はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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No.76 経絡経穴における錯誤(その4)

2009-04-30 22:17:34 | 経絡のはなし

Meidouzub 武術には「急所」の概念がありますが、それは闘いの中で一時的または持続的に、人の活動に制限を与えることのできる身体の部位です。


急所には一部、経穴の位置と重なるところがありますが、その使用する状況や目的、加える刺激はまったく異なります。あくまで同じように見えるのは体表から見た場所だけです。(もしかしたら作用メカニズムに一部の重なりがあるかもしれませんが)


さて実際の治療の現場において、ある人に接し、ある経穴を選択した場合、それが正しい(経穴書と同じである)経穴か否かはどのように判断すれば良いのでしょうか。


経穴書に書いてあるような場所(骨や血管からの距離など)により判断すれば良いのでしょうか。または体表にある反応(凹みやコリなどがあるか否か)により判断すればよいのでしょうか。


いえ、そうではありません。正しい経穴か否かは病気や症状の改善により判断するのが適当です。


なぜなら経穴の経穴たる価値(特徴)があるゆえんは、それが病気を治癒させたり、つらい症状を緩和させることだからです。(たんなる場所からの判断では経穴と重なる急所との区別はできませんよね)


経穴書である『黄帝内経明堂』や鍼灸の医学書『黄帝三部鍼灸甲乙経』を開くと、数えきれないほどの経穴の主治症をみることができます。


例えば『明堂』の手太陰肺経の「少商」穴には以下のように記されています。


「瘧、寒厥及熱、煩心善(吐いたりしゃっくりをする)、心満而汗出、刺出血立已寒濯々、寒熱、手臂不仁、唾沫、脣乾引飲、手腕攣、指支、肺脹上気、耳中生風、咳、喘逆、指痺、臂痛、嘔吐、食飲不下、彭々、熱病象瘧、振慄皷頷、腹脹、俾倪、喉中鳴艮々」(テキストを一部変更)


このように約360箇所の経穴に何の病気や症状に効くかという主治症が存在します。しかしこれらの経穴の全てが病気や症状に効いたという実績を持つのでしょうか。理論的に効くはずだという思い込みは混ざってないのでしょうか。理論ができた後に付け加えられた主治症であればその可能性は否定できません。


経穴の主治症をみると大きく三種類に分かれます。


(1) 手足体幹、その経穴のある場所の症状
(2) 五臓六腑(六臓六腑)、経絡のつながる内臓の症状
(3) それ以外の何の関係もなさそうな場所、または全身の症状


この(2)などは経絡理論があるので、もしかしたら思い込みが入っているかもしれません。しかし(2)は(1)や(3)と比べてその数が多くないのでそんなに気にすることはないかもしれませんね。


では正しい経穴の存在をその効果(この効果を確認する方法も突き詰めて考えると大変ですが)により認識するのであれば、全身に約360箇所もの経穴が存在する人は果たしているのでしょうか。


もしいるとすれば、その人は主治症にある全ての病気や症状をもっている人になります。しかし実際にはそのような人はいません。


それ故、経絡図にあるような全身に経穴がある人は架空の存在なのです。


もちろん架空の存在と言っても、でたらめとか根拠のないという意味ではありません。一つ一つの効果の実績を重ね合わせて作り上げられたという意味です。それは非数学的ですが確率分布図に似ていますね。


さらに次回につづく


(ムガク)


No.75 血液と気

2009-04-16 23:25:19 | 経絡のはなし

小生の気まぐれのため、今回のエッセーは前回の続きではなく、少し脇道に入ります。


古代中国の政治には「血」が欠かせません。例えば現代でも「血祭りにする」のように使われる「血祭」は祖先や神の祭祀にいけにえの血を捧げたことが由来です。


また「牛耳を執る」という言葉もしかりです。複数の国家の間で同盟を結ぶ時に牛をいけにえにしてその血をすすりあったことが由来です。


「血流漂杵」は戦争においてたくさんの人の血が流れ、大きな盾をも浮かばせるほどの悲惨さをあらわす熟語です。戦争も政治の一形態ですが、古代中国にはさまざまな血が流れました。


「血」の文字は甲骨文に残されているように殷代には既にあったようです。それが春秋時代になると、その「血」が「気」と結びついて熟語を形成しました。


「孔子の曰く、君子に三戒あり。少き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り。其の壮なるに及んでは血気方に剛なり、これを戒むること闘に在り。其の老いたるに及んでは血気既に衰う、これを戒むること得に在り。」(『論語』季氏)


とあるように、孔子は「血気」という言葉に人の肉体的なものだけでなく精神的な力の意味をこめました。それが戦国時代になると「気」の比重が大きくなります。


「夫れ志は気を帥るものなり。気は体を充ぶるものなり。…我善く吾が浩然の気を養う。…その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害うことなければ、則ち天地の間に塞つ…」(『孟子』公孫丑章句上)


