はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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主治症からみる経絡経穴

2010-08-19 10:56:55 | 経絡のはなし

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主治症から見る経絡経穴p0-p44.pdf」をダウンロード

「主治症から見る経絡経穴p45-p119.pdf」をダウンロード


①は前半の目次から経絡まで

②は後半の経穴


付録は重要ではないので省いてあります。ご覧になるにはアドビリーダーなどのアプリケーションソフトが必要です。もしご自宅のパソコンにそれが入っていませんでしたら下からダウンロードしてください。

Shuti


http://www.adobe.com/jp/products/reader/


どうぞ自由に印刷などして使ってください。pdfファイルになっていますのでそのままでも検索に便利だと思います。

右は小貫英人先生が作成した製本用の表紙です。

どうぞご使用ください。


No.78 経絡経穴における錯誤(その6)

2009-05-25 22:06:06 | 経絡のはなし

経穴と経脈はそれぞれ別に存在していましたが、戦国時代以降に結合し、漢代には不即不離なるものとして考えられるようになったようです。(『No.74 経絡経穴における錯誤(その3)』より)


ちなみに『足臂十一脈灸經』や『霊枢』の経脈篇、経別篇などの文献は経脈と経穴が結合する以前のものでしょう。それらの文献において、経脈の中を流れるものはあくまで気血や水血と呼ばれる液体です。


さて『霊枢』経脈篇によると、例えば「肺手太陰脈(手太陰肺経)」は以下のように流れます。


「中焦に起り、下りて大腸に絡い、還りて胃口に循い、膈を上りて肺に属す。肺系より横に行き、腋の下に出で、下りて臑の内に循い、少陰心主の前を行き、肘の中を下り、臂の内に循い、骨の下の廉を上り、寸口に入り、魚に上り、魚際に循い、大指の端に出づ。其の支なる者は、腕の後より、次指の内の廉に直に出て、其の端に出る」


ここで注意することがあります。つまり経脈の流れは、一本であるとか、蛇行せず真っ直ぐであるとか、枝分かれは大きなもの以外ない、などの制限はないということです。


Lung_meridian しかし経脈が経穴と結合したことで、経脈の定義が変化をはじめました。右の図のように経穴と経穴を最短距離で結んだ線が経脈であると思われるようになって来たのです。


これは誤まりでも何でもありません。これは新しい経脈の定義であり、経脈は関係論的存在に変化したと言ってもよいかもしれません。


新しい経脈を実在論的に捉えてしまうと、経絡図にあるような線を解剖学的に発見しようとする試みが生まれます。この試みはなかなか成功しないようですが、今後もし経絡図の線上に連なる微小な器官が発見されたら、今度はそれが経脈であると新しく定義されるのでしょうね。


何をもって経脈と名づけるかは人それぞれの自由です。しかし伝統医学を学ぶには、時代ごとの経脈の意味を知っておく必要がありそうです。


(ムガク)


No.77 経絡経穴における錯誤(その5)

2009-05-11 21:01:42 | 経絡のはなし

前回のエッセーをまとめます。


「経穴(ツボ)は病気の治癒や症状の改善により、はじめて経穴であると定義される」


と言えますが、量子論的表現では以下のようになります。


「病気の治癒や症状の改善を観測すると同時に経穴の波動関数が収束する」


そこから経絡図は架空の存在であることが導かれました。


さて量子論でも観測の問題があるように医療の中でもそれは同じようにあります。純粋に病に苦しんでいる、何の偏見も持たない人であれば自覚症状が改善したか否かを判断することはあまり問題にはなりません。


しかし医療者や研究者がそれを認識する時にはやや問題が生じます。


ウィリアム・ジェームス(1842-1910年)(註1)は学問の愛好者と職業的な学者との相違を定義しました。それは、前者は得られた結果にとくに関心を持つが、後者は結果を得る方法に関心を持つ、と。


おなじ現象に直面しても関心を向ける先は一つではありません。とくに医療者は良くなった症状や治療方法に注目しやすいものですし、医学研究者は試験方法に関心を向けます。また職業的な学者もいくつかタイプがあるようです。寺田寅彦(1878-1935年)はそれを3種類に分けました。


