
”あんたの母はお前を産んだことを知らないと言ったんだよ、お前がどんな母から生み落されたか分かるか?”と言われ
何も言わなかったのでしたが、
後で吐き気がして吐いた記憶があります。
18才の時でした。
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自分自身が苦しみから解放されること (Unknown)
2018-11-04 23:00:04
https://genuinedhammaintl.blogspot.com/2015/10/blog-post.html?m=1

こんなん出ました。
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ケイレンさん (Unknown)
2018-11-04 22:54:41
ケイレンさんは
ご自分が母親からゴミとして捨てられた、と思うから、
ご自分をゴミとして自己洗脳してしまった。

そんな世の中の理不尽さに逆襲する為に、
世間の全てが敵で、
肉を切らせて骨を砕く血みどろの争闘に明け暮れて来た。
世欲的成功こそが自分の正しさを証明する唯一の手段だった。

でも今は、
そのはかなさ・無意味さに気が付いて、
真にホトケによりすがりたいという御自分に目覚めるるようになった。素晴らしいことであります。
人生万事塞翁が馬であります。
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皆様へ (桂蓮)
2018-11-04 22:46:44
名無しさんの私への見方をまとめると
『憎しみ・怒り・いら立ち・卑しさ、
自慢・おごり高ぶり・高慢さ・インチキさ
言い方が不適切、
相手を不快にさせ、「なにをえばり腐って」』などですが...
上記のことを間接的、直接的に私につき詰める背景には、
私の在り方が何かの基準で不適切であると指摘したいからでしょうね。

その基準が八正道で、仏陀や偉人の教えなのかな。

私に相当の不平、不満をお持ちかなと。

そこなので、皆様にアドバイスを求めたいのですが、
私に私の生き方への反省を求める人がいる、これを
私はどう扱えばいいのでしょうか?

返信する
義務ではない恩 (Unknown)
2018-11-04 22:38:28
https://hasunoha.jp/questions/17952

本当の親とは。

https://true-buddhism.com/practice/oyakoko/

仏教とは、自分が変わることではないですかね。
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Unknown (ZIP)
2018-11-04 22:38:03
言っても仕方ない事ではあるけれど、
捨てたかどうかはわからないと思います。
桂蓮さんは「捨てられた」と思えるかもしれないけれど、母親である本人が「捨てた」かどうかは判断できないと思うわけです。
結果的にそうせざる得ない事になったとしても
捨てた事と、実の子に対する思いが消えた事は別だと思うわけです。
実の子を捨てるということが、そう簡単に出来るとはとても思えないわけです。
ゴミじゃあるまいし、思いや未練まで消してしまえるほど人は器用ではないと思います。
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たかはし様 (Unknown)
2018-11-04 22:28:59
私はたかはし様が
メニュエル氏病の症状が重く
ベッドから立ったらめまいがして動けなくなる状態が続いていた時代から、たかはしさんの事を存じ上げております。当然、本の様に小さい活字を読むと目が回ってしまう事も存じております。

でも、今回のコメントを読むと、
今では、ずいぶん御具合がよく成られたものだと安心いたしました。ご様子を聞けて大変うれしいです。有難うございました。
どうぞご自愛下さいます様お祈りいたしております。
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無記になれ (Unknown)
2018-11-04 22:26:39
ZIPさん
成功に拘ることが、つまり敗北、ということでしょう。
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Unknown (桂蓮)
2018-11-04 22:19:38
>憎しみ・怒り・いら立ち・卑しさ、
自慢・おごり高ぶり・高慢さ・インチキさ・・・・みな言葉に表情を与えます。<

明らかに私宛てですね。

私が持ち出した事例(私のケース)から
それらが自慢話で、高慢だ、インチキだと言いたいことの遠まわしかもです。
私が直情径行だとたかはしさんも遠まわしで言っていたし、

一人でも私に直情径行に見えたのなら
私にその傾向があることを認めざるを得ないでしょうね。
『憎しみ・怒り・いら立ち・卑しさ、
自慢・おごり高ぶり・高慢さ・インチキさ』
私がそれらも持っているから気をつけろ、というのも
それらを持っているとの警告でしょうね。
一人でもそのような警告を私に促す必要があると
思うのであれば、
私に責任があると思います。

ですが、実の私を経験していない人から言われると
事実を無視して、上辺だけ善意を偽るような感じになりますが。
まあ~、これをいうとまた
『憎しみ・怒り・いら立ち・卑しさ、
自慢・おごり高ぶり・高慢さ・インチキさ』があるからと結論付けられるでしょうね。

悪循環になりますよね。
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Unknown (桂蓮)
2018-11-04 22:02:41
言葉のデリカシー(八正道) (OM)さまのコメントは
上記のコメを投稿してから読みました。

明らかに私宛ですよね。
反省しろとの教訓を強いられた感じかな。

人として謹んで受け容れなければならない....
だが、自分が生きてきた過程で分かった現実と理想の差など、
まあ、この世、教訓が理想だから
全て実践せよ、にならないことが現実でしょうね。
よって、仏陀の教えを乞うことになるでしょうけれど。

返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 22:01:20
ジキサイム様の引用(リング)有難うございます。
ジックリ読ませていただきました。
とてもよい参考と成りました。よい情報でした。

たかはし様。
南さまは、「悟り」とは「経験の錯覚」に過ぎないとおっしゃっております。およろしいのでしょうか?
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Unknown (桂蓮)
2018-11-04 21:50:37
たかはしさんが理解できそうな気がしますね。
その現状からみれば、
引用してくる仏教の教訓は
実用系の方が多かったので、
仏教を頼り処をしているからだったのねと思いました。

私の例で言うと、
①私の母親は生後3か月の赤ん坊の私を捨てて家出をした。
②父親は中学までの義務教育しかさせてくれなかった。
③面倒をみてもらえたのも中学まで。
私は中学以降は自分で働いて勉強してきたから
親への恩返し義務が少なく、
日本に留学したのも自分で働いて、
そんな類でしたから
成人して感謝できたことは
親を面倒みなくてもいい結果になったことでしたね。

親子関係で矛盾を感じてたのは
私が子の時に絶対的に必要とした親からの愛情を
受けることができなかったことの欠如が
大人になって、親にお返ししなければならない義務が少ないことにつながったことでした。


たかはしさんは親から大事に育てられたでしょうね。
その恩返しに
ご自身の幸せになる結婚も遠慮して
親の面倒を看ることを選んだのでしょうね、きっと。
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言葉のデリカシー(八正道) (OM)
2018-11-04 21:38:00
言葉を職業にする人、
此れから書く事を仕事としようとする人には
特に特に気を付けて頂きたい事でありますので、
僭越ながらも、敢えてこのサイトを利用して書かせて頂きます。

「目は口ほどにモノを言い」とか「相手の顔の表情を読み取る」とかと全く同じように
人が使う言葉、文章にも表情が有りますね。

文章の行間にその表情がにじみ出てくるわけです。
言葉・文章には人の品性が現れます。
下品な人が上品ぶった、ていねい言葉を書いても、じきに化けの皮が剥がれてしまいます。

慈愛・やさしさ・清らかさ・品の良さ、
憎しみ・怒り・いら立ち・卑しさ、
自慢・おごり高ぶり・高慢さ・インチキさ・・・・みな言葉に表情を与えます。

私たちは、自分が使う言葉にもっと敏感になりたいものです。自分の品性・品格が言葉に表情となってじかに現れるからです。
直情径行的に言葉を垂れ流して一顧たりとしない態度は改めたいものであります。
もっとよく推敲して言葉を文章にしたいものです。

いくら正論を言ったとて、その言い方が不適切ならば、人には正確に伝わりません。
ただ単に相手を不快にさせ、
「なにをえばり腐って」と相手から反発を買うだけでしょう。
言葉の暴力としてしか機能しない事でしょう。

やっぱり沈黙は金、雄弁は銀であり、
品性の無い言葉や
聞く(読む)相手の心をくみ取る事のない
言葉は最悪です。もはや暴力以外の何物でもありません。

私たちは言葉のデリカシーに充分に気を付けたいものです。
日々己を見直して正しい言葉を正しく使える様に精進したいものであります。
これこそが八正道でありましょう。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-04 21:34:08
わざわざご丁寧にありがとうございます。
無記で済まされる方がつくづく羨ましい。
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Unknown (Unknown)
2018-11-04 21:06:05
無常が無常。つまり、無記。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/204f6c4f202a769658f896d86de6de46

区別しても、無記。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 21:03:41
敗北に始まり敗北に終わる。
https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/24f18c5f0b4a84f9cb6398e8e14b9fad
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 20:54:33
>生きるということ自体が、成功か、どうか?

敗北から始まり、敗北に終わるのでしょう。

成功は無記で。
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Unknown (ZIP)
2018-11-04 20:41:04
成功したと思える経験ほど、自分自身の選択が
かなり安易なものとして感じられるのではないかと私自身は思うわけです。
成功することを目的としていたのは間違いないことではあるけれど、成功に至るまでの過程における様々な選択は、ダイレクトに成功という結果に結びつくことを意識して選択したとは決して断言できないのではないでしょうか。
もっとも、成功という概念が人によって様々であることは百も承知の上で言うわけですが、
やらなかったことに対する後悔をするぐらいなら成功する、しないに関わらずやっておく、
その結果やって良かったと思えれば、それは
それで結構なわけです。

生きるということ自体が、成功か、どうか?
と問われれば、それは、運があるのか?ないのか?と思わざるを得ないわけです。
死に直面した時に、どう思うかは、私自身、
見当もつかないわけです。
省みる暇もなく終わりたいとも思うわけです。
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Unknown (たかはし)
2018-11-04 17:27:08
ちなみに、父親が生きてた頃は、水田や畑の手伝いもやったんですよ。

体調が悪いから手伝いたくなかったけど、脳梗塞でボケた父親がやってるのを見ていられなくて。
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Unknown (たかはし)
2018-11-04 17:22:05
自分で食べた茶碗を自分で洗っています。洗濯も自分でやっています。食事を自分で作ることもあります。

私の体力では、庭の手入れが精一杯です。田舎なので広いのですよ。雑草もたくさん生えてきますから。
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Unknown (Unknown)
2018-11-04 17:14:26
高橋さんは今のうちに、お母さんのされている野菜作りや炊事の御手伝いを、少しずつでもされてみては如何でしょうね。それも修行の一つですしね。
視野も広がるのではないでしょうかね。
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ウキさんへ (Unknown)
2018-11-04 17:08:24
あなたの一般基準で、みんな生きれている訳ではありませんよ。

その考え方こそ、薄気味悪いと言えるでしょう。

あなたの人生が、人の人生をとやかく言える程、そんなに自慢できるものなのですか。充実しているなら、それに専念しといて下さい。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-04 16:45:07
高齢の母親と二人暮らし。母親は、自家消費用の野菜作りをしている。

私は、病で仕事を辞めて、貯金で生活。母親は、国民年金と若干の貯金あり。

飯は、母親が作る。

私は、庭の手入れと、親戚との冠婚葬祭や、集落の付き合い担当。今年は、役所の広報誌を隣近所に配る当番。

独身で高齢の叔父を近くに独り住まいさせていて、たまに様子を見る。

仏教を拠り所としている。

そんな感じですよ。

薄気味悪いですか?
返信する
Unknown (ウキ)
2018-11-04 15:51:12
たかはしさんが、モテルとかモテナイとか、それ以前に人としての在り方に目を向ける必要があるでしょう。朝から晩までほぼ24時間、宗教狂いで仕事は?? 引きこもり??両親の厄介に??一般的な生活ではない暮らしを??薄気味悪い方だと感じます。普通の人なら引きますね、暗いし、狂信的な三白眼でしょうね。きっと、ウザイ!!
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 15:47:36
健康だから仏教が要らない、とも言えず、病気だから仏教が要る、とも言えない。

何を必要とし、何を省き、どう生きていくか、どう生きれているのか、何の不安もなく生きているのでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2018-11-04 15:37:25
>彼がゲイでなかったら、エイズに為らずにすんだのかなど考えちゃいましたね。

どうですかね。輸血などで為る場合もありますからね。
これも、ゲイだから為る、とも言えず、為らないとも言えない。
つまり、縁起なのでしょうね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 15:10:47
ギックリ腰でありながら、映画館で鑑賞された桂蓮さんは、流石ですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 15:06:52
>私は、健康だったら仏教を頼りにしようと思わなかったでしょう。

大抵はこうなるでしょうね。
だからそう考えても、釈迦の苦は凄まじいものだったんだろうなと、想像しています。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-04 14:34:57
女性のシビア(厳しい、過酷)な問題というのは
己惚れ傾向、自己中心、現実的、世欲的に見える(男性の視点から)ことでしょうかね。

塾の時、雇った講師の一人で
有名大学の法学部
キレイで可愛い
仕事ができる
生徒に好かれる
私との付き合いもいい
それらの総条件を備え持った女性講師がいましたが、
彼女曰く、女子に生まれて男子くらい泣かせないと!と言ってましたね。

あの子は上記に書いた傾向無かったでしたね。
結婚式に講師7人を連れて参加したのでしたが、
彼女の結構式に凄い人がきてました。
講師辞めてからも
私んちのパーテイーに旦那とよくきてましたし。
子供が生まれたとはがきも送ってくれましたね。
因みに彼女は永田町の国会議事党で働いています。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-04 14:30:09
私は、健康だったら仏教を頼りにしようと思わなかったでしょう。

釈迦の場合は、健康だったけど、避けられない老病死の問題を忌み嫌う自分を愚かだと自覚し、しかも、その愚かさと、老病死の苦しみの問題とに適当に折り合いを付けて在家生活を維持する、という「世俗的に普通のこと」が出来なかった。

だから、それらの完全解決たる悟りを求めて、周囲の反対に逆らって夜逃げして出家した。

そう思っています。


(以下、アングッタラ・ニカーヤ、III,38、中村元訳)

わたくしはこのように裕福で、このようにきわめて優しく柔軟であったけれども、次のような思いが起こった、--愚かな凡夫は、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。

じつはわれもまた老いてゆくものであって、老いるのを免れないのに、他人が老衰したのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。

私がこのように考察したとき、青年時における青年の意気(若さの驕り)はまったく消え失せてしまった。

 愚かな凡夫は自分が病むものであって、また病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。

じつはわれもまた病むものであって、病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。

私がこのように考察したとき、健康時における健康の意気(健康の驕り)はまったく消え失せてしまった。

 愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している--自分のことを看過して。

じつはわれもまた死ぬものであって、、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、--このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。

私がこのように考察したとき、生存時における生存の意気(生きているという驕り)はまったく消え失せてしまった。


(以下、聖求経から引用)

さあ、わたしはむしろ、みずからは生まれるものであるけれども、生まれるものに患いを知り、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。

みずからは老いるものであるけれども、[老いるものに患いを知り、]老いることのない[無上の安らぎであるニッバーナを求めよう。]

みずからは病めるものであるけれども、[病めるものに患いを知り、]病めることのない[無上の安らぎであるニッバーナを求めよう]。

みずからは死ぬものであるけれども、[死ぬものに患いを知り、]死ぬことのない[安らぎであるニッバーナを求めよう]。

みずからは憂えるものであるけれども、[憂えるものに患いを知り、]憂えることのない[安らぎであるニッバーナを求めよう]。

みずからは汚れるものであるけれども、汚れるものに患いを知り、汚れることのない安らぎであるニッバーナを求めよう』と。

 修行僧たちよ、その後、わたしはまだ年若く、黒々とした髪をし、すばらしい青春にあふれていたが、その人生の初期に、母と父は望まず、顔に涙を浮かべて泣いているにもかかわらず、髪とひげを剃りおとし、黄色の衣をまとい、在家から家なき状態へと出家した。
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Unknown (桂蓮)
2018-11-04 14:00:11
https://www.youtube.com/watch?v=A22oy8dFjqc

こっちのほうが映画で描かれていた場面です。
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Unknown (桂蓮)
2018-11-04 13:53:32
なんで、私に矢先が向いてるのかしら。

過去のことを穿りまわして
私がかーっとなって
怒り狂うのが見たいからかな。

ギックリ腰で怒ると激痛がバイブレーターになって伝わるので、適当に流しておきましょう。
というより、怒る気力がなくなっただけですけど。

自慢話に聞こえたなら、
モテて、女子コレクションできるくらいになってから言えば、説得力持ち始めるでしょうね。

たかはしさんは義務教育程度のモテ過程は終了したようですね。
そのくらいなら、好かれているとか、無視されているとかの非言語は読めるかもです。

今日は、映画館へ行って
QUEENのリードシンガー、プレデイー マキュリーのストリーを観てきました。
ボヘミアンラプソディーを聞いたら
昔、日本であの歌で
胸が絞り出されるような切なさで涙してたことを思い出しました。
彼がゲイでなかったら、エイズに為らずにすんだのかなど考えちゃいましたね。

https://www.youtube.com/watch?v=3p4MZJsexEs
返信する
傲り (Unknown)
2018-11-04 13:48:29
釈迦が最初に嫌悪したのは、人は老病死を忌み嫌っている、そして自分も。

この自他嫌悪は、どういうことか、そこから修行が始まった。

自分の中にある問題からは解脱したが、自分の外側のこと(10の問題)は、保留とした。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 13:32:19
女性には、男よりシビアな問題がある、そう思いますね。

どの点がシビアと思われていますか?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 13:28:53
もし高橋くんが、ある程度モテて仕事もできて健康なら、仏教は必要としないタイプに成っていたのでしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 13:15:06
シッダールタ青年は、健康で若く聡明で裕福で、世俗的にも良い御身分であった。だがそれに満足できなかった。出家しても、それまでの宗教に満足できなかった。そして、膨大なる様々なことを発見した。それを、修行僧に伝えた。これが、仏法の始まりとなった。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 13:01:15
>仏教に関心を持つというのは、結局は、世俗で成功していない、ということだと思います。

仏教に関心を持たなくても、成功している、と思っている人もいるでしょうし、仏教に関心を持っても、心が満たされていない人もいることでしょう。

ですので仏教的には、成功は関係ない、とも言えることではないしょうかね。

真宗で使われている、相対的な幸福と絶対的な幸福で分けて見ても、成功を基準に物事を考えると、どんな環境下であろうとも不幸な人生になりかねませんよね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 11:28:53
いずれにしても、
すぐ勝ち負け・優劣の対立構造で物事を考えるのは、
あまり仏教的ではなさそうですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 10:14:53
男は自分の能力をアピールしたがり
女は、人から羨ましい、と思われたがる。

勝気な女性なら両方あわせもつ。
男はそれを見て、そのどちらも嫌がる。

東大女子は自分の学歴を隠さないと
合コンでモテないらしいですね。

みな世欲社会でのはなしです。
仏教社会ではすべて貪瞋痴で処理済です。


返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-04 04:28:35
女性には、男よりシビアな問題がある、そう思いますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 04:18:54
世欲で成功したと思い込んで
それを他者に見せびらかして
それで自分の存在意義が満たされたと
今まで思い込んできたが、

釈迦の言葉に触れて見れば、
如何にそれが空虚な空威張りに過ぎなかったかと
ずっしりと思い知らされる。
自分には真実なんてこれっぽっちもなかったと。

そうやって
人は成長・成熟して行くことができる。
おめでとうございます、けいれんさん。
いまや、タカハシ効果が顕著です。
まずはめでたい、あはははははは!
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-04 03:05:04
仏教に関心を持つというのは、結局は、世俗で成功していない、ということだと思います。

