はちみつブンブンのブログ(伝統・東洋医学の部屋・鍼灸・漢方・養生・江戸時代の医学・貝原益軒・本居宣長・徒然草・兼好法師)

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市民公開講座 「日本独自の鍼灸を育んだ江戸文化」

2015-09-26 10:46:30 | お知らせ

平成27年(2015年)10月24日(土)に市民公開講座「日本独自の鍼灸を育んだ江戸文化」がタワーホール船堀にて開かれます。琵琶演奏や講談もあり、江戸文化に興味のある方は必見です。たとえ有料でも価値ある講座かもしれませんが、無料です。



会期:平成27年(2015年)10月24日(土)

時間:13時から15時20分まで

市民公開講座
「日本独自の鍼灸を育んだ江戸文化」
会場:福寿の間

会場:タワーホール船堀(福寿の間) 〒134-0091 東京都江戸川区船堀4-1-1

1.琵琶演奏「検校杉山和一・大高源吾(二題)」        
都流琵琶奏者 都穂鳳

2.講談「名医と名優~男の花道~」
講談師 伊藤琴遊

3.「鍼治学問所の創設と杉山和一検校の功績」
(公財)杉山検校遺徳顕彰会理事長 和久田哲司


市民公開講座 事前申込みはコチラから
http://jtams.com/43-tokyo/?page_id=606


 


023-タモリとチウエ (宣長の名の意味)-本居宣長と江戸時代の医学

2015-09-10 19:20:21 | 本居宣長と江戸時代の医学

 なぜ宣長は自分の名を「宣長」としたのでしょう。歴史書にも教科書にも、はじめから「宣長」と記されているので、私たちはそう呼ぶことを当然と思い、今まで疑問に感じなかったかもしれません。しかし「宣長」という名にはある意味が隠されているのです。どのような意味でしょう。

 本居宣長四十四歳自画自賛像(安永二年)

 「宣長」の「宣」には、「宣告」、「宣命」のように「述べる」、「伝える」などの意味や、「宣流」のような「広く行きわたる」のような意味があります。また「長」には「長袖」や「長久」など空間的・時間的に「長い」という意味や、「年長」のように「年上」、「成長」のように「育つ」というような意味もあります。

  「宣長」にはどのような意味が隠されているのでしょうか。漢字の意味からだけでは、それを明らかにできず、宣長が改名・改号をした過程を観ていかなければなりません。結論から先に言ってしまえば、「長寿」です。なぜそう言えるのでしょう。

 ここで宣長の名の変遷を見てみましょう。

享保一五(1730)・一歳:幼名を富之助と称す
元文 五(1740)・一一:名を弥四郎と改む
寛保 元(1741)・一二:名を栄貞(ヨシサダ)と改む
寛延 二(1749)・二〇:栄貞の読みをナガサダと改む
宝暦 二(1752)・二三:本居と改姓
宝暦 三(1753)・二四:名を健蔵と改め、号を芝蘭とす
宝暦 五(1755)・二六:宣長と改名、号を春庵と称す
寛政 七(1795)・六六:字を中衛と改む

 宣長は医者となるため、宝暦二年三月五日、松坂から京へ旅立ちました。そして堀景山の門下で儒学(中国の歴史)を学び、宝暦三年三四月ころから麻疹が流行しはじめたので、七月二十二日に堀元厚に医学を学びはじめます。*1 同年九月九日(重陽の節句)に「栄貞」から「健蔵」に改名しました。そして医者となる準備のため、頭頂の髪を伸ばしはじめました。日記には「仮に名を健蔵と改めて曰く」、「中旬より予は頂髮を生長す」とあります。

 この「健蔵」は、医学を学ぶ志を名で表現したものであり、「五臓を健やかにする」という意味です。五臓とは五臓六腑の五臓であり、今でいうところの内臓、肝・心・脾・肺・腎のことです。一見すると「蔵」と「臓」が違うように思えますが、様々な医学書は「蔵」と「臓」を同じ意味を持つ文字として用いています。

