はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 054 (修正版)

2016-03-10 22:13:17 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

天地の理、陽は一、陰は二也。水は多く火は少し。水はかはきがたく、火は消えやすし。人は陽類にて少く、禽獣虫魚は陰類にて多し。此故に陽はすくなく陰は多き事、自然の理なり。すくなきは貴とく多きはいやし。君子は陽類にて少く、小人は陰類にて多し。易道は陽を善として貴とび、陰を悪としていやしみ、君子を貴とび、小人をいやしむ。

水は陰類なり。暑月はへるべくしてますます多く生ず。寒月はますべくしてかへつてかれてすくなし。春夏は陽気盛なる故に水多く生ず。秋冬は陽気変る故水すくなし。血は多くへれども死なず。気多くへれば忽ち死す。吐血、金瘡、産後など、陰血大に失する者は、血を補へば、陽気いよいよつきて死す。気を補へば、生命をたもちて血も自ら生ず。

古人も、血脱して気を補ふは、古聖人の法なり、といへり。人身は陽常にすくなくして貴とく、陰つねに多くしていやし。故に陽を貴とんでさかんにすべし。陰をいやしんで抑ふべし。元気生生すれば真陰も亦生ず。陽盛なれば陰自ら長ず。陽気を補へば陰血自生ず。

もし陰不足を補はんとて、地黄、知母、黄栢等、苦寒の薬を久しく服すれば、元陽をそこなひ、胃の気衰て、血を滋生せずして、陰血も亦消ぬ。

又、陽不足を補はんとて、烏附等の毒薬を用ゆれば、邪火を助けて陽気も亦亡ぶ。是は陽を補ふにはあらず。丹渓の陽有余陰不足論は何の経に本づけるや、其本拠を見ず。もし丹渓一人の私言ならば、無稽の言信じがたし。易道の陽を貴とび、陰を賎しむの理にそむけり。もし陰陽の分数を以其多少をいはゞ、陰有余陽不足とは云べし。陽有余陰不足とは云がたし。後人其偏見にしたがひてくみするは何ぞや。凡、識見なければ其才弁ある説に迷ひて、偏執に泥む。

丹渓はまことに古よりの名医なり。医道に功あり。彼補陰に専なるも、定めて其時の気運に宜しかりしならん。然れども医の聖にあらず。偏僻の論、此外にも猶多し。打まかせて悉くには信じがたし。功過相半せり。其才学は貴ぶべし。其偏論は信ずべからず。

王道は偏なく党なくして平々なり。丹渓は補陰に偏して平々ならず。医の王道とすべからず。近世は人の元気漸く衰ろふ。丹渓が法にしたがひ、補陰に専ならば、脾胃をやぶり、元気をそこなはん。只東垣が脾胃を調理する温補の法、医中の王道なるべし。明の医の作れる軒岐救生論、類経等の書に、丹渓を甚だ誹れり。其説頗る理あり。然れども是亦一偏に僻して、丹渓が長ずる所をあはせて、蔑にす。枉れるをためて直に過と云べし。

凡古来術者の言、往々偏僻多し。近世明季の医、殊に此病あり。択んで取捨すべし。只、李中梓が説は、頗る平正にちかし。

(解説)

 長かった「貝原益軒の養生訓―総論上・下―解説」もこれで最後です。もう皆さんお気づきのように、この総論は「孝」に始まり「中庸」に終わるといった儒学の思想をもとに構成されています。それはまったく不思議なことではありません。そもそも当時の医学(後世方医学とも呼ばれるもの)自体が朱子学の自然哲学に立脚したものだからです。有名な言葉、「医は仁術なり」というのは単なる方針や理念などではなく、「医」と「仁」は哲学的に密接に関係しているものなのです。

 ここに登場するは朱丹渓(1281-1358)(朱震亨)という元代の名医。丹渓は「陽有余陰不足論」を作り上げ、江戸期の日本の医療に多大な影響を与えました。また彼の理論は李東垣(1180-1251)(李杲)のそれと共に現代中医学理論の基礎ともなっています。多くの医師が無批判的にその理論に追随していた頃、益軒はそれに異議を唱えたのです。なぜでしょう。もちろん中庸の教えに背くからです。

 丹渓に反論していた人は他にもいます。『軒岐救正論』は「朱丹溪の苦寒補陰を以てする若きは生命を戕伐せん」と、『類経附翼』は「陽常有余陰常不足之論・・・其の害孰か甚だし」などと丹渓を攻撃しました。『類経』を著した張景岳(1563-1640)(張介賓)は逆に「陽は有余に非ず、真陰が不足す」と主張し、陽不足を補うために右帰丸など附子(烏附とは烏頭と附子)を含んだ薬を用いました。益軒はこれにも異議を唱えます。理由は同じです。

 益軒は『養生訓』択医においても、「凡諸医の方書偏説多し。専一人を宗とし、一書を用ひては治を為しがたし。学者、多く方書をあつめ、ひろく異同を考へ、其長ずるを取て其短なるをすて、医療をなすべし」、と言っています。それ故、理論に偏りがあるといえども「朱丹渓が書」を李中梓や李東垣の諸書と並べて「医生のよむべき書也」と勧めているのです。しかし『軒岐救正論』や『類経』、張景岳が書を読むべき書とは言いませんでした。なぜでしょう。それは彼らの言説が君子のものではなかったからです。

 『養生訓』択医にはこうも書かれてあります。「我よりまへに、其病人に薬を与へし医の治法、たとひあやまるとも、前医をそしるべからず。他医をそしり、わが術にほこるは、小人のくせなり。医の本意にあらず。其心ざまいやし。きく人に思ひ下さるゝも、あさまし」と。