と孟子が言っているようにです。さてこの思想の変化は医学の中でも同じようにありました。それは経脈(脈、脉)の中を流れているものについてです。


つまり血管の中に流れているものが「血」から春秋時代頃から「血気」となり、戦国時代を過ぎると「営気」に変化します。(一応、古代中国医学では脈中を流れる「気」を「営(気)」と呼び、脈外を流れる「気」を「衛(気)」と呼んでいます)


Mizujyoutaizu_5 ではどうしてこのような変化が起きたのでしょうか。おそらくそれには水の性質が深く関わっています。どのような性質かというと、「大気圧が一定の場合の飽和蒸気圧は気温が高いほど大きくなる」というものです。


血液の組成の9割は水です。いけにえや食料としての動物から血を採る時、戦争で人が多量に出血する時、それが雪が降るような季節で寒ければ寒いほど、血液から多量の蒸気が立ち昇るのを観察できます。そして蒸気が立ち昇らなくなった時には、血液の温度は気温と同じように冷えて、また血液凝固反応も始まっています。


当時の戦争は農業に依存します。種をまいたり収穫したりする季節に戦争することは困難です。雪が降るまでの、または融けた後の農業の休みの季節が戦争をするには最適でした。それ故、戦争は寒い時期に少しく重なります。おそらく孫子が「陽を貴びて陰を賤しみ、生を養いて実に処る…丘陵堤防には、その陽に処りて之を右倍にす」(『孫子』行軍篇)と言っているのは季節と気温が関係しているのかもしれません。


さて血液から蒸気が立ち昇り、その後血液が冷えて、固まり、色も変化することを観察した人々はどう解釈したのでしょうか。血液の水分の蒸発(気の消失)を血液の変性の原因として捉えるのが自然です。


人々はある二つのものの間に因果関係を認めた時、原因と結果のどちらをより重要なものとして選択するのでしょうか。きっと今も昔も原因を選択するのではないかと思います。


つづく


(ムガク)


No.74 経絡経穴における錯誤(その3)

2009-04-13 22:53:17 | 経絡のはなし

経脈と経穴はどちらが先に発見されたのでしょうか。


仁和寺から発見された最古の経穴書『黄帝内経明堂』にある経穴は経脈ごとに記載されています。しかしその記載方法の理由は、経脈の上にツボを発見していった過程をもつためか、ツボの共通する働きごとに分類してそのカテゴリに経脈の名前をつけたためか、それとも他の理由のためか、今となっては明らかではありません。


しかし残された文献と現象の観察から推測することは可能です。


まず言えることは、経脈が血管であった時代において、経脈を発見することには経穴の存在を必要としていません。言い換えれば後者は前者の必要条件ではありません。血管を認識することにはどんな医学的知識も不必要であり、必要なことは人や生物の観察です。


古代中国では食料としてさまざまな動物がありましたが、人肉も食料となることがありました。それらの調理、解体作業において必ず血管が認識されます。


また春秋、戦国時代は戦争の時代であり、数えきれないほどの戦争が常に存在し、一つの戦いで幾千万の尊い命が失われることもざらでした。戦闘で腕や足、頭が切り落とされると、必ず血液が噴出します。戦国時代には四肢を止血をして助ける技術があり、また宦官になるため睾丸を切除する技術(精管動脈などの止血)も存在しました。


痩せている人では(健康な人でも)皮膚の上から血管の分布や流れ、拍動を容易に観察することも可能です。


次に言えることは、ツボを発見することには経脈の存在を必要としていません。


現在でも奇穴とか阿是穴という経脈上にないツボが次々に発見されています。特に日本では、ツボと経脈を切り離して捉えるのが『医心方』からの伝統です。もちろん経脈を重視する流派も存在しますが、「ここのツボはこの症状に効く」という言い方は一般に受け入れられ易いものです。


また何の医学的知識を持たない人も、身体のどこかが痛くなった時に手で揉んだり押さえたりして痛みを緩和させます。これは生まれて数年の子供もやっていることです。(参照:No.41 幼児の口内炎


経脈と経穴が発見されるにあたってお互いを必要条件としないのであれば、それぞれが独立に発見されたと考えるのが妥当です。そこに先後関係はあるかもしれませんが、因果関係はなさそうです。


それぞれが独立に存在したのであれば、いつお互いに結びついたのでしょうか。


それは医療が呪術的なものから経験科学的なものに移行する時代、おそらくは諸子百家の出現する戦国時代においてです。その時代に人々が「なぜそのツボが効くのか」という理由を求め、かつそれが神秘的、超自然的なものではなく、より合理的なものである欲求を持ったのです。


つまり経脈(血管)は経穴(ツボ)の効果を説明するために利用されたという可能性があります。


これは「ツボが効くのは神経や血管を刺激するからである」というような現代の思考方法とまったく同じです。しかしこの経絡と経穴の結びつきにより、ツボの効果に対してさらなる注意が払われるようになり、鍼灸医学が発展したのでしょう。


次回につづく


(ムガク)


No.73 経絡経穴における錯誤(その2)