 その年の十一月からは「芝蘭」という号を用いはじめました。宣長はこのころ景山の許で『晋書』の会読に参加していましたが、「芝蘭」はその中に出てくる言葉です。これは良い香りのする霊芝や蘭のことで、「善人」とか「君子」の意味を持ちます。

 宣長は医学を学び始めた時に、名を「五臓を健やかにする」、号を「君子」という意味を持つものにしました。そして約一年半後、宝暦五年三月三日(重陽の節句)に「薙髮を為し」て医師となり、この時に「宣長」と改名し、「春庵」と改号したのです。*2

 ここで先に「中衛」について見ていきましょう。宣長は寛政七年二月十六日に字を「春庵」から「中衛」に改めました。『職原抄』によると、「左右近衛府。元は近衛・中衛なり。平城天皇の御宇大同二年、勅して近衛を以て左近衛と為し、中衛を以て右近衛と為す」とあります。平城天皇はその父、桓武天皇の長岡京、平安京遷都や、坂上田村麻呂の大規模遠征による財政破綻を乗りきるため、官司の整理を行いました。奈良時代まであった中衛は、ここに消滅したのです。

  宣長は「中衛」と改号する二年前、寛政五年正月四日、門人横井千秋から、致仕、改名するにあたって名を考えてほしいと頼まれ、候補として四つの名を考え出しました。その中で「中衛」を第一候補に挙げています。その時、宣長は 「中衛」は「是ハ奈良ノ此之官名而御座候」と彼に説明しています。千秋は結局は彼の実名に由縁の有る第二候補、「田守」を選んだのですが、宣長はなぜ「中衛」を第一候補として挙げたのでしょう。そして、なぜそれをまた自身の号として用いたのでしょうか。

 宣長の時代にも残されている官名を用いることには差し障りがある、というのは理由にはなりません。確かに、身分詐称となるので差し障りはあるのですが、既に使われなくなった官名は他にもいくらでもあります。また、名は官名でなくてもよいのです。それを選んだ理由、それは「中衛」が官名の他に別の意味を持っていたからなのです。

  宣長は和歌を愛していました。特に技巧を凝らした後世風の歌を好んで詠みました。宣長にとって一つの言葉に複数の意味を持たせることは珍しくもないことだったのです。では「中衛」には、他にどんな意味があったのでしょう。貝原益軒の『養生訓』総論下を見てみましょう。

養生の道は、中を守るべし。中を守るとは過不及なきを云。食物はうゑを助くるまでにてやむべし。過てほしゐまゝなるべからず。是中を守るなり。物ごとにかくの如くなるべし。

 「中衛」とは「中を衛る」こと、つまり「養生の道」を意味しています。宣長の実際の臨床は、攻撃に偏る古方派でもなく、助気に偏る近方派でもなく、患者に合わせ、その「中」を行くものでした。 また宣長は、「衛生の徒は、須くこれ(真気)を抱養し平らかに生き、そのこれを養う術は、また他に無し。食を薄くし飽きず」と、養生のためには食べ過ぎないようにと主張しています。*3 「中を衛る」を漢文で表すと「衛中」ですが、これは和文なので「中衛」を「中を衛る」と考えて良いのです。

 もちろん、宣長にとって「中」には「中庸」の意味だけでなく、「内臓」の意味もありました。なぜなら彼は医師であり、医者にとって「中」はたいてい内臓や腹を意味し、実際に彼が最も多用した薬が補中益気湯だったからです。*4 胃腸に働く漢方薬、補中益気湯は「中を補い気を益す」、安中散は「中を安んずる」、建中湯は「中を健やかにする」、いずれもこの意味を持ちます。ちなみに、宣長はあめぐすりを建中湯で作りましたね。 

 それでは、なぜ宣長は「養生の道」を意味する名を千秋に勧めたり、自分に付けたのでしょう。それは彼らの年齢と、仕事が関係しています。宣長が改号したのは寛政七年、67歳の時であり、亡くなる六年前のことです。もちろん彼は六年後に自分が死ぬとは知りません。ただ、宣長の師、堀景山は享年70歳、賀茂真淵は72歳、武川幸順は55歳、宣長の弟子で千秋(田守)の師であった田中道麿は62歳、皆既に世を去っています。宣長も自分がいつ死んでもおかしくないと感じていたことでしょう。

