はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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幻肢痛と薬物治療

2011-02-15 18:39:47 | 幻肢痛など

幻肢痛の薬について、時々訊かれるので、ちょっとここでメモしておきます。

(2008年に書いた「No.62 幻肢痛と薬物」の続きです)


 幻肢痛とは、腕や下腿を切断され失ったにもかかわらず、その失った肢に痛みを感じる病です。この痛みは一般的な非ステロイド性の鎮痛薬や麻薬性の鎮痛薬が無効の場合が結構あり、人によってどんな薬物や治療が効果があるのかはっきりせず決定的な治療法がないのが現状です。この痛みは決して気のせいではなく、実際にあるものであり、意志の力だけでは何ともしようがありません。しかし痛みに集中すると、痛みをますますひどく感じ、また気晴らしやリラックスなどで改善することがあり、精神的な治療もとても重要なのです。


 近頃、なぜ幻肢痛に通常の鎮痛薬が効かない訳が明らかになってきました。鎮痛薬はニューロンや神経細胞に働きかけ、その働きを抑制して鎮痛します。しかしニューロンが痛みの元で無い場合があります。ニューロンは鉄道の線路が敷石の上に敷かれているように、アストロサイトやミクログリアなどのグリア細胞に支持されています。このグリア細胞は脊髄や脳にありますが、その数はニューロンよりはるかに多く、ニューロンへ栄養を補給したり、神経伝達物質を吸収したり放出したりして環境を整えたり、傷つくと成長因子を放出して修復を促したりします。このグリア細胞が痛みの元になっている場合があるのです。


 手足が切断され、神経が傷害されると、そのニューロンを修復しようとグリア細胞が活性化します。そして修復のための成長因子や、また傷害されたニューロンの代わりに神経伝達物質を放出します。さらにサイトカインを放出することで、免疫細胞を集めて治癒を促進するのです。これらが周辺のニューロンにまで浸透し、神経を過敏な状態にさせ、それがさらにサイトカインなどを放出し、元のニューロンが修復された後も継続することで、痛みの悪循環を生んでいるようです。


 このメカニズムは、幻肢痛だけでなく、他の神経障害性疼痛、CRPSやRSDと呼ばれるもの、各手術後疼痛や脊髄損傷後疼痛、帯状庖疹後神経痛や多発性硬化症疼痛などでも同じようです。それゆえ、このグリア細胞の働きを抑える薬が、それらに対する効果を期待されています。ここでは日本で知られている薬をご紹介しますが、いずれも、鎮痛薬としては実験段階で、まだ実際に使うことはできません。ご注意ください。


 ひとつは、ミノサイクリンというテトラサイクリン系の抗生物質です。細菌のタンパク質合成を阻害することで殺菌作用を持つのですが、これはニューロンやグリア細胞がサイトカインや一酸化窒素を作り出すことを抑制します。
 また、ナロキソンという麻薬中毒治療薬もあります。これは麻薬と神経の受容体で拮抗することで、麻薬の作用を減弱させ、依存症の治療に使われていますが、これがグリア細胞の表面にあるトール様受容体4の感受性を抑え、グリア細胞の反応を鈍らせます。
 それから、イブジラストという脳循環改善薬があります。これはプロスタサイクリンの血管弛緩作用を増強させ、脳の血流を増加させますが、これは細胞を刺激してインターロイキン10を生産し炎症を抑えます。


 これらの薬はあくまでも、効くかもしれないという可能性を示唆しているだけであり、まだ臨床試験も終っていないので鎮痛薬としては使えませんが、もしかしたらそのうち使えるようになるかもしれません。これらによる治療が既存の治療法と比べて効果が勝るか否かはもちろん分かりません。しかし選択肢が増えることは良いことでしょうね。


