心理学が科学になろうと努力したのは19世紀末期になってからです。医学(medicne)はもともと病を治す技術のような意味であって、宗教的であるとか呪術的であるかは関係ありませんでした。それが科学(science)になろうと努力したのは19世紀の中程からのようです.
今では(現代)医学は科学として広く認識されていますが、その当時は医学が科学になるには大変なことでした。なぜなら19世紀は生気論が主流であり、生物に物理や化学的法則は当てはまらないと考えるのが普通でしたから。しかしその転換を迎えるに当たって、最大の功績者となったのが「内部環境の固定性」などの提唱で知られるクロード・ベルナール(1813-1878年)です。
彼はさまざまな生理学の実験を通じて生物のしくみ(例えば肝臓が糖を作ることや血管運動神経の発見など)を明らかにしていきました。ルイ・パスツール(1822-1895)は実験を通じて「自然発生説」を否定しましたが、ベルナールはパスツールにも大きな影響を与えています。その医学の歴史を変えることになったベルナールの代表的著作が『実験医学序説』です。
『実験医学序説』が1865年に著されてから医学も技術的に大きく進歩してきました。しかし未だ科学になりきれない処が残されています。「デテルミニスム」という「決定論」と「還元論」の混ざり合った思想は社会に広く浸透してきたものの、医学に関係する科学的・哲学的思想は忘れられやすいようです。その忘却は今に始まったことではありません。
1913年にクロード・ベルナールの百年祭がコレージュ・ド・フランスにおいて行われました。その時ベルクソン(1859-1941年)が講演の中でこんな言葉を残しています。
「クロード・ベルナールがこの(実験医学)の方法を叙述し、それに関する二、三の実例を与え、彼が行った方法の適用をわれわれに報告するとき、彼が説明していることは一から十まで全く単純で全く当たり前であるようにわれわれには思えるので、彼がそんなことをいう必要はほとんどなかったと思えるほどであります。
…しかしながら、クロード・ベルナールの方法が今日でも常に正しく理解され実行されている、などとは決していえないのです。彼の著作が世に出て五十年が経ちました。われわれはその間それを読み感嘆することを一度も中断したことはありませんでした。ところで彼の著作に含まれている教訓をわれわれはあますところなく引き出したことがあったでしょうか…」(矢内原伊作訳)
今から約100年前、ベルナールの本国、フランスではこのような状態でした。さて現在の日本ではどんな状態なのでしょうか。その前に『実験医学序説』には医学が科学になるための大切なことが多く記されていますが、そのうち一つを少し抜粋してみます。
「実験医学者も最初はまず経験主義の医師である。彼はここに停滞していることなく、漠然たる経験主義を克服して、実験的方法の第二階程、すなわち自然法則の実験的知識から得られる正確な意識的経験に到達しようと努力する。一言で言えば、彼はまず経験主義にしたがわねばならないが、これを一つの学派に作り上げようとするならば、それは非科学的傾向である。
…人知のこの独立不羈な一般的進展において遭遇する最大障害の一つは、各種の知識を体系と称するものの中に個別化しようとする傾向である。
…したがって体系はつねに人間精神を抑制しようとする傾向がある。…我々は、知的圧制の鉄鎖をたち切る如くに、哲学的科学的体系の束縛をもたち切るべく努力しなければならない。」(クロード・ベルナール『実験医学序説』三浦岱栄訳)
現在の日本の医学には無数の体系とその対立が存在するようです。大きくは現代医学や伝統医学(西洋医学と東洋医学と呼ぶ人もいます)、狭い鍼灸医学の中でも、○○流とか、○○治療、○○会、○○式と体系を作り上げて、また自分の医学の優位を主張しあいます。これは非科学的なことです。
非科学的だから悪いというものでもありません。一つの体系は病に苦しむ人に対面して悩む人にとって救いとなります。ただその一つの体系に満足し流動性を失うと問題が生じます。(その問題は現代だけでなく江戸時代の日本にも存在しました)
科学的だから良いというものでもありません。『実験医学序説』には生命に対する慈愛がありません。おそらく著者はその時の目的のため意識的に記さなかったのでしょうが、私たちは常に慈愛の心を忘れずに医療に携わる必要があります。愛を忘れた科学も一つの問題です。
(ムガク)