 寛政七年六月には建亭(春庭)は眼病の治療のため、また鍼医となるため上京していましたが、宣長は彼に、眼科の師匠を選ぶには心安く稽古できる方が良く、世間によく知られた名家に入門しなくても良いと手紙を書いています。と同時に、「名古屋板行物、一向何もかもらち明き申さず、さてさて待ちかね申し候」とも、息子にこぼしています。この当時はまだ『古事記伝』は完成しておらず、また他の出版すべき書の刊行が遅々として進んでいませんでした。

 きっと宣長は焦っていました。寿命が尽きる前に、生涯を捧げた研究、諸々の著作の刊行を仕上げたかったのです。



 宣長自筆の『古事記伝』の稿本

 横井千秋(田守)は、宣長にとって重要な人物でした。最も大事な人と言ってもよいかもしれません。彼の働きにより『古事記伝』が刊行できるようになったからです。宣長のライフワークは田守の健康にもかかっていたのです。彼も宣長と同じ年に他界しましたが、それまで何度か大病を患いました。それ故、宣長は彼に「中衛」を薦めたのでしょう。しかし、宣長は彼に、「養生の道」ではなく、「是ハ奈良ノ此之官名而御座候」と説明しています。彼が国学者だから「中衛」が日本の古の官名であると言ったのですが、そこに隠された意味、田守もそれに気づいていたかもしれません。

 宣長は京で医学を学んでいる時、『折肱録』という勉学ノートを作成しました。この「折肱」は『春秋左氏伝』にある言葉で、「良医に為る」を意味しています。また松坂に帰り、開業してから医療帳簿に『済世録』と名付けました。この「済世」とは『荘子』雑篇・桑楚篇にある言葉で、「衛生の経を以て世を済う」こと、つまり「養生方で世を救う」ことを意味しています。

 宣長は春を好み、特に桜に魅入られ、生涯を通して数え切れないほど多くの桜の歌を詠み続けました。しかし、宣長の号「春庵」の「春」はただ「季節の春」を意味しているだけではありません。『春秋繁露』五行対や王道通三には「春は生を主る」とあり、『論衡』祭意にも「春は物を生ずるを主る」とあります。種々の医学書にも似たような記述があり、「春」には「生」つまり、「生命」や「生長」の意味があるのです。つまり「春庵」は「生命の庵」なのです。ちなみに宣長の息子は「春庭」なので「生命の庭」、親子で庵と庭、視覚的にもおもしろいですね。



 宣長の学問には一貫性がありました。一見すると矛盾のようなものが見られても、ぶれることはありませんでした。その中心に「宣長」と言う名があったのです。

 そう、「宣長」は「長寿の宣言」、「あまねく長寿を広めること」を意味しているのです。

 「五臓を健やか」にし、「君子」となり、「良医と為」り、「あまねく長寿を広める」ために、「生命の庵」で活動する。そして「養生方で世を救」い、「中を衛」り、「養生の道」を行なう。これが宣長の宣言でした。そして実行し続け、達成したことだったのです。

つづく

(ムガク)

*1: 007―漢意―本居宣長と江戸時代の医学
*2: 006―薙髮―本居宣長と江戸時代の医学
*3: 020―宣長と自然治癒力 ―本居宣長と江戸時代の医学
*4: 017― 宣長の処方傾向と補中益気湯 ―本居宣長と江戸時代の医学
 

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 037 (修正版)

2015-09-10 18:54:45 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

胃の気とは元気の別名なり。冲和の気也。病甚しくしても、胃の気ある人は生く。胃の気なきは死す。胃の気の脉とは、長からず、短からず、遅ならず、数ならず、大ならず、小ならず、年に応ずる事、中和にしてうるはし。此脉、名づけて言がたし。ひとり、心に得べし。元気衰へざる無病の人の脉かくの如し。是古人の説なり。養生の人、つねに此脉あらんことをねがふべし。養生なく気へりたる人は、わかくしても此脉ともし。是病人なり。病脉のみ有て、胃の気の脉なき人は死す。又、目に精神ある人は寿し。精神なき人は夭し。病人をみるにも此術を用ゆべし。