甲種の科学者、目の前の現象が自分の知っている理論で説明できないと頭から否定しかかる。
乙種の科学者、目の前の現象を簡単には片付けないが、用心深く格別の興味を示さない。
丙種の科学者、目の前の現象に好奇的興味を感じ、何かしらの新しい大きな発見の可能性を予想していろいろ想像をめぐらし、何かしら独創的な研究の端緒をその中に物色しようとする。


きっと独創的な鍼灸医学が生まれるには丙種の科学者が関与していたのでしょうね。古代中国の鍼灸医学にしても現代医学にしても、医療と学問のバランスをとることは重要な問題です。


人には感覚しようとするもの以外は感覚できないという性質があります(見たくないものが見えて嫌な思いをするのは感情の問題です)。そして幻肢があるように、感覚しているものが、実際に存在しているとは限りません。そこにはフッサール(1859-1938年)の言う「原信憑(ウアドクサ)」が存在しています。


観測者が、例えば唯物論哲学の信仰を持っていると、精神に関係する病や症状の観測に困難が生じます。病気の治癒や症状の改善をどのように観測(判別、認識)するのかは真面目に考えると大変ですね。


今回のエッセーも(いつものことですが)少し脱線してしまいました。


つづく


(註1)ウィリアム・ジェームス(1842-1910年): アメリカの哲学者であり心理学者です。西田幾多郎(1870-1945年)の『善の研究』における哲学的展開に影響を与えました。


(ムガク)


No.76 経絡経穴における錯誤(その4)

2009-04-30 22:17:34 | 経絡のはなし

Meidouzub 武術には「急所」の概念がありますが、それは闘いの中で一時的または持続的に、人の活動に制限を与えることのできる身体の部位です。


急所には一部、経穴の位置と重なるところがありますが、その使用する状況や目的、加える刺激はまったく異なります。あくまで同じように見えるのは体表から見た場所だけです。(もしかしたら作用メカニズムに一部の重なりがあるかもしれませんが)


さて実際の治療の現場において、ある人に接し、ある経穴を選択した場合、それが正しい(経穴書と同じである)経穴か否かはどのように判断すれば良いのでしょうか。


経穴書に書いてあるような場所(骨や血管からの距離など)により判断すれば良いのでしょうか。または体表にある反応(凹みやコリなどがあるか否か)により判断すればよいのでしょうか。


いえ、そうではありません。正しい経穴か否かは病気や症状の改善により判断するのが適当です。


なぜなら経穴の経穴たる価値(特徴)があるゆえんは、それが病気を治癒させたり、つらい症状を緩和させることだからです。(たんなる場所からの判断では経穴と重なる急所との区別はできませんよね)


経穴書である『黄帝内経明堂』や鍼灸の医学書『黄帝三部鍼灸甲乙経』を開くと、数えきれないほどの経穴の主治症をみることができます。


例えば『明堂』の手太陰肺経の「少商」穴には以下のように記されています。


「瘧、寒厥及熱、煩心善(吐いたりしゃっくりをする)、心満而汗出、刺出血立已寒濯々、寒熱、手臂不仁、唾沫、脣乾引飲、手腕攣、指支、肺脹上気、耳中生風、咳、喘逆、指痺、臂痛、嘔吐、食飲不下、彭々、熱病象瘧、振慄皷頷、腹脹、俾倪、喉中鳴艮々」(テキストを一部変更)


このように約360箇所の経穴に何の病気や症状に効くかという主治症が存在します。しかしこれらの経穴の全てが病気や症状に効いたという実績を持つのでしょうか。理論的に効くはずだという思い込みは混ざってないのでしょうか。理論ができた後に付け加えられた主治症であればその可能性は否定できません。


経穴の主治症をみると大きく三種類に分かれます。


(1) 手足体幹、その経穴のある場所の症状
(2) 五臓六腑(六臓六腑)、経絡のつながる内臓の症状
(3) それ以外の何の関係もなさそうな場所、または全身の症状


この(2)などは経絡理論があるので、もしかしたら思い込みが入っているかもしれません。しかし(2)は(1)や(3)と比べてその数が多くないのでそんなに気にすることはないかもしれませんね。