 また益軒が当時、自分や家族に対して最も多用していた薬の一つが補中益気湯であり、これは『脾胃論』にある李東垣の代表的な処方です。その方意を簡単に言うと胃の気を補うこと。これは「貝原益軒の養生訓―総論下―解説 037」にも出てきましたね。益軒は「医の王道」を自ら実践していたのでした。

 これで「「貝原益軒の養生訓―総論下―解説」も終わりです。次回からは「本居宣長と江戸時代の医学」が始まります。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)


貝原益軒の養生訓―総論下―解説 053 (修正版)

2016-02-29 20:40:20 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

養生の術、まづ心法をよくつゝしみ守らざれば、行はれがたし。心を静にしてさはがしからず、いかりをおさえ慾をすくなくして、つねに楽んでうれへず。是養生の術にて、心を守る道なり。心法を守らざれば、養生の術行はれず。故に心を養ひ身を養ふの工夫二なし、一術なり。

夜書をよみ、人とかたるに三更をかぎりとすべし。一夜を五更にわかつに、三更は国俗の時皷の四半過、九の間なるべし。深更までねぶらざれば、精神しづまらず。

外境いさぎよければ、中心も亦是にふれて清くなる。外より内を養ふ理あり。故に居室は常に塵埃をはらひ、前庭も家僕に命じて、日々いさぎよく掃はしむべし。みづからも時々几上の埃をはらひ、庭に下りて、箒をとりて塵をはらふべし。心をきよくし身をうごかす、皆養生の助なり。

(解説)

今回は解説は特に必要ないですね。養生には心、精神を静かに清く保つことの大切さとその手段が述べられています。三更とは今でいうところの午後11時から午前1時まで。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 052 (修正版)

2016-02-20 22:56:56 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

呼吸は人の鼻よりつねに出入る息也。呼は出る息也。内気をはく也。吸は入る息なり。外気をすふ也。呼吸は人の生気也。呼吸なければ死す。人の腹の気は天地の気と同くして、内外相通ず。人の天地の気の中にあるは、魚の水中にあるが如し。魚の腹中の水も外の水と出入して、同じ。人の腹中にある気も天地の気と同じ。されども腹中の気は臓腑にありて、ふるくけがる。天地の気は新くして清し。時々鼻より外気を多く吸入べし。吸入ところの気、腹中に多くたまりたるとき、口中より少づつしづかに吐き出すべし。あらく早くはき出すべからず。是ふるくけがれたる気をはき出して、新しき清き気を吸入る也。新とふるきと、かゆる也。是を行なふ時、身を正しく仰ぎ、足をのべふし、目をふさぎ、手をにぎりかため、両足の間、去事五寸、両ひぢと体との間も、相去事おのおの五寸なるべし。一日一夜の間、一両度行ふべし。久してしるしを見るべし。気を安和にして行ふべし。

千金方に、常に鼻より清気を引入れ、口より濁気を吐出す。入る事多く出す事すくなくす。出す時は口をほそくひらきて少吐べし。

常の呼吸のいきは、ゆるやかにして、深く丹田に入べし。急なるべからず。

調息の法、呼吸をとゝのへ、しづかにすれば、息やうやく微也。弥久しければ、後は鼻中に全く気息なきが如し。只臍の上より微息往来する事をおぼゆ。かくの如くすれば神気定まる。是気を養ふ術なり。呼吸は一身の気の出入する道路也。あらくすべからず。

(解説)

 『荘子』刻意篇にこう記されています。

吹呴呼吸し、故を吐き新しきを納る。熊経鳥申、寿の為にするのみ。此れ導引の士、形を養うの人、彭祖寿考の者の好む所なり。

 息を吐いたり吸ったりする呼吸、熊や鳥まねの体操は長寿を願う人々、仙人に近づこうとする人々が行っていたことでした。例えば、秦を滅ぼし漢帝国を築いた劉邦の軍師、張良(子房)も導引術を行っていたことが知られています。張良は、「今、三寸の舌を以て帝なる者の師と為り、万戸に封ぜられ、列侯に位す。此は良足に於いて布衣の極。願くは人間の事を棄て、赤松子に従い游せんと欲するのみ」と言い、政治の世界から離れようとして赤松子という伝説の仙人にならい「辟穀(断食)、道引、軽身を学び」ました。(『史記』)留候世家)

 こんな例は他にもいろいろ有りますが、それはさておき、『荘子』にはこの続きがあります。

導引せずして寿く、忘れざる無きなり。有せざる無きなり。澹然無極にして衆美之れに従う。此れ天地の道、聖人の徳なり。 故に曰わく、夫れ恬淡寂莫、虚無無為、此れ天地の平にして道徳の質なり。 故に曰わく、聖人は休す。休すれば則ち平易なり。平易なれば則ち恬淡なり。平易恬淡なれば則ち憂患入る能わず。邪気襲う能わず。故に其の徳全うして神虧けず。

 と「導引せずして寿く」というような「恬淡寂莫、虚無無為」の境地、そして「憂患入る能わず。邪気襲う能わず・・・徳全うして神虧けず」という心身が平安である長寿を目的とすることなく、ただそれが結果としてあるという状態を理想とする思想もあったのです。ちょっと先の方まで進んでしまいましたが、古今東西、呼吸にはただ空気(酸素)を取り入れるという以外の特別な働きがあると信じられてきました。

 例えば、ラテン語のアニマ(anima)とか、ギリシャ語のプシュケー(psyche)、プネウマ(pneuma)などはもともと呼吸や気息の意味でしたが、だんだんと生命であるとか、魂や霊魂、心や精神といった意味を持つようになったのです。

 ホメロスの時代には、プシュケーなどは死者の口から抜け出て、生前の姿をして冥府へ行くと言われていたので、ちょうど気息と霊魂の二つの意味を重ね持っていたようですね。

 プラトンやソクラテスはそれに人間を人間たらしめる人格の座としての意味を持たせました。プラトンはイデア論を展開しましたが、ここに精神が肉体から分離しつつあった思想の流れを見ることができます。