(解説)

 「胃の気」とは五臓六腑の胃という内臓の働きや力という意味と、人を生命たらしめる全体的な原動力という意味があります。「胃の気」の別名に「元気」とも「冲和の気」ともありますが、「元気」については「貝原益軒の養生訓―総論上―解説」で已に説明しました。「冲和の気」とは何でしょう。それは宇宙の創生を説明する概念の一つであり、『列子』に登場する言葉です。少し見てみましょう。

子列子曰く、昔聖人は陰陽に因りて以って天地を統ぶ。それ有形なるものは無形より生ぜば、則ち天地は安くよりか生ぜる。

故に曰く、太易あり、太初あり、太始あり、太素あり。太易は未だ気を現さざるなり。太初は気の始めなり、太始は形の始めなり、太素は質の始めなり。気、形、質、具わりて未だ相離れず、故に渾淪と曰う。渾淪とは萬物の相渾淪して未だ相離れざるを言うなり。之を視れども見えず、之を聴けども聞えず、之を循むれども得ず。故に易と曰うなり。易は形も埒もなし。

易変じて一となり、一変じて七となり、七変じて九となる。九は気を変ずるの究なり。乃ち復変じて一となる。一は形変ずるの始めなり。清みて軽きものは上りて天となり、濁りて重きものは下りて地となり、冲和の気は人となる。故に天地は精を含みて、萬物を化生す。

 とあるように、天を形成する「清みて軽きもの」と地を形成する「濁りて重きもの」が調和した気が「冲和の気」なのであり、それを『老子』四十二章では簡潔に、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は萬物を生ず。萬物は陰を負いて陽を抱きて、沖気は以て和を為す」と言うのです。

 これが後者の広い意味での「胃の気」です。前者の「胃の気」というのは医学書を紐解くと明らかになります。まず『素問』平人気象論を見てみましょう。

平人の常気は胃に稟く。胃は平人の常気なり。人の胃気無きを逆と曰う。逆なるは死す。

人は水穀を以て本と為す。故に人は水穀を絶てば則ち死す。脉に胃気無きも亦た死す。所謂胃気無きは、但だ真臓の脉を得て、胃気を得ざるなり。

また『素問』玉機真蔵論には、

五臓は皆な胃に気を稟く。胃は五臓の本なり。臓気は、自ら手の太陰に致すことあたわず。必ず胃気に因りて、乃ち手の太陰に至るなり。

 とあり、人体の内臓と飲食物(水穀)が関っています。飲食物はもちろん太陽の光や雨、さまざまな天候、気候の恵みを受け、大地から誕生し育まれたものです。それを食し、消化し、人は活動するのですが、その原動力を内臓の胃と結びつけ、「胃の気」と呼びました。他の肝心脾肺腎も、それなしには働くことができず、その臓気も人体のすみずみまで(経絡を使い)行き渡ることができないのです。ただし、これら二つの「胃の気」は厳密に区別できるようなものではなく、意味の領域はとてもあいまいなものです。

 「胃の気の脉」とは何でしょう。最近では脈診はあまり行われていませんが、貝原益軒が生きていた当時は、医学を学んだまともな医師であればだれでも脈診を行っていました。脈診とは、いろいろ種類がありますが、当時主流であったのは手首にある橈骨動脈(寸口)の拍動を触診し病気や死活の診断を行うというものでした。脈を見れば、単純に言っても、その人の心臓の拍動の状態、血管の状態、血液の流れや量の状態など、ひいてはそれをつかさどる自律神経の働きの状態(それだけではありませんが)が推察できるのです。脈診はたいてい病人を診察する時に用いる診断法なので、脈の異常に注目するのですが、「胃の気」がある人は健康であるので脈も正常であり、「長からず、短からず、遅ならず、数ならず、大ならず、小ならず、年に応ずる事、中和にしてうるはし」という中庸の脈になると益軒は言うのです。

