自我の認識度は全人類の人数分の違いがある
On the order of ego cognition has difference
-by the exact number of human population numbers
世界の総人口は現在の時点で7,384,104,517
The total population of the world at this moment is 7,384,104,517
一日で凡そ20万人増えている
Approximately 200,000 people have increased per day
全人類はそれぞれ『私』として存在し
All human beings exist as 『I』
私の一人の数を引いた7,384,104,517
Subtracted one number as me, from 7,384,104,516
その残りの数は自分以外の他人になる
The remain numbers will be others who are not I
全ての他人は全ての自分でもある
All others have their own self so others are all the Is
7,384,104,517の違いのある自我が
Those egos have 7,384,104,517 ways of differences
一人の自分として生き
-and live as a self, a person
その自分は他人ではないと分かっている
-the self knows that “Me of I” is not others
その莫大な自我の人数に基づき
Based on the enormous numbers of egos
前回書いた自我の清め方の一つの方法として坐禅を考えてみる
-come to conceive as one method of purifying egos
which I wrote at part one
清め方だとの言葉を使うと
By using the word of purifying
洗う、浄化する、清潔にする、清める、祓うなど
Washing, Catharsis, Cleans, Purify, Exorcise etc.
関連した類似の言葉もついてくるので
-purify related similar words come to follow
今回は清める意味を
For this time, as meaning of purifying
生まれたきた赤ちゃんの自我状態ようであると
比喩し限定する
-limited using metaphor that an ego state likely
-a new born baby’s ego concept
生まれてきた赤ん坊は
自他の区別も無く命を生きている
A new born baby lives life without distinction
-between self-ego and others
赤ん坊はお腹が空いたら泣き
When a baby is hungry crying
おむつの交換が必要なら泣き
Cry when a baby needs to change diapers
満腹ならそれ以上満たそうとしない
If they are satisfied with milk, they will not try to refill more
ストレスがあるなら泣いて知らせ
Crying to inform there is a stressful situation
幸せなら笑顔で人も幸せにさせる
When they are happy also make people happy with smile
赤ちゃんのように生きている自覚無しに
命を生きる状態が
Like a baby who lives a life without awareness of living
自我の不純物が取れた純粋な自我そのものかもしれない
It may be the pure ego itself that removed impurity taken out
では坐禅の方法でどうやって
Then, how could do with the zazen way
その状態に到達できるだろうか
How could reach to that state which is purified
だが、私達は自分を外側から眺めることはできないし
However, human cannot see themselves from the outside
自分の自我を他人の自我を借りて見ることもできない
They cannot see their egos with the very view borrowed from other’s egos
自分という自分の限定性から離れられない
Human cannot be separated from the limited self which is as me-myself
赤ちゃんのように好き嫌いだけでは生きられない
Human cannot alive alone on likes and dislikes like a baby
しかし、瞬間的ではあるが
But there would be instantaneous moment
自我の錘、その重荷を外すことはできる
-will be able to unburden the weight which chained upon ego
自我が運んでいる重荷を外し
Unburdened the burdens which an ego is carrying
自分の生い立ち、自分の経験、自分の名
-that one’s background, one’s experiences, one’s name
それらに関連した記憶を絶つ
Sever the related memories above
絶つことが出来なかったら休む
If cannot be exterminated the burdened memories, then can pause
座って、呼吸に集中する
Sit down and concentrate on breathing
記憶が現れたら消えていくさまを眺める
Prospecting the forms appearing memory and its disappearing
辛かった思い出が現れたら
If appeared a memory that suffered before
その記憶がまだ残っていることに気づく
-realize it which the memory remains yet
幸せな思い出が現れたら
If a happy memory appears
忘れていないことを見る
See it has not forgotten yet
嫌な人間から言われた言葉がまだ心を刺していたら
If some words have been told by someone who was hated
-and the words are still stabbing on mind
血を流し苦しんであげる
-take shed blooding and suffer for it
想い通りになれなかったことが悔しさで現れたら
If appears with regret that was not the way should to be
その悔しさが薄れて変化していることを見る
See the regret changed into changing that has become dim
何故?どうして?なんで?と疑問が現れたら
Why? How come? Why not? Such questions appeared
疑問があるところで止まる
Stop where the doubt is
このように思いは表れては消え
Like the ways memories appear and disappeared
消えたと思いきやまた現れる
The memory which supposed to be disappeared
-but it appeared again
川が流れるように思いも流れる
Those thoughts flow like river flowing
その思いの川を流れる時間
Time that thoughts are flowing like streaming river
その時間が坐禅である
The time is doing zazen
川を眺めている時
When prospecting, a river flowing
私の自我を一瞬忘れられる
Can forget one’s ego for an instant
川だけが流れていて
Only the river is flowing
見ている自分を感じない時がある
-and there is a moment when don’t feel the ego
その瞬間が自我の重荷が取れた無想の休みだろう
The moment would be none-thought pause
-which ego’s weight has unburdened
赤ちゃんが自我の意識無しに
A baby without consciousness of an ego
命を生きる状態のように
-like the state that live a life
坐禅を行うことにより
By doing zazen
清めようとする意識さえ持たない
-even without willing try to purify
純粋な自我の清め自体になる
-it becomes purified ego itself
こんにちは!