財とか名誉とかを手に入れたけど、心は満たされていない、ということですよね。
返信する
basis of etiquette propriety (Unknown)
2018-11-04 03:03:42
仏教ではこれを重んじる。
根拠は八正道にある。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-04 03:00:33
モテなかっただろうと思わせるぐらいに、相手の感情を考慮しないコメントだったということなのでしょうね。

ちなみに、お前が結婚出来ないなんて信じられない、お前はホモかと言われたことがあります。

だから、モテた方だと思います。バレンタインの本チョコは小学五年生の時からですし、手編みのマフラー、弁当の差し入れ、交換日誌、一通りは経験してます。下級生から握手を求められもしましたね。そんな学生時代でした。どれも数人ですけど。それから、年齢を問わず女性と話すと相手が喜んでいると感じることが多いです。ほんとですよ。

もちろん、女性と付き合いましたしね。結婚は避けてましたけど。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 02:50:02
まあ世欲的に成功する事は仏教で悪いと言っている訳では無いが(それで利他行へ振り向ければ善徳になる訳だし・・・)

仏教で忌み嫌うのは「慢」という貪瞋痴の虜になる事ですね。
ひたすら謙虚で、慎み深く「能有る鷹は爪隠す」を品格ある人というのでしょうか。
返信する
「慢」(=慢心) (Unknown)
2018-11-04 02:09:34
最近のケイレン言語録で拾えば、
ケイレンさん自身は「慢」では無いと思っているでしょうが、他者からは完全な「慢」の見本と思われる例として、

私(=ケイレンさん)と高橋さんの違い(差)は、
「私は異性にモテすぎて困ったが
高橋さんは異性にモテなくて困った筈だ」

とかが「慢」(と他者蔑視)の例文ですね。

けいれんさんは日本では女子大学出身だから
異性の学友はいない筈で、
アルバイトで働いた水商売で、
幾らモテて困ったって言ったって、
そんな男たちの魂胆にさらされて、ちやほやされたって、それが何で、「異性にモテすぎて困った」なんて事に成るのか疑問が起きてしまいます。
「男たちが列を作ってアタシのおこぼれを待っている」なんかも「慢」言語録ですかね。

問題は他者評価と自己評価の乖離です。

返信する
表明(桂蓮)関係。 (Unknown)
2018-11-04 01:21:49
ハッキリ言います。

世欲的成功者を表明する時点で
仏教界では「慢」の人と見做されて
仏教者としては好ましくない人物と判断されてしまうのです。
そんな形のままで仏教本翻訳ってアリ?
って言う疑念が起きるのです。

とか言うと、ケイレンさんの反発は、
「おのれが世欲的に成功してから、ものを言え!」となる訳ですが、そう言う発想こそを仏教では嫌うのです。

そんな執着を削ぎ落すのが目指すべき修行の目的。
返信する
補足 (Unknown)
2018-11-04 00:59:42
なぜそういう言い方に成っちゃうかと言えば、
10年無口、20年無口、30年無口をすれば・・・(それでもダメならあと10年、いや20年)、ただ黙々と修行に励めば・・・
やっと坐禅の風景が分かり、人生の風景が見えてくるものです・・・
とは安泰寺、内山興正師の言葉。
(「発心して今から坊さんになりたい人へ」から引用)。

思うに論争好き嗜好性は現代メディアに洗脳された結果なのかも??
返信する
追加 (Unknown)
2018-11-04 00:45:03
「めんどくさい方々」とは

ただただ論争好きな人(=論争するのが飯より好きだ)。

もしかしたら、
釈迦がぽか~んと眺めているかも、あらまァ!!って
返信する
ケイレン君・高橋君・南くん・茂木君たちの共通点 (Unknown)
2018-11-04 00:30:41
ジキサイム引用(リンク)ありがとう。全部見ました。

そこで思いついたヒトコト。

此の米タイトルで書かれたThe【共通点】とは・・
かなり『メ・・ン・・ド・・ク・・サ・・イ・・・方々』。

体制派老師方がそう感じ、ここから出ていけ、
と思ったとしても、
それはもう、しょうがない、しょうがない。

I bet you, though!

そんな、めんどくさい方々も、80、90歳まで生きて見れば、
実存するのは、ただの眼横鼻縦に過ぎないと知るでしょう。
なんだかんだとガタガタ言う程の事なんてなかったと。
ルソーの言葉引用;【自然に帰れ!】
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-04 00:23:16
>チコちゃん後のお姉さんの解説

御水さん、ご丁寧にありがとう

ベリベリーナイス
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-03 23:47:47
たぶん輪廻は仏教ではない、という位置付けなのかもね。

眼蔵にしろ経典にしろ、輪廻が無くても成り立つように書かれていたしね。


>すなわち、私が重視する「無常」「無我」「空」「縁起」そして「無記」の教えを可能にする禅定とは、どういう実存状況なのかと考えたわけです。
返信する
表明 (桂蓮)
2018-11-03 23:42:21
ある状況に対し適切な理解が成されているかに対する配慮など。

皆様は私が院代の本を訳すのに
必要絶対条件を備えていないことを指摘したいかもしれないと(だが、直接に言えない)推測はくらいはできています。

必要絶対条件を仏教知識
十分条件を知ろうとする努力だとしたら
それらの条件を満たす、外部から要求された条件は
いつ満たされるかの時間の要素だと思います。

その時間という外部条件は
院代から直接長いスーパンを決めて頂いたので
今、その許容されたスーパンの中で
条件を満たそうとする、努力の中にいるのです。

状況報告の手紙を書く(院代へ)とここで
宣言したのは
この流れををレポートするとの意味合いも兼ねていますし。

皆様が私を見守ってくださっていることは
大変心強いことですが、
私が得た結果(翻訳承諾を得られた)ことは
誰でも簡単にできないことだと思うので
心配など、横においてほしいです。



なお、私は皆様の討論流である、
『Aを言った根拠はBやCと比較した時に、果たしてDになるか?』
などの主な論法仕方に直接参加という方法を
あえて採らず(取らず)
その討論から学びたいことを
第3者観点から学んでいます。

私には私流の学び方があるので
皆様の尺度に叶えていないとしても
私は自己流で理解に努めているので
其処らへんも了承ください。
返信する
チ○コちゃん? (Unknown)
2018-11-03 23:38:02
役に立たない、関わらない!

ですか?
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チコちゃん後のお姉さんの解説 (Unknown)
2018-11-03 23:32:57
>輪廻は、なぜ保留ではないの?

釈迦の修行の目標自体が「輪廻からの解脱」(=苦の輪廻サイクルからの永遠離脱)だったから・・・
それが出家人釈迦のこの世離れしたライフスタイル(生活様式、Basis of Buddha propriety, ブッダ作法)の大前提・根幹そのものだったから。
返信する
『感覚野』『現象領域』の現出 (Unknown)
2018-11-03 23:30:08
こんなのねー
日本語に訳すのもディフィカルトー

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/ef5e39500cacbbba0e9bd00421c1ad0f
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-03 23:25:47
非思量の事態だ!

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/05d73af1e77fca6feea47565f83f9143
返信する
間ちゃんに聞いた! (Unknown)
2018-11-03 23:21:20
>釈尊の「教え」と「禅定」の間は、「非思量」でつないで考えれば事はすむので、「悟り」など無用であり、むしろ「絶対の真理」のごとき錯覚をもたらす分、危険だということです。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/bb8c192423a1c3b1efbedca8992e7a41

間ちゃんナイス!
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-03 23:17:31
>ケイレンさんが既に体制派(反対派)の思想を受け容れて居たら大変、厄介な事に成る・・<

その状況(シチュエーション)を分かった、分からなかったではなくて、
私の根本的な捉え方、つまり
思想、哲学、宗教、偉人などの
接し方が【余りが十分にある】と思われたと思います。

文中や文体では伝わらないかも知れませんが、
実際、会話することになると
私は結構、物事を弁証論的に明確に言えます。

院代の最初の私への質問は
仏教観、坐禅観でした。

もう初めから
急所を狙い撃ちされたような感じでしたが、
どんな状況でも
三段論法に従って
自分の根源を言えるので
そのところは
【なるほど】と言われました。

15年間、生徒の親と毎日面談をやっていた塾長の
キャリアかも知れませんけれど。
返信する
南さんの文体論、其の3 (Unknown)
2018-11-03 23:12:31
私は若い僧侶に言うのです。

これからの仏教僧は、
『自分にとって釈迦が必要かどうか吟味しなければいけません。。。』

?????

つまりつまり、
自分には釈迦は必要ない、
という仏教僧も存在する訳ですね。
オヤ、まあァ~!!
返信する
チコちゃん もうちっと おせーて! (Unknown)
2018-11-03 23:09:45
輪廻は、なぜ保留ではないの?

キリスト君のとこが、キリスト教なら
ブッダ君も、ブッダ教でよくない?
返信する
南さんの文体論、其の2 (Unknown)
2018-11-03 23:04:38
流れを汲み取らないで物言えば、

南さんって仏教・非仏教に分けるのが好きなくせして、
他方では、シランシランのホットケ教(=無記教)に心血注いでる。
これって矛盾じゃね~の??
返信する
南さんの文体論、其の1 (Unknown)
2018-11-03 22:56:26
>南さんの文体は、前後の流れで読まないと、部分的に切り取るのは、意味を間違いやすいかもしれないですね・・・

これがケイレンさんの悩みでは??
部分的に切り取って翻訳単語を当てはめると、
文脈の流れが変わってしまう・・
いったいどの単語が、南さんの言いたい文脈に繋げられるのか?
行間を読むのがマッコト難しい・・・
返信する
補足 (Unknown)
2018-11-03 22:44:09
釈迦在命の時代では
実体(=アートマン)の有無が論壇のテーマであり、

輪廻は議論の余地ない既成事実として
その概念が確立していた。
釈迦も輪廻をごく当たり前として受け取っていた。
返信する
チコちゃんに聞いてみた! (Unknown)
2018-11-03 22:37:51
>そういえば、10の問題には輪廻の有無はないようですね

何故、解けない「問い」の中に含まれていなかったかは、

『釈迦が輪廻を、問う必要のない事実として認定していたからァァあ』・・・
返信する
でけた、いっ句!! (Unknown)
2018-11-03 22:27:53
>では何故、無記の項目にされたのでしょうか・・

実体アルアルばらもん教
実体ナイナイぶっきょう教

シランシランのほっとけ教、
ほとけの道は別の道!!
返信する
完全無欠 (Unknown)
2018-11-03 21:38:19
>ブッダとしては「あなたが本当に知りたいことはそういうことではないと気付いていませんね」というところだと思います。

では何故、無記の項目にされたのでしょうか。
返信する
Unknown (月のような者)
2018-11-03 21:04:43
この世界が永遠に続くのか、続かないのか、という質問に対して、もしも無常であることを指し示したいのであればただそう説明すればいいだけです。ブッダは両手を広げて「私が説く『一切』とはここからここまでです」と言ったと思います。質問者に対して「我々の『自我』が世界の始まりと終わりを感じることができますか?『自我』を掘り下げてみれば、ただこの瞬間の無常が横たわっているだけでしょう?」と答えればいいだけです。無常を示すためにわざわざ「無記」という中途半端な態度を取る必要はないと思います。
同じように肉体と魂は同一か、同一ではないのか、という質問に対しても、もし無我であることを指し示したいのなら「どっちみち無我だ」と言えばいいだけです。
十無記の質問自体が仏教的には中途半端なのです。
ブッダとしては「あなたが本当に知りたいことはそういうことではないと気付いていませんね」というところだと思います。
返信する
両忘 (Unknown)
2018-11-03 18:25:43
 
>さて釈迦自身の「味方の見方」はどうだったのか??


オール無記!

でしょ?
返信する
言葉 少ない方 (隠者)
2018-11-03 16:57:59
>Unknown (榮久)
2018-11-03 10:35:05
浮かぶのは二宮尊徳の 
「餌を運ぶ親のなさけの羽音には
   目のあかぬ子も、ロをあくなり」
禅語では
「啐啄同時 (そつたくどうじ)」>>>

榮久さんは、詩人、文学者、??
宗教オタクじゃあ無いことは確かかな??
引用も、URL貼り付けも少なく、とつとつと散文的なコメントをなされています。
桂蓮さんのファンでもあるようですし、謎のコメンテーターですね。
気まぐれにまた 言葉数少なく、吟味されたというか選ばれた言葉で自分の思いを語られている様子が
コメントを楽しみにしている隠れたファンです。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-03 16:35:12
>私は、なぜ、この私なのか。

無記しましょうよ。
返信する
ですが (Unknown)
2018-11-03 16:32:43
>それを必然と受け入れるためには、私には輪廻が一助となります。

高橋さんが目指している悟りの一助には、ならないのではないですかね。

そういえば、10の問題には、輪廻の有無はないようですね。
返信する
沈黙の行方 (Unknown)
2018-11-03 16:27:09
>「あ~そうか、君は修行が足りないから、僕たちの言う事が信じられないんだね。じゃあもっと修行してからモノを言い給え」と軽くいなされて罵倒されてしまう。


これの対抗策として、仏教を違うものしてしまう方が楽だった、沈黙と批判の修行が足りなかった、そこに龍樹が、違うだろ、と現れた。

空思想を打ち立て、文字化してはいけない掟を破ってまで対抗した、となると、その後の仏教を考えても、やはり大変な偉業を成し遂げたと言えますよね。

S長老などは目先で、失敗者扱いをしている感じもしますが、仏教世界全体で見ると、偉人は偉人でしょうね。

もし中論が無ければ、仏教はどうなっていたでしょうね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 16:22:09
私は、なぜ、この私なのか。

それを必然と受け入れるためには、私には輪廻が一助となります。

偶然で片付けられたり、根拠が無いでは、やるせない、ということですね。

この現象世界で、生まれて来た赤ちゃんを見たときに、この子は、亡くなった誰それの生まれ変わりかも、という思いが湧くのが、私には自然なことなのです。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-03 16:05:30
南さんの文体は、前後の流れで読まないと、部分的に切り取るのは、意味を間違いやすいかもしれないですね。

根拠のない事を説明する為の言い回しもあるでしょうし。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-03 15:59:55
>私にとって、切実な問題じゃないので。

輪廻が、切実でしたかね?
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 15:56:55
>後に教義として体系化された禅定段階において、さらに上位にある禅定はみな、仏教究極の目的と直接関係ないわけです。


ここにも断言がありますけど、南さんは、ここまで言い切る絶対の根拠を持っているのだろうか、と私は不思議に思うのです。

まあ、中村元氏も、四禅以上は、後世の創作と解釈しているようですので、それは特に奇抜な考察とは思いませんけど。

絶対の根拠が無いとか、悟りのことはよく分からないと言う人が、自分の経験のみで断言する、ということに私は違和感を覚えます。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 15:47:59
>「あ~そうか、君は修行が足りないから、僕たちの言う事が信じられないんだね。じゃあもっと修行してからモノを言い給え」と軽くいなされて罵倒されてしまう。


まさしく、そう思います。

そして、釈迦は、そんな奴らとは論争するな、と言った。

アートマンなんてものは、真実として把握できないのだから、そのようなものに依拠するなんて愚かだ、と弟子に諭す。

経典によれば、そうなると思います。
返信する
たかはしさん、お返事、ありがとうございます。 (Unknown)
2018-11-03 15:42:14
>眼の前の現象認識において(の)・・・

つまり非体制派と言う意味ですよね。

で、眼の前の現象認識において、と言うのが
まさにバラモン人に突っ込まれてしまう弱点で、

「あ~そうか、君は修行が足りないから、僕たちの言う事が信じられないんだね。じゃあもっと修行してからモノを言い給え」と軽くいなされて罵倒されてしまう。

だから後代の仏教僧侶たちが、やむなく(=バラモン教徒との対抗上、自分たちの生き残りをかけて)、形而上学の「無常・無我・無自性・無実体」をハッキリ押し出して仏教と言う独立した宗教を創設した。

たぶんそういう事になるのではないでしょうか。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 15:14:36
>高橋さんは仏教者として、
絶対的な(=宇宙規模での=形而上学的な概念としての)無常・無我・無自性・無実体を信じておられるのかどうかを聞いています。


宇宙の真理ですね。いや〜、どっちを信じるって、そんな〜、真剣に考えたことないですよ。

私にとって、切実な問題じゃないので。

予想は、存在の根源としての物質、つまり、自性が有るんじゃないのかな、ただし、それは、あまりに小さくて、それが見つかったからって何なの、生活に何か関係有るのか、という感じじゃないのかなと。

宇宙の真理も、私が死ぬまでにも解明されないのだろうなあ、と思っています。

仏教としては、目の前の現象認識において、無常、縁起、非我で十分じゃないかと思っています。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-03 15:06:18
ZIPさんのコメなんかで今ハタと分かった事は、

南さんは【無記】がとても重要で、まさに釈迦の核心で根幹だ、絶対的に外せない重大見解なのだ・・
と考えているが、

大勢派僧侶軍にとっては、「無記」は全く重要事項では無く、仏教の核心などではサラサラ全然なく、
「仏教の全体に属する事では無く、外部を取り巻く要因でさえない」・・・

そういう差が体制派様と異端者様の間を無残に引き裂く。
さて釈迦自身の「味方の見方」はどうだったのか??
返信する
卒啄同時 (Unknown)
2018-11-03 14:42:33
Basis of Buddhism propriety(仏教根本の正否)が論じられておりますね。

いや、めでたい、あははははははは(爆笑)

ううっ・・・・無常・無我・無自性・無実体・・・・
返信する
補足 (Unknown)
2018-11-03 14:30:53
上位の禅定は、後に作られたもの、という事でしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-03 14:26:12
>そこのところを、南さんの文章で読みたいですね。

「<悟り>は開けない」という本を読んで見て下さい。そこにも、南さんの文章はあることでしょう。恐山ブログからの引用も多くありましたから、ブログのどこかに隠れているかもしれません。
返信する
違うでしょうね (Unknown)
2018-11-03 14:20:26
>悟りなんてものは、不可能なのだ、とするなら、それは、道元禅師が、生まれ変わって修行を続けて、いつかは釈迦と同じになりたい、


教義と願望は、違うでしょう。この「同じ」というところに、不可能性を感じますね。
返信する
味方の見方 (水臭い)
2018-11-03 14:14:31
>後に教義として体系化された禅定段階において、さらに上位にある禅定はみな、仏教究極の目的と直接関係ないわけです。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/6ee02f98acd8a1cb3b4749e47a75a235

さらに上位にある~は直接関係ないようです。後に作られたもの、という事でしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-03 14:13:33
ケイレンさんが恐山で南さんと面談して、
翻訳の申し出をした時に、南さんから、
ケイレンさんが既に仏教僧侶の誰かに師事しているかと聞かれたわけですが、

いいえ誰も居ませんと答えたことが南さんを安心させた。
なぜなら自分の思想に共感している僧侶(老師)が居ないから、
ケイレンさんが既に体制派(反対派)の思想を受け容れて居たら大変、厄介な事に成る・・