 そしてキリストの生存していた頃にアニマという言葉が『マタイ福音書』8章35.36.37節に使われていますが、これは人間としての人間らしい生命という意味でしょうね。なぜなら自分の十字架を背負えるものがそのアニマを救うことができたからです。

 サンスクリット語にはプラーナ(purana)という言葉があり、これももともと呼吸や気息という意味を持っていました。この言葉も生命のような意味を持つようになりましたが、インドではもう少し歴史を遡ることができます。プラーナというのはヴァーユ(vayu)やヴァータ(vata)と呼ばれる、風や風神、運動の一種(ヴァータはより自然現象に近い意味を持つ)と捉えられていて、アーユルヴェーダでもプラーナ・ヴァーユという空気や食べ物の摂取をつかさどる原動力のようなものとしての言葉が残されています。またプラーナーヤーマ(pranayama)という呼吸法のような言葉もあります。このヴァータは紀元前1200年前後に作られたとされる『リグ・ヴェーダ賛歌』に歌われています。

ヴァータは医薬を吹きもたらせ、われらが心に幸福を与え、爽快を与うるところの。彼がわれらの寿命を延ばさんことを。

ヴァータよ、汝はわれらの父なり、また兄弟なり、また友人なり。かかる汝はわれらが生存しうるごとくなせ。

ヴァータよ、そこなる汝の家に、不死の宝庫として置かれたるもの、そこよりわれらに与えよ、生きんがために。

 (辻直四郎訳)

 というようにプラーナより上のヴァータに対して、生命を与える存在、病を治癒する存在としての親密な感情が見られますね。ちなみにこのヴァータは五大の空と風を構成元素とします。時代は下りますが中国にも似たようなものがありました。天地の間に満ちた気(浩然の気)、それが人間の心身に大きく影響をあたえるのです。『孟子』公孫丑章句上にはこう記されています。

夫れ志は気を帥いるものなり。気は体を充ぶるものなり。夫れ志至れば、気はこれに次ぐ。故に曰く、其の志を持りて、其の気を暴なうこと無かれと。・・・。志壱らなれば則ち気を動かし、気壱らなれば則ち志を動かせばなり。今夫れ趨りて蹶く者は、是れ気なり。而れども反って其の心を動かす。

 そして孟子は言ったのです。「その気たるや、至大至剛にして直く、養いて害なうことなければ、則ち天地の間に塞つ」と。そして『荘子』大宗師篇は少し具体的な呼吸法にふれています。

古の真人は、其の寝ぬるや夢みず、其の覚むるや憂いなし。其の食らうや甘しとせず、其の息は深々たり。真人の息は踝を以てし、衆人の息は喉を以てす。

 このように荘子の言う真人の呼吸法とは自然で深い身体全体を使って行うものでした。

 と言うことで、ここで益軒が述べている呼吸法。それは昔の養生方にあるものですが、いま述べてきたことを知っていれば、それらはその技術的な表現がより細かくなっただけということに気付くかもしれません。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 051 (修正版)

2016-02-11 11:55:15 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

孫真人が曰、修養の五宜あり。髪は多くけづるに宜し。手は面にあるに宜し。歯はしばしばたゝくに宜し。津は常にのむに宜し。気は常に練るに宜し。練るとは、さはがしからずしてしづかなる也。

久しく行き、久しく坐し、久しく立、久しく臥し、久しく語るべからず。是労動ひさしければ気へる。又、安逸ひさしければ気ふさがる。気へるとふさがるとは、ともに身の害となる。

養生の四要は、暴怒をさり、思慮をすくなくし、言語をすくなくし、嗜慾をすくなくすべし。

病源集に唐椿が曰、四損は、遠くつばきすれば気を損ず。多くねぶれば神を損ず。多く汗すれば血を損ず。疾行けば筋を損ず。

老人はつよく痰を去薬を用べからず。痰をことごとく去らんとすれば、元気へる。是古人の説也。

(解説)

 「孫真人・・・」も「久行、久坐、久立、久臥」も「貝原益軒の養生訓―総論下―解説 029」にでてきました。『千金方』が出典でしたね。

 「病源集」はちょっと注意が必要です。この語順だと『諸病源候論』というこれもまた知られた古典医学書を想起しそうですが、これだと隋代の巣元方の著作です。ここでは「唐椿が曰く」とあるので、書名は正しくは『原病集』でしょう。唐椿は代々医の名門の家系で、様々な宗派の医術を捜し集め、父祖の教えを以て正し、自分の意見も付け加え、病源を斟酌し、分類編集して『原病集』を著しました。

 江戸期の医師丹波元胤はこの書について「医の指要であり具わざる所無く、今の方術家の多くは之れを宗とす」と記しています。人々を説得するには、権威や一般的に知られたものを利用することは今も昔も同じです。益軒もこれに倣っているようですね。

 「古人の説」の古人とは具体的に誰を指すのか明らかではありません。もしご存知の方がいらっしゃればお教えください。ただ明代の医師、韓懋(カンボウ)は『韓氏医通』で去痰薬の一つである白芥子についてこう述べています。「凡そ老人の痰気喘嗽、胸満懶食に苦しむは、妄りに燥利の薬を投ずべからず。反って真気を耗す」と。他にも半夏や天南星、(ソウ)角子、杏仁など去痰薬はいろいろありますが、これらも毒性があるので過剰摂取しないように注意が必要でしょう。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 050 (修正版)

2016-02-11 11:54:39 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

内慾をすくなくし、外邪をふせぎ、身を時々労動し、ねぶりをすくなくす。此四は養生の大要なり。

気を和平にし、あらくすべからず。しづかにしてみだりにうごかすべからず。ゆるやかにして、急なるべからず。言語をすくなくして、気をうごかすべからず。つねに気を臍の下におさめて、むねにのぼらしむべからず。是気を養ふ法なり。