地球の総人口が73億狂(強)ですか、少し減らさないと息苦しい環境ですね
モンゴルは土地が広いが人が少なくて人恋しいくらいです
座禅で余り清め、洗う、浄化する、清潔にする、祓うなどと断拾離的座禅は好くないかもしれません
生まれた時は男女問わず真っ裸で出てきたわけで、そこから一つ一つ薄い鎧を着こんでいったわけで禅の極意者たちは固く剝がれない鎧を身に纏っているわけです
人生とは何かという極意に達しない多くの凡人たちは極意を極めた人の鎧の豪華さに心酔するもの諦めから神の如く敬うものたちの注目の的なんじゃないかと解釈します
多くの凡人は鎧の中身・生身を見たいものです
だからあなたも洗う、浄化する、清潔にする、清める、祓うなどと言わず着飾ることも必要と考えます
人は着飾った人の本心(中身・生身)を見たがるものです
そこに学問で得た人の中身・生身は見れば見るほど表現のしようのない美しさが見れるのじゃないかと考えています
中身がなく着飾った者は張子の虎で中身が知れればガッカリされるだけです
私があなたを見るには知的美がありますから見せびらかすことも大事かと思います
私も生まれながら両親・親族からオナゴと望まれながら出てくる時にぶら下り物を携えて出てきたばかりに両親・親族に失望され、1年半後に待望の次女が生まれました
私は子供の頃に親から疎まれて育った記憶を持っています
物心(記憶に残る時期から)ついての私は常に一人きりという記憶しかありません
広い部屋の片隅にいつも寝かされていた、風邪や病気でも同じで天井の板目模様ばかり眺めて育った記憶だけです
今も思うのですが母親の母乳を5歳6歳までを飲んでいたのでしょうが記憶のある幼児の時に母乳をせがんで拒否させられたり叱られた記憶しかないのです
1歳半の次女が居ましたから仕方ないと言えばそれまでですが、耐えることを強いられ忍耐力だけは人一倍持っています
長女がいたようですが6歳か7歳で当時の流行り病で亡くした事がオナゴを神に頼み叶わぬ答えが私という事で両親は失望したのでしょう
私はあなたほどじゃなかったかもしれませんが親が私に期待しなかったのは大人になるまで変わりませんでした
神様はそんな私に一つの能力を授けてくれたようです
それは赤の他人の誰とでも簡単に友達になれる特技を頂けたことです
自分の過去を剝がしたり洗い清めるのではなく塗り固めてるほうが自我が明確に見える?
私はそんな生き方をしています
あなたほど有能な知識は持ち得ていませんが
母乳で育った記憶をまだお持ちのようで、記憶力が優れているのですね。
過去を塗り固めて見える自我もいるでしょうね。その過去の時間に存在している自我が重荷にならないのであれば、、、
それが自我が持つ個性性でしょうね。
私は祖母と継母の手で育ったと聞いていますが、あまり記憶に残っていないです。
その継母の記憶から惨い仕打ちをされた記憶しか残っていないから赤ちゃんの私に何をしたか彼女しか分からない訳です。
赤ちゃんの私は記憶を消すことにより、生きていくようになっていたかもしれません。
馬とモンゴルさんの幼児の記憶に関したコメントを読んでふっと自分のことも推測してみました。
私の幼児の育ての事実は明かされてないのですが、明かされたくもないと思っています。
私もあくまでも自分のイメージの中でしか書けないので、そのイメージが他の人の足を引っ張らないように、限定させないようにしていくことでいっぱいな感じがします。
I understand that the program NHK( National TV Station in Japan) done couple of days ago has lots of criticism now, so NHK had to apologize about misleading of some kinds.
But my own feeling remains as NHK was right because Delta (Wave) Power must have something to do with [Purification of mind (=Ego)].
