はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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No.38 五輪と五行(その1)

2008-06-11 21:38:34 | 気・五行のはなし

宮本武蔵は『五輪書』という兵法書を残しました。それは地之巻、水之巻、火之巻、風之巻、空之巻の五つに分かれています。この地水火風空とは一体なんなのでしょうか。この五輪は仏教の用語で、オリンピックのことではありません。専門書で調べると難しいのですが、宮沢賢治(1896-1933年)はやさしく説明してくれました。


五輪は地水火風空
むかしの印度の科学だな
空といふのは総括だとさ
いまの真空だらうかな
つまり真空そのものが
エネルギーともあらはれる
火といふ方はエネルギー
アレニウスの解釈だ
残り三つは古い原素の分類だらう
世界も人もこれだといふ
心といふのもこれだといふ
いまだつて変らないさな
雲もやつぱりさうかと云えば
それは元来一つの真空だけであり
所感となつては
気相は風 液相は水
固相は核の塵とする
そして運動エネルギーと
熱と電気は火に入れる
それからわたくしもそれだ
この楢の木を引き裂けるといつてゐる
村のこどももそれで
わたくしであり彼であり
雲であり岩であるのはたゞ因縁であるといふ
そこで畢竟世界はたゞ因縁であるだけといふ
雲の一つぶ一つぶの
質も形も進度も位置も時間も
みな因縁が自体であるとそう考へると
なんだか心がぼおとなる


(『春と修羅』二より、旧字体は改めました)


どうも五輪には五行と異なる印象があります。


(ムガク)


No.37 宮本武蔵と気

2008-06-09 17:00:55 | 気・五行のはなし

宮本武蔵(1584-1645年頃)は日本人のほぼ誰もが知る剣豪でありますが、その著作『五輪書』の中に気に関する記述が見られます。


「枕をおさゆるといふは、我実の道を得て敵にかゝりあふ時、敵何ごとにてもおもふ気ざしを、敵のせぬ内に見知りて、敵のうつといふうつのうの字のかしらをおさへて、跡をさせざる心、是枕をおさゆる心也。」


この文中の「気ざし」は「兆し」のことで、ものごとが起ころうとする、思いや考えが生じようとする前触れの意味があるようです。『五輪書』の他の文中には、かなの「き」の字か普通に使われています。それ故、この「気ざし」の「気」は単なる「き」の当て字ではなく武蔵が「気」に対して持っている印象が感じられますね。


「景気を見るといふは、大分の兵法にしては、敵のさかえおとろへを知り、相手の人数の心を知り、その場の位を受け、敵のけいきを能く見うけ、我人数なんとしかけ、此兵法の理にて慥に勝といふ所をのみこみて、先の位をしつてたゝかふ所也。又一分の兵法も、敵のながれをわきまへ、相手の人柄を見うけ、人のつよきよわき所を見つけ、敵の気色にちがふ事をしかけ、敵のめりかりを知り、其間の拍子をよくしりて、先をしかくる所肝要也。物毎の景気といふ事は、我智力つよければ、必ずみゆる所也。」


この「景気」や「気色」には筆舌にしがたいけれども確かである情報、様子や気配のような意味があるようです。この生死に関わる重要な情報は特殊能力などではなく、智力を必要としていることが分かります。ちなみにこの「敵」を「病」に置き換えると医療者にとって考え深いものになりますね。


「声無きに聴き、形無きに視る」(『礼記』曲礼上第一より)(註1)


中国や日本では古来よりこの思想がありました。例えば「目上の人に会って話をしているとき、相手があくびをしたり、手にした杖を動かしたり、靴のつまさきを動かしたり、あるいは戸外の日ざしの移りかげんを気にするようであれば、いとまを請うがよい」、というようにです。


ところで『五輪書』の五輪は五行論と同じ数字です。何か関係あるのでしょうか。


次回に続きます。


(註1)礼記:儒家の、礼法や文化に関する論集。前漢の戴徳の編「大戴礼」と戴聖の編「小戴礼」があったが、後者が今日の『礼記』となった。『大学』『中庸』はもとは『礼記』の一部。三礼、五経の一つ。(『漢字海』より)


(ムガク)