古人は詠歌舞踏して血脉を養ふ。詠歌はうたふ也。舞踏は手のまひ足のふむ也。皆心を和らげ、身をうごかし、気をめぐらし、体をやしなふ。養生の道なり。今導引按摩して気をめぐらすがごとし。

おもひをすくなくして神を養ひ、慾をすくなくして精を養ひ、飲食をすくなくして胃を養ひ、言をすくなくして気を養ふべし。是養生の四寡なり。

摂生の七養あり。是を守るべし。一には言をすくなくして内気を養ふ。二には色慾を戒めて精気を養ふ。三には滋味を薄くして血気を養ふ。四には津液をのんで臓気を養ふ。五には怒をおさえて肝気を養ふ。六には飲食を節にして胃気を養ふ。七には思慮をすくなくして心気を養ふ。是れ寿親養老補書に出たり。

(解説)

 前回の解説では「十二少」が、今回は「四寡」や「七養」なとが登場しました。一段目の「養生の大要」である「此四」と四段目の「四寡」の共通する所は、その数字と慾を少なくすることです。他も細かく見ていけばきりがありません。それらの名前は異なっていますが、内容は今まで『養生訓』に出てきたものをまとめ直しただけであり、言い換えれば同一対象の概念の切り取り方が異なるだけなのです。

 『寿親養老』とは明代の医師、劉純の書。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 049 (修正版)

2016-01-30 12:56:17 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

七情は喜怒哀楽愛悪慾也。医家にては喜怒憂思悲恐驚と云。又、六慾あり、耳目口鼻身意の慾也。七情の内、怒と慾との二、尤徳をやぶり、生をそこなふ。忿を懲し、慾を塞ぐは易の戒なり。忿は陽に属す。火のもゆるが如し。人の心を乱し、元気をそこなふは忿なり。おさえて忍ぶべし。慾は陰に属す。水の深きが如し。人の心をおぼらし、元気をへらすは慾也。思ひてふさぐべし。

養生の要訣一あり。要訣とはかんようなる口伝也。養生に志あらん人は、是をしりて守るべし。其要訣は少の一字なり。少とは万の事皆すくなくして多くせざるを云。すべてつつまやかに、いはゞ、慾をすくなくするを云。慾とは耳目口体のむさぼりこのむを云。酒食をこのみ、好色をこのむの類也。およそ慾多きのつもりは、身をそこなひ命を失なふ。慾をすくなくすれば、身をやしなひ命をのぶ。慾をすくなくするに、その目録十二あり。十二少と名づく。必是を守るべし。食を少くし、飲ものを少くし、五味の偏を少くし、色欲を少くし、言語を少くし、事を少くし、怒を少くし、憂を少くし、悲を少くし、思を少くし、臥事を少くすべし。かやうに事ごとに少すれば、元気へらず、脾腎損せず。是寿をたもつの道なり。十二にかぎらず、何事も身のわざと欲とをすくなくすべし。一時に気を多く用ひ過し、心を多く用ひ過さば、元気へり、病となりて命みじかし。物ごとに数多くはゞ広く用ゆべからず。数すくなく、はばせばきがよし。孫思ばくが千金方にも、養生の十二少をいへり。其意同じ。目録は是と同じからず。右にいへる十二少は、今の時宜にかなへるなり。

(解説)

 七情については「貝原益軒の養生訓―総論上―解説 003」にも出てきましたね。七情は、『礼記』には「喜怒哀懼愛悪欲」のこととありましたが、ここでは益軒は「喜怒哀楽愛悪慾」と言っています。前者の「懼」(おそれ)が後者では「楽」(たのしみ)に代わっていますね。これはどういう訳でしょうか。それはもしかしたら益軒の頭の中に『中庸』の一節があったためかもしれません。

喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。発して皆節に中る、之を和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、萬物育す。

 この益軒が最も人々に伝えたかったものの一つ、中庸の精神を七情に合体させた、という可能性が一つありますね。またもっと単純に、『養生訓』を著す際に益軒の言葉を筆記する、あるいは出版する人物が「懼」(ku)を「楽」(laku)と違えてしまった、という可能性も一つあります。

 『千金方』道林養性第二には以下の様にあります。

善く摂生する者は、常に少思、少念、少欲、少事、少語、少笑、少愁、少楽、少喜、少怒、少好、少悪。此の十二少を行う者は、養性の都契なり。

 益軒の「十二少」と比べてみると、より精神的な「十二少」ですね。しかしこれは『千金方』を著した孫思邈が精神的なことを重視したということではありません。『千金方』の中には益軒の「十二少」が散在しています。というより、益軒は『千金方』の中から内容を選び新たに「十二少」を作り上げています。ここでの共通点は単に「十二少」というグループ名であり、また厳密に言えば、益軒の「十二少」の数は十一なので名前の付け方が正確ではありません。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 048 (修正版)

2016-01-30 12:55:55 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

素問に怒れば気上る。喜べば気緩まる。悲めば気消ゆ。恐るれば気めぐらず。寒ければ気とづ。暑ければ気泄る。驚けば気乱る。労すれば気へる。思へば気結るといへり。百病は皆気より生ず。病とは気やむ也。故に養生の道は気を調るにあり。調ふるは気を和らぎ、平にする也。凡そ気を養ふの道は、気をへらさると、ふさがらざるにあり。気を和らげ、平にすれば、此二のうれひなし。