では正しい経穴の存在をその効果(この効果を確認する方法も突き詰めて考えると大変ですが)により認識するのであれば、全身に約360箇所もの経穴が存在する人は果たしているのでしょうか。


もしいるとすれば、その人は主治症にある全ての病気や症状をもっている人になります。しかし実際にはそのような人はいません。


それ故、経絡図にあるような全身に経穴がある人は架空の存在なのです。


もちろん架空の存在と言っても、でたらめとか根拠のないという意味ではありません。一つ一つの効果の実績を重ね合わせて作り上げられたという意味です。それは非数学的ですが確率分布図に似ていますね。


さらに次回につづく


(ムガク)


No.75 血液と気

2009-04-16 23:25:19 | 経絡のはなし

小生の気まぐれのため、今回のエッセーは前回の続きではなく、少し脇道に入ります。


古代中国の政治には「血」が欠かせません。例えば現代でも「血祭りにする」のように使われる「血祭」は祖先や神の祭祀にいけにえの血を捧げたことが由来です。


また「牛耳を執る」という言葉もしかりです。複数の国家の間で同盟を結ぶ時に牛をいけにえにしてその血をすすりあったことが由来です。


「血流漂杵」は戦争においてたくさんの人の血が流れ、大きな盾をも浮かばせるほどの悲惨さをあらわす熟語です。戦争も政治の一形態ですが、古代中国にはさまざまな血が流れました。


「血」の文字は甲骨文に残されているように殷代には既にあったようです。それが春秋時代になると、その「血」が「気」と結びついて熟語を形成しました。


「孔子の曰く、君子に三戒あり。少き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。其の壮なるに及んでは血気方に剛なり、これを戒むること闘に在り。其の老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得に在り。」(『論語』季氏)


とあるように、孔子は「血気」という言葉に人の肉体的なものだけでなく精神的な力の意味をこめました。それが戦国時代になると「気」の比重が大きくなります。


「夫れ志は気を帥るものなり。気は体を充ぶるものなり。…我善く吾が浩然の気を養う。…その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害うことなければ、則ち天地の間に塞つ…」(『孟子』公孫丑章句上)


と孟子が言っているようにです。さてこの思想の変化は医学の中でも同じようにありました。それは経脈(脈、脉)の中を流れているものについてです。


つまり血管の中に流れているものが「血」から春秋時代頃から「血気」となり、戦国時代を過ぎると「営気」に変化します。(一応、古代中国医学では脈中を流れる「気」を「営(気)」と呼び、脈外を流れる「気」を「衛(気)」と呼んでいます)


Mizujyoutaizu_5 ではどうしてこのような変化が起きたのでしょうか。おそらくそれには水の性質が深く関わっています。どのような性質かというと、「大気圧が一定の場合の飽和蒸気圧は気温が高いほど大きくなる」というものです。


血液の組成の9割は水です。いけにえや食料としての動物から血を採る時、戦争で人が多量に出血する時、それが雪が降るような季節で寒ければ寒いほど、血液から多量の蒸気が立ち昇るのを観察できます。そして蒸気が立ち昇らなくなった時には、血液の温度は気温と同じように冷えて、また血液凝固反応も始まっています。


当時の戦争は農業に依存します。種をまいたり収穫したりする季節に戦争することは困難です。雪が降るまでの、または融けた後の農業の休みの季節が戦争をするには最適でした。それ故、戦争は寒い時期に少しく重なります。おそらく孫子が「陽を貴びて陰を賤しみ、生を養いて実に処る…丘陵堤防には、その陽に処りて之を右倍にす」(『孫子』行軍篇)と言っているのは季節と気温が関係しているのかもしれません。


さて血液から蒸気が立ち昇り、その後血液が冷えて、固まり、色も変化することを観察した人々はどう解釈したのでしょうか。血液の水分の蒸発(気の消失)を血液の変性の原因として捉えるのが自然です。