と南さんが思っていたという事なのだと思いますね。
ケイレンさんは充分このシチュエーションがおわかりなのでしょうか?
返信する
高橋さんへの質問再確認 (Unknown)
2018-11-03 13:54:37
高橋さんは仏教者として、
絶対的な(=宇宙規模での=形而上学的な概念としての)無常・無我・無自性・無実体を信じておられるのかどうかを聞いています。
つまり高橋さんは体制派の思考なのかどうかという事になるでしょうか。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 13:53:58
>ついでながら南さんは修行(只管打座)で得られるものは「自意識の解体」という変性意識に過ぎず、
それ以上でもそれ以下でもないと言っている訳ですが、


それで、悟りなんてものは、不可能なのだ、とするなら、それは、道元禅師が、生まれ変わって修行を続けて、いつかは釈迦と同じになりたい、と言ってる姿勢に反しますから、体制側から反発されそうですね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 13:49:25
>南論による異端的仏教解釈では、

>釈迦が唱えた10個の無記の原則①~⑩を通して見れば、
自性も無記で、無常も無記で、無我も無記、
が、釈迦の真意であった・・
となる訳なんでしょうね。


そこのところを、南さんの文章で読みたいですね。
返信する
補足 (Unknown)
2018-11-03 13:47:24
ついでながら南さんは修行(只管打座)で得られるものは「自意識の解体」という変性意識に過ぎず、
それ以上でもそれ以下でもないと言っている訳ですが、

それって、
もろに禅定8段階説を重要視(=神聖視)していないということで、
う~む、これだと確かに体制派からは毛嫌いされることとなる・・・かも。

高橋さんの個人的見解はいかがですか。

注;ケイレンさんも南本を翻訳する時には相当のしっかりした仏教理論を自らが持っていないと足元を掬(すく)われそうな感じがありますね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 13:46:26
まず、10無記については、


>それについては、無記として保留したのだ。


保留という言葉には、後で取り組むというニュアンスがあるので、それは違うと思います。



ZIPさんの言う、

>10の無記は仏教として、全体に属することではないと同時に、外部の環境でさえないわけです。

>無記とは記さない事として「区別」することです。


と言うのが適切だと思えます。
返信する
結局,高橋さんはどう思っているのですか。 (Unknown)
2018-11-03 13:31:06
仏教体制派観では、【絶対的な】無常、無我、そして無自性(=実体がない)が仏教のキモ(核心)である。
何故なら、それこそがバラモン教のアートマン、梵我一如と真っ正面に対抗する思想だからだと・・

しかし現実の釈迦は認識出来る範囲内での
非常・非我・非自性・非実体を言っただけで、

全宇宙に通用する絶対的(=超越的=形而上学的)な無常・無我・無自性・無実体を言ったわけではない。

それについては、無記として保留したのだ。
そうかもしれないし、そうでないかもしれないしと。

だから南さんの言う主張のほうが正しくて、
体制派の方が間違っている・・・

かどうかについて、
高橋さんの意見をお聞かせください。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-03 12:54:38
院代からも直接、ご本人の仏教観について
茂木さんが言ったようなことを言っていましたね。

面談でもきいたのですが、
それが自然に聞こえてましたし、
講談の時もジョーク交じりで言ってましたね。
みんな納得してうなづいてましたし。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-03 12:47:48
恐山ブログで
私が訪ねた質問に100%当てたコメントがありました。
榮久さまからでしたが、以下コピペ
>Unknown (榮久)
2018-11-03 10:35:05
浮かぶのは二宮尊徳の 
「餌を運ぶ親のなさけの羽音には
   目のあかぬ子も、ロをあくなり」
禅語では
「啐啄同時 (そつたくどうじ)」<

その卒啄同時という言葉が思いつかなくて
似たような【千載一遇】【盲亀の浮木】ことを
書いたのでしたが、
卒啄同時に答えが得られました。
ついつい嬉しくなったので、ここでも書いてコピペもしておきますね。

そのことばの経緯は
そこで書いたから省きますね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 11:58:36
ちなみに、我が家も曹洞宗で、菩提寺の住職は40代前半ですが、完全に体制側だな、と思えます。

田舎で人口減の傾向ですが、まだ檀家数が多いので、危機感が弱いかも。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 11:53:58
茂木さんによれば、南さんは、周囲から僧侶を辞めたらと言われることがあって、自分でも僧侶とは思っていないと発言したことがあるようですね。

もしかしたら、高齢の体制側の僧侶に対しては、孤軍奮闘、四面楚歌の状態なんじゃないか、でも、若い世代の僧侶からの支持は広がりつつあるのじゃないか、なんて思っています。
返信する
Unknown (泥水)
2018-11-03 11:06:16
>南さんは、割り切れると気持ちが悪い、余りが無いと落ち着かない、という気質なのかも、と思います。

仏弟子としての在り方も、問われているのではないでしょうかね。
返信する
Unknown (水蒸気)
2018-11-03 11:00:56
>10の無記は仏教として、全体に属することではないと同時に、外部の環境でさえないわけです。
考えることは可能でしょうが、お釈迦様の教えとは区別する必要があるわけです。

なんですかね。
この外部の環境でさえないとは。全体に属さない無記というのも、無記が無記ではなくなりませんかね。区別すると、徹底した無記にも、ならないのではないでしょうかね。

そもそもZIPさんは、仏教徒なのでしょうか。ヒンズー教徒か何かなのでしょうかね。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-03 10:42:40
10の無記は仏教として、全体に属することではないと同時に、外部の環境でさえないわけです。
考えることは可能でしょうが、お釈迦様の教えとは区別する必要があるわけです。
即ち、苦とは何も関係がないということです。
無記とは記さない事として「区別」することです
返信する
ミナミ節 (大阪ミナミ宋右衛門町)
2018-11-03 10:31:19
なんやってェ~
割り切れると気持ち悪い気質って??
そんなん知らんへん、ほっとけ教
返信する
割り切れると気持ち悪い。 (牛込五問街10番町)
2018-11-03 08:17:32
南さんの遡及前世は番町皿屋敷のお菊さん??
いちも~ん、にも~ん、さんも~ん、~~、~~、きゅうも~ん・・・
あれェ~、最後の10問めェ~~が割り切れぬ

斯くしてDNAが脈々続く、もうこれは宿命だ。
うらめしやァあああ!!
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-03 07:41:07
歯医者行ってきましたーあ

歯茎の大掃除でしたが、
まだ、麻酔が取れてないです。

施術をしてもらいながら、
私の師匠(歯医者)なら
きっと、ジョークとか言って
患者を笑わせ
手際よく、テキパキられるだろうなと思いましたね。

なにせ、ダジャレやギャグの天才だからね。

半分しかやってなくて
残りは来年1月に予約しておきました。

ちょっと麻酔とかで
調子狂ったので、
じっくり読めないのもあり、
読めるようになったら
出直します。

なんせ、私が突っ込む系のコメ川では無さそうなので、
読んで、分からない箇所があれば
その都度、質問します。


手紙の件は
現状報告、予定延期などの報告を書く予定です。
出せたら出したでここでも報告しておきますね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 06:51:45
南さんは、割り切れると気持ちが悪い、余りが無いと落ち着かない、という気質なのかも、と思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 06:44:23
1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

(スッタ・二パータ)
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-03 06:31:15
それが南さんだから、私には困らないですよ。

>しかし私には、この「答えがあるから大丈夫」というところが気に入らない。問いは問いのまま抱えるべきで、ブッダも安直に「大丈夫だ」と言ったとは思えないのです。

(受賞インタビューから引用)
返信する
反論 (歌舞伎町)
2018-11-03 03:51:48
其処で出てくるのが、
南論による異端的仏教解釈では、

釈迦が唱えた10個の無記の原則①~⑩を通して見れば、
自性も無記で、無常も無記で、無我も無記、
が、釈迦の真意であった・・
となる訳なんでしょうね。

困っちゃいますよね‥と思います!!
返信する
Unknown (御茶ノ水)
2018-11-03 02:50:07
>ナーガールジュナの自性批判の論理は、自性を認めれば、自性は恒常不滅をその性質として持っているのだから、無常無我の仏教の基本思想に矛盾するようになる、というものです。

www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

>ナーガールジュナは、ヒンズー教徒たちが恒常不滅の魂に執着するのは当然だけれど、ブッダの教えを信じると自称する仏教徒自身が、ものには恒常不滅の自性なるものがあると信じていることは実に「奇異である」といって仏教内批判をおこなっているのです。


これによると、ZIPさんはヒンズー教徒なのでしょうかね。
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みなさん心を役立つようにして、しっかりこのダンマをお聞きなさい。 (水道水)
2018-11-03 02:16:19
無明から生じる縁起

http://mucunren.hatenadiary.jp/entry/2015/04/06/185641
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 01:52:37
>お釈迦様の教えが現に今あるわけですから。

どこにアルのですかね?

無記はどこ?
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Unknown (ZIP)
2018-11-03 01:45:48
無常にしても、空にしても、無我にしても、個々の要素は、常に仏教全体的なものの要素として理解する必要があるわけです。
お釈迦様の教えが現に今あるわけですから。
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ミネラルウォーターは嫌い (Unknown)
2018-11-03 01:43:06
>「我」が存在しない死者の「無我」の集団が・・、

それはムキキの世界っしょ?

縁起によって輪廻するって、縁起によって縁起する、輪廻によって輪廻する、と二重構造になってませんかね。

そんなに欲張らず、どちらか一つで説明してもらいたいところですね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-03 01:32:51
>スッタニパータによれば、お釈迦様は、
「〜世界を空なりと観ぜよ。」
と言ったただけです。


ZIPさんは、その「空」の意味をどう解釈していますか。

我、アートマンは無い、無我。

我と我がものが無い。

頭の中の認識を無にする、何も存在していないと思う。

その三つが経典の他の箇所で言われているようですが。

スマナサーラ長老がどう解釈しているのか、その法話を聞き逃しました。いずれ本になるようですが。
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吾輩は水であるの御水さん (水商売が苦手なアタシ)
2018-11-03 01:32:40
>アートマンは無いけど、縁起によって輪廻するのだ・・

縁起とは、
何かと何かと何かと何かが相互作用を起こして、或る「果」が出てくるという意味で。
生者の間で言う、精神的相互依存関係。
(注;多少の物質的相互関係も含まれるが・・)

そこに死者が絡んでくると、
「我」が存在しない死者の「無我」の集団が・・、
これ即ち、無我魂こそ輪廻業界における、「何かと何かと何か」なんだよ!!
とかって奇妙な話だよね。

そこでSさん辺り、
「何か」とは、死者が生前に持っていた残念観(=愛執エネルギ―)だと言い張るが、

その愛執エネルギーなるものには
「私は誰ガシで御座います」というID意識も永遠にくっ付いて行くモノなのか??

まあ、ホント不思議な思考法、
ワチキにはゼンゼン分かりまッしぇ~~ん!!

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Unknown (Unknown)
2018-11-03 01:11:05
南さんとの対談でも、テーラワーダは、アビダルマの丸暗記というような事を言われてましたね。S長老は、そんなアビダルマは必要ない、捨てちまえ派みたいですね。

ところでZIPさんは、無常と空は同時進行していない、という事でしょうかね。分けて考えているから、恒常とされているのでしょうかね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-03 01:02:33
テーラワーダ でも、初期経典に心に響かない部分がある人は、自分なりに考えて対処している人がいるようです。

でも、それは少数派だということでしょう。

スマナサーラ長老も、個人的な見解を言うことがあります。どうやらそれで教団から締め付けられているようです。
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 00:55:39
忠実とは、思考停止にもなりやすいのでしょうね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-03 00:51:50
>これだと、なかなか頭悪い集団となりませんかね。


初期経典に忠実な集団、ということでしょう。
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 00:45:47
>釈迦の無記を、10無記に限定している、ということでしょう。

これだと、なかなか頭悪い集団となりませんかね。
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 00:42:48
>お釈迦様の立場は無常ではなく、恒常として
理解して差し支えないと思えるわけです。

私には差し支えますから、これ以上は無記で。
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Unknown (たかはし)
2018-11-03 00:42:15
>テーラワーダは、無記をどう読んでいるのか、読めているのか、疑われますね。


テーラワーダは、断滅でも常住でもない、縁起、ということを、アートマンに関する無記とは解釈せずに、アートマンは無い、無我、という意味に捉えているようです。

釈迦の無記を、10無記に限定している、ということでしょう。
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 00:38:31
>スッタニパータによれば、お釈迦様は、「〜世界を空なりと観ぜよ。」
と言ったただけです。


お釈迦様の立場は無常ではないわけです論と、矛盾していませんか。
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Unknown (たかはし)
2018-11-03 00:36:21
>スッタニパータによれば、お釈迦様は、
「〜世界を空なりと観ぜよ。」
と言ったただけです。


実践としての「空」ということですね。

それを、全ては、相対的な縁起で、無自性だ、と理論化したことが、実体論に結びつくだろうか、と思えるのです。
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Unknown (ZIP)
2018-11-03 00:35:32
お釈迦様の立場は無常ではなく、恒常として
理解して差し支えないと思えるわけです。
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 00:34:38
 
>テーラワーダ では、そう説明するようです。

テーラワーダは、無記をどう読んでいるのか、読めているのか、疑われますね。
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 00:30:34
>中論が、実体論に結び付くというのが、私にはわからないです。

どういう意味ですかね。
S長老の中論は、実体論に結び付けている、と言いたいのですかね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-03 00:29:07
>では、輪廻が成立するとは?


無我なのに、不滅の実体が無いのに、なぜ輪廻が起きるのか、という意味ですか?


生きてる時にも心は刹那に生滅を繰り返している。不滅のアートマンが有るわけではない。無我。

生きてる時にその心が為した行いが業を作る。

死んで心が滅した直後に、その業が、結生織(生きてる時の五蘊の識とは別もの)を作る。

その結生識が母胎に入る。

それが輪廻。

テーラワーダ では、そう説明するようです。
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Unknown (ZIP)
2018-11-03 00:25:57
スッタニパータによれば、お釈迦様は、
「〜世界を空なりと観ぜよ。」
と言ったただけです。
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Unknown (たかはし)
2018-11-03 00:20:12
以前に紹介してもらったサイト。

http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2015/04/16/050000

>彼(龍樹)のせいでインドから仏教は消えてしまったんです、跡形もなく。

>彼の思考パターンをパクってシャンカラという人がね、不二論(ふにろん)を組み立てたんですね。


中論が、実体論に結び付くというのが、私にはわからないです。
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 00:20:02
>輪廻を成立させてる、とは、どういう意味ですか。

こちらが聞いてます。
では、輪廻が成立するとは?
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Unknown (我輩は水である)
2018-11-03 00:17:45
>アートマンは無いけど、縁起によって輪廻するのだ、ということじゃないのか。

無我だから、縁起するわきゃないじゃん?

アリえん

ゼロに何を掛けてもゼロじゃん?

アリうる
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Unknown (たかはし)
2018-11-03 00:12:35
>テーラワーダは輪廻を成立させてるのでしょうか。


輪廻を成立させてる、とは、どういう意味ですか。
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 00:08:14
>作られざるもの、すなわち、自性、つまり、アートマン。

そんなのアリ?

ZIPさんの釈迦の立場が、無常でないとは。

こんなのアリ?
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Unknown (Unknown)
2018-11-03 00:02:38
 
>不滅の実体が無いからこそ輪廻が成立する、というテーラワーダの立場に同じですね。

テーラワーダは輪廻を成立させてるのでしょうか。
補足説明をお願いします。
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おしい! (Unknown)
2018-11-02 23:50:42
シラン教ではなくて
ホットケ教

つまり仏教
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Unknown (ZIP)
2018-11-02 23:50:26
スマナサーラ長老が龍樹を仏教を壊すきっかけ作った者として評価した理由はそこにあると思うわけです。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 23:39:37
>もし世間のすべてのものが空でないとするならば、生ずることも、滅することもできないであろう。


不滅の実体が無いからこそ輪廻が成立する、というテーラワーダの立場に同じですね。
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ケイレンさん (Unknown)
2018-11-02 23:36:59
>はい、院代に手紙を書きます。
>その決心が出来ました。

何の事ですか??
ご自分の意見をはっきり明記して下さい。
キチンと理由を添えて・・。

ケイレンさんは、
かなり大々的、且つ、大っぴらに(仏教本)翻訳業を公言(公表)してしまったので、
いまやハッキリ、公(おおやけ)に向かって、
ご自分の立場表明をする義務(責任)を背負っていますよね。

注;なぜそう言ううかと言うと、
たかはしさんを中心にして、
ケイレンさんのブログを、
仏教教育所として活用する事の妥当性
が問われる事にもなるからです。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 23:35:49
277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

97 何ものかを信ずることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、──かれこそ実に最上の人である。

(ダンマ ・パダ)

作られたものは無常だと知った者は、作られざるものたる涅槃を知る。

作られざるもの、すなわち、自性、つまり、アートマン。

釈迦は、アートマンを認めていた。

そう解釈する人がいるようですね。


1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。

(スッタ・二パータ)


不滅とまで言っちゃってるし。

それは真理か対機説法の方便か。

悟れば分かる、ということなのでしょう。

まあ、後戻りしない、ということだと思います。
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Unknown (ZIP)
2018-11-02 23:16:45
結局、お釈迦様の立場は無常ではないわけです。
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タチバ様 (吾輩は無名(無明)である)
2018-11-02 23:13:15
リンク(=引用)有難うございます。
其処なんですよね、そこ、そこ!!