 ここでまた不思議に思ってしまいます。なぜ鏡を使った治療が効果があるのか。また鍼治療が効果があるのか。鍼治療で幻肢痛が完治した時、鍼はグリア細胞の働きをリセットさせていたのでしょうか。
 身体と心は密接に関係しています。病の時には身体にツボが現れてきます。そのツボを治療すると、ツボが次第に変化しまた隠れていたツボが現れてきたりします。どこに現れるかは人それぞれですが、身体からの異常を訴える声はあまり大きくないので見逃さないようにしたいものですね。


(ムガク)


No.64 幻肢痛と鍼灸(その2)

2008-12-22 20:57:51 | 幻肢痛など

エッセー「No.58 幻肢痛と鍼灸(その1)」では片腕を失った患者さんの残されたほうの腕に鍼をすることで幻肢痛を治療しました。それ以外にも幻肢痛の鍼灸治療で興味深いものがあります。それは失われた腕に鍼する治療です。


この症例は奥平明観(1947年-)著の『邪気論』に記されていますが、この本の中では「邪気」というものを以下のように定義しています。


1.外邪―風・寒・暑・湿・熱・火の六淫と疫癘のような外部からくる発病要因
2.形ある実体―寒邪・熱邪・湿邪等の体内に入った発病要因、および病理的損傷を総称する(現代医学的には細菌・ウイルスその他炎症部位等を幅広くいう)
3.形無き実体―正気と同様の実体ある存在で、体にとってマイナス要因となるもの(逆に正気は体にとって本質的要因)


この先生は「形無き実体」としての「邪気」を手掌で感覚することができるようです。患者さんの失われた腕を手掌で観ると、患者さんが感じる幻肢と同じような形にその腕を観ることができました。それから失われた腕の合谷という経穴に鍼をすると、体温や自律神経の働きなどに明らかな変化があったというものです。また「邪気」の反応があるところに鍼をして「邪気」を取ると瞬間的に痛みが消えたようです。


この症例は「邪気」が実在するという一つの根拠として提示されています。この経験をした人たちにとって、かくかくしかじかの事実が存在した、それ故「邪気」は存在するという見方は正しいものだと思います。


しかし別の見方を否定することはできません。例えば患者さんと先生の脳にあるミラーニューロンがお互いに働いて痛みの存在に影響を与えた、という説明でも良いかもしれません。


また(両腕を持つ)人にマネキンの腕を自分の腕だと錯覚させてから、マネキンの腕に強い刺激を与えることで、その人に痛みを与えることができることがあります。これなどは脳が痛みを作り出したといっても良いですし、錯覚したと同時に「邪気」がマネキンの腕に流れたので身体に影響を与えたといっても良いかもしれません。


ヒプノセラピー(催眠療法)も痛みに効果があります。慢性の腰痛などだけではなく、麻酔薬を使わずにヒプノセラピーによる鎮痛だけで外科手術をしたという症例もあります。鍼麻酔で外科手術をすることもありますが、これなどは鍼も手も使わずに聴覚や視覚による刺激によって痛みの存在に影響を与えています。


痛みとは不思議なものですね。


(ムガク)


No.63 幻肢と治療

2008-12-13 21:13:40 | 幻肢痛など

幻肢の報告は戦争があると増えるような印象があります。30年戦争の只中でのデカルト、普仏戦争後のベルクソンや第二次世界大戦後のメルロ・ポンティなど戦争というものは幻肢に言及した哲学者たちにも影響を与えているかもしれません。


それは戦争が起こると手足を切断された患者さんが増えるからかもしれません。軍事病院からの幻肢の報告がイラクの戦争以来目に付くようになりました。人類の文明が発達するとともに地雷やミサイルなどの兵器も発達してきました。不祥の器による悲劇はさけたいものです。


「文明。それに比べれば、死はさしたることではない。われわれは星に向かって消えた音楽である」(サンテグジュペリ『手帖』より)