人々はある二つのものの間に因果関係を認めた時、原因と結果のどちらをより重要なものとして選択するのでしょうか。きっと今も昔も原因を選択するのではないかと思います。


つづく


(ムガク)


No.74 経絡経穴における錯誤(その3)

2009-04-13 22:53:17 | 経絡のはなし

経脈と経穴はどちらが先に発見されたのでしょうか。


仁和寺から発見された最古の経穴書『黄帝内経明堂』にある経穴は経脈ごとに記載されています。しかしその記載方法の理由は、経脈の上にツボを発見していった過程をもつためか、ツボの共通する働きごとに分類してそのカテゴリに経脈の名前をつけたためか、それとも他の理由のためか、今となっては明らかではありません。


しかし残された文献と現象の観察から推測することは可能です。


まず言えることは、経脈が血管であった時代において、経脈を発見することには経穴の存在を必要としていません。言い換えれば後者は前者の必要条件ではありません。血管を認識することにはどんな医学的知識も不必要であり、必要なことは人や生物の観察です。


古代中国では食料としてさまざまな動物がありましたが、人肉も食料となることがありました。それらの調理、解体作業において必ず血管が認識されます。


また春秋、戦国時代は戦争の時代であり、数えきれないほどの戦争が常に存在し、一つの戦いで幾千万の尊い命が失われることもざらでした。戦闘で腕や足、頭が切り落とされると、必ず血液が噴出します。戦国時代には四肢を止血をして助ける技術があり、また宦官になるため睾丸を切除する技術(精管動脈などの止血)も存在しました。


痩せている人では(健康な人でも)皮膚の上から血管の分布や流れ、拍動を容易に観察することも可能です。


次に言えることは、ツボを発見することには経脈の存在を必要としていません。


現在でも奇穴とか阿是穴という経脈上にないツボが次々に発見されています。特に日本では、ツボと経脈を切り離して捉えるのが『医心方』からの伝統です。もちろん経脈を重視する流派も存在しますが、「ここのツボはこの症状に効く」という言い方は一般に受け入れられ易いものです。


また何の医学的知識を持たない人も、身体のどこかが痛くなった時に手で揉んだり押さえたりして痛みを緩和させます。これは生まれて数年の子供もやっていることです。(参照:No.41 幼児の口内炎


経脈と経穴が発見されるにあたってお互いを必要条件としないのであれば、それぞれが独立に発見されたと考えるのが妥当です。そこに先後関係はあるかもしれませんが、因果関係はなさそうです。


それぞれが独立に存在したのであれば、いつお互いに結びついたのでしょうか。


それは医療が呪術的なものから経験科学的なものに移行する時代、おそらくは諸子百家の出現する戦国時代においてです。その時代に人々が「なぜそのツボが効くのか」という理由を求め、かつそれが神秘的、超自然的なものではなく、より合理的なものである欲求を持ったのです。


つまり経脈(血管)は経穴(ツボ)の効果を説明するために利用されたという可能性があります。


これは「ツボが効くのは神経や血管を刺激するからである」というような現代の思考方法とまったく同じです。しかしこの経絡と経穴の結びつきにより、ツボの効果に対してさらなる注意が払われるようになり、鍼灸医学が発展したのでしょう。


次回につづく


(ムガク)


No.73 経絡経穴における錯誤(その2)

2009-04-09 20:30:23 | 経絡のはなし

Meidouzuf 経穴とは何でしょうか。鍼灸師を養成するための教科書の一つである『経絡経穴概論』(東洋療法学校協会編)には以下のように記載されています。


「経穴は体表面にあり、鍼灸施術の点であって全身のあらゆるところに存在している。経穴という場合は経脈に所属しているのが原則であるが、それ以外に施術点として(経外)奇穴とか阿是穴といわれるもので治療効果が認められ、その存在が定説化したものがある。


…経穴は疾病の際になんらかの反応をあらわす点であり、また鍼灸術を施して疾病を治療させる点でもある。そして経脈とは機能的なつながりを持ち、経脈を通じて臓腑と関連があると考えられている。即ち経穴とは、疾病の際の反応点であり、診断点であり、治療点である。


