なぜ宣長は自分の名を「宣長」としたのでしょう。歴史書にも教科書にも、はじめから「宣長」と記されているので、私たちはそう呼ぶことを当然と思い、今まで疑問に感じなかったかもしれません。しかし「宣長」という名にはある意味が隠されているのです。どのような意味でしょう。
本居宣長四十四歳自画自賛像(安永二年)
「宣長」の「宣」には、「宣告」、「宣命」のように「述べる」、「伝える」などの意味や、「宣流」のような「広く行きわたる」のような意味があります。また「長」には「長袖」や「長久」など空間的・時間的に「長い」という意味や、「年長」のように「年上」、「成長」のように「育つ」というような意味もあります。
「宣長」にはどのような意味が隠されているのでしょうか。漢字の意味からだけでは、それを明らかにできず、宣長が改名・改号をした過程を観ていかなければなりません。結論から先に言ってしまえば、「長寿」です。なぜそう言えるのでしょう。
ここで宣長の名の変遷を見てみましょう。
享保一五(1730)・一歳:幼名を富之助と称す
元文 五(1740)・一一:名を弥四郎と改む
寛保 元(1741)・一二:名を栄貞(ヨシサダ)と改む
寛延 二(1749)・二〇:栄貞の読みをナガサダと改む
宝暦 二(1752)・二三:本居と改姓
宝暦 三(1753)・二四:名を健蔵と改め、号を芝蘭とす
宝暦 五(1755)・二六:宣長と改名、号を春庵と称す
寛政 七(1795)・六六:字を中衛と改む
宣長は医者となるため、宝暦二年三月五日、松坂から京へ旅立ちました。そして堀景山の門下で儒学(中国の歴史)を学び、宝暦三年三四月ころから麻疹が流行しはじめたので、七月二十二日に堀元厚に医学を学びはじめます。*1 同年九月九日(重陽の節句)に「栄貞」から「健蔵」に改名しました。そして医者となる準備のため、頭頂の髪を伸ばしはじめました。日記には「仮に名を健蔵と改めて曰く」、「中旬より予は頂髮を生長す」とあります。
この「健蔵」は、医学を学ぶ志を名で表現したものであり、「五臓を健やかにする」という意味です。五臓とは五臓六腑の五臓であり、今でいうところの内臓、肝・心・脾・肺・腎のことです。一見すると「蔵」と「臓」が違うように思えますが、様々な医学書は「蔵」と「臓」を同じ意味を持つ文字として用いています。
その年の十一月からは「芝蘭」という号を用いはじめました。宣長はこのころ景山の許で『晋書』の会読に参加していましたが、「芝蘭」はその中に出てくる言葉です。これは良い香りのする霊芝や蘭のことで、「善人」とか「君子」の意味を持ちます。
宣長は医学を学び始めた時に、名を「五臓を健やかにする」、号を「君子」という意味を持つものにしました。そして約一年半後、宝暦五年三月三日(重陽の節句)に「薙髮を為し」て医師となり、この時に「宣長」と改名し、「春庵」と改号したのです。*2
ここで先に「中衛」について見ていきましょう。宣長は寛政七年二月十六日に字を「春庵」から「中衛」に改めました。『職原抄』によると、「左右近衛府。元は近衛・中衛なり。平城天皇の御宇大同二年、勅して近衛を以て左近衛と為し、中衛を以て右近衛と為す」とあります。平城天皇はその父、桓武天皇の長岡京、平安京遷都や、坂上田村麻呂の大規模遠征による財政破綻を乗りきるため、官司の整理を行いました。奈良時代まであった中衛は、ここに消滅したのです。
宣長は「中衛」と改号する二年前、寛政五年正月四日、門人横井千秋から、致仕、改名するにあたって名を考えてほしいと頼まれ、候補として四つの名を考え出しました。その中で「中衛」を第一候補に挙げています。その時、宣長は 「中衛」は「是ハ奈良ノ此之官名而御座候」と彼に説明しています。千秋は結局は彼の実名に由縁の有る第二候補、「田守」を選んだのですが、宣長はなぜ「中衛」を第一候補として挙げたのでしょう。そして、なぜそれをまた自身の号として用いたのでしょうか。
宣長の時代にも残されている官名を用いることには差し障りがある、というのは理由にはなりません。確かに、身分詐称となるので差し障りはあるのですが、既に使われなくなった官名は他にもいくらでもあります。また、名は官名でなくてもよいのです。それを選んだ理由、それは「中衛」が官名の他に別の意味を持っていたからなのです。
宣長は和歌を愛していました。特に技巧を凝らした後世風の歌を好んで詠みました。宣長にとって一つの言葉に複数の意味を持たせることは珍しくもないことだったのです。では「中衛」には、他にどんな意味があったのでしょう。貝原益軒の『養生訓』総論下を見てみましょう。
養生の道は、中を守るべし。中を守るとは過不及なきを云。食物はうゑを助くるまでにてやむべし。過てほしゐまゝなるべからず。是中を守るなり。物ごとにかくの如くなるべし。
