はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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幻肢痛と薬物治療

2011-02-15 18:39:47 | 幻肢痛など

幻肢痛の薬について、時々訊かれるので、ちょっとここでメモしておきます。

(2008年に書いた「No.62 幻肢痛と薬物」の続きです)


 幻肢痛とは、腕や下腿を切断され失ったにもかかわらず、その失った肢に痛みを感じる病です。この痛みは一般的な非ステロイド性の鎮痛薬や麻薬性の鎮痛薬が無効の場合が結構あり、人によってどんな薬物や治療が効果があるのかはっきりせず決定的な治療法がないのが現状です。この痛みは決して気のせいではなく、実際にあるものであり、意志の力だけでは何ともしようがありません。しかし痛みに集中すると、痛みをますますひどく感じ、また気晴らしやリラックスなどで改善することがあり、精神的な治療もとても重要なのです。


 近頃、なぜ幻肢痛に通常の鎮痛薬が効かない訳が明らかになってきました。鎮痛薬はニューロンや神経細胞に働きかけ、その働きを抑制して鎮痛します。しかしニューロンが痛みの元で無い場合があります。ニューロンは鉄道の線路が敷石の上に敷かれているように、アストロサイトやミクログリアなどのグリア細胞に支持されています。このグリア細胞は脊髄や脳にありますが、その数はニューロンよりはるかに多く、ニューロンへ栄養を補給したり、神経伝達物質を吸収したり放出したりして環境を整えたり、傷つくと成長因子を放出して修復を促したりします。このグリア細胞が痛みの元になっている場合があるのです。


 手足が切断され、神経が傷害されると、そのニューロンを修復しようとグリア細胞が活性化します。そして修復のための成長因子や、また傷害されたニューロンの代わりに神経伝達物質を放出します。さらにサイトカインを放出することで、免疫細胞を集めて治癒を促進するのです。これらが周辺のニューロンにまで浸透し、神経を過敏な状態にさせ、それがさらにサイトカインなどを放出し、元のニューロンが修復された後も継続することで、痛みの悪循環を生んでいるようです。


 このメカニズムは、幻肢痛だけでなく、他の神経障害性疼痛、CRPSやRSDと呼ばれるもの、各手術後疼痛や脊髄損傷後疼痛、帯状庖疹後神経痛や多発性硬化症疼痛などでも同じようです。それゆえ、このグリア細胞の働きを抑える薬が、それらに対する効果を期待されています。ここでは日本で知られている薬をご紹介しますが、いずれも、鎮痛薬としては実験段階で、まだ実際に使うことはできません。ご注意ください。


 ひとつは、ミノサイクリンというテトラサイクリン系の抗生物質です。細菌のタンパク質合成を阻害することで殺菌作用を持つのですが、これはニューロンやグリア細胞がサイトカインや一酸化窒素を作り出すことを抑制します。
 また、ナロキソンという麻薬中毒治療薬もあります。これは麻薬と神経の受容体で拮抗することで、麻薬の作用を減弱させ、依存症の治療に使われていますが、これがグリア細胞の表面にあるトール様受容体4の感受性を抑え、グリア細胞の反応を鈍らせます。
 それから、イブジラストという脳循環改善薬があります。これはプロスタサイクリンの血管弛緩作用を増強させ、脳の血流を増加させますが、これは細胞を刺激してインターロイキン10を生産し炎症を抑えます。


 これらの薬はあくまでも、効くかもしれないという可能性を示唆しているだけであり、まだ臨床試験も終っていないので鎮痛薬としては使えませんが、もしかしたらそのうち使えるようになるかもしれません。これらによる治療が既存の治療法と比べて効果が勝るか否かはもちろん分かりません。しかし選択肢が増えることは良いことでしょうね。


 ここでまた不思議に思ってしまいます。なぜ鏡を使った治療が効果があるのか。また鍼治療が効果があるのか。鍼治療で幻肢痛が完治した時、鍼はグリア細胞の働きをリセットさせていたのでしょうか。
 身体と心は密接に関係しています。病の時には身体にツボが現れてきます。そのツボを治療すると、ツボが次第に変化しまた隠れていたツボが現れてきたりします。どこに現れるかは人それぞれですが、身体からの異常を訴える声はあまり大きくないので見逃さないようにしたいものですね。


(ムガク)


江戸時代の医学-人面瘡(4)-

2011-02-12 13:45:11 | 江戸時代の医学

 さて、桂川甫賢(1797-1845)は人面瘡を見ましたが、どうだったのでしょうか。今回もちょっと原文は省略して、翻訳しながらみていきましょう。


 瘡口が一つあったが、それは以前骨が露出していた場所であった。瘡口は大きく膨れて開き、あたかも口を開いているような形である。周囲は薄赤く唇のようで、少しそれに触れると血がほとばしった。痛みは無い。口の上に二つの窪みがあり、その瘡跡は左右対称で、窪みの内側にはそれぞれしわがある。あたかも目を閉じて、含み笑いをしているような形であり、目の下には二つの小さな穴があり、鼻の穴が下に向いているような感じである。両旁には又それぞれ痕があり、痕の周りにそれぞれ肉が盛り上がって、耳たぶのようになっている。その顔は楕円形であり、瘡の根は膝蓋骨にあるようで、頭の形をしている。