私たちの幸せや安全のために生み出されたものが時には私たちの犠牲を求めるようです。このジレンマはどのように解消すれば良いのでしょうか。


さて幻肢の治療の続きです。医療機関では薬物療法が一般的です。しかしその治療を受けていた患者さんのうち一部から、より効果の高かった治療法があったという報告があります。それは気晴らしやリラックスすることです。(註1)


また高周波パルス療法も幻肢痛に効果があるようですね。複数の治療が無効であった幻肢の患者さんにそれを行ったところ、薬を止めても長期的に痛みから解放されているとの報告がありました。(註2)


ラマチャンドラン博士の鏡を使った幻肢の治療は興味深いですね。患者さんの右手と、切断され今はもうない左手(しかし無いはずの痛みに悩まされている)の間に鏡を置いて、右手とその鏡に映っている(あたかも左手のように見える)右手を見ながら両手を動かそうと試みます。すると左手の感覚がよみがえり、数週間後には幻肢痛が消失したという話があります。(註3)


まだ他にも治療法はありますが、その多様性は不思議なものですね。身体の一部を失ったという、免疫や代謝性疾患と比べると単純に見えるものにも個人差が存在し、その人にはどんな治療法が合っているのかはやってみるまでは判らないのですから。治療にはいろいろありますが、その価値とか意味というものは人によって異なるようですね。自然環境における生態系であれ、生命の体内環境であれ、生命の治療であれそれらを成り立たせている鍵は「多様性の維持」かもしれません。


しかしながら医学界、鍼灸医学の世界には別の考え方もあります。それは医療者がそれぞれいろいろな治療を行うことは安全性や信頼性を失うので、治療法はマニュアル的に統一したほうが良いというようなものです。


それはさて置き、どうしてこれらの治療は幻肢痛に効果があるのでしょうか。全てを同時に説明することははたして可能なのでしょうか。


(註1)Ketz AK."The experience of phantom limb pain in patients with combat-related traumatic amputations."Landstuhl Regional Medical Center, Landstuhl, Germany. Archives Physical Medicine and Rehabilitation. 2008 Jun;89(6):1127-32.


(註2)Wilkes D, Ganceres N, Solanki D, Hayes M."Pulsed radiofrequency treatment of lower extremity phantom limb pain."Department of Anesthesiology and Pain Management, University of Texas Medical Branch, Galveston, TX 77555, USA. Clinical Journal of Pain. 2008 Oct;24(8):736-9.


(註3)V.S.ラマチャンドラン『脳の中の幽霊』より


(ムガク)


No.62 幻肢痛と薬物

2008-12-03 21:16:03 | 幻肢痛など

鍼灸治療は幻肢痛に効果があるようです。しかし効果があるのは鍼灸治療だけではありません。もしかしたらなぜ効果があるのかという問題は、そこを考えていくと見えてくるのかもしれません。


幻肢痛には薬物治療が主に行われます。たとえばオピオイドと呼ばれる麻薬性の鎮痛薬や非ステロイド性の鎮痛薬があります。また抗うつ薬やカルバマゼピンのような抗てんかん薬が使われることもあります。最近ではガバペンチン(抗てんかん薬)も使われるようですね(ただし日本では健康保険の適応ではありません)。


てんかんはなぜ起こるのかはよく分かっていないようです。てんかん発作の時には脳神経に異常な電気パルスが発生するらしいのですが、なぜなのかは判っていません。なぜということが判らなくても発作の条件が分かると、脳に電極を埋め込み、発作に対処できるようになりました。また抗てんかん薬もなぜ効果があるのかがよく判っていません。脳神経細胞のイオンチャネルに作用するらしいのですが、それがなぜ効果を持つのかは明らかではありません。


このよく判らないということは、それだけ人の身体が複雑でよく判っていないということも意味していますが、実は「生きている」ということは何なのかもよく判っていません。生物学的な生命の定義(呼吸をするとか繁殖をするとか細胞から成り立っているとか)がありますが、それは生物学という学問の中だけの定義です。なぜならこれらの定義は我々が生きていると感じているものである動物や植物を集めてそれらを抽象化したものだからです。例えば2千年前の人が「この人は細胞からできているから生きているのだ」と思わないように、この抽象に基づいてそれが生きていると感じた訳ではありません。そこには直観が働いています。