臍下三寸を丹田と云。腎間の動気こゝにあり。難経に、腎間の動気は人の生命也。十二経の根本也といへり。是人身の命根のある所也。養気の術つねに腰を正しくすゑ、真気を丹田におさめあつめ、呼吸をしづめてあらくせず、事にあたつては、胸中より微気をしばしば口に吐き出して、胸中に気をあつめずして、丹田に気をあつむべし。この如くすれば気のぼらず、むねさはがずして身に力あり。貴人に対して物をいふにも、大事の変にのぞみいそがはしき時も、この如くすべし。もしやむ事を得ずして、人と是非を論ずとも、怒気にやぶられず、浮気ならずしてあやまりなし。或は芸術をつとめ、武人の槍太刀をつかひ、敵と戦ふにも、皆此法を主とすべし。是事をつとめ、気を養ふに益ある術なり。凡技術を行なふ者、殊に武人は此法をしらずんばあるべからず。又道士の気を養ひ、比丘の坐禅するも、皆真気を臍下におさむる法なり。是主静の工夫、術者の秘訣なり。

(解説)

 この解説では何度も引用しましたが、『養生訓』では、ここで『素問』という書名が初めて出てきました。今回の出典はその中の挙痛論からです。「貝原益軒の養生訓―総論下―解説 039」でも出てきましたね。「百病は気より生ずる・・・」というのは黄帝の言葉でした。

 またここでもう一つ、『難経』(別名『八十一難』)というもう一つの医学書の登場です。これは経絡や脈診法、鍼治療などに関する古典医学書です。その名前のわりに文量も少なく読み易いことから現代でも鍼灸師を中心に読まれています。以前は薬物治療と鍼灸治療は車の両輪のごときものであり、『難経』は勉強する医師に読まれていました。この本はいつ誰が著したかはっきりしません。著者にはいろいろ説があり、一つは黄帝(『太平御覧』中の『帝王世紀』)、一つは秦越人扁鵲(『難経』の序文)、もう一つはそのどちらでもない人であるというものです。著された時代は、その内容が陰陽五行論を中心に組み立てられているため、鄒衍の時代よりも後世であり、『傷寒論』の序文に『八十一難』の名があることから、張仲景の時代より前であると考えられています。

 その『難経』八難にこうあります。

寸口の脉の平にして死すは、何の謂ぞや。 然り。諸の十二の経脈は皆生気の原に係る。いはゆる生気の原は、十二経の根本を謂うなり。腎間の動気を謂うなり。此れ五蔵六府の本、十二経脈の根、呼吸の門、三焦の原、一名は守邪の神なり。故に気は人の根本なり。根が絶ゆれば則ち莖葉は枯る。寸口の脉の平にして死すは、生気が独り内に於いて絶ゆるなり。

 この「腎間の動気」がある場所が「臍下三寸」にあると言っていますが、ここは伝統医学の中では一般的に関元(CV4)と呼ばれる場所です。関元を丹田と呼ぶものは『扁鵲神應鍼灸玉龍経』や『鍼灸資生経』など宋から元代の医学書があり、もっと時代をさかのぼる晋代の『鍼灸甲乙経』では臍下二寸の石門(CV5)を別名丹田と言っています。また臍下一寸半の気海(CV6)を丹田と呼ぶ医学書も『脈経』や『千金方』など多くあります。

 と言うわけで臍の下には三つの丹田があるのですが、ここではその中でも「臍下三寸」にある丹田を取り上げています。この辺りは医学や儒学の分野と言うより神仙術、道教の分野と言って良いかもしれません。武夷山人(白玉蟾、宋代の道士)はこう言いました。

生を養ふの要、先づ形を練るに如かず。
神を凝れば則ち気聚まる。気聚まれば則ち丹成る。
形を練るの妙、心を凝らすに在り。
丹成れば則ち形固し。形固ければ則ち神全し。

 「丹」とは不老長寿の素(モト)のようなものであり、それを体内で育てる場所を「丹田」と呼ぶのです。神仙術は仏教、とくに禅宗と相性が良く、禅宗は常に死と隣り合わせであった武士と相性が良かったのです。名のある戦国武将もそうであったように、宮本武蔵(吉川英治の小説の中ですけど)であれ柳生宗矩であれ沢庵禅師に多大な影響を受けました。臨済宗の中興の祖と言われた白隠禅師は『遠羅天釜』でこう言っています。

丹田なる者の一身三処、吾が謂ゆる丹田は、下丹田なる者なり。気海丹田各々臍下に居す。一実にして二名在るが如し。丹田は臍下三寸、気海は寸半、真気常に者裏に充実して、身心常に平坦なる時は、世寿百歳を閲すと云へども、鬢髮枯れず、歯牙動かず、眼力転た鮮明にして、皮膚次第に光沢あり。是れ則ち元気を養ひ得て神丹成就したる効験なり。寿算限りあるべからず。但し修養の功の精麁如何にも有るらくのみ。古の神医は未だ病ざる先を治す。能く人をして心を治めて気を養はしむ。庸医は是に反す。已に病むの後を見て鍼灸薬の三つを以て是を治せんとす。救はざる者多し。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 047 (修正版)

2016-01-27 15:11:00 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

人の身は、気を以て生の源、命の主とす。故に養生をよくする人は、常に元気を惜みてへらさず。静にしては元気をたもち、動ゐては元気をめぐらす。たもつとめぐらすと、二の者そなはらざれば、気を養ひがたし。動静其時を失はず、是気を養ふの道なり。

もし大風雨と雷はなはだしくば、天の威をおそれて、夜といへどもかならずおき、衣服をあらためて坐すべし。臥すべからず。

客となつて昼より他席にあらば、薄暮より前に帰るべし。夜までかたれば主客ともに労す。久しく滞座すべからず。

(解説)

 その昔、孔子は斎衰の喪服を着た人や礼楽に関係する人に遇った時、盛大なもてなしを受けた時、そして「迅雷風烈」、「大風雨と雷はなはだし」時には必ず顔色衣服を正し、態度を改め、敬意を表しました。そのことを「迅雷風烈には必ず変ず」と言い、それは『論語』郷黨に記されています。