 かつ、患部はゆっくりと動いており、まるで呼吸をしているようである。衣を掲げて一たび見ると、まるで何かを言おうとしている人に似ている。決して、それが人の顔と同じであると言っているのではない。強いてこれを人面と呼んでいるに過ぎない。そして脛の内のスジは腿と股に連なり、腫れは大きく一斗の枡のようで、青筋が縦横に浮き上がって見え、これを触ってみると、緊張してもいないし、柔らかくもない。その脈は速くて力がある。食欲は減ることなく、大便も小便も問題ない。


 したがって、この症は多骨疽と呼ぶのが適当である。多骨疽の症は、多くは遺毒から発生する。そして瘡の状態がこのようなものにまで至るものもあるのだ。ただ、瘡口の内部は汚腐して、瘡薬を塗りこめても効果が無く、餌糖も、たとえ貝母でさえも、「眉をあつめ口をひらく」効果が無かった。


 というのが甫賢の記した内容です。ちょっと分かりづらいところを読んでいきましょう。「脈は速くて力がある」というのは、脈診という診断法の結果です。脈の拍動の状態を診ることで、その人の身体の状態を察するのです。脈拍が速ければ、一般的に体内に熱がある状態であり、力があれば、病邪が激しく、また抵抗力も残っている状態を示唆します。


 多骨疽というのは、『病名彙解』によると、「足脛ナドニ疽ヲ生ジ、腐乱シテ細骨ヲ出ス也、一説ニ此疽ハ、母懐胎ノトキニ親類ト交合スレバ、生マルル子ニ発スルト云へり」とあります。当時は原因不明の病気が顕われると、それは両親から受け継いだ毒によるものと説明されることが、多々ありました。当時流行していた、天然痘が胎毒で発生するという説もその一つです。因果応報の観念が入り込み、親の悪い行いが、子供に病気となって顕れるというもので、人々はそれを治療するため、胎毒下しを行ないました。それは生まれたばかりの胎児にマクリと呼ばれる湯液を服用させて、毒をウンチと一緒に出そうという試みでした。これは現在でも所々で続けられている習慣です。本当にそう信じていたかは分かりませんが、母親が妊娠中に親類と密通すると多骨疽が生じると、書かれています。この胎毒はここでは「遺毒」と呼ばれています。


 餌糖は甫賢の四代前の甫筑が使った、紫糖(黒糖)のこと。貝母は「江戸時代の医学-人面瘡(1)- 」で出てきました。まるで人面瘡の特効薬のように扱われていた薬です。「眉をあつめ口をひらく」とは、『伽婢子』に出てきた人面瘡が、貝母を口に入れられそうになった時に、「眉をしじめ、口をふさぎて食らはず」抵抗したことを受けた表現です。人面瘡が薬で苦しみ死ぬと(治癒すれば)、抵抗することがなくなり、「眉をあつめ口をひらく」のです。結局今回は、薬物治療は効果がありませんでした。治癒したか否かは記載されていません。桂川家はオランダ流の外科術が得意であったので、もし治療したのであれば、手術をしたことでしょう。また、もし劇的に治癒したのであれば、喧伝したとしてもおかしくありません。実際はどうだったのでしょうね。



(ムガク)


江戸時代の医学-人面瘡(3)-

2011-02-05 19:22:08 | 江戸時代の医学

 桂川甫筑は人面瘡を治療しましたが、結局、具体的にどのような治療を施し、予後はどうなったのか記録が残されていません。しかし甫筑の四代後の桂川甫賢(1797-1845)が人面瘡を治療した時の症例がくわしく残されています。これはちょっと長いので二回に分け、原文は省略して現代語に直して見ていきましょう。


 文政二年(1819年)の中元(7月15日)、仙台のある商人が、門人を介してこう言ってきた。


「ある人が遠くから治療して欲しいと頼みに来ました。年は三十五なのですが、十四歳の時に左の脛の上に腫物ができました。それが潰れると、膿が流れ出てきて止まることがありませんでした。ついに腐ったような骨が二三枚出てきました。それから四年ほど経つとようやく瘡口が収まってきました。ただ全部の腫物は消えず、歩くことが非常に困難です。だから温泉につかったり、委中(膝の裏のツボ)の静脈に鍼を刺して瀉血をしたりしましたが、どれもあまり効果がありませんでした。医者を数人換えて治療したけれど、とくに改善することもなく歳月が流れ、むしろその腫物は大きくなり、膝を囲んで腿にまで達し、再び膿が出る穴が数ヶ所できました。前の瘡口が再び開いたかのように見えましたが、その症状は以前とまったく異なります。ただ痛みを感じることがなく、今年になって、瘡口は一ヶ所にとどまっています」


 桂川家は幕府の奥医師をつとめる家柄で、蘭方と呼ばれるオランダ医学を専門にしているので、腫瘍や怪我などの外科的治療を得意としていました。奥医師というと将軍家の治療に携わるため、高い身分、諸国の大名ほどの地位が与えられていました。一般庶民がおいそれと診てもらうことはできません。この人面瘡の患者は仙台の商人に口利きを頼み、桂川家の門人を介して甫賢に診療をお願いしたのでしょう。なお門人とは、ここでは医学を学ぶ弟子のことであり、師と寝食を共にし、師のお城務めの時には家を守ります。その門人が商人から話を聞いたのでした。


 そんなわけで甫賢は人面瘡を診ることになりましたが、はたしてどうだったのでしょうか。


つづく


(ムガク)