すこし脇道にそれましたが、メマンチンというアルツハイマーの薬(日本ではまだ臨床試験中で未承認です)も幻肢痛に効果があるらしいですね。先日、サンディエゴの海軍医療センターでのことですが、さまざまな薬が無効であった幻肢痛の患者さんにメマンチンを投与した時に、幻肢痛が軽減したとの発表がありました。(註1)


てんかんの薬やアルツハイマーの薬で幻肢痛が改善するとは興味深い話ですね。これらの薬の共通点はというと、どちらも脳に働くと考えられていることです。幻肢痛に効果がある(と考えられている)ものはそれだけではありませんので続きは次回にしたいと思います。


(註1)Hackworth RJ, Tokarz KA, Fowler IM, Wallace SC, Stedje-Larsen ET.2008."Profound pain reduction after induction of memantine treatment in two patients with severe phantom limb pain."Anesthesia and Analgesia. 2008 Oct;107(4):1093-4.


(ムガク)


No.61 ベルクソンとイマージュ

2008-11-22 20:17:21 | 幻肢痛など

幻肢はデカルト(1596-1650年)が『省察』で取り上げて以来注目されてきました。その後ベルクソン(1859-1941年)が幻肢について言及すると、メルロ・ポンティ(1908-1961年)により幻肢についての詳細な解明が試みられ、現在ではV・S・ラマチャンドラン(1951年‐)などにより科学的に研究されています。


ところで「風雅の誠をせめよ」とは松尾芭蕉(1644-1694年)の言葉です。寺田寅彦(1878-1935年)はそれに対して、それは「私を去った止水明鏡の心をもって物の実相本情に観入し、松のことは松に、竹のことは竹に聞いて、いわゆる格物致知の認識の大道から自然に誠意正心の門に入ることをすすめたもの」であると説明しました。(エッセーNo.56「俳句と日本鍼灸」より)


この文中で使用された「実相本情」というものは、もしかしたら本居宣長(1730-1801年)の言うところの「性質情状(アルカタチ)」と同じものかもしれません。


「この陰陽の理といふことは、いと昔より、世ノ人の心の底に深く染着たることにて、誰も誰も、天地の自然の理にして、あらゆる物も事も、此の理をはなるることなしとぞ思ふめる、そはなほ漢籍説(カラブミゴト)に惑へる心なり、漢籍心を清く洗い去て、よく思へば、天地はただ天地、男女(メオ)はただ男女、水火(ヒミズ)はただ水火にて、おのおのその性質情状はあれども、そはみな神の御所為(ミシワザ)にして、然るゆゑのことわりは、いともいとも奇霊(クスシ)く微妙(タエ)なる物にしあれば、さらに人のよく測知(ハカリシル)べききはにあらず…」(本居宣長『古事記伝』より)


そしてこの「性質情状」というものはベルクソンの言うところの「イマージュ(image)」と同じかもしれません。


観念論にとらわれると見えなくなるものごとがあります。実在論や弁証法的唯物論にとらわれるとまた見えなくなるものごとがあります。同じように陰陽五行論にとらわれると見えなくなるものごとがありますし、また理気二元論や気一元論にとらわれても見えなくなるものごとがあるかもしれません。


ベルクソンは観念と実在の統一をどのように行ったのでしょうか。それは『物質と記憶』に記されていますが非常に難解です(宮本武蔵の『五輪の書』の空の巻では簡単に記されていますが実践することは簡単ではありません)。それはひとまず置いておいて、次回はまた幻肢の考察に戻ろうかと思います。


(ムガク)


No.60 観念論と実在論(その2)