バラモン教はアートマン・実体を認める宗教。

仏教と言う宗教としては
アートマン・実体を否定することによって出現して来た宗教、

しかし釈迦は「無記」せよと言った。
アートマンの有無、実体の有無にかかわるなと言った。


「アートマン・実体」、アルアルのバラモン教
「アートマン・実体」、ナイナイの仏教
「アートマン・実体」、シランしらんの釈迦教

よって釈迦は非仏教だ・・・
難解方程式が解けた???
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Unknown (Unknown)
2018-11-02 22:43:52
有の思想や自性の否定。

「『中論頌』には、およそ縁起したものを空であると説く。それは縁あって仮説される存在であり、それはまた中道であるともいう。

いかなる存在も、縁起したものでないものはないから、それ故に空でない存在は有り得ない。

もし世間のすべてのものが空でないとするならば、生ずることも、滅することもできないであろう。」
(中村元)


仮設の意味するところ
誠にヤヤコシイ。
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立場 (Unknown)
2018-11-02 22:26:12
http://d.hatena.ne.jp/chuchan/touch/20090512/1242076986

S長老は空は空論と、否定か揶揄?されていませんでしたかね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 18:25:34
龍樹は、中論で、

「有る」が無いところには、「無い」も無い。

「無い」は、「有る」の相対概念だから、有るという概念の無いところには、無いという概念も無い。

とか、

「無自性」「空」は、執着から脱するための仮設だ、

というようなことを言っていますね。

結局、有無の想いから解脱することが目的、と言えると思います。

有無の無記の意味は、それだと思っています。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 18:06:18
>カッチャーヤナよ、 世界の生起 を、あるがままに、 正しい智慧 によって見るものには、世界において 「 無い 」 ということはない。
  
>カッチャーナよ、 世界の滅 を、あるがままに、 正しい智慧 によって見るものには、世界において 「 有る 」 ということもない。


これは、保留というより、断定だと思っています。

この世は、断滅でも、常住でもないのだよ、と。

しからば、何なのか。

それは、縁起なのだと。

ということは、アートマンは無い、ということじゃないのか。

アートマンは無いけど、縁起によって輪廻するのだ、ということじゃないのか。

そう考えたくなりますね。

テーラワーダ は、その立場のようです。

でも、有ると言ったら常住論者と同じになるし、無いと言ったら断滅論者と同じになってしまう、と言ってる経典もありますから、そう単純じゃないと思っています。

人間存在の本質(根拠)たる不滅の実体、アートマンの有無については、無記だ、と言ってもいいと思えます。

ただ、それについて無記だから、釈迦は輪廻否定だ、とは結論付けられないと思っています。

輪廻については、無記ではないのですから。

そこが、釈迦の言説のややこしいところだと思います。

輪廻否定派にとっては、輪廻は方便だ、というのが落とし所なのでしょうね。
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Unknown (桂蓮)
2018-11-02 17:00:44
はい、院代に手紙を書きます。

その決心がつきました。
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茂木さん著書にで (Unknown) 2018-11-02 15:36:01 (桂蓮)
2018-11-02 16:51:22
茂木さん著書にで (Unknown)
2018-11-02 15:36:01様へ

『働き始めて暫くすると「何がよいか」はわかっているのに、いざやろうとすると「再現できない」というギャップに直面。』

上記の引用は去年、院代に会った時、
院代の予言でもありました。
その可能性への対策A,B,Cなど
私に多様な選択肢を提案して下さって、

焦らず、ゆっくり進めることを提案してくれたのです。
3年、5年かかってもいい、まあ~10年以内に死ぬ見込みはないけどね、とジョークを言って
わっはっはと愉快に笑ってました。

当時私は意気揚々でしたから
春までに全て仕上げる意欲でしたが、

>働き始めて暫くすると「何がよいか」はわかっているのに、いざやろうとすると「再現できない」というギャップに直面。<
して
身動きできずにいたのです。

一年半の自分のやるせない不甲斐なさに責められて
できないと言って逃げようかとか
あっさり諦めようかとか
結構、逃げ道ばかり考えてました。

その日々の苦しみが一気にきて
涙、鼻水流しています。

泣いたこと無かったのに

私も泣ける一応、人間ですね。

OUTPUTですね、はい。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-02 16:08:07
見ず知らずの者(m)さんは、御水さんですか?

御水さん命名は、気に入らなかったのでしょうかね。
返信する
「食のクオリア」 (Unknown)
2018-11-02 15:53:42
茂木さんは、このような本も書いていた、書かされていた?ようですね。

食という人間にとって本質的な問題について、二年間考えた結果らしいです。

食に関する文章を連載しませんか?と打診され、最初は書ける気がしない、はしたない、人前で裸になることに似ていると感じがしていたが、羞恥心は精神の健全なる反応とし、始めてみると以外に面白く、恥ずかしい気持ちは上手に乗り越えて、自分を開くためにこそあると、チャレンジすることにしたそうですね。
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訂正 (Unknown)
2018-11-02 15:53:21
最後の三行削除願います。
返信する
無記に関する「10個の問い」by高橋さんコメ@11-02,06:16:11 (見ず知らずの者(m))
2018-11-02 15:52:03
①~④に出てくる
世界は永遠であるのか、永遠でないのか?
世界は有限であるのか、無限であるのか?
については(釈迦の態度は)無記である・・・

⑤~⑩に出てくる
生命と肉体は一緒か別か?
死後も存在するのかしないのか?
についても(釈迦の態度)は無記である・・・

についての南さんの解釈は、
此処で言う「永遠」とは「世界は実体として存在するのか?」という問いの事であり、

また、「無限」も同じで、
世界が「同じものが何処までもそのまま不変であるのかどうか?」という問いの事で、
要するに世界が「実体」かどうかを問うているのです。
これらをペンディング(答えを保留)するのは、
まさに「無記」という考え方の徹底であり、核心です。
(・・と南さんが述べている)。

それ故に「無常」の本質がどうなのかは、①~④での問いと同じ事で在り、
それ故に釈迦としては「無記」だという事に成る。

また⑤~⑩の問いに対して「無記」であるとは、
「無我」についても無記であったのが、
釈迦の意図したところであった・・・

と、南さんとしては、言いたいたいらしいです(たぶん)。
結論:実体、無自性、無常、無我は断定では無く【無記】である(=そうかも知れないし、そうでないかも知れないと、断定を避けるのが釈迦が意図した処であった)

…らしい(per 南さん解釈??)



つまり、実体が有るのか無いのかの答えを保留するのが「無記」ということであり、
(=即ち、自性か無自性かの答えを保留するのが無記という事で在り)、
従って無常


返信する
茂木さん著書にで (Unknown)
2018-11-02 15:36:01
「脳を活かす仕事術
<わかる>を<できる>に変える」

茂木さんも、自分の夢と現実にギャップに苦しみ、最初の挫折は、大学院時代で就職先が決まらず、ドクターオーバーになる危険性もあり、不安な日々を送られていたようですね。

いくらアイデアが沢山あっても、「俺はこんなもんじゃない」という肥大化した自意識と現実との巨大なギャップ。4月から行くところがない苦しさ。

そんな時に指導教官から、脳科学の世界的権威である伊藤正男先生を紹介されます。先生はちょうど、理化学研究所で「脳科学研究センター」を立ち上げようとされていて、そこで理論家を探していたのです。とても緊張して面談に行くと、開始3分後に「じゃあ4月から来てよ」というアッサリ返事をされ、全身から力が抜けたとのことでしたね。

しかし、働き始めて暫くすると「何がよいか」はわかっているのに、いざやろうとすると「再現できない」というギャップに直面。

「ああでもない、こうでもない。そもそもこの考え方であっいるのか?最初から考え直してみよう。」と頓挫してしまう。

なかなか納得できるかたちにならず、「中途半端なかたちで発表できるか!」とムキになっていた。

そんなある時、先輩から「悩むのもいいけど、一度かたちにしてごらんよ。一本目の論文を書いたら、世界が変わって見えるよ。」とアドバイスをくれた。

研究は終わりのない作業です。
完璧を求めるあまり、出口のない無限ループに陥ってしまうことがあります。そうならないためにも、一度どかで、「見切り」をつけなければなりません。

そこで書いてみたところ、スーっと楽になりました。これまで気付かなかった問題点や課題がハッキリ見えてきたのです。その時、確かに世界が変わって見えました。

その後、脳のことでわかってくると、なぜ「いいもの」がわかっているのに、「実現できない」のか?という謎が、解けてきました。

それは、脳の「感覚系学習の回路(入力)」と、「運動系学習の回路(出力)」に秘密が隠されていました。

問題は、入力と出力を司る領域が、脳内で連絡を取っていないところにあります。ですから、感覚系と運動系のコミュニケーションを取るには、一度情報を出力しなければなりません。

実現できないのは、この二つのバランスが悪いことが原因だったのです。感覚系に対して運動系の発達が遅れているからなのです。

逆にいえば、運動系を鍛えていけば、アウトプットを「自分がよいと思うもの」に近づけられるわけです。

私達はつい「脳とは考える器官」と捉えがちです。考えることは脳の最も主要な役割の一つですが、行動するために身体を運かすことも「脳」が主導で行っていることなのです。

============

内容を少し抜粋し少し纏めてみましたが、長くなりすみません。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-02 14:39:09
お水さんに、心を開かれているようですね。

通常、水知らずの人に、あのようなアドバイスをするような方は、そうそう出現しないかと思われます。
これも、仏縁というものでしょうかね。


御水を大切に。
返信する
追加など (桂蓮)
2018-11-02 14:17:19
Unknown (Unknown)
2018-11-02 13:30:54様へ追加

私は頑固者で
子供の時から、先生や親でさえ私に分かることを強制できなかったです。
教えがいくら正しくても、
私が納得できない知識や教えに対しては
受け入れることを拒んで
沈黙を貫いてきました。

ですが、そのような私の頑固さを
私の大学での恩師は認めてくれましたね。
認めながらもそれに叱咤を加えてくれたので
自分の頑固さに余裕を持つようになりました。

Unknownさんの私への指摘は
その恩師に似ているところがあって
素直に受け入れたいことに繋がる感じがします。

適切なアドバイスを頂き感謝しております。

返信する
水さんへ (Unknown)
2018-11-02 14:13:26
隠れ師匠の方のようですね。

我々にとっても大変貴重な存在ですから、これからも御教示お願い申し上げます。
返信する
Unknownさまへ (桂蓮)
2018-11-02 14:02:23
Unknown (Unknown)
2018-11-02 13:30:54様へお願い

もし、差支えが無かったら
名前の箇所に『水』か『H₂O』だけでも示して頂けませんか。
名を示すことで、誰だろうと考える時間が省けますし、
私が特に注意を払って読めるからでのあります。

私が知識の海で溺れかけている時、
いつも
手を差し伸べて下さる方のように感じています。

私に、私ができる範囲のことを具体的に要求され、
頭が整理できるような気にもなれますし、
私の退屈の泥から抜け出す助け人的な存在でもあります。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-02 13:58:50
仏教語世界の言葉は、実に多様性を感じますね。ですが南師的には、これも「無明」を指しているように、言われているのではないでしょうかね。まずは多様性を消化してから出てくるものを、吟味することになるでしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-02 13:51:24
>無常とは、過ぎ去るものということだから、満たされたと一時期的に思えても、その対象は、変わってしまうから、すぐに不満に変わる。

とりあえずは、これをどう制御していくか、修行でもあるのでしょうね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-02 13:51:00
>ケイレンさんにはそういう仏教語世界の言葉の多様性を理解したうえで、
翻訳業をしていただきたいと願っています。<

リンク先への解説は身に染みて伝わるものがありました。
しっくりくるものがありました。
私の喉の渇きをよくわかってもらえた感じですね。
常に、水をくださってありがたいです。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-02 13:48:04
>「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに

有るとか無いではなく、「明らかに観る」というところが、キモなんでしょうね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-02 13:45:13
>その頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。

これなんかも、強烈ですよね。
一休さんが、よく骨を用いていたのは、このようなことを説かれていたのでしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-02 13:38:09
>「 一切は有る 」 というこれは、カッチャーヤナよ、一つの 極端な見解 である。

これによると、「一切皆苦」も、<有る>と断定しないで見ることになりますかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-02 13:30:54
たかはしさんのリンク(@11-02 10:23:31)
感謝いたします。
和井恵流原始仏典現代訳、大変面白そうです。

ケイレンさんにも何かのヒントになるかもと思い、彼の『はじめに』から引用しますが・・

『私が原始仏典を調べ始めて、一番最初に驚いたのは、それまで自分がイメージしていた「言葉」の定義と、
経典の中で、釈尊が教え、示されている言葉の「定義」の間に、あまりにも大きすぎる「ギャップ(落差/差異)」がある事でした。
例えば、「無明」とは何かと言うと、
経典では「四聖諦(四諦)」を知らない事を意味するのだった・・・』
とか言っていますね。

同様に日本語で言う「苦」と釈迦の言う原語の「ドウッカ」が意味が同じとは言えないし、

南さん解釈では「無常無我」とは「無記」の事で在るとなり、
龍樹の中論でいう「無自性」だとて
宇宙全てが「無自性」という断定では無くて、

共に、そうであるかもしれないし、そうでないかもしれないという断定を避けた「無記」言葉(らしい)と言うように・・・

ケイレンさんにはそういう仏教語世界の言葉の多様性を理解したうえで、
翻訳業をしていただきたいと願っています。

返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 12:42:30
199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。


756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。

757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

(スッタ・二パータ)


277 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

278 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

279 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。

(ダンマ ・パダ)


無明とは、真理を知らないこと、という説明がされますね。

無常なものに執着しても、完全に満たされることはない。

無常とは、過ぎ去るものということだから、満たされたと一時期的に思えても、その対象は、変わってしまうから、すぐに不満に変わる。

だから、無常なものに執着するというのは、虚妄なものに執着しているということになる。

それが真に分かることが無明を破るということであり、それによって執着が滅せられる。

そこには、虚妄ならざるものたる安らぎ、涅槃がある。

私は、そう理解しています。
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Unknown (Unknown)
2018-11-02 12:27:20
>それを知ろうとするのは、悟りの役に立たない、ということだと思います。

無記のリンクにもありましたが、知ったところでも人生の役には立たないこと、という感じでしたね。
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少し違いますが ()
2018-11-02 12:21:12
>無明はどうなりますかねとは、無明の原因は、ということでしょうか。

縁起を出すなら、という意味ですね。

いずれにしても、無常が根本に流れていますから、それ以上はストップ、適当な答えを出すな、という教説でもあるのでしょうね。
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それも (Unknown)
2018-11-02 12:09:04
>単純に無記とは言えない。

無明をどう説くか。

無明からの縁起で苦となる、それを煩悩と説く、ですかね。

単純に言えばですがね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 11:53:09
無明はどうなりますかねとは、無明の原因は、ということでしょうか。


スマナサーラ長老によれば、無明の原因については、釈迦は、質問の範囲を超えている、として答えなかったとされているそうです。

それから、存在の始原は知り得ない、とも言ったそうです。

それを知ろうとするのは、悟りの役に立たない、ということだと思います。

無明を滅する方法さえ分かればいいということなのでしょう。
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Unknown ()
2018-11-02 11:47:22
賢いリンクをありがとうございます。

縁起を出すなら、無明はどうなりますかね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 10:23:31
https://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/35.html


有るとは言えない。

無いとも言えない。

では、何を説くか。

縁起を説く。

それが中道。

だから、有るのか、無いのかについては、単純に無記とは言えない。

縁起という答えを説いているのだから。

そう思います。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 10:18:17
悟っていないと輪廻する。

悟った人は、輪廻から解脱する。

じゃあ、解脱したら、死後は、どうなるのか。

それが当時のインド人の関心事。

バラモン教は、輪廻から解脱したら、人間存在の本質たる不滅のアートマンは、宇宙の根源たるブラフマンに帰入するとされていた。そして、そこは歓喜の世界だと。

でも、それが本当なのか誰も知らない。

アートマンなんて無い、死んだら終わり、断滅、輪廻も無い、と言う指導者までいる。

だから、悟ったという釈迦にそれを質問するものが現れる。

それに対して釈迦は、

悟っていないと輪廻する。

悟ったら輪廻から解脱する。

というところまではバラモン教と同じ。

ただし、輪廻から解脱したら、死後にどうなるかは、心と身体が滅して、もはや測れない、論議出来ないとした。

なぜ、そうしたのか。

それは、釈迦は、アートマンを認めないから。アートマンが有ると言わないから。

そして、アートマンは無いから断滅だ、とも言わないから。

縁起によって輪廻する、と言うから。

それが中道。

そう思っています。
返信する
根拠 ()
2018-11-02 09:51:43
>滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。


これは、あらゆる事柄には根拠が無い、ということを示されていますかね。釈迦が断念したこと、ということでもあるでしょうかね。

この何事も誤魔化さない、嘘がない、正直な態度が、無記の示すところでもあるように感ぜられますね。
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 ()
2018-11-02 09:43:58
>たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。

わかりやすい引用でしたけどね。
この「数」としての譬えは見事ですね。奥深いものを感ぜられます。

世の中には、解決しようのないものもあるんだよ、だけどそれも自己の意識問題だから、自己を解決すれば片が付くでしょう、という感じですかね。

輪廻も、あるとかないとか数えることではなく、無記として消化すると片が付きますかね。

無記の示すところ、役割というか、多大なる驚異の思想を感じざるを得ませんね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 07:47:42
ただし、如来は死後も存在するのか、存在しないのか、という問いには、別のところで次のように答えています。


1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」

(スッタ・二パータ)


分かりにくいですよね。

滅びたなら、死後は存在しない、でいいですよね。

>それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。

わざわざ、こんなこと言わなくていいのに。

だから、またいろいろに解釈されてしまうことになるのでしょう。

実は、名称(心)と身体は滅するが、不滅のアートマンは残るのだ、ただ、そのアートマンは、言葉で言えないだけなのだ、と解釈する人がいるようです。

でも、測る基準が無い、論議できないなら、言葉で言えない存在として有る、と測ることも論議することもできないでしょうね。

心と身体が滅して、もはや輪廻しない、それだけ分かれば十分、ということだと私は思っています。

だって、苦しみが滅尽しているということは、それが分からないことは何ら苦しみになっていないということでしょうから。

そもそも、そこに問題意識がなければ、それは苦しみにならないですよね。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 07:32:05
ちなみに、スマナサーラ長老が、無記としたその10の問題の答えを釈迦は知らない、取り組んでいない問題の答えは知りようもないでしょ、と解説したのを私は聞いた記憶があります。

それがテーラワーダの公式見解なのか、スマナサーラ長老の個人見解なのかは分からないのですが。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 06:24:12
>で、無常無我とは無記のことであり、龍樹「中論」もその趣旨で書かれている、
と南さんは言っているらしい?・・・何故そう言う事に成るのか解説して下さいませんか?


ZIPさんなら分かるのではないでしょうか。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 06:19:41
だから、これを読んで、と引用したのです。


http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/blog-entry-691.html
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Unknown (桂蓮)
2018-11-02 06:18:32
>10問に対する無記 (Unknown)の論題提供は
私も知りたいと思っている事柄です。

それらを
>何故そう言う事に成るのか解説して下さいませんか?
に解答があるなら、積極的に知りたいです。
核心を得た問い方だと思います。
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Unknown (たかはし)
2018-11-02 06:16:11
無記は、ウィキでも簡単に調べられますよ。

世界は永遠であるのか
世界は永遠でないのか
世界は有限であるのか
世界は無限であるのか
生命と身体は同一か
生命と身体は別個か
修行完成者(如来)は死後存在するのか
修行完成者(如来)は死後存在しないのか
修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 06:13:15
>自分の意見を言う、これは論法であって
教義の理解とは異なる性質です。
私が言っているのは論法なのです。


引用だけで自分の意見を言っていないと受け取った、ということでしょうか。

でもそれは、引用した部分が、なるほどそうだと自分で共感した、自分で判断して受け入れたものだ、つまりは自分の意見と同じだ、ということに考えが及ばなかった、ということに過ぎないと思います。
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Unknown (桂蓮)
2018-11-02 06:12:53
たかはしさんの上記2つの質問には
私が文字を打っている時に投稿されていて
今、読みましたが
要するに
私がいっている韓国流の自己主張は論法なわけです。
宗教の教義については
異なる宗教同志で論議や議論がなされていたケースは少なかったです。

強いて例を取れば
韓国流のキリスト教は
他の宗教に対し常に異論で攻撃してましたね。
だけど、仏教やカソリック教は
その異なる意見を受け容れて
静かでしたね。

要するに、韓国ではキリスト教徒が最もうるさい論争好きで、エホバの証人のようなマイナーの宗教も
その次にうるさかったでしたね。
返信する
10問に対する無記 (Unknown)
2018-11-02 06:11:25
どなたかのコメにも触れられていた様だったけど、
南さん言うには、
釈迦は10の質問に対して答えなかった。
それが「無記」という事(=無記の内容)だと解釈されてるようでしたよね。
その10個の設問が何かを此処で引用して下さいませんか。
で、無常無我とは無記のことであり、龍樹「中論」もその趣旨で書かれている、
と南さんは言っているらしい?・・・何故そう言う事に成るのか解説して下さいませんか?
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-02 06:04:02
>矛盾してないでしょうか。どう整合を取っているのでしょうか。<

基本的に社会の性質上、矛盾があるからこそ
それを教育や学びの生じると思います。
矛盾の無い現実や矛盾の無い社会が果たして存在できるのでしょう?