 伝統的に中国には天に対する信仰がありました。人民を支配する者は天子であり、祭礼により天の声を聴き、天に代わって人々を導くという建前があったのです。それ故、王は人々の上に立てるのであり、もし干ばつや洪水や地震などの自然災害、大規模な飢饉で人々が苦しめば、それは王が適切に政治していない、天子としての役割をしていない、天に認められていないということで、首をすげ替えられてもおかしくなかったのです。天には人々の倫理道義に反した行動に対して天罰を与える力があるとも信じられていました。

 『孟子』離婁上には、「天に順う者は存し、天に逆らう者は亡ぶ」とあるように、天に従うことは天下の平和を目的とする儒者にとって重要なことです。『左伝』文公十五年には、「詩に曰く、天の威を畏れて、時に之を保つ」とあり、嵐でも地震でも洪水でも一たびそれらが起れば、人間は全く無力なものです。

 『書経』太甲には、古代中国の名宰相、伊尹の言葉が残されています。

「先に奉ずるには孝を思い、下に接するには恭を思い、遠きを視るには明を惟い、徳を聞くには聡を惟え。・・・、・・・天には親なし、克く敬するを惟れ親しむ」

 天は家系や血統などを親しむことはなく、ただ敬いの心を持っている人を親しむのです。孔子の行動にも、益軒の言葉の裏にもそんな意味が隠されているのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 046 (修正版)

2016-01-26 23:46:16 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

一時の浮気をほしゐまゝにすれば、一生の持病となり。或は即時に命あやうき事あり。莫大の禍はしばしの間こらえざるにおこる。おそるべし。

養生の道は、中を守るべし。中を守るとは過不及なきを云。食物はうゑを助くるまでにてやむべし。過てほしゐまゝなるべからず。是中を守るなり。物ごとにかくの如くなるべし。

心をつねに従容としづかにせはしからず、和平なるべし。言語はことにしづかにしてすくなくし、無用の事いふべからず。是尤気を養ふ良法也。

(解説)

 これらも「貝原益軒の養生訓」で何度も述べられてきました。でも少しだけ付け足します。

 『礼記』礼運には、「飲食男女、人の大欲存する。死亡貧苦、人の大悪存する」とか、「夫れ礼の初めは、之を飲食に始む」などとあります。益軒が繰りかえす言葉には、人として最も重要なものの一つ、「礼」が深く関わっています。決して長生きするためだけの養生法を説いているだけではないのです。そして益軒は『五常訓』でも「飲食ノツツシミハ、礼ヲ以テ慾ヲ制スルニアリ。飲食ノ礼多シ。中ニツヰテ、放飯流歠(せつ)ヲイマシムベシ」などと言っているのです。

 宋代の思想家、邵尭夫(諡は康節)は『漁樵対問』でこう言っています。

口に過なきは易く、身に過なきは難し。身に過なきは易く、心に過なきは難し。既に心に過なくんば何の難きことこれあらん。

 目に見えない心を「和平」にすることが難しければ、より簡単にできることから始めても良いのです。「言語はことにしづかにしてすくなくし、無用の事」を言わないことは、意識的にできるものだからです。

(ムガク)



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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 045 (修正版)

2016-01-26 23:44:57 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

聖人やゝもすれば楽をとき玉ふ。わが愚を以て聖心おしはかりがたしといへども、楽しみは是人のむまれ付たる天地の生理なり。楽しまずして天地の道理にそむくべからず。つねに道を以て欲を制して楽を失なふべからず。楽を失なはざるは養生の本也。

長生の術は食色の慾をすくなくし、心気を和平にし、事に臨んで常に畏慎あれば、物にやぶられず、血気おのづから調ひて、自然に病なし。かくの如くなれば長生す。是長生の術也。此術を信じ用ひば、此術の貴とぶべき事、あたかも万金を得たるよりも重かるべし。

万の事十分に満て、其上にくはへがたきは、うれひの本なり。古人の曰、酒は微酔にのみ、花は半開に見る。此言むべなるかな。酒十分にのめばやぶらる。少のんで不足なるは、楽みて後のうれひなし。花十分に開けば、盛過て精神なく、やがてちりやすし。花のいまだひらかざるが盛なりと、と古人いへり。

 (解説)

 聖人の説いた「楽」には大きく分けて二つの意味があります。一つは音楽(music)であり、もう一つは楽しみ(pleasure)です。ここでは益軒は後者を取り上げていますが、前者の意味もあることを知っておきましょう。そしてこの二つの「楽」は相即不離のものであり、これは政治や礼儀、道徳などにとって非常に大切なものでありました。詳しくは『荀子』楽論にありますが、長いので割愛します。

ここでの「古人」とは明代の思想家、洪自誠のことであり、彼は『菜根譚』でこう述べています。

花は半開を看、酒は微酔に飲む。此の中に大いに佳趣有り。若し爛漫もう(酉+毛)とう(酉+匋)に至らば、便ち悪境を成す。盈満を履む者、宜しく之を思うべし。

 これらは、「貝原益軒の養生訓」の中で何度も繰り返されてきましたね。

(ムガク)



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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 044 (修正版)

2015-12-29 18:07:20 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

或人の曰、養生の道、飲食色慾をつゝしむの類、われ皆しれり。然れどもつゝつしみがたく、ほしゐまゝになりやすき故、養生なりがたし、といふ。我おもふに、是いまだ養生の術をよくしらざるなり。よくしれらば、などか養生の道を行なはざるべき。水に入ればおぼれて死ぬ。火に入ればやけて死ぬ。砒霜をくらへば毒にあてられて死ぬる事をば、たれもよくしれる故、水火に入り、砒霜をくらひて、死ぬる人なし。多慾のよく生をやぶる事、刀を以、自害するに同じき理をしれらば、などか慾を忍ばざるべき。すべて其理を明らかにしらざる事は、まよひやすくあやまりやすし。人のあやまりてわざはひとなれる事は、皆不知よりおこる。赤子のはらばひて井におちて死ぬるが如し。