…経穴は経脈上に存在し、臓腑の気のあらわれるところである。」


これが鍼灸の教育における経穴に対する認識です。この認識は現在では正しいと言えますが、過去においても正しかったと言えるでしょうか。もし過去のさまざまな医学的知識を現在において役に立てようとするのなら、過去の時代の経穴の意味を捉えておく必要があります。


経穴はという名前は「ツボ」とか「反応点」、または「孔穴」や「気穴」、「谿谷」などと言い換えても(微妙なニュアンスの違いはありますが)指し示すものは同じです。奇穴とか阿是穴というのも経脈に所属するか否かという分類が異なるだけで、体表から指し示せる治療点という意味では同じです。


さてこの経穴たちは経脈が血管であった時代に、その経脈上に存在したと言えるのでしょうか。もしそうであるのなら経穴を解剖学的に命名できるはずです。


また経脈と経穴はどちらが先に発見されたかという議論があります。つまり一つの説は、先ず経脈の流れが発見され、その後その経脈上に経穴を見つけていったというもの。もう一つの説は、先ず反応点(経穴)が発見され、その後それらを結んだ線として経脈を認識したというものです。


前漢代の古墳、馬王堆や張家山から発掘された文献(『陰陽十一脉灸経』や『足臂十一脉灸経』など)では11本の経脈が記載されているのに、経穴の名前が記されていません。それを考えると前者の説がもっともらしくなります。


しかしこれら以外にも別の説が考えられることを忘れてはなりません。


次回につづく



(ムガク)


No.72 経絡経穴における錯誤(その1)

2009-04-02 20:22:48 | 経絡のはなし

Keirakuzu 身体には経脈として左右に各12本の正経と正中線上に2本の奇経(任脈と督脈)が張り巡らされ、その上には左右に各308の経穴と正中線上に52穴が存在するとされています。


経穴の存在はヒポクラテス(BC460~377年頃)も認識しており、また古代インドのススルタ医学の中でもマルマ(Marma)という名で認識されています。臨床の中でも経穴に治療を施すことで、身体の痛みがなくなるとか、動かなかった身体が動くようになるなどというように、日々その存在を実感します。


古来、経穴に関する文献上の情報はだいたい決まっています。それは


1、身体のどこにあるか
2、どんな症状、病気に効くか
3、鍼や灸が可能であるか、可能であればどのような手技を施すか
4、どのような性質を持つか(これに関しては『医心方』(註1)にあるように一昔前の日本ではよく無視されました)


最古の経穴に関する情報は『明堂孔穴鍼灸治要』 (『明堂』)に記されていたとされていますが、三国時代頃には、その文献は失われてしまい、現在では写本の一部が残されているだけです。しかし『黄帝三部鍼灸甲乙経』(註2)に抜粋されているため、その内容を知ることができます。


ちなみに経絡は『黄帝内経霊枢』(鍼経)の経脈篇、経穴は『明堂』が完成した後は約二千年の間に大きな変化はありませんでした。その間、多くの経絡経穴に関する文献が著されましたが、ほとんどは編集し直しただけのものです。


「経脈とは何か」と言うと、それは時代と人々によりその定義は異なります。しかし元々は血気の流れる身体の器官、今でいう所の血管(脉管)を指していたようです。それ故か『素問』の中では刺絡(瀉血)という血を出す治療法が目立ちます。(註3)


とするとその当時、経脈というものは解剖学的な用語であり、人に必ず(健康状態に関わらず)存在していたものになります。


しかし経穴(ツボ)はどうでしょうか。上の経絡図にあるようにどんな人にも同じように経穴が存在するのでしょうか。


つづく


(註1)『医心方』: 平安時代に丹波康頼(912-995年)により編集された日本に残された最古の医学書です。


(註2)『黄帝三部鍼灸甲乙経』: 皇甫謐(215-282年頃)が医学書である『素問』、『鍼経』(『霊枢』)、『明堂孔穴鍼灸治要』 を項目ごとに分類し編集したと言われています。