私の友人10人、無宗教の人少ない(私がその少ない人)
宗教で教義を受け容れていることが
>韓国では、自分の意見を言えない者を馬鹿にするわけです。<
という論法と関連づけ薄いと思うのですが、

自分の意見を言う、これは論法であって
教義の理解とは異なる性質です。
私が言っているのは論法なのです。

言葉だけを考えないで、全体の文脈を取ってください。

返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 05:57:21
引用して理由を説明するときに、なぜそれをお前は引用したのだ、というその理由を自分の言葉で説明出来ずに、あの人が言ったことだから、としか言えない人が馬鹿にされる、ということじゃないのでしょうか。

そうじゃなくて、もし、引用したことを問題にするというのであるなら、それは、非論理的だと思いますね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 05:51:35
自分が信じている教祖の教義を引用して、こう言われているから、私はこうする、と言ったら馬鹿にされるのでしょうか。
返信する
月さんへ (桂蓮)
2018-11-02 05:51:30
月のような者さんへ

恐山ブログコメント場では、私の関心以外の話題でしたので、討論する者同士の仲という枠組として
月さん(以下、月と省略)のコメントを見てはいました。
私と関りの無いコメンテーターに分類されていたので、申し訳のないことに今まで熟読したことが無かったのです。
ところが、私が無記について
人がどう考察しているか、その根拠なる思想の背景に、
仏教がどのように関わっているかを知りたいとの必要が生じていた真っ先に
月さんから、適切な解説があって、
『喉が渇いた時にもらった水』のようにありがたく考察を拝見しました。

なお、無記の意味を記事と見事につなげてくださった哲学的な考察の仕方に
今になってやっと、ありがたみが湧いたのであります。
愚かな我欲に改めて再考するきっかけになりました。
よって、自分の結論を裏切る(欺瞞)になれたわけです。
ありがとうございました。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 05:48:30
>韓国は無宗教の人は少なく


ということは、教祖の教義を受け入れている、ということでしょう。

それは、他人の言葉を受け入れている、ということですよね。


>韓国では、自分の意見を言えない者を馬鹿にするわけです。


矛盾してないでしょうか。どう整合を取っているのでしょうか。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-02 05:40:28
>ケイレンさんのコメントを見て、成程と分かった事が有ります(ハタと悟りました)。
アメリカと韓国では、
他者が何というかなんてお構いなしに(=無視しても良いから)、
『まず自分の意見を言え、兎に角、自分の心の中に浮かんだことを自己主張しろ』・・
を学校で児童におしえ、家庭で幼児に行う教育方針だ、ということですよね。<

要旨だけをとって纏めれば名無しさんは核心を得ています。
韓国では、自分の意見を言えない者を馬鹿にするわけです。
例えば、中学や高校で、たかはしさんのように
他人の説だけを前に出し、
良し悪しだけで判断すると
14歳の子が、”それじゃなくてあなたがどう思うかを聞いているんだよ”と言うと思います。
韓国人が米国では住みやすくなるのが
この教育法によって鍛えられているから
(現代思想は儒教思想と常に比較される)
すんなりと米国になじめるわけです。

そうすると結果的に
>悪い面は
井の中の蛙になって、世界がみえない。
自我の亡者になる。
自己の優越感に浸ってモウレツに臭い人間になる。
当然、釈迦の言葉なんて必要なくなる。<
ことになり、
それで、それを釈迦の言葉やキリスト教の教えを借りて、埋めようとしているわけです。

韓国は日本のコンビニより多く教会があるのは
この土台からかもです。
韓国は無宗教の人は少なく
教会や聖堂が日本のコンビニ数より多いです。
私の友達が10人いるなら
キリスト教6人、仏教3人、クリスチャンが1人くらいになるかもです。

仏教も韓国に日本より割高く広がっています。
よって、私も上記のメイン宗教に
全部経験できたわけです。

韓国人は言わば
自分が偉い傾向が強い国民で
戦争のような国の危機に直面しない限り
砂民族なのです。
そんなわけで、私も日本にいた時
韓国人同士の関りは0.01%くらいでしたね。

名無しさんは読みが深く
言っていることの他も汲み取れている鋭い感覚があると思います。


返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 04:39:46
450 立派な人々は説いた──

[Ⅰ]最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)

[Ⅱ]正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。

[Ⅲ]好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。

[Ⅳ]真実を語れ。偽りを語るな。これが第4である。

(スッタ・二パータ)


理を追求するために、私は、感情を排して徹底的に議論している、というつもりです。

それによって相手の感情面への配慮が乏しくなるのは申し訳ないですが、もし、仲良しクラブを望まれるのであれば、私も考え直しますが、管理人たる桂蓮さんは、それは望んでいないと私は理解しています。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 04:13:53
>896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。


1107 平静な心がまえと念いの清らかさ、──それは真理に関する思索にもとづいて起るものであるが、──これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたしは説く。」

(スッタ・二パータ)


勝ち負けのための論争ではなく、真理に関する思索のため、正しい理解のための議論にするように心掛ければいいと思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 04:00:47
月のような者さんが登場されましたね。嬉しいですね。


>無記とはあらゆるものを語らない、考えないと誤解されがちですが、そういう意味ではないですね。


その誤解は、南さんの解釈に共感したことによるのではないか、と私は予想しています。

ただ、南さんが、その意味で言っているのか、あるいは、南さんは、そこまでのことは言っていなくて、その言説が曲解されただけなのかは、私にはまだ判然としていないのですが。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 03:49:48
道元禅師の正法眼蔵は、「理屈で攻め立てて相手に言い勝つ」内容ですよね。

これが正法だ、と主張してるのですから。

実際、道元禅師は、迫害されて京都を追われることになってるようですし。

それから、論争するな、というのは、勝っても相手から恨まれるだけだから、というのも理由になっていたと思います。正法眼蔵随聞記に書かれていた気がします。それは自分の体験談のようですね。

道元禅師は、自分が学んできたものが正法で他は間違いだと論争したから、同門からも、他宗派からも嫌われた、ということだと思っています。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-02 03:34:07
>=いくらそんな言葉を持ち出されても、それに洗脳されるほど自分はヤワじゃない!!


それを怖がってたんですか。

引用されても、自分で、なるほどそうだと思えないものは、受け入れないですよね。

ましてや、ヤワじゃなかったら、尚更に何も怖がることも、嫌がることもないでしょう。

引用されたら、そうか、そんな考え方するのか、しかし私の考えは、それとは違う、で問題ないですよね。
返信する
おおお‼ 月さんが出た (Unknown)
2018-11-02 01:28:15
月さん
お久し振りっ子~ヾ(*´・∀・`*)ノ


「学道の用心、本執を放下すべし。
学道の心得は、先入観を捨てることである。

学道の人、言(ことば)出さんとせん時は、三度顧て、自利利他の為に利あるべければ、これを言ふべし。
学道の人は、ものを言う前に三度考えて、自分のためにも他人のためにも有益となることなら言うのがよい。

たとい我れ道理を以ていふに、人僻事言ふを、理を攻めて言ひ勝つは悪しきなり。

たとえ自分が道理にかなったことを言って相手が間違ったことを言っていたとしても、理屈で攻め立てて相手に言い勝つことはよくない。相手を言い負かしもせず、自分が間違いだとも言わず、何事もなかったようにそのままやめるのがよい。

ただまさに、やはらかなる容顔をもて一切にむかふべし。
ただただなごやかな顔つきで、すべてのことに接することが大切である。」


引用も大事かな(*´・ω-)b
返信する
追加 (Unknown)
2018-11-02 00:41:29
当然、釈迦の言葉なんて必要なくなる

=偉人の言葉の引用なんて本当にウンザリだ。
=いくらそんな言葉を持ち出されても、それに洗脳されるほど自分はヤワじゃない!!
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-02 00:31:26
ケイレンさんのコメントを見て、成程と分かった事が有ります(ハタと悟りました)。

アメリカと韓国では、
他者が何というかなんてお構いなしに(=無視しても良いから)、
『まず自分の意見を言え、兎に角、自分の心の中に浮かんだことを自己主張しろ』・・
を学校で児童におしえ、家庭で幼児に行う教育方針だ、ということですよね。

なぜトランプさんが出現するかはそういうアメリカ、(乃至、韓国)での教育方式の結果という事なのですね。

良い面もあれば悪い面もあるようですね。

良い面は
自我の確立がしやすい。無知でも自信をもって行動し積極的な人間に成れる。他者を抹殺できる。

悪い面は
井の中の蛙になって、世界がみえない。
自我の亡者になる。
自己の優越感に浸ってモウレツに臭い人間になる。
当然、釈迦の言葉なんて必要なくなる。
返信する
Unknown (月のような者)
2018-11-02 00:15:28
無記の話題を目にしますが、無記とはあらゆるものを語らない、考えないと誤解されがちですが、そういう意味ではないですね。答えが割り出せない、割り出せても特に意味がないありがちな十個の疑問には答えない、考えないというものですね。
「無常と無我と苦」はこの世界のありのままの姿を強調している言葉で、人の心を変える、悟りに向かわせるきっかけとなる基本的で重要な概念です。
「無記」に関しては対象になっている十個の疑問に無記を通すけれど、その態度が悟りに直結するとまでは言い難いわけです。無記は「仏教の答え」でもなく、悟りのきっかけでもなく、哲学的な立ち位置でもないのです。仏教を考察していく際の客観性を保つための補助として役に立つ可能性はありますが、基本的にただ仏教の修行者が抱きがちな十個の疑問に「意味がない」と言っているだけなのです。

「発つ鳥後を濁さず」という言葉があるのは、それを実現することがいかに難しいかを物語っているのではないでしょうか。
捨て猫の中にはまだ捨てられて間もないことが分かる、野良猫になりきれない、飼い猫としての作法しか知らない猫もいます。その行儀の良さを目にするのがとてもつらい。
動物を飼いきることができない、「発つ鳥後を濁さず」ができない人間のせいですが、「かわいい」という情緒を適切に扱いきれず、結局おぞましさを露呈する人間本来の限界を見せ付けられて私は動揺するのでしょう。
しかし様々な事情を考慮すれば、猫を捨てる人をあまり非難する気にはなれません。こういう時も結局私が頼るのは仏教であり、自己を律する道へ向かうようです。結局なにがしたいのかといえば、私は自分の中の「猫の味方という欺瞞」を解体したがっているのです。猫の幸福と隠蔽された自己愛を履き違えたくはないのです。別に猫を飼っていないし、飼う気もないけど、心構えとしては猫を捨てない人間になりたいということです。「発つ鳥後を濁さず」の作法を実現するためには「欺瞞」の考察が有効だと思うのです。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 22:54:53
なお、釈迦の直弟子の中で智慧第一と言われたサーリプッタは、ジャイナ教の文献において、ブッダとされているそうです。(中村元氏の解説による)

初期経典においてサーリプッタは、釈迦から説法を任される場面が多くあります。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 22:50:38
参考文献「至道無難禅師集」公田連太郎編 昭和43年 春秋社

「迷いてはこの身に使われ、悟りてはこの身を使う」


「衣を着るほどの人、必ず女のあたりへよるべからず。いかに身にあやまらずとも、心にうつるなり。故に女にちかづくは、かならず畜生のけいこなり。老僧の女をいむは、畜生の心のこる故なり」


「何事も修行とおもいする人は、身のくるしみは消えはつるなり」



「ころせころせ我身をころせころしはてて、何もなき時人の師となれ」


禅の名言を引用して、気持ちを対弁しておきます。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 22:43:11
桂蓮さん、了解しました。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 22:39:21
>テーラワーダでの人間が悟れる最高位は『菩薩』までで、人間は『如来』にはなれない・・・とかですよね、たしか、たかはしさん。


初期経典では、悟りが四段階になっていて、完全な悟りが四段階目で、それを達成した人が阿羅漢と呼ばれる。

釈迦も阿羅漢。

だから、悟りの境地は、釈迦も悟った弟子も同じ。それは苦しみの滅尽。

ただし、釈迦は、師がいなくて自分で工夫して悟りを実現した人で、自分のことを、伝承されてきたブッダ、如来と名乗り、そんな釈迦を尊敬している弟子は、悟っても自分達のことをブッダとか如来とは名乗らなかった。

説法の能力でも釈迦には及ばない、という思いもあった。

菩薩というのは、初期経典では、前世も含めて悟る前の修行時代の釈迦のことを指す。

大乗になると、菩薩は、釈迦以外の者で、ブッダと同等の実力がありながら、あえて悟らないで何度も生まれ変わって衆生を救うという存在にされ、だから、悟って輪廻から解脱してしまう阿羅漢より上位とされた。

やがて、大乗では、大乗を実践する者を菩薩と言うようになった。

(今回は、何箇所からも引用するのが煩わしいので、自分で纏めました。)

(私の纏めが合っているかどうかは、自分で確認してみて下さい。)
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 22:25:04
コメントを遡って読み直したら
私の質問自体、曖昧でしたね。

>2018-11-01 16:11:30
たかはしさんへ
無記ということばの解釈についてですが、
ご自身がどういった理解でその言葉を使っているか、よくわからないので、もう少したかはしさんの見解を聞かせてください。
引用や偉人の言葉を借りずに
どのように受け容れて、使っているかが知りたいです。
『以前、インドで作られた仏陀の生涯を描いたドラマ
50エピソード分を全部観たことがあります。』
》>悟りの実現の役に立たない問題は相手にしない、ということにしたから、割り切れた(悟りが実現した)のでしょう。<
と書いた後にウィキペディアからの無記を引用して下さったのですが、
どうも、引っ掛かる何かが(合っていないような)あって聞きたくなりました。<<

上記が私の質問への発単でしたが、
今読むと言われているとおり、質問の要旨が掴めないですね。
『『以前、インドで作られた仏陀の生涯を描いたドラマ
50エピソード分を全部観たことがあります。』』
その後に無記について書いたのでしたが、
クリックミスで消されたことを確認せず、そのまま
書き込んだと誤解して投稿してしまったようです。
すみませんでした。

私は投稿する前に見なおす時もあれば、
そのまま投稿してしまうケースがあるので
見直す習慣をつけなればならないと反省しました。

もう無記は言及しなくていいです。
その意味や比較がなされたとしても
私に意味が無いし
原文と日本文の訳の差が分からない以上
日本語の問題になってしまっていることが分かりました。

質問があいまいなのに
答えを具体的にしろと言うのは
それこそ、非論理的でしたね。
すみませんでした、以後気を付けます。

返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-01 22:13:51
神の話をされていた時に、「こうあるべき」という固定観念への嫌疑とは反対に、コメントに対しては「こうあるべき」というようなものを、求められている気もしないでもないような。

まあ要求と妥協の線引きを、あまりギチギチにしようとすると、窮屈になる面は出てくるでしょうかね。
返信する
釈迦の神格化問題(仏教縁起) (Unknown)
2018-11-01 22:13:38
『困った時の神頼み』

『神様、仏様、どうぞ私の窮地を助けて下さい』(=救ってください、救い出して下さい=他力本願)。

人(=通常の人・・)は誰でもこうなるものでしょう。

人が絶体絶命の窮地に陥る様な問題に出くわした時、
自力で解決出来無いと分かった時に、
神の力(=他力本願=神通力)に頼りたいと思うのは、
人間の心の自然の発露だと思われます。


キリスト教はキリストが神の子と思われたからキリスト教が成立したが、
単なる人間の1人の「預言者」のままだけなら
キリスト教の前身の「ユダヤ教」の一派でしかいられなかった筈です。

仏教も同じ事で、後続仏教僧侶がブッダを神格化しなければ、ただのバラモン教の一派にすぎないままであった筈だと思われます。
だったら(=釈迦を神格化しなければ)仏教と言う宗教は生まれていなかったのでは無いでしょうか。

テーラワーダでの人間が悟れる最高位は『菩薩』までで、人間は『如来』にはなれない・・・とかですよねたか、たしか、たかはしさん。

しかしこの世で生きた人の中で、
釈迦だけが釈迦如来と呼ばれるようになった。
つまり、
この世でブッダだけが人から神へと昇格したと思われたわけです・・仏教生き残りの為の後代僧侶の戦略で・・

返信する
提案書 (Unknown)
2018-11-01 22:06:12
対策①

>なるほどそうだ、と思うこと

これは、御自分のブログにて、纏めてみては如何でしょうね。

特に急ぐ必要もないでしょうし。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 21:45:35
引用した記事と同じ内容を自分で書くのは、難儀です。長文ですから。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 21:37:01
以前にも言いましたが、桂蓮さんが私のコメントで変われないように、私も桂蓮さんのコメントでは変われない、という側面があるでしょう。

でも、いつか、なるほどそうだ、と思うこともあると思います。

今は、無理に合わせる必要は無いと思います。

桂蓮さんが、私の無記の理解に対する違和感の内容が明確になったら、その時にまたやりましょう。
返信する
そういうことでしたか ()
2018-11-01 21:31:18
とにかく引用やリンクは、己の中だけに留め、とにかく自分なりに解釈した無記を提出しろと、こうなりますかね。

難儀なことかもしれませんが、対応して頂くしかないか、しないかでしょうかね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 21:24:54
私が文字を打っていた間に
また、部分的な指摘が結構ありましたね。

全体の流れを把握してから
出直すか、
または、方針を変えないスタンスでしたら
私もこれ以上、追及する必要が無いと思います。


私がここまで
『伝え方』に拘るのは
今までのコメント傾向を見てきて
どうせ、討論するなら
私にも有意義になるコメントの仕方をしたく
私流の論理性を持ち込んだのです。


返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 21:24:11
>ご自身がどういった理解でその言葉を使っているか、よくわからないので、もう少したかはしさんの見解を聞かせてください。
引用や偉人の言葉を借りずに
どのように受け容れて、使っているかが知りたいです。


私の理解は、引用したものと同じ、ということです。

自分で書くより早いから、そうしています。

桂蓮さんの質問が漠然すぎるから、それを読んで疑問に思う箇所を指摘してもらいたいのです。


>何が引っ掛かっているのか、明らかにしていきましょうよ。

そういうことです。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 21:16:20
確かにここは仏教の教えに関わるコメント欄になりつつありますが、前回の記事コメント欄で
私が皆様に乞うていることを表明したので、
それに他の方から了解、助言などを頂きながら
『各自の考えを示す』ことを
なるだけリンクや引用無しで
生の議論をしていくかの流れになっていると
私は思うのですが。

その過程で
私がたかはしさんに
引用とリンク無しで意見を訪ねた時に
また、リンクを添付され
読んでから引っ掛かる箇所を比較しようと来たので、
それは、私の要望を無視した結果になりましたね。

正直に言って、
その時代、仏教専門サイトは有り溢れて
私も仏教の無記だけをとり知る必要があれば
無記を検索して
数えられないサイトが出てくる時代なので
リンクや引用は
もう、みんなが共有するものになってます。