灸をして身の病をさる事をしれる故、身に火をつけ、熱く、いためるをこらえて多きをもいとはず。是灸のわが身に益ある事をよくしれる故なり。不仁にして人をそこなひくるしむれば、天のせめ人のとがめありて、必わが身のわざはひとなる事は、其理明らかなれども、愚者はしらず。あやうき事を行ひ、わざはひをもとむるは不知よりおこる。盗は只たからをむさぼりて、身のとがにおち入事をしらざるが如し。養生の術をよくしれらば、などか慾にしたがひてつゝしまずやは有べき。

(解説)

 益軒は、ここで「知」という単語の意味の定義をしています。ある人が言ったのです。

「養生の道、飲食色慾をつゝしむの類、われ皆しれり。然れどもつゝつしみがたく、ほしゐまゝになりやすき故、養生なりがたし」

 知っている、しかし出来ない。益軒にとっては、それは本当に知っているとは言わないのです。『韓非子』説難には、「知の難きに非ず、知に処するは則ち難き也」と、知ることが難しいのではなく、知識を適切に使うことが難しいのである、とありますが、益軒の言う「知」はこの「処知」に近いでしょう。

 『易経』蹇彖には、「険を見て能く止まる、知なる哉」と、危険を予測して止めることが出来ることが知であるとありますが、益軒の言う「知」はまさにこれです。行動の伴わない知は不十分な知であり、また厳密には知でないのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 043 (修正版)

2015-12-29 18:06:51 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

世の人を多くみるに、生れ付て短命なる形相ある人はまれなり。長寿を生れ付たる人も、養生の術をしらで行はざれば、生れ付たる天年をたもたず。たとへば、彭祖といへど、刀にてのどぶゑをたゝば、などか死なざるべきや。今の人の欲をほしゐまゝにして生をそこなふは、たとへば、みづからのどぶえをたつが如し。のどぶゑをたちて死ぬると、養生せず、欲をほしゐまゝにして死ぬると、おそきと早きとのかはりはあれど、自害する事は同じ。気つよく長命なるべき人も、気を養なはざれば必命みじかくして、天年をたもたず。是自害するなり。

凡の事、十分によからんことを求むれば、わが心のわづらひとなりて楽なし。禍も是よりおこる。又、人の我に十分によからん事を求めて、人のたらざるをいかりとがむれば、心のわづらひとなる。又、日用の飲食衣服器物家居草木の品々も、皆美をこのむべからず。いさゝかよければ事たりぬ。十分によからん事を好むべからず。是、皆わが気を養なふ工夫なり。

(解説)

 中国伝統医学が完成しつつある時代、後漢末は華陀や張仲景などの有名な医師がいた時代は、人々が運命論を信じていた時代でもありました。人の運命、寿命は生まれながらにして決定しているという運命論は世界中に見られます。そして当時の中国では占い師も医師も同列に見られていました。占いの方法は、天文占い、風占い、吉凶占い、人相占い、夢占いなどいろいろあり、それらの名人達は華陀とともに『魏書』方技伝に名を連ねています。

  相術の名人では朱建平が知られています。彼は魏の文帝や夏候威などの寿命を的中させました。これはいわゆる人相見であり、その人を見ることでその運命や寿命を占うというものです。その目に見ることのできる相、それを益軒はここでは「形相」と言っています。そして「生れ付て短命なる形相ある人はまれなり」と言っていますが、これは「貝原益軒の養生訓―総論上―解説 004」で述べたことと同じです。

  「彭祖」とは伝説の長寿者です。『荘子』や『列子』、『列仙伝』にも登場し、夏代から殷代まで生き、齢八百歳とも言われています。益軒は、そんな彭祖でも「刀にてのどぶゑをたゝば、などか死なざるべきや」と言い、人々に長寿をあきらめることをさせず、努力して生きることを勧めるのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 042 (修正版)

2015-12-29 18:05:50 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

万の事、皆わがちからをはかるべし。ちからの及ばざるを、しゐて、其わざをなせば、気へりて病を生ず。分外をつとむべからず。

わかき時より、老にいたるまで、元気を惜むべし。年わかく康健なる時よりはやく養ふべし。つよきを頼みて、元気を用過すべからず。わかき時元気をおしまずして、老て衰へ、身よはくなりて、初めて保養するは、たとへば財多く富める時、おごりて財をついやし、貧窮になりて財ともしき故、初めて倹約を行ふが如し。行はざるにまされども、おそくして其しるしすくなし。

気を養ふに嗇の字を用ゆべし。老子此意をいへり。嗇はおしむ也。元気をおしみて費やさゝざる也。たとへば吝嗇なる人の、財多く余あれども、おしみて人にあたへざるが如くなるべし。気をおしめば元気へらずして長命なり。

養生の要は、自欺ことをいましめて、よく忍ぶにあり。自欺とはわが心にすでにあしきとしれる事を、きらはずしてするを云。あしきとしりてするは、悪をきらふ事、真実ならず、是自欺なり。欺くとは真実ならざる也。食の一事を以ていはゞ、多くくらふがあしきとしれども、あしきをきらふ心実ならざれば、多くくらふ。是自欺也。其余事も皆これを以てしるべし。

(解説)

 老子『道徳経』五十九章には以下のようにあります。

人を治め天に事うるは、嗇に若くは莫し。夫れ唯だ嗇、是を以て早服す。早服とは之れを重ねて徳を積むを謂う。重ねて徳を積めば則ち克たざる無し。克たざる無ければ則ち其の極を知ること莫し。其の極を知ること莫ければ、以て国を有つべし。国を有つの母は、以て長久なるべし。是れを根を深くし柢を固くし、長生久視の道なりと謂う。