(註3)
「経脈は血気を行らせ陰陽を営し、筋骨を濡し、関節を利する所以の者なり」(『黄帝内経霊枢』本蔵)
「夫れ人の常数、太陽(足太陽膀胱経)は常に血多く気少なし…凡そ病を治するに必ず先ず其の血を去りて、乃ち其の苦しむ所を去る…」(『黄帝内経素問』血気形志篇)


(ムガク)


No.71 ヒポクラテスと経絡経穴

2009-03-18 19:59:59 | 経絡のはなし

伝統医学(中医学、日本漢方、韓医学など色々とありますが)の中で最も興味深いのが鍼灸治療にて重要な位置を占める経絡理論でしょう。


身体には経絡(左右に各12本と正中線上に2本)が張り巡らされ、その上には経穴(左右に各308穴と正中線上に52穴)が存在するとされています。またそれ以外にも奇経と呼ばれる別の流れと、奇穴と呼ばれる経絡上にないツボがあるとされています。


経絡はそれぞれ連絡し合い、各内臓や器官に繋がっているとされ、「営気」と呼ばれる栄養分や生命エネルギーのようなものを身体中に循環させると考えられています。この経絡理論が学術的な体系として完成したのが今から2000年以上前の漢代とされ、『黄帝内経霊枢』という文献により知ることができます。しかし経絡の概念自体は馬王堆や張家山から発掘された文献(陰陽十一脉灸経や足臂十一脉灸経など)によりさらに時代を遡ると考えられています。


さてこの経絡理論により鍼灸医学は東洋医学の神秘などとして取り扱われることもありますが、果たしてこれは古代中国に独特のものだったのでしょうか。


古代ギリシャのヒポクラテス(BC460~377年頃)は医学の父と呼ばれていますが、以下のような論文を残しています。


「脉管のうちもっとも分厚いものは次のようになっている。人体には四対の脉管がある、その一対は頭の後ろから頸を経て背骨の左右の外側部(身体の浅部)を通り、腰に沿ったところおよび腿に達する、それから脛を通って踝の外側および足に達する。それゆえ背部と腰部の痛みのための放血手術を施すには、膝膕と踝の外側から行うべきである」(ヒポクラテス『人間の自然性について』小川政恭訳)


この翻訳された脉管という単語は経絡とほぼ同じ意味ですね。そしてここでの脉管の流れは足の太陽膀胱経(鉅陽、足泰陽の脈)とほぼ同じです。また背部と腰部の痛みの治療点は「委中」と「崑崙」という経穴と場所も主治症もほぼ同じです。


「他の一対の脉管は頭から両耳に沿い頸を通るもので、スパギテスと呼ばれる。これらは背骨に沿い深部において腰部筋肉のそばを通って睾丸と腿に達し、膝膕の内側を経、それから脛を通って踝の内側および足に達する。腰部筋肉と睾丸の痛みのための放血手術を施すには、膝膕および踝の内側からすべきである」(同上)


これなどは足の少陰腎経とほぼ同じですね。腰部筋肉と睾丸の痛みの治療点は「陰谷」と「太谿」という経穴と場所も主治症もほぼ同じです。ここで面白いのは頭や耳にも脉管が通るということです。なぜなら少陰腎経の腎は頭や耳にも関係が深いのに、経絡にはその流れがないからです。


これらから経絡の概念は古代中国に限らず存在していたことが分かります。それはある部分と別の部分の関係性を発見する能力が民族に関係なく存在したことを意味しています。


古代ギリシャも中国も天文学が盛んであり、多くの星座がありました。同じ星空を観察しても星座の作り方(星と星の組み合わせ方)は両者で異なります。このように異なる環境、文化の中で人々の関心を向けるものにより、人体において発見される関係性というものも異なってくるようです。


ただ経絡の概念は古代中国に独特のものではなかったと言えますが、それを経絡理論という一つの治療体系に組み立てて、陰陽五行論など別の理論と融合させ、進化したことは他にはない独特のものであると言ってよいかもしれません。


(ムガク)


No.35 都市構造と経絡

2008-05-22 17:12:17 | 経絡のはなし

鍼灸などの伝統医学は古代中国で生まれました。その「中国」には中国文明が始まり、現在は中華人民共和国となっている、黄河や長江を含む地域の意味があります。しかし春秋時代には中国には首都という意味があり、前漢の時代には同じ文化・生活習慣を持つ国という意味がありました。