ネットが無かった私の大学の時代さえ
引用と文献を使用しないで討論しなけれればならなかったので、私は引用やリンクを
どう解釈しているか、を訪ねたのです。

この私の意見に
正誤の判断を下す前に
なんの意図で話をしているかに着目してもらいたいのですが。

返信する
そうでしたかね ()
2018-11-01 21:06:50
>私の方針は、変わっていないのです。

それでは、そういうことで。
返信する
Unknown ()
2018-11-01 21:00:40
>部分的な個所をとって、話を変えることは相手の期待を裏切ることに為りかねませんし、

一連の流れを見ると、これも少しは変容したのではないでしょうかね。

文体の不一致は、あまり見られなくなったように映ります。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:59:39
>知識をどのように理解できたかを
根拠を示しながら
読む人を理解へ導く、それが論理的な方法だと思います。


私が言いたいのもそれですよ。

根拠を明示して下さい、ということです。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:56:47
余りという言葉の意味に、解決したいが解決できずに残ったもの、残念なこと、というニュアンスが全く無いなら、余りという言葉を使うのはいいだろう、と条件付きですから、私の方針は、変わっていないのです。

私は、当初から、余りという言葉を、解決したいが解決できずに残ったもの、残念なこと、というニュアンスで使っていたからです。
返信する
そうですね ()
2018-11-01 20:56:37
>どうも、引っ掛かる何かが(合っていないような)あって聞きたくなりました。

まず、どのように引っ掛かり、合っていないように思うのか、を提示してもらわないことには、返信にも困りますよね。というより、答えようがないというか。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 20:55:53
私流でいうと、
たかはしさんは論理的であると言えません。

知識があるから知性的だとは言えなくて
知識をどのように理解できたかを
根拠を示しながら
読む人を理解へ導く、それが論理的な方法だと思います。

論理的な思考は
誰がAとBを言った、そのことはCから由来するが
そのCはDに影響されたと推定できる。
その推定はAやBとの関連性がCによって明かされるが、CやDの枠組みのほかにもXの要因がYの媒介を必要とする。
よって、AとBはXとYに相関する、というような展開を持って自分の考えを開示する過程だと思うのです。

アメリカや韓国はそのような自分の考えを訓練させう教育法であって、ただ知識を羅列させる手法とは異なります。

部分的な個所をとって、話を変えることは相手の期待を裏切ることに為りかねませんし、
例えば、名無しさんが『一連の流れをみると』と全体的な捉え方を言っているのに、具体的にどこかを差し出せというのは、相手の見方を無視することになると思いますが。
返信する
変容 ()
2018-11-01 20:49:55
>具体的に指摘して下さい。

具体的には困難ですが、ウィキを参考に、当初に示されていた「余りがない」解釈が、後に「余りがない」解釈の「内容」が変わった、または「余りがある」解釈としたように映ったからです。

主眼は「無記」ですから、何度も吟味するに相応しいテーマでもあるのでしょうね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:42:16
>参考にしている、そう思っている程度でも、宜しいのではないでしょうかね。


それでもいいと思います。それを明示するならね。

これこれの経典を、私は、こう解釈した。

この学者の、この解説を参考に、私は、こう解釈した。

それを明示してもらわないと、議論が前に進まないでしょう。

だから、無記という言葉を何で学んだか、そこにどう書かれていたのか明示してほしいということです。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:37:26
経典や学者の解説を知らなくて、自分の知らない蘊蓄を根拠に反論されると、返す言葉が無くなる、ということを嫌がっているのかなあ、と思えて仕方ないのですが、どうなんでしょう。
返信する
Unknown ()
2018-11-01 20:34:21
>その根拠はこれである、

というより、参考にしている、そう思っている程度でも、宜しいのではないでしょうかね。

論理的とは、こういうことだ、と決めてしまうのも、思考を狭めてしまう恐れがある、という意味でですね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:32:25
歴史上の釈迦の言葉の意味より、自分の考えの方が重要だというのであれば、何で仏教を話題にしているのでしょうか、と言いたいですね。

もし、釈迦の言葉を自分流に解釈した仏教について語りたいのだ、ということなら、私は、そんなに自分に自信があるなら、そもそも、仏教なんて学ばないですよ、と言いたいですね。

また、自分の考えの根拠が、他の人の言説であることが、なぜいけないのか、そこも解せません。

他の人の言説に、なるほどそうだ、と自分が思ったから、それを根拠にしているのですよ。

自分で、なるほどそうだ、と思ったのですから。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:21:17
>一連の流れを見ると、無記に対する高橋さんの意識の変容もあったかと思うのですがね。


具体的に指摘して下さい。
返信する
訂正 ()
2018-11-01 20:20:21
>以外でしょうね

→如何でしょうね
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:20:09
それから、どちらが正しいか、という決着を付けようとするものではありません。

歴史上の釈迦の真実には、絶対の証拠はありませんから。

私は、こう考える、その根拠はこれである、という主張に対して、

それについては、私は、こう考えている、その根拠は、これである、

と披露して、その考察の合理性について検討することしかできないでしょう。

だから、あなたの理解はどのようなもので、それは何を根拠にしているのか、ということが問題になります。
返信する
Unknown ()
2018-11-01 20:18:38
一連の流れを見ると、無記に対する高橋さんの意識の変容もあったかと思うのですがね。

そうですね。桂蓮さんが比較検討にもウンザリしているなら、法に照らし、まず御自分の意見を述べられてみては以外でしょうね。

そこからしか、議論の展開も困難ではないでしょうかね。

なお、ウィキも誰かの解釈した一般論に過ぎないでしょうから、特に仏教では、必ずしも「正しい」見解でもなく、誤謬を生みやすい解説もあるのではないでしょうかね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:11:28
自分はこう理解している、その根拠はこれである、と明示するのが論理的ですよね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:09:30
桂蓮さんは、歴史上の釈迦が語ったことの意味は関係ない、自分の考えが大事だ、というスタンスなのでしょうか。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 20:06:23
私は、初期経典に出会って、そこに書かれていたことに、なるほど、と共感したわけです。

そして、仏教を自分の生活に活かそうと思ったわけです。

歴史上の釈迦が何を説いたか、その意味は、どういうことかを明らかにしようとすることと、

それはそれとして自分はどう考えるか、ということを分けて下さい。

今は、釈迦が説いたことの意味を話題にしていると私は思っています。

そこを混同するのは、論理的とは思えません。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 19:59:47
無記を何で学び、どう解釈しているのかを明示することが、論理的だと思うのです。

だって、仏教の話をしているのですから。

自分で考えた自分教の話じゃなくて、釈迦が説いたという仏教の話をしているのですから。

そうは思いませんか。
返信する
選択 (Unknown)
2018-11-01 19:12:43
どちらかを選ばないといけない時、何を基準にしますか?
返信する
たかはしさんへ (桂蓮)
2018-11-01 19:11:12
>無記という言葉を、あなたがどこで学び、そこにどう書かれていたか、ということと対比して考えるといいと思います。<

きつい言い方になりますが、結構無責任な答え方ですね。
誰が、どこの文献で、どのように書いたかと比較検討するのが、論議なら
それは他人の考えを評論するのであって
その評論は果たして、誰のために行えるのかが問題になるでしょう。

そのような比較検討は
それらを必要とする方と意味伝達が通じるでしょうが、
私には、その種の比較には関心が無いです。


無記を頻繁に使っているから
なぜ、そのように
片付けてしまうのかが知りたかっただけです。

無記の本来の意味が分かったからと言って
私には直接的な関連が無い訳ですが、

無記を解釈している人様の見方は
私にとって勉強になるわけです。

添付されたブログ記事は大変役に立つ学術系で
紹介されたことには感謝します。

比較検討、これ大学の時にうんざりするほどやってたので、もうそれには卒業しました。
返信する
ZIPさんへ (桂蓮)
2018-11-01 19:00:58
成程、私に言ってあげたい気持ちの深さは計れた気がします。

ですが、そのくらいなら
私には気休めの範囲で収まるかな、みたいな感じですね。
必要としたパズルの一部分にはなりました。

でも読んでいる内に
私の迷いは
どこなのか、
どこで迷ったのかが少し分かったような気がします。

他人の言葉を他の言語で替える際に生じる『自信の無さ』『根拠の欠如』
それは、気休めのような
状況を理解できて妥協する類ではないと
思うのですが、
更に奥に進むと、私が分からなかったある基準があるかなとも思えますし。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-01 18:49:59
言葉が多様性を持つ、という事実からしても
人間は本能からはみ出してしまっているわけ
です。
人と人が同じ生物であるにも関わらず、同じ言葉を話すことができないのはそのせいだと思えるわけです。
個というシステムは、単一のシステムだけでなく複数のシステムが折り重なって起動しているわけです。
個というシステムに、別の他人というシステムが重なり、さらに集団というシステムが上乗せされより複雑性が増していくわけです。
いくら同じ集団に属しているからといっても、お互いが理解できる部分はそう沢山ありはしないしましてや、同じ言葉を話す者同士でさえ解り合う事は容易ではないのにも関わらず、本人でもなければ僧侶でもない人が、言葉や考え方の違う異国の人達に、どうやって解ってもらう事ができるのか、ということを冷静に考えてみれば、絶対に不可能だとは言えないけれど相当な困難さを伴うわけであり、実現可能な確率は低いと言わざるを得ないわけです。
別に、桂蓮さんの能力が低いと言っているわけではなく、人間というシステムの複雑さがそうさせているわけです。
罪としての苦しさもあれば、
恥としての苦しさもあるわけです。
苦しさでさえ多様性があるわけです。
返信する
無記 (Unknown)
2018-11-01 16:56:37
高橋さんのリンク、ファインプレーですね!引用の使い方も、精進されたようですね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 16:41:37
無記という言葉を、あなたがどこで学び、そこにどう書かれていたか、ということと対比して考えるといいと思います。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 16:31:03
http://souryonotakurami.blog46.fc2.com/blog-entry-691.html


まず、それを読んでみてください。


>どうも、引っ掛かる何かが(合っていないような)あって聞きたくなりました。

何が引っ掛かっているのか、明らかにしていきましょうよ。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 16:23:08
添付された記事2件読みました。

2011年、2013年に書かれた記事ですね。

5~7年前の院代は
凄く真剣に記事に挑んだ感じを受けました。

視点が広い、それには感嘆!

引用、参考になり、ありがたいです。
返信する
たかはしさんへ (桂蓮)
2018-11-01 16:11:30
たかはしさんへ

無記ということばの解釈についてですが、

ご自身がどういった理解でその言葉を使っているか、よくわからないので、もう少したかはしさんの見解を聞かせてください。
引用や偉人の言葉を借りずに
どのように受け容れて、使っているかが知りたいです。


以前、インドで作られた仏陀の生涯を描いたドラマ
50エピソード分を全部観たことがあります。


>悟りの実現の役に立たない問題は相手にしない、ということにしたから、割り切れた(悟りが実現した)のでしょう。<
と書いた後にウィキペディアからの無記を引用して下さったのですが、
どうも、引っ掛かる何かが(合っていないような)あって聞きたくなりました。

返信する
ZIPさんへ (桂蓮)
2018-11-01 16:01:11
ZIPさんへ

その選択性について更に詳しく解説してもらえませんか?

『無動詞』編で言及した私の迷いへの根源なので、
翻訳に当たって
その選択の根拠について
まだ、
心が下りていない(ある基準に)ことの迷いを書いたのですが、
もう少し知恵を聞きたいです。

何にせよ、翻訳について
私の心からOKサインが出ないと
今は、動作を行えない無の状態なので
何かをせねばと....

返信する
食について (Unknown)
2018-11-01 14:22:32
マズイかウマイか。
本物か偽物か。

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/1d5df2cf65e3f83ac45ab097c39bb979

我々が如何に騙されやすい存在であるかを、食を通じて考察し、問われているようですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-01 14:09:43
「信仰とは、神を信じるもので、人を信じるものではないんだよ」

https://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/2c7b00ff5b296e8018e6c49f2997af7f

仏教とは、法を疑い信じるもので、釈迦や人を信仰するものではないんだよ、としてみました。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-01 13:47:38
>人間がいかに本能からはずれて

この「本能」とは何のことでしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-01 13:33:59
 
>そうなると弟子たちがブッダを人間には不可能な、前人未踏の事を成し遂げた神様みたいなお方として神格化するのが普通で、してはいけないという根拠は無いのかもしれないですよね


ですが釈迦は「人間として」、何事かを成し遂げた、という点はどうなりますかね。それを認めた上での「神」扱いなのか、認めないで神扱いしているのか、また釈迦を神扱いしたところで、それが何になるのかなど、仏教から外れていないかを問う必要がありそうですね。

釈迦は晩年に、「自灯明・法灯明」を提出したと言われていますね。その点を見ても、釈迦は自分を神扱いしていないし、自分(釈迦)を信じろ、という事を言われた様子はありませんよね。

ですので、してはいけない根拠はないかもしれない、と考えること自体、仏教を間違えている事になりませんかね。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-01 12:47:19
ある選択をする為には、あれも選べ、これも選べ、それも選べる、ということが必要なわけです。
どれか、を選べるということが条件として必ず必要なわけです。
どれかを選べるということは、他でもありえると思える事なわけですから、即ち、選択は偶有性がないとできないわけです。
その一方で、
偶有性を条件としない選択もまた可能なわけです
物事に対してある因果関係を理解したとすれば
選択など必要はないわけです。
何故なら、それしかないと思えるような事に対して、あれか、これか、などと選択の余地はあり得ないわけで、一義的にそうするだけの事です。

ある時は選択的であり、またある時は一義的であるということからすれば、人間がいかに本能からはずれて、訳の分からないものとして生きているのかが、理解できるわけです。
肯定的な言い方をするのであれば、
自由であるとも言えるわけです。
神格化する人がいたとしても、何ら不思議ではないわけです。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 11:22:10
コメントの流れについて少し。

今回の皆様のペースは落ち着いて見えますね。
速度制限守りながら
ゆっくり、のんびり運転ですかね。

このペースがちょうどいいみたいな感じもするし、
みんな、休み休みみたいな、

食事作法を神格(咬み覚)するほど
食べる時に暇ないかもです。
食べるのに夢中ですし。

家は食事しながら
思ったこととか、気になることとか
結構、話すので
食事は会話の時間ですね。

ですが、常に作法を夫に喚起させてはいます。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 11:14:37
コメントに応じたいのですが、
ギックリ腰が中々回復せず、
治るまで待てなかったから
庭の落ち葉を掃いてきました。

余りの激痛で3分の1くらいしかできず、
今、坐るのもやっとです。

激痛の中で落ち葉を掃くと
あまりの痛さに笑ってしまいました。
私は体の痛みはあまり気にしないタイプですが、
これは、これはそう簡単にいきませんね。

読んではいますが、
コメントをマメには書けないので
了解お願いします。

追伸
ZIPさんの添付Youtubeにいってみましたが、
途中で画面が黒くなったので、怖くなり消しちゃいました。
歌...ですよね、達観したみたいな。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-01 10:11:55
けいれんさん!
ケイレンさんは食事作法を神格化していませんか?
なにか根拠は無くても、
神聖に守るべき、尊くうるわしいモノ。
それは神格化と同じじゃあないですかね。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-11-01 09:20:06
https://m.youtube.com/watch?v=MwxAOs5raLg
返信する
Unknown (たかはし)
2018-11-01 08:06:13
釈迦の教えにおいて、

無記は、手段で、

目的は、悟り。

しかし、悟りなんて超人的なことは、無理に思える。

不滅の魂、死後の世界も、信用できない。

死とは何かが分からない。

自己という存在の根拠も分からない。

ならば、どうやって生きていくか。

そこで、無記を拠り所にする。

そういうことかと。
返信する
これが南式論理?? (Unknown)
2018-11-01 07:39:43
神格化した釈迦を敬うのも仏教の中にはいるが、
それは非仏教的仏教だ。

それは無記の表現様式美だ。
全てが空なら色はいろいろ。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-01 07:33:11
>仏教の基本思想は「(無常)無我」である・・

しかし、その本当の意味は「無記」ということである、
というのが南師の考えでもあるらしいですよね、たしか。

超越論にたいしては無記する、
あるかないかには関わらない。
あるかも知れないし無いかもしれない。
自性が有るとも言わず無いとも言わない。
それが仏教の無記であり、無常無我の本当の意味だ・・・
これが南流仏教ですよね、たしか。

そうなると弟子たちがブッダを人間には不可能な、前人未踏の事を成し遂げた神様みたいなお方として
神格化するのが普通で、
してはいけないという根拠は無いのかもしれないですよね
(これが一般的な仏様信仰、仏様=神様)。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-01 04:42:25
>釈迦は神になってはいけない、または為れないような隠れ意味があるように受け取れますが、その根本にある理由を伺ってもいいでしょうか?

まあ様々な理由があるでしょうが、仏教の根本思想には「無我」がありますよね。この立場で、神を説明できますか?できるなら、それを提示してみて下さい。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-01 04:34:20
 
>する、してはいけない問題ではなくて、仏教の在り方に『こうあるべき』という固定観念があるように受取りますが。

全然、違います。であるなら、無記にもならないでしょうね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-11-01 04:29:03
 
>仏教は釈迦が人間であって成り立つ宗教だと言うのですかね?

そうです。人間以外には役に立たないでしょう。

>神格にしてはいけないでしょうか?

逆に何故する必要があるんですかね。であるなら、仏教以外でよくないですかね。

釈迦が望んでいたとでも?
返信する
訂正させていただきます。チョットわかりにくいので・・ (Unknown)
2018-11-01 04:17:46
X・・・気切寸前(きせつ寸前)

〇・・・気絶寸前(きぜつ寸前)
返信する
釈迦の神格化問題 (Unknown)
2018-11-01 04:11:51
大勢派仏教では大いにケッコウ。
超越論反対派だが、それとなく無記で包み隠す、
まあ大勢派から異端児扱いされる南流としては、
それこそが「非仏教」だという事となる・・・と思います(高橋流語尾)。

まあもともと、生身の釈迦にとっては「苦笑い」はまちがいなく、
でもムキに成って反対する事も無く、無記でしたかは不明(だと思います!!)
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 04:10:37
ZIPさんの食事の苦は私も結構経験しました。

泊まりの坐禅修行体験が結構ありましたが、
当時は痩せていたから余計、
固い畳の上に坐り続ける苦痛になり、
姿勢を崩してはいけない雰囲気
足が痺れて、感覚が無くなり
お腹がすいたから食べたい欲求より
足に血が通れなくなり
足に障害がでる恐怖のほうが強かったでしたね。

固い畳の上に痩せている足、骨に直接体重がかかる苦痛
立った時、気切寸前でした。
暫く、立てられない時があって
結構、恥ずかしかったでしたね。

自分の弱さで
人に心配をかける、この経験は
恥そのものでしたね。

記事には書いてませんが
食事作法の修行のあの足の苦痛は
経験した人でしか分からないものでしょうね。

その瞬間、瞬間
3年の修行や30年の修行をやり遂げた修行僧の年月の重さを実感したりしましたけれど。

返信する
補足 (Unknown)
2018-11-01 03:58:19
『人は死ぬから生きられる』の論理的対偶は

『人を生きられ無くする為には、
人から死を無くせばよい(=人を死な無くさせればよい)』
という事みたいで、
う~ん、これって真実(=リアル)なのか、フェーク発言なのかと疑団がおこる・・・かも??
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 03:56:13
Q:これって、アメリカ原人のお宅のダンナでも理解出来る思考法なのでしょうか?
ぜひ旦那のご意見をお聞きしたいですね。

後で彼に直接聞いてみますね。
ところで、彼は今担当しているケースが多すぎて家でも仕事三昧で、聞ける時に聞いてみますね。

ところで、うちは死の受け入れ方について
たまに話し合っています。

私は死について、肯定的で受け容れ、
来るなら来い、みたいな直面方ですが、
彼は、生に執着派で話題にするのをやや避けてジョークで応じている感じですね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-11-01 03:46:09
>釈迦を神格化すると、もはや仏教ではないでしょうにね。

釈迦は神になってはいけない、または為れないような隠れ意味があるように受け取れますが、その根本にある理由を伺ってもいいでしょうか?