Neuroscience has already found that brain's Pons will start working under Delta Wave condition to automatically search and rearrange all data you had in the brain, for a better answer.
This can be related that good and deep sleep (Non- Rem sleep) will lower blood sugar level leading to lower sympathetic nerve system's activity which is a sort of panic alarming system (=producing confusion).
And resultantly it will enhance Parasympathetic nerve system which relates to relaxation, calmness, stability and feelings of happiness. This could be the effect of Zazen too as [Purification of Ego].
Physiologically all those aspects must be related to Parasympathetic Nerve's activities, I reasonably guess,
even though Sympathetic Nerve system should exist
for daily active activities and Risk Managements.
「みずから」の自我で記憶の表面に出て来ない様に操作している様だ。
しかしある環境に出くわした時には、それが突然心の表面に出てくる可能性もある。
人がそういう環境に出くわさない様にしていたら、死ぬ迄思い出す事無く過ごせるかもしれない。「逃げるは恥だが役に立つ」のドラマの題名みたいな効果はある。
其の為に自我の清めを行う訳だ。その様に修練していれば悪夢に悩まされる事もなくなる。悪夢は不可抗力だという事でもない様だ。
釈迦は四諦で人に救いの道がある事を示し、
7戒が自我の清めの実践法だといった訳だが、
当時と今とでは事情(環境)が異なるので、
現在版自我の清め教書が必要だ。
あるいは思い出してもビビらない強い自我の確立がなされれ得るのか??
それは気持ちの持ち方一つなのか??
その時は「おのずから」と「みずから」が自然調和の境地に達しているのか??
但し老齢に成るとそういう苦悩があれよあれよと自然と消えてなくなる「年の功」というモノも存在するようだ。全ての過去の記憶からの卒業なわけだ。
あとは仙人の様にかすみを喰らって飄々と生きるの境地なり!!!とか???
(注:) 「年の功」への入門資格…70歳以上である事。レンさんは其れ迄には未だだいぶ有るね・・・。
人の無意識は意識の質量が無いか、或いは
ブラックホールみたいに記憶あたりの質量が
極限に高いから(Tの光速²の法則から引用)Bkackmatterにひっかけられて
意識上に上る訳でしょうね。
その時、Tのいうように『びびらない』ようになるには、無意識の蓋を開けて
密度を軽くしていくしかないかもと思いました。
無意識の蓋は、心の奥底に沈んでいて
潜れば潜るほど海底の水圧が高くなるように、
無意識の奥底は意識の圧力で
そう簡単には開けられないでしょう。
それが強制的に開けられた時は
狂うなり、PTSDなりで
人は病で防衛する訳だから
開け方も分からなければ
そのカギや蓋がどこにあるかも
分からない訳です。
しかし人間は閉ざされた状態で
自らを認識できるように設計されているため、
無意識が意識されないように
しっかり監視役をつけているのです。
自ずからつけているではなく
自ら付けている訳でもないので
そうなっている構造にすぎません。
そういえば
無意識は
自らでも
自ずからでも
働きかけられない
人類特々の性質かも知れません。
全く論理上の展開になっていない
理論性に欠けている見解ですが、
Tのコメントを読んで
イメージが閃きました。
私のコメントは頭で理解しようとしたら
チンプンカンプンになるので
場面場面のピースを
点、点を繋ぐように
全体像を無視して読めば
一つの言葉では説明し切れない
何かの映像が浮かび上がってくるので
まあ~それだけの意味で書いています。
Tも文章から第6感を拾う人みたいだから
次元の違う精神世界を垣間見て
観てお終い!の紙芝居みたいなものを
私と楽しんでいるような
ものです。
私はいつも誤字脱字確認しないで
投稿しちゃえタイプなので
日本語的に通じなくても
まあ~そこまでかと
開き直っています。
Darkmatter〇
Time streams forward and memories are etched by associations in the mind, joined events to one another so they may filed and recalled.
Are there two minds within every I, one to function and one to observe the functioning?
But if Time is not like a River in continuous flow, but a passing in discreet clicks, quantized to a smallest bit, there is a measurable nothing between.
What pure state might exist between the clicks, the stilled moments of no-time, before and after the next clock tick?
What unification might occur pure, objective and subjective without distinction, when the function of mind and the awareness of its function cannot be distinguished.
Our minds in Time.
Maybe Time, not continuous like the river flow, is more like a stone thrown by a child, skipping in steps across its surface, momentarily free of running waters' relentlessness.
(I left out the BE)