さて中国は伝統的に古代から清朝のラストエンペラーの時代まで城郭都市国家でした。国とはその城壁に囲まれた巨大な都市を意味していました。大陸の上にポツリポツリと無数の国があり、国と国を蜘蛛の巣を張り巡らすように結ぶ道が存在していました。国の城壁から一歩足を踏み出すとそこは国外であり、異民族が生活するような無法地帯もありました。


大陸に点状に都市が存在し、それを結ぶように線状に道がまた存在する。この構造を見ると人体の経絡の概念と非常に似ていると感じます。都市と道その関係は世界中に存在します。中国の場合はその各都市のほとんど全てが城壁ではっきり区切られていた点がユニークです。


都市構造は防衛上の必要性から生み出されたものでしょう。その都市構造の中で生活しているうちに、人々は経絡現象を発見したのでしょうか。経穴(ツボ)も少しずれたらツボではない。そういう厳密性も硬くて丈夫な城壁から生まれたと考えると面白いですね。


(ムガク)

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No.24 経絡と実体論

2008-02-13 22:39:12 | 経絡のはなし

鍼灸界などの医療界において経絡というものを実体論的にとらえようとする試みがあります。つまり人体に経絡があるのであれば解剖学的な器官が存在するはずであり、それを発見しようとする試みです。現在のところ整合性の高い説明は発表されていません。経絡の何割かが血管や神経と一致したという話はあります。またその経絡の発見において経穴と経絡どちらが最初に発見されたかというような議論もあります。


経穴が最初に発見されたと考えると経絡とは経穴と経穴、または経穴と内臓や体の部位を繋ぐ線として認識されると思います。それは夜空の星座の星と星の間に線がないように実体がある必要はありません。そして関係性の高い経穴の集合に、例えば「手太陰肺経」のように名前が付けられます。


経穴の近くには神経や血管が存在する割合は高いと言われています。また戦場での傷や入れ墨をする際の鍼刺激になどにより病状が変化することもあったことと思います。例えば足の経穴の鍼刺激で頭痛や鼻炎などの頭部の症状が良くなった経験をすると足の経穴と頭が繋がっていると考えてしまいます。実際明らかに一つの身体なので繋がっているのですが、その繋がりをそれより細小のスケールで説明しようとしてしまうのは昔も今も同じのようです。


帯状疱疹のような皮膚病が起きると経絡に沿って水疱が線状に出現することがあります。また例えば狭心症では「手少陰心経」に沿って放散痛が出現します。動静脈はある程度皮膚を通じて視覚や触覚での観察が可能であり、血管を切ると血液の流れも観察できます。


経絡が最初に発見されたと考えると経穴は経絡上の他の部分とは異なる点として認識されると思います。そして経験を積み重ねてその差異を識別していったのでしょうか。


「交通」の概念を用いたのはマルクスとエンゲルスでした。彼らは『ドイツ・イデオロギー』の中であらゆるシステムが固定していることを疑いました。例えばある二つの町が元々あり、その間で人や物の交通が起こるのではないということです。人や物はたえまなく複雑に移動していて、その移動の道の交点の集合が町という実体として意識されるのです。


この交通の概念を人体における経絡と経穴の関係や、歴史と思想の関係に応用できるでしょうか。ちなみに古代中国の人は経脈を実際の川にたとえて説明しようとしていました。


(ムガク)

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No.19 レヴィ=ストロースと経絡(その2)

2008-01-20 00:19:56 | 経絡のはなし

今年はレヴィ=ストロースの生誕100年になります。彼は現代のフランスの文化人類学者であり、その思想は様々な分野に影響を与えました。彼は世界中の民族、神話を調査することである結論に達しました。


「概念の切りとり方は言語によって異なり、…用語の抽象度の差異は知的能力に左右されるのではなく、一民族社会の中に含まれる個別社会のそれぞれが、細部の事実に対して示す関心の差によって決まるのである。…概念が豊富であるということは、現実のもつ諸特性にどれだけ綿密な注意を払い、そこに導入しうる弁別に対してどれだけ目覚めた関心をもっているかを示すものである。…それが近代科学の対象と同一レベルの事実に対して向けられることは稀であるにしても、その知的操作と観察の方法は同種のものである。」(レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳より)