仏教は釈迦が人間であって成り立つ宗教だと言うのですかね?

神格にしてはいけないでしょうか?

する、してはいけない問題ではなくて、仏教の在り方に『こうあるべき』という固定観念があるように受取りますが。
返信する
ところでケイレンさん (Unknown)
2018-11-01 03:45:33
人体科学界異端児の茂木さんと、
電燈仏教界異端児の南さんが、
対談集「人は死ぬから生きられる」(2009年刊)で、

南さん曰くでは
「死がリアルに感じられる人こそが、
リアルな生の強度を感じるのだ」
(=人が死ぬという事に直面出来ない人は、うわっすべりの人生を漫然と生きているだけに過ぎない)、
みたいな意見を持っている様なのだけど(たぶん?です、本を直接読んでいないので・・)、

これって、アメリカ原人のお宅のダンナでも理解出来る思考法なのでしょうか?
ぜひ旦那のご意見をお聞きしたいですね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-31 19:39:33
ありがとうございました。
返信する
それではこの辺で (Unknown)
2018-10-31 19:33:57
釈迦を神格化すると、もはや仏教ではないでしょうにね。

お疲れ様でした。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-31 19:20:06
信者による教祖の神格化というのも、まあ仕方ないかなと。
返信する
あるある話 (Unknown)
2018-10-31 19:11:04
>ちなみに、無記とした問題の答えを、釈迦は、実は知っていたが、その答えを言うと、それに執着して修行の妨げになるから言わなかっただけだ、と解釈する人がいました。

これは、死んだ先を答えるようなものとも類似しますかね。修行の妨げになるから、というのも聞こえは宜しいでしょうが、それだけの事ではないだろ、と考えられないのでしょうかね。
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Unknown (たかはし)
2018-10-31 18:58:55
ちなみに、無記とした問題の答えを、釈迦は、実は知っていたが、その答えを言うと、それに執着して修行の妨げになるから言わなかっただけだ、と解釈する人がいました。

なぜなら、釈迦は、一切智者で、知らないことなど無いのだからと。

ブログで対話した人でしたが。

まあ、そう解釈したい気持ちもわかりますけど。

仏教の解釈は、一筋縄ではいかない、そう思いますね。
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余り (Unknown)
2018-10-31 18:56:47
そういう意味では、釈迦の法は、我々に寄り添っていてくれる、と考えております。
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そうですよね。 (Unknown)
2018-10-31 18:53:24
己の執着が無くなっていたとしても、問題は問題として残っていた、という感じですかね。そこに、余りを観るか観ないか、という視点ですね。
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Unknown (たかはし)
2018-10-31 18:50:26
>釈迦も、当時の人のように、知りたくて仕方ない事だったかもしれない、とは考えられませんか。


釈迦もそれを知りたくて、その答えを求めたが、どんなに修行しても得られなかった。

それに執着している限り悟れないのではと思って、その執着を捨てた。

無執着を目指して、そして、それを実現した、と私は考えています。

だから、余りではないと。

そして、弟子にも、役に立たない問題には関わるなと言ったと。

でも、余り、という言葉の意味に、解決したいが解決出来ないこと、残念なこと、というニュアンスが全く無い、ということなら、それを余りと呼んでもいいと思えますね。
返信する
ちなみに (Unknown)
2018-10-31 18:41:23
私は、ZIPさんではないのですがね。
返信する
だから (Unknown)
2018-10-31 18:39:32
 
>それから、釈迦が無記とした問題は、当時の人が知りたくて仕方ないものだったようです。

釈迦も、当時の人のように、知りたくて仕方ない事だったかもしれない、とは考えられませんか。
単に、答えられないから「無記」とした訳ではない、という立場で提起していたのです。つまり、余りを出していたであろう、という提起でもあります。
返信する
Unknown (ZIP)
2018-10-31 18:35:22
食事が苦行である、と思えたことがあるのは
今まで永平寺以外にはありません。
数百人が自分の膳に着くまでの間、自分の膳の前で正座をして待つということが、いかに耐え難い痛みを伴うのかご存知でしょうか。
食事の最中は冷や汗をかき、
椀を持つ手が震えます。
味わうことなどもちろんできはしません。
食事が終わって転がりながら退出する際に、
足指を骨折した奴もいました。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-31 18:32:13
>気にしなければよいだけの話になりませんか


それを簡単に出来るとお考えですか、ということです。

完全に、全く気にしない、ということが。

出来るというのなら、私には、羨ましいことです。

例えば、宇宙は有限か無限かという問題は、私は、つい考えてしまいます。

それから、釈迦が無記とした問題は、当時の人が知りたくて仕方ないものだったようです。

だから、悟ったという釈迦にそれを質問する人が現れたようです。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-31 18:22:52
 
>だったら、やってみて下さい。

何故、やるのですか?
役に立たない、相手にしない事なんですよね?

そのくらいの事なら、「無記」が気にしなければよいだけの話になりませんか、という提起をしているのですよ。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-31 18:11:15
>その、wikのことを実現するくらいなら、私は「悟り」を実現したことになるでしょうね。(笑)


簡単に実現出来ると思いましたか?

だったら、やってみて下さい。


>また、そのことだけ(wik)を「無記」とするなら、「何とでもいえる事」として、無記を解釈する罠に、陥りやすくなりませんかね。


どうして、何とでも言える事、なのでしょうか。

それから、その判断は、何を根拠にしているのでしょうか。

誰かがそう言っているのでしょうか。

それとも独自に考えたことでしょうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-31 18:06:07
>悟りの実現の役に立たない問題は相手にしない、ということにしたから、割り切れた(悟りが実現した)のでしょう。

その、wikのことを実現するくらいなら、私は「悟り」を実現したことになるでしょうね。(笑)

また、そのことだけ(wik)を「無記」とするなら、「何とでもいえる事」として、無記を解釈する罠に、陥りやすくなりませんかね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-31 17:50:34
悟りの実現の役に立たない問題は相手にしない、ということにしたから、割り切れた(悟りが実現した)のでしょう。


ウィキから引用。

無記(むき、巴: avyākata, アヴィヤーカタ、梵: avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、こうした態度が採られた。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-31 17:32:35
余りが出ないということが、「悟り」ということなら、わざわざ「無記」としなくとも、「悟り」か何かでも宜しくないですかね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-31 17:07:17
>でも、悟っていない私は、時々、相対性理論が気になって、それを「余り」にしてしまう。

>まあ、そういうことですね。


と私は書いてますが。
返信する
違うだろ (Unknown)
2018-10-31 17:02:56
見方が違いませんかね。

>まあ、そういうことですね。

これは、悟っていない、という人が、余りを出していない「こと」になりませんかね。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-31 16:51:35
>「悟り」命の人は、余りが出ない。


悟った人は、割り切れた人だから、余りが出ない。

悟り命の人でも、悟りを実現していなければ、まだ割り切れていない、ということだから、余りが出る。

そう思います。

そして、私は、在家として、出来る範囲で実践するということなので、悟れるはずもなく、当然に余りが出る、ということです。
返信する
どういうことか (Unknown)
2018-10-31 16:39:19
>まあ、そういうことですね。

本当か?

「悟り」命の人は、余りが出ない。
「悟り」不要の人は、余りを出す。
「悟り」無関心の人は、仏教以外。


こんなん出ました。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-31 16:32:28
ケイレンさんが光子と言う単語を持ち出したので、
光子と言う物体の移動(=飛行)という概念で推論を進めると、

光子は1秒間に(絶対真空の中を)30万Km進む訳ですよね。

ということは、
光子が内蔵時計を持っていたとすると、
その時計が1秒動いた時、神様が30万Km移動した光子を認知して下さるわけですね。

しかしアインシュタインさんに言わせると、
光速で移動する物体の内蔵時計は(経過)時間がゼロになる(=時計が動かない)と言っているのだから・・、

内蔵時計が経過時間なし(=経過時間ゼロ)なのに、
神様はそれでも光子が移動したと見るのか?

そうではなく光子がその場に永遠に止まったまま動かないと見るのか?(だって経過時計がゼロなんだから)

まあこれはワケわからない事態となりますよね。
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Unknown (たかはし)
2018-10-31 16:22:49
>例えると、釈迦の「無記」とも言えませんかね。


相対性理論を理解しても、目の前の苦しみは無くならない。

相対性理論を理解しなくても、苦しみの滅尽たる悟りは実現出来る。

だから、悟りたいなら、相対性理論を理解することに苦しんでいないで、それを理解したいというその執着を捨てなさい。

苦しみの原因は、執着なのだから。

それが完全に実現出来たら、相対性理論は、もはや自分にとっては「余り」ではない。

でも、悟っていない私は、時々、相対性理論が気になって、それを「余り」にしてしまう。

まあ、そういうことですね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-31 15:57:23
 
>相対性理論は、私の手に負えない、というのは実感しています。だから、それに取り組むのは止めています。

あ、思い出しましたけど、私には無理だから、とりあえず、取り組むのは止めるとしたんじゃなかったですかね。


例えると、釈迦の「無記」とも言えませんかね。
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Unknown (Unknown)
2018-10-31 15:19:55
茂木さんと南さんの対談本にて抜粋。

「たとえどんな立派な理論や思考を持ってしても、そこからどうしてもこぼれ落ちていってしまうものがあるわけです。

アインシュタインだって相対性理論において、時間がなぜ流れるかについての考察までは至っていませんし。」

余りある御話でしたね。
返信する
光子 (桂蓮)
2018-10-31 14:50:05
光子(ポートん)の速度は
人体の細胞にどのような影響を及ぼすか、とのたかはしさんの疑問だとおもいますが、

アインシュタインもその類の疑問があったようです。

自分が光速で移動していると仮定した時、
手鏡に自分が映るかについて
実際話されていましたね。

私が思うに、
仮に、私が光子だと仮定した時
光子として動くわけだから(光の速度)
その速度は
地球上の重力によって影響される速度と異なるわけで
光速自体の時間の流れは
他の粒子の速度と異なることになり、

結果的には成長速度も変わると思いますね。

ですが、それも極端的な例えに過ぎないので
先ずは、光子の働きを知った上から
速度の影響の差を議論した方がいいのではとも思いますね。

確か、今の科学進歩でも
光子について
明確に証明できた実験も少ないじゃないかと。

光子のスレット実験では
光子がどう動くかだけ分かったようだし、
光速より早い素粒子が見つかって
ノーベル賞をもらったくらいですよね。

相対性理論になると
みんな、決まりきった例えとか
タイムトラベルのようなあり得ない話題を持ち込んでは
それに討論できている自分を楽しんでいる気がしますしね。

科学でも証明されてない理論を
素人の想像で正誤を判断したりと
結構ややこしい難題ですものね。

しかし、今まで
アインシュタインの理論を
目に鱗が落ちるくらい説明できた科学者もいないから、
理論から100年が経っているというのに
今だ、アインシュタインが見た世界を究明できる科学者がないですよね。






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Unknown (たかはし)
2018-10-31 12:29:35
思い出したのですが、私が疑問に思ってたのは、高速で移動すると時間が遅れるということが証明されていて、その理論がGPSに使われている、ということだけど、その時間の遅れは、生物の成長のスピードにも影響するということなのか、ということです。

片方は10年経過していて、もう片方は1年しか経過していないとした場合、片方は10歳の身体で、もう片方は1歳の身体ということになるのか、ということです。

離れている両者にとって、お互いにそう見える、というだけのことに過ぎないのではないか。

両方が出会ったら、どちらも同じ身体の成長段階だった、ということになるんじゃないのか。

とまあ、そういう素朴な疑問です。
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Unknown (桂蓮)
2018-10-31 11:51:05
時間の相対性では
アインシュタイン説の正誤の論点ではなく、
ただ、質量に対するエネルギー法則を
証明するために
質量が時間と相対的な関りがあるとのことを
例えた仮説にすぎません。

また、タイムトラベルから派生する時間差矛盾は
アインシュタインを理解しようとする人達が
仮定した仮説であって
解読するための例えにすぎないと思います。

また、生体が持つ生体時計限界性は
(時間の流れが異なる場所A,B)
光速の条件が揃ったで当時の空間に
同時に存在していることが大前提であり
その条件が揃ったとしても
それからの結果から導き出せる結果で
明らかな時間差が認められた場合のみ
アインシュタインが誤だと言えると思います。

なにせ、アインシュタインが相対性を発表した背景には
ニュートンの万有引力の法則とマクスウェルの電子引力法則の間に
相互相反した矛盾があって、
科学理論でぶつかっている反対理論は
アインシュタインにとって
互いが間違っていることの仮定を立てることに繋がったからです。

とにかく、アインシュタインのフェイク仮説云々は
仮説の検証の手段として採択されない類だとおもいます。


返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-31 11:24:26
ガスマンは私が夫に付けたニックネームです。
ガス製造工場で
ガス噴射で歩く動力にして
寝る時もガスを噴射して日常のストレスを気体化するので、ガスマンと名付けました。

彼が自分の文をグーグル通訳に掛けてここに載せていますが、
少し、訳が分からないので、
以下、要点だけまとめてみます。

①あなたは優れた姿勢と非常に良い食事マナーを持っている、
②厳格な食事作法の記述記事には感心した。
③そのような決まりは確かにターブルマナーを超えて更に良い効果がある。
④私自身、できないことに大しては認めている。
⑤食事後の私は『立つ鳥後を濁さず』の鳥のようにはできず、稀に後片付けをすることを認めざるを得ない。
⑤私の決まり作法が欠如しているのに、(あなたが)我慢できていることに感謝している。

直訳よりは、彼が意図しようとした意味になるべく添えて要点だけ訳してみました。
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すべての解説者に無料のガスと蒸気 ( ガスマン)
2018-10-31 06:02:32
あなたは優れた姿勢と非常に良いテーブルマナーを持っています。

私は厳しいZazenの食事の規則に関するあなたの記述に感心しています。そのような規律は確かに夕食のテーブルをはるかに上回る利点があります。

私はいつも私がすることができないことに感心します。

そして、私は食べた後、私はめったに乱れを残さずに出る鳥ではないことを認めなければなりません。

私は規律の欠如をあなたが容認できることに感謝しています。
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Gas Propelled Human (The Gas Man)
2018-10-31 06:00:34
You have excellent posture and very good table manners.

I am impressed with your description of the strict Zazen rules for eating. Such discipline surely has benefits well beyond the dinner table.

I always admire that which I cannot do.

And, I should admit that after eating, I am rarely a bird that exits without leaving behind some turbulence.

I am grateful you can tolerate my lack of discipline.
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-31 04:32:17
>私の問題提起に対し、たかはしさんの友人の物理屋さんなら何と反論するのか??
出来たらそれが知りたい訳です。


相対性理論を解説している人のサイトにコメントを書いたことで対話することになった人だと思いますが、どのサイトだったか思い出せません。
返信する
Unknown (たかはし)
2018-10-31 04:28:48
>過って高橋さんがアインシュタイン相対性理論に魅せられて、友達の物理屋さんにテイよく丸め込まれて無記と引き下がった故事を知っているからです。


どんな内容に丸め込まれたんでしょうか。友達の物理屋さんって誰だったでしょう。覚えていないです。

相対性理論は、私の手に負えない、というのは実感しています。だから、それに取り組むのは止めています。

あ、思い出しましたけど、私には無理だから、とりあえず、取り組むのは止めるとしたんじゃなかったですかね。
返信する
たかはしさん (Unknown)
2018-10-31 01:36:47
フェークニュースという言葉にいざなわれて、

理屈屋のタカハシさんに読んでもらいたくて、
アインシュタイン・フェーク論
書きました。

過って高橋さんがアインシュタイン相対性理論に魅せられて、友達の物理屋さんにテイよく丸め込まれて無記と引き下がった故事を知っているからです。

私の問題提起に対し、たかはしさんの友人の物理屋さんなら何と反論するのか??
出来たらそれが知りたい訳です。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-30 23:27:24
また、面白い現象が。

アクセス解析から
グーグル通訳を通して私のブログに来られたケースが結構ありましたね。

英語ができる方がいましたら
興味だけでも
私のブログ記事を
右クリックで英語通訳にしてみると
グーグル自動通訳が現れます。

私が英語を緑にしたのは
そのケースに備えて
グーグル通訳が黒
私の英語が緑になるから
比較できるようにしたかったからです。

本当に楽しめますよ。
ごっけいというか
あれが本当のジョークかも知れませんね。

なので、
私はグーグル通訳を改定する正会員で
今まで、改定してきたから
グーグル会社から
最高点(改定した回数)をもらいましたね。

韓国語も改定しているので
話せば長い、まあ、ボランティア活動ですけど。
返信する
訂正 (Unknown)
2018-10-30 23:15:32
文中、最後の「物体」を削除されたし。
返信する
経緯 (桂蓮)
2018-10-30 23:12:04
うちの夫と知り合った切っ掛けは
物理科学系ののサイトでしたが、
当時、彼も私も宇宙科学のオタクでしたね。

で、結婚に至ったわけですが、
いざ、結婚してみたら
政治、歴史、自然科学まで博識で
音楽や美術以外は
語らせると止まらない系でしたね。

ここでいう論理的(ロンリー的)というレベルじゃないですよ。
実際、素粒子物理学で話し出すと
講義並みですからね。
リンク先、引用無しで
全て語り出しますから

要するに
うちの夫のような知識レベルには
知性云々、論理性かれこれは
火に油なのです。

本当の論理性の現場ですし、
皆様はそれがラッキーかもと思うかも知れませんが、
私も彼に負けず
雑学に長けてきた者で
あんな論理性なら
グーグルですぐ検索できるし
本読めば簡単に理解できるから

まあ~、私の夫に限っては
暴力は必要悪ですよね。

夫もそれだけは認めています。
私じゃなかったら
彼は今頃、サイボーグになって
AIでしか話せないかもです。

随分、人間に戻しましたけど、
まだまだ、行先長いですけどね。


返信する
実話なのかフェークニュースなのか、アインシュタイン版 (Unknown)
2018-10-30 23:06:17
仮設;
宇宙に物体AとBの二つだけが在った。
両者の距離が時間と共に短くなっている。
即ち、両者は近ずいている真実があった。
相対的に接近している事のみは真理現象と確認されてる。

問(=命題)
この場合、AとBのどちらが動いているのか分かるか?

解答1.
超越理論で言えば、
神が物体AとBを見ている訳だから、
Aが固定でBが移動だとすぐわかる。
Aの住民はA時計80歳で死んで、Bの住人はB時計ではまだ10歳だから餓鬼っこだ。
此れを称してアインシュタイン時計という(=アインシュタイン論は超越論だ)。

解答2.
では神の存在を許さない形而下学では、
どちらが動いていると断定できるだろうか?