2008-11-11 20:47:05 | 幻肢痛など

このエッセーを記しはじめて早一年。一巡して60段のいわゆる還暦です。やっと「鍼灸はなぜ効果があるのか」という主題に入りそうな気配がしてきました。幻肢痛のことについては一年前からまとめようと何となく思っていましたが、予定通りにはいかないものですね。


さて続きの実在論についてですが、これも観念論と同じくいろいろと種類があるようです。


まず主観の外に実在する物質が規定されているか否かで分類できます。前者は実在する物質は無規定なもので、主観が規定し表象が生じるというというものです。後者は素朴実在論とも呼ばれますが、実在する物質は無規定なものではなく、表象の原型として既に一定の性質(色や音や形など)を持つと考えられるものです。


また普遍的概念が実在するか否かでも分類できます。それが主観の外に実在する場合はプラトンのイデア論になります。それ故イデア論は観念論でもあり、観念の実在論でもあります(実念論とも呼ばれていますが、理気二元論に似ていますね)。またヘーゲルに代表される思想では観念を絶対化しました。この絶対化を行うと観念論も実在論も区別がなくなります。それは陰陽の対立と制約、相互依存の関係と同じものです。


普遍的概念が実在しないとする思想では唯名論があります。唯名論では実在するものは物質のみであり、いろいろな物質に共通な普遍的概念は単に共通なる名称または記号にすぎないと主張しています。


また実在する物質が自己の中に運動の原理を持ち、弁証法的に動いてあらゆる現象を生み出し、意識表象をもうみだすという形の実在論があり、それは弁証法的唯物論と呼ばれています。現代の自然科学(現代医学や脳科学も含めて)はこの思想に基づいています。唯物弁証法は物質的実在から意識をうみだすとする一元論的形而上学です(気一元論によく似ています)。これは上記の思想たちと同じレベルのいわゆる信念のようなものでしたが、自然科学的な物質の研究、技術の発達に大きな成果をあげました。


いろいろ考え方はありますが、簡単に言うとものごとが認識主観の外に実在すると主張する立場を実在論というようです。ちなみにそれぞれの思想につけられた名前は概念の恣意的な切り取り方を示しているだけなので、あまりこだわらなくても良いかもしれません。


観念論と実在論、いわゆる主観の世界と客観の世界が長い年月をかけて分けられてきました。これが科学や哲学の世界である種の成果をあげることを可能としました。しかしこの思想のどちらか一つだけを唯一絶対のものと捉えると不都合が生じます。たとえば唯物論的弁証法の信仰だけしか持ち合わせていないと心の問題の解決が難しくなります。それと同時に病気の治癒にも影響がでてきます。それについては追々まとめてみたいと思っています。


その後、分断されたれた観念と実在の二つを再び統一しようという思想が誕生しました。ありのままのものごとを見つめようとする態度をとった人がでてきましたが、その代表者がアンリ・ベルクソン(1859-1941年)です。


(ムガク)


No.59 観念論と実在論(その1)

2008-11-08 15:25:51 | 幻肢痛など

生命の科学的な研究や医学的な治療法の模索には、行き当たりばったりの経験だけでは不足です。多くの場合はどのように考えるかという思想が重要になってきます。それは医学的な実験方法を論ずるときも、臨床で治療に従事する時も、学会で議論しあう時にも関係してきます。科学の最先端での議論の対立も、意外と思想の根本的な部分の相違が原因である場合が多いようです。


そこでここでは観念論と実在論について簡単にまとめておこうかと思います。


まず観念論ですが、これはアイディアリズム(idealism)とも呼ばれています。それはプラトン(BC427-347年頃)がイデア(idea)という普遍的な概念が人の認識主観の外に実在すると考えたことが由来です。観念論は一つの単純なものではなくいくつか種類があるようです。それはイデア論、主観観念論、先験的観念論、絶対観念論などに大別されるようです。