 とは言っても、「病脉のみ有て、胃の気の脉なき人は死す」とあるように、「病脉」と「胃の気の脉」は並在することがあり、「胃の気の脉」は上記のような単純な言葉で表現できるようなものではありません。それ故、益軒はまた「此脉、名づけて言がたし。ひとり、心に得べし」とも言いました。これはイマージュの一つであり、直観により認識するものの一つなのでしょう。

「目に精神ある人」の精神は目に見えない心の精神ではありませんね。今風に言えば、目に光がある人であり、生きる力が目に現われている人のことです。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)

貝原益軒の養生訓―総論下―解説 036 (修正版)

2015-09-10 18:51:58 | 貝原益軒の養生訓 (修正版)
(原文)

ひとり家に居て、閑に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆是心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人も此楽つねに得やすし。もしよく此楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。

古語に、忍は身の宝也といへり。忍べば殃なく、忍ばざれば殃あり。忍ぶはこらゆるなり。恣ならざるを云。忿と慾とはしのぶべし。およそ養生の道は忿慾をこらゆるにあり。忍の一字守るべし。武王の銘に曰、之を須臾に忍べば、汝の躯を全す。書に曰。必ず忍ぶこと有れば、其れ乃ち済すこと有り。古語に云。莫大の過ちは須臾の忍びざるに起る。是忍の一字は、身を養ひ徳を養ふ道なり。

(解説)

 人生の楽しみはいろいろとあるものです。美味しいものを食べたり、たくさん遊んだり、旅行などしたり、お金や宝石、珍奇なものをコレクションしたり、枚挙に暇がありません。しかし楽しみにも損するものと益するものがあります。『論語』季氏では孔子はこう述べました。

益者三楽、損者三楽。礼楽を節せんことを楽しみ、人の善を道うことを楽しみ、賢友多きを楽しむは益なり。驕楽を楽しみ、佚遊を楽しみ、宴楽を楽しむは損なり。

 得をするから楽しいのでははく、損するから楽しくないのでもありません。楽しみの中に損益があり、同じように楽しくないものにも損益があるのです。楽しみとは損益に関らない自然なものです。『論語』述而にはこうあります。

子曰く、疏食を飯らい水を飲み、肘を曲げてこれを枕とす。楽しみ亦た其の中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如し。

 どんなに質素で一見何もないような生活の中にも立派に楽しみはあるのです。しかし儒者の生きる目的は、天下万民のため国を平和に住みやすいように治めることでした。これについては孔子はどう考えていたのでしょうか。『論語』先進にそれを見ることができます。

 孔子と弟子である子路(由)、曾皙(点)、冉有(求)、公西華(赤)がいました。孔子が弟子たちに、「お前たちはふだん自分の真価を分かってくれないと言っているが、もし理解する人が現れて用いてくれるとしたらどうするのだ」と尋ねました。するとまず子路が答えました。

千乗の国、大国の間に摂して、これに加うるに師旅を以てし、これに因るに飢饉を以てせんに、由や之を為さめ、三年に及ぶ比に、勇ありて且つ方を知らしむべきなり。

 孔子はこれを聞くと哂い、次に求に尋ねました。

方の六七十、如しくは五六十、求や之れを為さめ、三年に及ぶ比に、民を足らしむべきなり。其の礼楽の如きは、以て君子に俟たん。

 次に赤が答えました。

之れを能くすと曰うには非ず。願わくは学ばん。宗廟の事、如しくは会同に、端章甫して願わくば小相たらん。

 そして最後に点が答えました。

莫春には、春服既に成り、冠者を五六人、童子を六七人得て、沂に浴し、舞雩に風して、詠じて帰らん。

 それを聞いた孔子は言いました。「吾れは点に与せん」と。三人が政治や学問をしたいと言ったのに対し、点は風流な生き方を選択しました。そして孔子もその生き方に賛成しました。そう、無味乾燥した禁欲生活をおくることが楽しいと自らに思い聞かせて生きるのではないのです。あくまでも人間性豊かに生きることを楽しむ、それが大事なのですね。

(ムガク)

(これは2011.3.16から2013.5.18までのブログの修正版です。文字化けなどまだおかしな箇所がありましたらお教えください)