余りない答え(=正解)はNo!だ。

ただ単に、物体Aに居る住人は自分が固定系だと思い相手Bの住人が動いて接近して来ていると定義する。
逆に、物体Bの住民は、自分こそが固定系で相手Aが移動系だとせざるを得ない。
この宇宙では絶対定点など定めようが無いからだ。
単に妄想的に原点を仮設するしかないからだ。

アインシュタイン理論の矛盾は此処にある。

固定系住人は早く年取ってすぐ死ぬ。固定系AのA時間で80才で死ぬ。ではね、バイバ~~イ、ニルヴァーナだァ~!!

移動系はゆっくり年取って移動系時計Bでは10歳にしかなっとらへん(=へんナノ!!)。
俺って正真正銘(しょうしんしょうめい)の餓鬼っちょなるぞ、エヘン・エヘン!!(=ナオヤ君なら、ゴホン・ゴホン!!)

つまり、
AとBが衝突した時、A人は老衰で死んでおり、
B人はまだ10歳の餓鬼ッちょだ・・なのか??

だが待てよ、
これは神が居るとした超越系理論でのみ成り立つ理屈(=プッと屁理屈)だ。
どちらが動いて、どちらが止まっているなんて言う判断が出来ない形而下学(=実話)においては全く成り立たない。ナンセンスの極みだ。

斯くして、
アインシュタイン君は真っ赤なフェークニュースを流したのだ。

おわり。。。

物体
返信する
絶対服従⁉ (Unknown)
2018-10-30 16:16:19
>一旦サイコに取り込まれたら、
相手は最早逃げ出せなくなる・・・とからしい。

相互依存も強いのかもしれませんね。
窮屈な生き辛さを感じるようです。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-30 16:13:19
他人を害す人は、自分が害され(る)たからという心理状態、あるいは、思い通りに行かない欲求不満、思い通りにする支配欲などが、折り混ざった感情があるからなのでしょうね。

最後にあまりホッコリしないフェークやジョーク話というのは、苦の強度を感じますね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-30 16:02:57
以前誰かのコメでだったか、
ケイレンさんはサイコパスだ、とか?

一旦サイコに取り込まれたら、
相手は最早逃げ出せなくなる・・・とからしい。

オタクの旦那は其のケースなのかしら?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-30 16:01:58
こんなん出ました。

<是を以て、法は是れ食、食は是れ法なり。是の法は、前仏後仏の受用したもう所たり。此の食は、法喜禅悦の充足する所なり。>
『赴粥飯法』

https://blog.goo.ne.jp/fukyo-net/e/40ebbf5bb94e7bad3d7b8cfe35e8486d

托鉢に出た弟子が、何も得られず落ち込んでいたところ、釈迦より「法を食べればよいではないか。」と、諭す場面を思い浮かびました。何の経典かは忘れましたが。
返信する
追加、追加、追加 (Unknown)
2018-10-30 15:55:58
「お前を離婚するぞと旦那を脅かせば、
暫くすると旦那が謝って来る」っていうのは実話なんですか?それともフェークニュース?
返信する
訂正 (Unknown)
2018-10-30 15:51:20
「それをみるながら」は「それをみながら」
返信する
この際だからの追加質問 (Unknown)
2018-10-30 15:49:17
そんな頭脳明晰でおしゃべり達者な弁護士様と口論しても、
99%はケイレンさんの方が正しくて、
旦那が打ち負かされて、人間的な脆さをさらけ出す。

それをみるながら、
アタシ、快感に耽るんです、というのは
どうなんですか。
実話なんですか、それともフェークニュース??
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-30 15:37:33
もしケイレンさんの旦那が
口達者では決して負けない、
たかはしさんだったらどうなってたでしょう?

「そんなやり方、スッタニパータに書かれてね~ぞ。
おまえは輪廻しねェ~で永遠の地獄へ常住だぜ」、
っていったかど~か?
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-30 15:35:04
相手に自覚があり、それで夫婦円満なら問題ないのでしょうかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-30 15:24:10
お~、なるほど
そ~だったんですね。
意外とSM遊びがストレス解消法って事ですかね。

お釈迦様が「まァ~、しょうがね~なあ、その程度の貪瞋痴なら許したる」っておっしゃってるかもですね...
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-30 15:09:04
ブログ管理で、検索ワードに引っ掛からないような拒否設定項目はないのですかね。不特定多数に見られたくない人の中には、閲覧範囲を制限して、そのような機能を利用している方もいるようですね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-30 14:52:14
>>時と場合以外でも極力、暴力は止めた方が宜しいかと。理性が働いていないのかもしれませんしね。<<
と書いて下さった方は

有名な作家の父を持った、
母は看護師で
NY州立法律大学院出身の
弁護士歴30以上の
ユダヤ系の
お喋り24時間営業の人と
毎日住んでいないから

品格を持ち出し
暴力反対論を出していますが、

私の経験上
ユダヤの頭脳明晰な弁護士に効く技は
拳が常でたまに蹴り、この方法が最善で
他の慈愛系は全く効き目無かったでしたね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-30 14:37:05
話の流れにズレたことなんですが、
アクセス元から
誰かが検索言葉を英語で
『兄が死ねば自分の赤ちゃんが法律的に生まれる』といれたらしく、私の過去の記事兄弟の絆が引っかったようです。
最近、私のブログが検索ワードに引っかかるケースが多くて、何か妙な気分です。


返信する
そうですね。 (Unknown)
2018-10-30 14:22:15
ガッカリと言われて嬉しい人は、サイコな人ではないですかね。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-30 14:20:02
時と場合以外でも極力、暴力は止めた方が宜しいかと。理性が働いていないのかもしれませんしね。

いくらマナーがシッカリできていても、品格にガッカリしそうですしね。


 

 
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-30 14:15:41
あっち山でがっかりと書いたのは
ジョークぽく書いた本音で
書いた狙いとしては
院代に向けた私なりのサインです。

院代さんが笑ってくれるかどうか、
私も結果が知りたいですけどね。

湖に石を投げて
波紋を見てみる悪い心ですかね。
返信する
この場合 (Unknown)
2018-10-30 14:13:12
「Table dharma」は、如何でしょうね。
返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-30 14:10:57
Table mannersや、Table etiquetteは文中に
文脈に合わせて使い分けしています。

作法はマナーやエチケットとは
格式があることばなので
一般的な失礼にならない程度の意味があります。

proprietyはあまり使われていない作法の意味の
単語でGoogle 通訳はまだプログラミングされていないようです。

因みに私はグーグル通訳の改定部分で
貢献度最高点をもらったのもあり
其処らへんは事前に調べてから使いました。

作法という言葉も
普段の会話であまり使われていないから
用度面ではつりが合うように心掛けました。


返信する
Unknown (桂蓮)
2018-10-30 14:02:49
涙汲むはちょっと見栄張った嘘ですが、

おかずとかメイン料理がが
彼の好みだと自主的に
皿をキレイに(坐禅修行時のように)
してくれますね。

昔、私が頭を殴ることで
脳に損傷ができると
真面目に真顔で言われたことがあって
私がそれが怖いなら離婚すると
私も真顔で言って
二日くらい完全無視したら
自分が悪かったと謝罪してきて

それから、ブレインタメージレベル1~10レベルで割り振って使うようになったヒストリーがありましたね。

日本に住んでた時空手やってたから
私も甘めに調節しているので
命に別除はないです。

でも、私も一応分別があって
掟を守っていないだけなので
常に拳、蹴り業でコミュニケーションしているわけではないです。
返信する
Unknown (Unknown)
2018-10-30 13:58:07
わたしも英語勉強中ですが
Table proprietyって言うのを初めて見たので
グーグル自動翻訳でみたら「テーブル可否」とでてました。
たしかに「作法」って「可否」だよなァとは納得ですが、

いっぽう日本語の「食事作法」の英訳を探すと、
Table mannersがほぼ全てで、
稀にTable etiquetteと訳している様です。

ネイティブあめりか人では何て言うのでしょうか??
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 13:29:33
そ~でしたか、ケイレンさん。
犬でもゴハン粒残しませんですものね。
やっぱり鉄拳と脚蹴りは必須ですよね。

で、おかずなんかはどうするのですか、
全部食べて、お皿迄きれいに舐めるようにしないと
やっぱり鉄拳と脚蹴りが飛ぶ??
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 13:17:28
桂蓮さんは、南氏と直接お会いされてるんですよね?

足や肉が落ちたくらいの話で、ガッカリされたとは、どこか神格化してたんでしょうかね。
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見たことはないですが (Unknown)
2018-10-30 13:13:58
S長老は、奴豆腐があっても、醤油かけないで、そのまま食べるそうです。
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Unknown (たかはし)
2018-10-30 12:54:56
716 師がいわれた、
「「あなたに聖者の道を説こう。──(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。

(スッタ・二パータ)

食べる時には煩悩に汚されないように用心せよ、舌で味わうな、腹一杯食うな、ということだと思います。

剃刀の刃の喩えとは、剃刀の刃に付いた蜜を舐める時に舌を切らないように用心するように、と註釈されています。
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Unknown (たかはし)
2018-10-30 12:47:51
テーラワーダでは、出家は、気づきの瞑想、ヴィパッサナー瞑想を日常生活に適用して切らさないようにする、ということが言われるようですね。経典に、常に良く気をつけていろ、とありますからね。詳しくは、念処経に書かれてます。在家もそれが出来たら理想だとは思いますが。

禅宗も、坐るだけが禅ではない、日常生活の全てが禅である、ということが言われるのではないでしょうか。
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あらまあ (゚Д゚;) (Unknown)
2018-10-30 12:39:14
((( ;゚Д゚)))鉄拳ですか!

人間は、犬でもないですしね(U´・ェ・)

ワオ~~ン
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Unknown (桂蓮)
2018-10-30 12:30:08
Q:ケイレン宅では韓国式とユダヤ式で喧嘩してるのですか??
質問があったので、答えるべく

家は韓国式もユダヤ式どっちも無くて
私が夫に食事作法を伝授して
それに応じてくれないケースに
夫の頭に私の拳が直撃し
足で蹴られ
涙汲みながら
残したご飯粒を全部食べて
それで善し!になる日常ですかね。
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ー五観の偈ー (Unknown)
2018-10-30 12:28:53
一には、功の多少を計り彼の来処を量る。

二には、己が徳行の全欠を忖って供に応ず。

三には、心を防ぎ過を離るることは貪等を宗とす。

四には、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり。

五には、成道の為の故に今此の食を受く。



【現代語訳】

一、この食事がどのようにして出来たかを考え、自然の恵みと多くの人々の働 きを思い感謝致します。

二、自分の行いが、尊い生命と労力で出来た食を頂くに価するものであるか反省し、供養を受けます。

三、心を清浄に保ち、誤まった行いを避けるために、三毒である貪(貪り)瞋(いかり)痴(おろか)の三つの過ちを持たないことを誓います。

四、まさに、食は良き薬であり、身体を養い、健康を得るために頂くのです。

五、仏の道を実践するために、この食事を有り難く頂戴致します。


頂きます🙏

御馳走様でした🙏
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「五観の偈(ごかんのげ)」 (Unknown)
2018-10-30 12:23:20
仏教の食事とは
命懸けの事を教えます。

https://www.shorinzenji.com/住職の話/五観の偈/
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 12:22:37
インド人は左指で素手で摘まんで食べるんじゃあ無かったでしたっけ。
右手は不浄の手であっち処理に必要な手(指)だからと。それは昔は紙が貴重で入手困難だったからですね。

そういえば昔の日本でも同じようなことがあったですよね。

ケイレンさん、各国の食事作法の様式と歴史をレポートして下さい、せっかく食事作法云々と言い出しっぺしたのですから・・
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調身・調心・調息  (Unknown)
2018-10-30 12:17:46
「作法」と書いて、法を作る。
道元さん的には、作る法。

「仏法」と書いて!?
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 12:13:30
「食事作法」って
つまり「テーブルマナー」って言う意味に過ぎなくて、
要するに会食の時に相手に不快な思いをさせないための礼儀という事なのだと思う。
人々の美的感覚は、ところ変われば品かわるで、
曹洞宗式が最善と言う意味ではないだろう。
キリスト教式食事作法もそれはそれで意味ある事で・・・、

そうか、ケイレン宅では韓国式とユダヤ式で喧嘩してるのですか??

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Unknown (Unknown)
2018-10-30 12:08:43
インド人は手で食べる
・・なぜ?

それは御国柄?宗教柄?
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 11:58:12
道元禅では食事作法にウルサイ!

臨済宗(看話禅)ではど~なんだろう・・・でなぜ?

テーラワーダではど~なんだろう・・・でなぜ?
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 11:53:47
たかはしさん、
S長老は、
食事作法をヴィバッサナーだというのですか??
食事作法すれば悟りが開けるとS長老も言っているのですか?

食事作法に関し、禅とヴィバッサナー、両者の考え方の相違点を教えてください。

一般論の「なんでも感謝して食べましょう」という概念と禅はつながっているのか、ヴィバッサナーとつながっているのか?
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Unknown (桂蓮)
2018-10-30 11:33:26
添付してくださった「威儀即仏法、作法是宗旨」リンクは大変役にたちます。

明日、記事を再編集して
記事の文末にリンク先のURLを添付しようかなと思っています。

もし、皆様も記事の中に
読む人の参考になれそうな
作法に関するリンク先のお勧めがありましたら
編集の際に添付しておきます。
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 11:30:13
足し算引き算が
出来る人間と、出来ない猫との違いは
たんに存在様式が異なるだけに過ぎない。

食事作法の有る人と
食事作法の無い人とは
たんに存在様式が異なるだけに過ぎない。

それらの間には、本質的な違いなど全然ない。
もともと本質なんてもの自身が
無根拠で無価値で無意味なんだから・・・
無常で無我で一切皆空なんだから・・・

でも何故だと問う、
本質の本質の本質は何なのかと問う。
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ニャン😼 (Unknown)
2018-10-30 11:26:33
>猫って坐禅をするんだろうか??

組めニャイ
出来ニャイよ😿
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「行住坐臥」 (Unknown)
2018-10-30 11:23:06
>書く時は
このくらいの軽い話題は

軽く見てもらっては困りますね。
道元さんから「渇」ものですよ。

大変、貴重な御話であります。
日常すべてが坐禅であります、はい。
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記事の裏状況 (桂蓮)
2018-10-30 11:16:13
実は、書こうとした内容は
礼儀作法の冊子を全部訳して
その修行中に書いてた坐禅ノートを写真にアップする予定で
先週の金曜から資料を集めて
書いていたのでしたが、

そうすると記事が長すぎて
専門過ぎるようになり、
私の基本路線であるはずの
『日常生活で禅の教えを実践する』ことから
線を超える感があって

仕方なく、全てを切り離し
私の経験に基づいた体験にまとめたのです。

8年前に書き写したノートは
またいつか
禅作法について書く機会があれば
その時に使用しようかなと思っています。

肯定的な反応を頂けて嬉しいです。
書く時は
このくらいの軽い話題は
コメンテーターの力量に叶えないと想いましたが、
甘くみてくださって感謝します。
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表情 (Unknown)
2018-10-30 11:14:45
動物は、顔で笑わない
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ケイレン教の使命 (Unknown)
2018-10-30 11:14:37
アッ、そ~かァ…
ギックリ腰の激痛のさなかに
ボンファイアーに乗り込んで行って
野蛮なアメリカ原人に
食事作法を叩き込んでやったぜ…

奴らも食事が美味しくなったじゃろォ~て!!
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 11:12:22
猫は、足し算と引き算ができニャイ😽
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人と猿の違い (Unknown)
2018-10-30 11:10:50
何故ではなく、如何に。
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 11:02:52
食事作法か~。

そやそや、作法守れば
食事が美味しくなるよねェ~???
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 10:59:39
人は無根拠で無価値で無意味ならば
なぜ人は猫よりも尊いとか言えるのか。
言える根拠は何なのか。

食事作法には根拠が在って、価値が有って、意味が有ると言えるのか。
猫には食事作法が無いから劣っているという事なのか?

本質的なモノって何なのか、
とかとか。
何故と聞いてはいけないのでしょうか。
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 10:33:12
眼横縦鼻で自然に生きる。
それは人も猫も等しく同じ。

ではどちらが悟っていると言えるのか、
両者に差はあるのか、
本質的には同じなのではないのか?
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 10:29:49
人の行住坐臥は禅であり
猫の行住坐臥は禅では無いという根拠はあるか?
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 10:25:54
猫って坐禅をするんだろうか??

猫と人間とどちらが自由なんだろうか。

猫の心と人の心とどちらが自由なんだろうか。

猫と人間とは何が違うんだろうか。
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 10:22:43
なるほどそうですね。
これが猫と人間を別けるモノ。
ねこは自由闊達だけど、
ひとは不自由ないきもの。
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Unknown (Unknown)
2018-10-30 10:18:31
自己を制御の美、なるほどそうですね。
そのようにすれば
直情径行癖もおさまりますね。
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Unknown (たかはし)
2018-10-30 09:41:22
美しい、なるほどそうですね。
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「威儀即仏法、作法是宗旨」 (Unknown)
2018-10-30 09:31:09
桂蓮さん
素晴らしいことを実践されているのですね。


道元禅師の著書

<一つは「典座教訓」(てんざきょうくん)という著書で、禅宗では修行僧の食事を作る料理係を”典座”と言うのですが、この典座が食事をつくる際の心構えについて書かれています。

もう一つは、「赴粥飯法」(ふしゅくはんぽう)という著書で、これは食事をいただく側の心構えについて書かれています。>

https://s.webry.info/sp/oryouridaisuki.at.webry.info/201604/article_28.html

「正しい」ということより、「美しい」と思いますね。

意識しなくても出来るように、身に付けて生きたいものですね。
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Unknown (たかはし)
2018-10-30 08:45:32
他者のブログで自分のコメントの削除権限が自分に無い、というのは、いいプレッシャーだと思いますね。
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Unknown (たかはし)
2018-10-30 08:34:08
茂木健一郎さんが、

自分の身体がどのようなことを感じているかを常にモニターする、自分に対する気付きの能力を高めることが大事。

と言っています。

常に良く気をつけていろ、という初期経典の言葉に共通だと思います。

釈迦の手法の正当性が科学で立証されつつあるのではないか、という気がします。
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Unknown (たかはし)
2018-10-30 08:19:13
動作手順が分からなくても、常に自分の動作を意識している人の行為は、手順が間違っていても正しい、ということになると思います。

それは、正しく整えられた心が動作に現れる、という手法。

初期経典には、常に良く気をつけて、という言葉が頻繁に現れます。

立っている時は立っていると知れ。歩いている時は、歩いていると知れ。食事の時は、食事をしていると知れ。排泄の時は排泄していると知れ‥。

一方、決められた正しい動作を守ることが、正しい心を作る、というやり方もある。それを強調したのが禅宗だと思います。

戒律を守らせることで心を矯正するという手法。

いずれにせよ、心の問題ということでしょう。

まあ、自分に出来る範囲で無理なく、が私の方針ですが。そうしないと長続きしませんから。

そして、無法者に対しては、こちらも無法で対応ということも、あり、だと思っています。

ちなみに、永平寺の修行では、分からない奴には容赦なく鉄拳を使う、ということがあると聞いたような。
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