この思想は現在の世界中の民族に当てはまるものだと言われています。この思想を時間軸に対して延長してみたらどうでしょうか。古代中国の人々が発見したと言われる経絡は何も特別な超能力を必要としていないことが判ります。彼らが関心を向けた生命現象が、経絡を見出せなかった人々と異なっていただけなのです。異なる経験のレベルによって解釈した結果が異なってくるのですが、知的操作と観察の方法は古代も現代も同種であると思います。それにしても膨大で綿密な観察が必要であったことでしょう。また以下のようにも言っています。


「呪術と科学の第一の相違点はつぎのようなものになろう。すなわち、呪術が包括的かつ全面的な因果性を公準とするのに対し、科学の方は、まずいろいろなレベルを区別した上で、そのうちの若干に限ってのみ因果性のなにがしかの形式が成り立つことを認めるが、ほかに同じ形式が通用しないレベルもあるとするのである。…呪術的思考や儀礼が厳格で緻密なのは、科学的現象の存在様式としての因果性の真実を無意識に把握していることのあらわれであり、したがって、因果性を認識しそれを尊重するよりも前に、包括的にそれに感づき、かつそれを演技しているのではないだろうか。」


何を呪術として何を科学とするか、よく考えると難しい問題です。伝統医学もある立場から見れば呪術的に見られるかもしれませんし、科学であるとも言えます。人や生命も自然の一部であり密接に関係しているという思想があります。天人相応とか天人合一などと言われています。そして伝統医学は人も自然も同時に説明しようとしてしまいます。


自然科学は特定の分野の中で通用する形式(原理、法則、定理など)を追求し、それはほかの分野で通用しなくても問題にしません。呪術も科学もそれぞれ世界を記述する一つの方法です。


(ムガク)

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No.18 レヴィ=ストロースと経絡(その1)

2008-01-17 19:31:00 | 経絡のはなし

鍼灸医学は経穴や経絡を使用します。経穴は一般的にはツボと呼ばれています。そして経絡は経穴と経穴を結ぶ流れであると言われています。ツボは受け入れやすいものだと思います。肩が凝っている時など、ある肩の一部分を指で押すと気持ち良いとツボを感じることがあると思います。しかし経絡の概念は全ての人に受け入れられ難いものです。経絡敏感人と呼ばれる人は経穴の鍼による刺激により経絡を正確に感覚できると言われています。しかし経絡を感覚できない人も多く存在します。


経絡を解剖学的に観測しようとする試みがあります。過去にはボンハン学説(註1)が発表されました。また経絡とは血管であるとか、神経、リンパであるなど人体の器官により説明しようとすることが現代の主流です。そしてこれらの試みが失敗すると経絡は無いのではないかと考えて経絡は嘘であると言う人もいます。


経絡を無いとするまたは重要視しない思想は以前からあるようです。今から約千年前に書かれた日本の総合医学書『医心方』は経絡についてほとんど触れていません。また江戸期の吉益東洞は現代の漢方医学の祖となりますが、この方も経絡を無視しています。


鍼灸師は経絡をあると考えて治療を行う場合に、治療の効果が高いと経絡はあると考えてしまいます。そして今から二千年前には既に経絡の概念がありましたが、それを発見した人は超能力のような特別な力を使ったのだと思ってしまうこともあります。


はたして経絡とは何なのでしょうか。またそれは過去において特別な能力を使って発見されたものなのでしょうか。これについて文化人類学的立場から見るとどうなるのでしょうか。


(註1)ボンハン学説:北朝鮮の学者キム・ボンハン教授は経絡を血管やリンパ管系などと異なる循環系であるとして人体を解剖し経絡を染色することで発見しようとしました。当時、その経絡を染色して観察する実験は世界で追試が試みられましたが確認されることができませんでした。その学説に否定的な人もあれば肯定的な人もいます。


(ムガク)

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