イデア論とはプラトンの哲学ですが、それは物質的な現実の世界と、イデアと呼ばれる観念の世界を分けたものです。どちらの世界も存在するものですが、物質はイデアの普遍的な設計図により存在すると考えました。それ故、プラトンは形而上的なイデアの方が重要と考え、感覚や経験を軽視しました。


主観観念論とは個人の主観の優位を主張するものです。バークリ(1685-1753年)が代表的ですね。色彩や音や寒熱以外にも、物の形状、大きさ、運動や数といった性質のものも人の心の内に存在するものと考えました。ただしそれは自分が死ぬといわゆる客観的な世界も消滅すると考えるものとは異なります。物質の延長や運動は感覚することなしに想うことはできないという経験から生まれた思想なのですから。(これにはデカルトやロックなどの思想が対立します)


先験的観念論とは優位をしめる主観が単なる個人的なものでははく、あらゆる経験の基礎となるような普遍的主観である場合に成立します。この思想と実在論を混ぜ合わせるとカント(1724-1804年)の理性や判断力の批判哲学が生まれます。


絶対観念論とはカントの思想から実在論を取り除き、主観に絶対的な優位を与えた思想です。ヘーゲル(1770-1831年)やショーペンハウエル(1788-1860年)が代表的ですね。宇宙のあらゆる現象の根源となる普遍的な意志により、物質も生命も存在すると考えました。


このように観念論といっても少しく意味が異なります。しかし非常に大雑把に言えば、主観を重要視する思想が観念論であると言っても良いかもしれません。長くなってしまいましたので、続きの実在論については次回にしたいと思います。


(ムガク)


No.58 幻肢痛と鍼灸(その1)

2008-11-06 20:19:10 | 幻肢痛など

現在の日本の鍼灸教育の基礎は柳谷素霊(1907-1959年)により築かれました。柳谷素霊は鍼灸医学の歴史を素直に見つめようと努力し、また医学が信仰になることに危機感を抱き、鍼灸の科学化について常に真剣に考えていました。残念ながら志なかばにして他界しましたが多くの人がその影響を受けました。


柳谷素霊は晩年にヨーロッパへ行きました。そこでパブロ・ピカソ(1881-1973年)を治療したことが新聞で報道されて知られていますが、幻肢痛の患者も治療したことが伝えられています。存在しない(その患者さん以外には存在しないように見える)腕が痛むという病態に直面した時に思い出したのが『黄帝内経素問』の繆刺論篇であったようです。


繆刺論篇の内容とは簡単に言うと「邪」と呼ばれる何がしかの病原体もしくは病的な状態が身体の右にある時は左を鍼で治療し、左にある時は右を治療するというものです。それ故、柳谷素霊は患者の残っているほうの腕に鍼をすることで幻肢痛を止めたようです。


幻肢痛は以前から知られていたようです。例えばデカルトやニュートンも幻肢の存在を認識していたようです。四肢を切除した人の70%以上が幻肢を経験すると言われていますが、治療しない場合は数ヶ月から数年で消失するようです。また幻肢痛は四肢の切断時に痛みがあった場合に発症するようなので麻酔技術が未発達な時代にはさらに多かったでしょうね。


そもそも痛みというものを突き詰めていくと難しいものです。何しろ他人の真の痛みは分からないのですから。他人の痛みを想像や共感することはできても、本当にそれが相手の痛みと同一であるかは分かりません。PET(陽電子放射断層撮影法)やfMRI(機能的磁気共鳴画像)を使用して脳を調べても、その結果は痛みと同時に存在していた条件にすぎません。


また「痛い」という言葉の定義の問題もあります。ある幼児は「ママ」と「パパ」と「イタイ」という単語だけ使って(何も痛みを感じることがないような時に)会話をしていました。「イタイ」には身体的な苦痛以外の意味が成長の段階で加味されているようです。


『黄帝内経霊枢』の論勇ではどう書かれているかというと、痛みというものは皮膚の厚薄や肌肉の堅脆、張り具合によるもので勇敢だとか臆病だとかの心理的なものから来るのではないとあります。古代中国医学はこういうところが唯物論的ですね。