 益軒は長生きには「嗇」が大切であることを述べるため老子の思想に触れています。老子はここでは国家について述べていますが、戦国時代の哲学者である老子は後の時代に道教という不老長寿を目指す宗教の祖として祭り上げられることになり、この言葉も個人的肉体的な健康に関することに解釈されることがあります。

  そして「嗇」とは「けち」とは違います。必要なものを必要なだけ用いるということで、無駄をしないことであり、『晏子春秋』に「嗇は君子の道、吝愛は小人の行」とあるように、それらははっきりと区別されているのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 041 (修正版)

2015-10-28 19:37:28 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)

(原文)

何事もあまりよくせんとしていそげば、必あしくなる。病を治するも亦しかり。医をゑらばず、みだりに医を求め、薬を服し、又、鍼灸をみだりに用ひ、たゝりをなす事多し。導引按摩も亦しかり。わが病に当否をしらで、妄に治を求むべからず。湯治も亦しかり。病に応ずると応ぜざるをゑらばず、みだりに湯治して病をまし、死にいたる。およそ薬治鍼灸導引按摩湯治。此六の事、其病と其治との当否をよくゑらんで用ゆべし。其当否をしらで、みだりに用ゆれば、あやまりて禍をなす事多し。是よくせんとして、かへつてあしくする也。

凡、よき事あしき事、皆ならひよりおこる。養生のつゝしみ、つとめも亦しかり。つとめ行ひておこたらざるも、慾をつゝしみこらゆる事も、つとめて習へば、後にはよき事になれて、つねとなり、くるしからず。又つゝしまずしてあしき事になれ、習ひくせとなりては、つゝしみつとめんとすれども、くるしみてこらへがたし。

(解説)

 「貝原益軒の養生訓―総論上―解説 010」でも述べられました。

凡、薬と鍼灸を用るは、やむ事を得ざる下策なり。飲食色慾を慎しみ、起臥を時にして、養生をよくすれば病なし。腹中の痞満して食気つかゆる人も、朝夕歩行し身を労動して、久坐久臥を禁ぜば、薬と針灸とを用ひずして、痞塞のうれひなかるべし。是、上策とす。薬は皆気の偏なり。参芪朮甘の上薬といへども、其病に応ぜざれば害あり。況、中下の薬は元気を損じ他病を生ず。鍼は瀉ありて補なし。病に応ぜざれば元気をへらす。灸もその病に応ぜざるに妄に灸すれば、元気をへらし気を上す。薬と針灸と、損益ある事かくのごとし。やむ事を得ざるに非ずんば、鍼灸薬を用ゆべからず。只、保生の術を頼むべし。

 と。そしてそれに加えてここでは、「湯治も亦しかり。病に応ずると応ぜざるをゑらばず、みだりに湯治して病をまし、死にいたる」と、湯治の危険性についても言及しています。 益軒が『養生訓』を著した時、京の都では後藤艮山という儒医が「一気留滞の説」を唱え、温泉の効能を研究していました。つまり温泉を疾病の治療として応用しようとする試みです。その志は後に香川修庵に引き継がれましたが、当時はまだ研究が始まってから四、五年。艮山はどんな病気にも効果があるとは全く言いませんでしたが、一般庶民が誤解をする怖れが多分にあったことでしょう。現代でも影響力を持つ人の治療法や健康法はブームになりやすいものです。身体の状態をよく観察し、たとえ湯治であっても適切に用いなければいけないのです。

(ムガク)

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貝原益軒の養生訓―総論下―解説 040 (修正版)

2015-10-28 19:33:37 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

津液は一身のうるほひ也。化して精血となる。草木に精液なければ枯る。大せつの物也。津液は臓腑より口中に出づ。おしみて吐べからず。ことに遠くつばき吐べからず、気へる。

津液をばのむべし。吐べからず。痰をば吐べし、のむべからず。痰あらば紙にて取べし。遠くはくべからず。水飲津液すでに滞りて、痰となりて内にありては、再、津液とはならず。痰、内にあれば、気をふさぎて、かへつて害あり。此理をしらざる人、痰を吐ずしてのむは、ひが事也。痰を吐く時、気をもらすべからず。酒多くのめば痰を生じ、気を上せ、津液をへらす。

(解説)

 益軒が「津液は一身のうるほひ也、・・・大せつの物也」と言ったように、水分は人体にとって必要不可欠なものです。水分を摂らずに生きてはいけません。現代の日本のように上下水道が完備され、いつでも衛生的な水が手に入る時代でなかったら、水は今以上の価値があったことでしょう。

 さて「津液」は詳しく言うと、「津」と「液」と二つの液体のことであり、これらは微妙に異なります。黄帝も疑問に思い岐伯に質問しましたが、岐伯はこう答えました(『霊枢』決気)。

腠理が発泄し、汗の出ること溱溱、是れを津と謂う。

穀が入りて気が満ち、淖澤として骨に注ぎ、骨属を屈伸させ洩澤す。脳髄を補益し、皮膚を潤澤す。是れを液と謂う。

 体液にはいろいろ有りますが、大雑把に言うとこの二つに分かれるのです。そして身体の水分は、汗として、尿として、涙や鼻水などとして排泄されますが、養生に関る水分が「唾」です。孫思邈の著した『千金方』養性序には、「養性の士は唾を遠くに至さず」とあります。益軒が「遠くつばき吐べからず」と言ったのは、ここに理由があります。養生には呼吸も重要であり、遠くに唾をはくには呼気を多く使い、また呼吸も乱れます。それ故、益軒はこうも言ったのです。

調息の法、呼吸をとゝのへ、しづかにすれば、息やうやく微也。弥、久しければ、後は鼻中に全く気息なきが如し。只臍の上より微息往来する事をおぼゆ。かくの如くすれば神気定まる。是気を養ふ術なり。呼吸は一身の気の出入する道路也。あらくすべからず。

 この文も「総論下」にありますが、もうちょっと後に出てきます。

(ムガク)

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