「中衛」とは「中を衛る」こと、つまり「養生の道」を意味しています。宣長の実際の臨床は、攻撃に偏る古方派でもなく、助気に偏る近方派でもなく、患者に合わせ、その「中」を行くものでした。 また宣長は、「衛生の徒は、須くこれ(真気)を抱養し平らかに生き、そのこれを養う術は、また他に無し。食を薄くし飽きず」と、養生のためには食べ過ぎないようにと主張しています。*3 「中を衛る」を漢文で表すと「衛中」ですが、これは和文なので「中衛」を「中を衛る」と考えて良いのです。
もちろん、宣長にとって「中」には「中庸」の意味だけでなく、「内臓」の意味もありました。なぜなら彼は医師であり、医者にとって「中」はたいてい内臓や腹を意味し、実際に彼が最も多用した薬が補中益気湯だったからです。*4 胃腸に働く漢方薬、補中益気湯は「中を補い気を益す」、安中散は「中を安んずる」、建中湯は「中を健やかにする」、いずれもこの意味を持ちます。ちなみに、宣長はあめぐすりを建中湯で作りましたね。
それでは、なぜ宣長は「養生の道」を意味する名を千秋に勧めたり、自分に付けたのでしょう。それは彼らの年齢と、仕事が関係しています。宣長が改号したのは寛政七年、67歳の時であり、亡くなる六年前のことです。もちろん彼は六年後に自分が死ぬとは知りません。ただ、宣長の師、堀景山は享年70歳、賀茂真淵は72歳、武川幸順は55歳、宣長の弟子で千秋(田守)の師であった田中道麿は62歳、皆既に世を去っています。宣長も自分がいつ死んでもおかしくないと感じていたことでしょう。
寛政七年六月には建亭(春庭)は眼病の治療のため、また鍼医となるため上京していましたが、宣長は彼に、眼科の師匠を選ぶには心安く稽古できる方が良く、世間によく知られた名家に入門しなくても良いと手紙を書いています。と同時に、「名古屋板行物、一向何もかもらち明き申さず、さてさて待ちかね申し候」とも、息子にこぼしています。この当時はまだ『古事記伝』は完成しておらず、また他の出版すべき書の刊行が遅々として進んでいませんでした。
きっと宣長は焦っていました。寿命が尽きる前に、生涯を捧げた研究、諸々の著作の刊行を仕上げたかったのです。
宣長自筆の『古事記伝』の稿本
横井千秋(田守)は、宣長にとって重要な人物でした。最も大事な人と言ってもよいかもしれません。彼の働きにより『古事記伝』が刊行できるようになったからです。宣長のライフワークは田守の健康にもかかっていたのです。彼も宣長と同じ年に他界しましたが、それまで何度か大病を患いました。それ故、宣長は彼に「中衛」を薦めたのでしょう。しかし、宣長は彼に、「養生の道」ではなく、「是ハ奈良ノ此之官名而御座候」と説明しています。彼が国学者だから「中衛」が日本の古の官名であると言ったのですが、そこに隠された意味、田守もそれに気づいていたかもしれません。
宣長は京で医学を学んでいる時、『折肱録』という勉学ノートを作成しました。この「折肱」は『春秋左氏伝』にある言葉で、「良医に為る」を意味しています。また松坂に帰り、開業してから医療帳簿に『済世録』と名付けました。この「済世」とは『荘子』雑篇・桑楚篇にある言葉で、「衛生の経を以て世を済う」こと、つまり「養生方で世を救う」ことを意味しています。
宣長は春を好み、特に桜に魅入られ、生涯を通して数え切れないほど多くの桜の歌を詠み続けました。しかし、宣長の号「春庵」の「春」はただ「季節の春」を意味しているだけではありません。『春秋繁露』五行対や王道通三には「春は生を主る」とあり、『論衡』祭意にも「春は物を生ずるを主る」とあります。種々の医学書にも似たような記述があり、「春」には「生」つまり、「生命」や「生長」の意味があるのです。つまり「春庵」は「生命の庵」なのです。ちなみに宣長の息子は「春庭」なので「生命の庭」、親子で庵と庭、視覚的にもおもしろいですね。
宣長の学問には一貫性がありました。一見すると矛盾のようなものが見られても、ぶれることはありませんでした。その中心に「宣長」と言う名があったのです。
そう、「宣長」は「長寿の宣言」、「あまねく長寿を広めること」を意味しているのです。
「五臓を健やか」にし、「君子」となり、「良医と為」り、「あまねく長寿を広める」ために、「生命の庵」で活動する。そして「養生方で世を救」い、「中を衛」り、「養生の道」を行なう。これが宣長の宣言でした。そして実行し続け、達成したことだったのです。
つづく
(ムガク)
*1:
007―漢意―本居宣長と江戸時代の医学
*2:
006―薙髮―本居宣長と江戸時代の医学*3:
020―宣長と自然治癒力 ―本居宣長と江戸時代の医学
*4:
017― 宣長の処方傾向と補中益気湯 ―本居宣長と江戸時代の医学