幻肢痛について続けて考えていく前に、次回は「観念論と実在論」についてまとめておこうかと思います。


(ムガク)


No.57 芸術と錯覚

2008-10-29 21:06:01 | 幻肢痛など

最近のお気に入りに『small planet』という本城直季さんの写真集があります。美しい色鮮やかな町や自然の風景を写したものですが、これを鑑賞すると不思議な気分になります。本物の風景のはずがミニチュアのように小さく見えるのです。「あおり撮影」と呼ばれる方法で撮られているようですが、技術的な問題はさて置き、視覚の認識のあり方を考えると面白いものです。


そもそも普通の漫画や絵画も面白いものです。二次元の単純な線や点が本物を想起させ、さらに映画になると止まっている絵を連続させることで動いているように見えます。これらは視覚の問題ですが、聴覚にもそういう面があります。


音楽を聴くと演奏家の感情が想起されたり、ある風景が眼に浮かんできたりすることがあります。それだけでなく、例えば「C-durの和音」を聴くとそれが「C-durの和音」そのものとしても聴こえますし、また「ド・ミ・ソ」のように分けても聴こえます。よく考えるとこれは大変不思議なことです。和音の波をグラフに表すととても複雑な形をしていますが、それを一瞬のうちに分解して認識していますし、また合成して認識することもできるのですから。


音楽家であり教育者である齋藤秀雄(1902-1974年)(註1)はこんなことを言っていました。


「…ある時考えて、「『人間の錯覚を利用して、あるもので違うものを感じさせる』。時にはこれを『芸術』という」っていう定義を作ったんです。人間が錯覚を持たなかったら、芸術は存在し得ない。それはロダンが言っているんですね。人間の錯覚があるっていうことが、芸術をやる人には非常に便利なことで、そのものずばり聞こえたからね。…」(『齋藤秀雄講義録』より)


また哲学者メルロ・ポンティ(1908-1961年)(註2)は次のように言っていました。


「知覚される世界は(絵画のように)私の身体の配線の全体なのであって、時間空間的な個物の集まりなのではない。…

《感覚》はどれをとってみても一つ一つが《世界》をなしている。つまり他の感覚と絶対に交流できないものなのである。だがそれは何ものかを構成する。それは最初から構造的に他の感覚の世界に向かって開き、他の感覚と手を携えて一つの「存在」を形成するのである。

感覚性:例えば色、黄色:それは自から自己を超えていく。それが輝きの色、つまり領野を支配してしまうような色になるや否や、それはあれこれの色であることをやめる。したがってそれは自からに存在論的機能を具えているというわけだ。

…感覚性は独特なものとして忽然として定立される。そして独自なものとして見えることをやめる。《世界》はこういう全体であって、そこではどの《部分》も…全体的部分となるのである。」(『メルロ・ポンティの研究ノート』現象学研究会編訳)


このように、人には「錯覚する」という性質があります。この性質が芸術というすばらしいものを生み出しました。それは感覚の単なる異常とか過ちではなく、知覚される世界が複雑なネットワークにより形成され部分が全体的部分になっていることから生じるのかもしれません。


そして生命現象、とくに病気として認識されるものの中で代表的な錯覚が「幻肢痛」です。これは事故などでなくなった手足に痛みを感じる(時には動かしたり触ることもできる)現象です。鍼灸医学は「幻肢痛」に効果がありますが、次回から「幻肢痛」について考えていこうかと思います。


(註1)齋藤秀雄(1902-1974年):チェリストでもあり指揮者でもありました。音楽の教育者として小澤征爾や堤剛、藤原真理などを育て上げました。(敬称略)


(註2)メルロ・ポンティ(1908-1961年):フランスの哲学者。フッサールの現象学、特に生世界をめぐる後期の思索を発展させ、存在の始源に迫るべく問い続けましたが、若くして急死しました。


(ムガク)