2009-04-09 20:30:23 | 経絡のはなし

Meidouzuf 経穴とは何でしょうか。鍼灸師を養成するための教科書の一つである『経絡経穴概論』(東洋療法学校協会編)には以下のように記載されています。


「経穴は体表面にあり、鍼灸施術の点であって全身のあらゆるところに存在している。経穴という場合は経脈に所属しているのが原則であるが、それ以外に施術点として(経外)奇穴とか阿是穴といわれるもので治療効果が認められ、その存在が定説化したものがある。


…経穴は疾病の際になんらかの反応をあらわす点であり、また鍼灸術を施して疾病を治療させる点でもある。そして経脈とは機能的なつながりを持ち、経脈を通じて臓腑と関連があると考えられている。即ち経穴とは、疾病の際の反応点であり、診断点であり、治療点である。


…経穴は経脈上に存在し、臓腑の気のあらわれるところである。」


これが鍼灸の教育における経穴に対する認識です。この認識は現在では正しいと言えますが、過去においても正しかったと言えるでしょうか。もし過去のさまざまな医学的知識を現在において役に立てようとするのなら、過去の時代の経穴の意味を捉えておく必要があります。


経穴はという名前は「ツボ」とか「反応点」、または「孔穴」や「気穴」、「谿谷」などと言い換えても(微妙なニュアンスの違いはありますが)指し示すものは同じです。奇穴とか阿是穴というのも経脈に所属するか否かという分類が異なるだけで、体表から指し示せる治療点という意味では同じです。


さてこの経穴たちは経脈が血管であった時代に、その経脈上に存在したと言えるのでしょうか。もしそうであるのなら経穴を解剖学的に命名できるはずです。


また経脈と経穴はどちらが先に発見されたかという議論があります。つまり一つの説は、先ず経脈の流れが発見され、その後その経脈上に経穴を見つけていったというもの。もう一つの説は、先ず反応点(経穴)が発見され、その後それらを結んだ線として経脈を認識したというものです。


前漢代の古墳、馬王堆や張家山から発掘された文献(『陰陽十一脉灸経』や『足臂十一脉灸経』など)では11本の経脈が記載されているのに、経穴の名前が記されていません。それを考えると前者の説がもっともらしくなります。


しかしこれら以外にも別の説が考えられることを忘れてはなりません。


次回につづく



(ムガク)


No.72 経絡経穴における錯誤(その1)

2009-04-02 20:22:48 | 経絡のはなし

Keirakuzu 身体には経脈として左右に各12本の正経と正中線上に2本の奇経(任脈と督脈)が張り巡らされ、その上には左右に各308の経穴と正中線上に52穴が存在するとされています。


経穴の存在はヒポクラテス(BC460~377年頃)も認識しており、また古代インドのススルタ医学の中でもマルマ(Marma)という名で認識されています。臨床の中でも経穴に治療を施すことで、身体の痛みがなくなるとか、動かなかった身体が動くようになるなどというように、日々その存在を実感します。


古来、経穴に関する文献上の情報はだいたい決まっています。それは


1、身体のどこにあるか
2、どんな症状、病気に効くか
3、鍼や灸が可能であるか、可能であればどのような手技を施すか
4、どのような性質を持つか(これに関しては『医心方』(註1)にあるように一昔前の日本ではよく無視されました)


最古の経穴に関する情報は『明堂孔穴鍼灸治要』 (『明堂』)に記されていたとされていますが、三国時代頃には、その文献は失われてしまい、現在では写本の一部が残されているだけです。しかし『黄帝三部鍼灸甲乙経』(註2)に抜粋されているため、その内容を知ることができます。


ちなみに経絡は『黄帝内経霊枢』(鍼経)の経脈篇、経穴は『明堂』が完成した後は約二千年の間に大きな変化はありませんでした。その間、多くの経絡経穴に関する文献が著されましたが、ほとんどは編集し直しただけのものです。


「経脈とは何か」と言うと、それは時代と人々によりその定義は異なります。しかし元々は血気の流れる身体の器官、今でいう所の血管(脉管)を指していたようです。それ故か『素問』の中では刺絡(瀉血)という血を出す治療法が目立ちます。(註3)


とするとその当時、経脈というものは解剖学的な用語であり、人に必ず(健康状態に関わらず)存在していたものになります。


しかし経穴(ツボ)はどうでしょうか。上の経絡図にあるようにどんな人にも同じように経穴が存在するのでしょうか。


つづく


(註1)『医心方』: 平安時代に丹波康頼(912-995年)により編集された日本に残された最古の医学書です。


(註2)『黄帝三部鍼灸甲乙経』: 皇甫謐(215-282年頃)が医学書である『素問』、『鍼経』(『霊枢』)、『明堂孔穴鍼灸治要』 を項目ごとに分類し編集したと言われています。


(註3)
「経脈は血気を行らせ陰陽を営し、筋骨を濡し、関節を利する所以の者なり」(『黄帝内経霊枢』本蔵)
「夫れ人の常数、太陽(足太陽膀胱経)は常に血多く気少なし…凡そ病を治するに必ず先ず其の血を去りて、乃ち其の苦しむ所を去る…」(『黄帝内経素問』血気形志篇)


(ムガク)